第42話

お蕎麦でお腹を膨らませて、不忍通りに戻り上野に向かって歩く。

他愛もない話に堀川さんはガハハと上を向いて笑い、気になる店にひょいと入って行く。


「このまま歩いても良いけどちょっと疲れたからバスに乗ろう。」

と堀川さんは、根津駅近くにある停留所でバスの時間をチェックする。

時刻表を見ながら、

「ここの一本裏にさ根津の甚八っていう居酒屋があったんだけど、今もあるのかなぁ。前はそこに一度行ってみたいと思っていたのに、予約が全く取れなくていつの間にかこうやってそばにくる事が無ければ思い出しもしなくなっちゃっうんだなぁ。」

と振り返り建物を透かしてその向こうにある店を見ているみたいだ。

「行ってみますか?」

「イイよ、夜しかやってないし多分店があっても馴染みがあるわけじゃないから。」

「この後はどうしますか?」

「まだ行ってないんでしょ?岩崎邸。」と急に目を輝かせて言うので。

「ハイ。」と元気よく返事をすると。

「じゃあ行かなきゃね。」と甚八の事はさらりと忘れて嬉しそうした。


岩崎邸は、不忍通り沿いの前に行った横山大観美術館の裏手の小高い場所に建っている。

懐かしい横山大観美術館。

此処で堀川さんと再会しなければ、今僕は何をしていたのだろう。

間違いなく岩崎邸に堀川さんと向かう事は無かったよな。

堀川さんと出会った事が、僕の大きな転機になったのだと改めて思う。

「懐かしいですね。」と黒塀を指差すと、

「本当だね。まだ一年くらいしか経っていないのにもう大昔のことの様だね。」と目を丸くしながら、そうかそうかと頷きながら応えてくれる。

あの時の思い出話をしながら、東天紅の横を入って裏手に回ると岩崎邸の入り口が見えて来た。

門から歩いて入るのだけれど、コレは車で上がるのを想定して作った坂道で、広々としていて、歩いて上がるのには割と距離がある。

チケットを買って建物を見上げるとドーンと立派な洋風建築が僕を待っていた。

迎賓館として建てられたというその建物は、隅から隅まで手が込んでる。ミントンのタイルを使った暖炉が各部屋に在り、金唐紙の壁、彫刻を施した柱や手すり、現代建築には無い時間と手間が掛けられていて、ため息が出た。

待合室が男女別に在り、時代を感じる。庭に開けたポーチやベランダが優雅だ。

サンルームには、そこで撮った岩崎家の人々写真が飾られていた。

この人達は、あの時代にこんな家にすぐに馴染めたのだろうか?

ビリヤード場はこの洋館と地下で繋がっているという。

住居だった日本家屋も縮小されてしまった様だが残っていて、ぐるりと部屋を囲む廊下がまるで城の二の丸といった風情だ。


「どうよ。昔の金持ちの家。藩主や公家って訳でも無いのに凄くない?」と堀川さんが言うので、可笑しくなってプッと小さく吹き出してしまった。

「何よ。」と怪訝な顔をして言うので、

「だって、まるで堀川さんのお家自慢みたいじゃ無いですか⁈」と言うと我慢できなくなってケタケタと笑い声をあげてしまった。

堀川さんは、「もう」とか言いながらバシバシと僕の腕を叩く。


広縁に腰掛けて、きっと昔はもっと植栽豊かだったんだろうなぁと思いながら庭を暫く眺めていると、

「お抹茶の提供がそろそろ終わってしまうのですが、宜しいですか。」と声を掛けられたので、堀川さんが

「では2人お願い出来ますか。」とすかさず答える。

「抹茶大丈夫でしょ?」

「えぇ、はい。」

「じゃあ行こう。」そう言って広縁からサッと立ち上がり座敷に向かう。

こういう時の堀川さんのレスポンスの良さを見習いたい。


お抹茶をいただきながら、また堀川さんと前に根津千を歩いた事を振り返る。たった1年前の事なんだ。

仕事関係の人達には、この一年余り僕はすっかり隠居したと思われているが、東所沢での生活は、子供の時みたいに長く目まぐるしく充実した日々だった。

その時ふと、僕は新しい物語のプロローグを手に入れたんだと気付く。


抹茶茶碗を手に動かなくなった僕を見て、

「随分物思いに耽っているねぇ。あはは」と隣から堀川が笑いかけてくる。

薄く笑い返して照れ隠しに、茶碗を持ち上げて抹茶を飲み干した。






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