第21話

チロとの散歩


冬枯れの林は、高い木の枝の隙間から青空が見えてそのシルエットのお陰で余計に空が高く見える。

夏には茂った葉で足元が取られ、虫刺されが恐ろしくて入っていくことさえ憚られた小道も、先まで見通せて白い息を弾ませたチロの後を踏み砕かれた落ち葉を鳴らして歩くのも楽しい。この林の中だけは走ってイイよと、リードを最大限に伸ばしてやる。

林を抜けると河原へ降りられるところがあるので、川縁を次の橋がある所まで行ってから、対岸に渡って戻ってくるのが僕とチロの散歩コースだ。

河原には、桜の木が橋の先の方もずっと植えられていて春になれば、さぞかし綺麗なんだろう。

木の芽が薄っすらと膨らんでいるのを見て春も近いと感じる。


長崎からの帰り、羽田からリムジンバスで東所沢まで戻ると、家まではタクシーに乗るほどの距離でもないのでキャリーバックをゴロゴロと引きながら歩く。

家に入る路地を曲がる時に、生垣の間から蹲っている村井さんの姿が見えた。

もうすっかり辺りは暗くなっているし、普段は薄暗くなるときっちり雨戸を閉める村井さんのお宅の窓からは、オレンジ色の灯が漏れている。

「村井さんどうされましたか。」と思わず声を掛けると、隣で

「何?村井さんどうかした?」と堀川さんがすぐに反応する。

頭ひとつ背の高い僕には見える光景が堀川さんには見えないようだ。

「こんなに暗いのに庭にいらっしゃるから。」そう言うと堀川さんは、その言葉に返事をする前に、走って表の玄関口に回って、庭へ入って行った。


村井さんは夕方庭で鳥にやる為の蜜柑を取り換える時に、踏み台から落ちてしまい足を捻って立ち上がれなくなったらしい。

僕に救急車を呼ぶように指示を飛ばして、看護していた堀川さんはそのまま村井さんに付き添って救急車に乗って病院に行った。

骨折などは幸い無かったが、暫くは長く歩くことができないので、こうして僕が村井さんちのチロの散歩をさせてもらっているわけだ。

村井さんは、恐縮して庭を走らせていれば大丈夫だからと言うのだが、毎日チロを連れて長い散歩に出ているのを知っていたので、チロだって散歩したいだろうし、

「僕も散歩に相棒がいた方が楽しいので」と言って村井さんの足が良くなるまでの約束で、朝の散歩をチロと楽しむことにしたのだ。


1人では気づかなかった、林を抜ける小道、川に降りる抜け道、路地にこっそり佇む小さなパン屋をチロは教えてくれる。

いつもUターンする橋まで来たのに、橋を渡ろうとせず先に進もうとチロが引っ張る。

「チロ君、まだ歩き足りないかい?」と話しかけると、後ろ足で立ち上がって早く行こうと急かしてくる。

信号を渡って川沿いに少し行くと、コーヒーの良い香りがしてきた。

見覚えのある素敵なイングリッシュガーデンのお宅の前でチロは絵本の中の犬のようにワンワンと歯切れ良く吠えた。

庭の木戸の方へ回って中を覗くと、テラスのテーブルでキャプテンが優雅にコーヒーをドリップしているところだった。

「おはようございます。」

と僕が木戸の所から声を掛けると、ケトルの口を見つめていた顔をこちらに向けて、いつもの笑顔で

「オッどうした。」と目を細める。

「チロが今日はこっち迄来た方が良いよと僕を連れて来てくれました。ちょうど良いタイミングの様ですね。」と言うとキャプテンはキョトンとした後、手元を見てあははと笑って手招きをする。


キャプテンは入れ立てのコーヒーをまずはデミタスカップに注いで

「ちょっと待っていてくれ。」と家の中に入っていく。

マグカップを1つ持って戻って来て、コーヒーを注いだそのマグを僕に渡してくれる。

チロには、水の入ったボールを差し出す。

「こういうのはダメなんだろ?」とポケットからビスケットを出したので、

「そうですね、チロには塩分がダメだと思います。」と答えると

「今時は、子供にも犬にも勝手に食い物をあげられ無くてつまんねぇなぁ。」とぼやく。

「そうですね。僕が小さな頃はバスの中で知らないおばさんから飴とかよくもらいましたけどね。」

「難しい世の中になったもんだな。」

僕は頷いてコーヒーを口に運ぶ。

深煎りにローストされた香り豊かなコーヒーは、まるでキャプテンの様に滋味深い。

「さっきのは、奥様にですか。」

「あぁん?」僕が家の方に目をやると

「ああそうだよ。やつはコーヒーが好きだったからな。」とキャプテンは答える。

「このイングリッシュガーデンは、奥様のご趣味だったんですか?」

「最初はな。いつのまにか俺の方が熱心になってな。あいつは、ハーブを使ったお茶や料理を随分やっていたな。」

「じゃあ料理に使えるものが多いんですね。」

「そうさ、少し持ってくか?近頃いっちゃんと料理してんだろ⁈」

「そうですね。今度調べてから頂きに来ます。」

「じゃあ、うちで採れる大まかな種類を書いといてやるよ。」

「ありがとうございます。」

ワンワンとチロが返事をする。

笑い合ってから、キャプテンがチロを見て

「大変だったなぁ。」と水を向ける。

「ちょっとびっくりしましたが、村井さん大したことがなくて本当に良かったです。なぁチロ。」

「ふむ、そういうところが、お前さんの良いところだな。」

「えっ?」

「村井のおばあさんとか、言わないところがさ。」

「えっ、そうですか。普通だと思うけどなぁ。」

「こっちだって歳を取ってるのはよく分かってんだ。だから爺さとか言われたってどうということはないんだがねえ。

だけどな、名前で呼ばれると対等な気がするんだな。引退した者の括りからするりと抜け出た様な感じがさ。

歳が変わりもしない奴から楪のおじいちゃんなんて呼ばれると、それは別問題として腹が立つけどな。」と最後のところは笑い話のおまけでオチをつけるところがキャプテンらしい。

呼び名って確かに大事かもしれない。呼ぶ方の感覚と呼ばれる方の感覚には結構感触の違いが発生してるのかもなと沈孝し始める僕に気付かずキャプテンは、バシバシと背中を叩いて照れを隠しながら、

「ゆっくりしていきなさい。将棋でもするか?」と問いかけてくる。

「あっ、遅くなると村井さんが心配されるから、今日のところは帰ります。今度はキャプテンのところに寄るって言ってから来ますよ。」

「そうか。」と、キャプテンもゆっくり自分のマグカップを傾けた。

今日は朝からゆったりとした贅沢な時間を持つことが出来たなぁと、改めて此処に住んだ事を嬉しく思いながら、チロと来た道を戻った。

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