第38話
春の野弁当
あと少しで春が弾けそうな午後、水仙の香りが足元から薫って土が身近な暮らしの豊かさを、改めて思いながら穴子を丸で一本買ってしまった事を僅かに後悔する。
玄関の扉が開くとビックリ眼の大家さんが立っていた。
僕を見ると、怪訝な顔をするので初めて内見に訪れた時のことを瞬時に思い出す。
そうだ、1年前は怪しい得体の知れない奴だった僕は、今こうして当たり前の様に大家さんの家に上がり込む。
定例の料理教室に粕谷夫人もやって来て賑やかに料理教室が始まった。それぞれが思い付いた手順を披露しながら春の献立を作り上げて行く。筍の土佐煮、アサリとワカメの酒蒸し、蕗の薹の天ぷら、菜の花の辛子和え。
今日のテーマは「野弁当」花見の季節に相応しい。粕谷夫人の思いつきはいつもいつも僕達をワクワクさせてくれる。
穴子は店で捌いてもらってはいたけれど、下処理をしなければ調理出来ないのよと粕谷夫人に指摘されて慌ててiPadを開く。
俎板に皮を上にして置いたら、熱湯を掛けて包丁の背でゴシゴシと擦る。すると何やらヌルヌルとした白いものが湧いてくるのでそれをこそげ落とす。キッチンペーパーで水気とヌルヌルを拭ってから、頭と骨も一緒に鍋に入れて砂糖と酒と醤油で作ったタレで煮詰める。
ふっくらと煮上がったら、軽く炙ってご飯の上に乗せる。
彩に桜大根を詰めたら春の野弁当の出来上がり。
家の中で食べるのもなんだかねぇと大家さんと粕谷夫人が、庭にテーブルを持ち出して、青空の下お昼ご飯を食べることとなる。
こんな時、高台にあるこの家は見晴らしが良いので、ちょっとした遠足気分を味わえるのも素晴らしい。
曲げわっぱに詰めた穴子が初めて煮たとは思えない程ふっくらと美味しく仕上がっていて、一本買った事を後悔したのも忘れて病みつきになりそうだ。それに捌いてもらえさえすれば、案外簡単なのも嬉しい。
こんなに気軽に穴子を料理出来るのは、海の無いこの地域でも近くに新鮮なものが買える店があるからだなぁと流通業者に感謝する。
こんな風にワイワイと料理を楽しめるのも、後わずかなのかとため息をつく。
「どうしたの?何か気になる事あった?」粕谷夫人の声にハッとする。
ガチャガチャと、重そうなお盆を持って大家さんが掃き出し窓から出て来るので、慌てて立ち上がってそのお盆を受け取る。
その間にテーブルをサッと片付けて、粕谷夫人がお盆を置くスペースを作る。
誰かが声を掛け無くても、流れるような動きで全てが収まっていくこの感覚。しみじみと此処が好きだなぁとまた今日も思う。
お盆の上には、ティーセットとアイシングのかかったパウンドケーキが載っていて、ほのかに甘い香りがする。
「こんなもんでイイかな?」聞き覚えのある声が、大家さんの後を追いかけてきて、銀色のボールを抱えて顔を出す。
「あれ来てたの?」と声をかけると
「いま来たところ。イイところ来たみたいだね。」ニヤリと背の高い豪太君が笑う。
豪太君が立てたホイップクリームをかけたパウンドケーキは、レモンかたっぷり入っていてすごく美味しい。
「作ったの?」豪太君に聞くと、
「私です。」と何故か大家さんが鼻を広げてそっくり返る。
「あはは、美味しいです。美味しいです。」
「えっ、なんか嘘くさいなぁ。」
「そんな事ないわよ凄く美味しい。歯触りが丁度イイわ。好きコレ。」と粕谷夫人。
先程の野弁当の残りを一皿盛りにしたのを頬張りながら、
「俺のも残しておいてよ。」と豪太君が欲張って言う。
そんなふうに和やかなランチタイムが終盤になった時に僕は、言わなきゃと思いつつなかなか口に出せなかった事を今話そうか、まずは大家さんと2人の時に言おうかとまた悩む。
アールグレイの香りが良い紅茶を一口飲むと、この面子が揃った今がやはり良いだろうと、腹を括る。
「聞いてもらってイイでしょうか。」と僕はみんなの顔を一巡してから、
「順序が逆で失礼になってすみません。
本来ならその心算があると先にお知らせするべきだったのでしょうが、なかなか言い出せずスミマセン。」
頭を下げると、大家さんが
「なに?改まって」と眉根を寄せる。
「実は、今年の夏から留学する事に決まりました。なので此処をもう少ししたら出て行く予定です。」
大家さんと粕谷夫人が、
「えぇえっ」と声を合わせる。
「ここのところ何をしたいかずっと考えていたんですけど、大学の時に会社を起こしたこともあって、もう一度純粋に学生をやってみようかと一念発起して、アメリカの大学の試験を受けました。」
ここでもう一口紅茶を飲む。
「で、先日無事合格の通知が来ましたので、渡米することになりました。」
「何処?」と豪太君。
「ワシントン。君のとこのそばみたいだよ。」
「ヤッタァ。じゃあ向こうで遊んでもらえるね。そりゃ楽しみだなぁ。」
「なになに?話が見えない。豪太は就職するんじゃないの?どう言う事?」
「1年休学して向こうの大学に交換留学する事にした。ほら、ばあちゃん達も居るしさ。」
「まぁ、僕もそれに触発されたとでも言うんでしょうか。ちょっと学生って身分が羨ましくなった。それが動機かな。」
そこで、姿勢を立て直して、
「スミマセン突然で。なので、来月一度向こうに行って様子を見て来ようと思います。先に語学学校にも行きたいので、出発は6月あたりになるかと思います。スミマセン。」
また頭を下げると。
「了解。謝る事じゃ無いじゃん。びっくりした。ガレのサイドテーブルでも壊したのかと思った。」とあっけらかんと大家さんが言う。
「えっあれ本物なんですか?」
「うん、そうだよ。お祖母さんが偽物持つわけ無いから。」
「えぇ〜言ってくださいよ。もう熱いカップとか置けないじゃ無いですか。」
「使わずして何が家具だ。と言うのがお祖母さんの信念だから気にせず使って。」
「何の話してんのさ。アラッキーは、賃貸契約してるのに言うのが遅くてすみませんって言ってるんでしょう。いっちゃん分かってる?」と豪太君。横で粕谷夫人がくすくすと笑っている。
「そうなんです。次の方が決まるまでは、お家賃はお支払い致します。」
「あぁ、そうだった。そう言う話ね。ちょっと利根さんに相談しながら考えてみるよ。」
と武蔵ハウスの利根さんの名前が上がる。そうだった。不動産屋さんにも言わなくちゃな。
僕は、何をグズグズしてるんだろう。やるべき事を先延ばしにするのが嫌いなはずなのに。
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