第6話

池のほとりで



今日は、近頃珍しく原稿を紙で欲しいと言ってくれるクライアントさんのところへ行く日だ。データーだって今時は随分良くなって、大体雰囲気は違わず上がって来るようになったけれど、やっぱり手描きの雰囲気を一度見て欲しいと思うのは、私の年頃のせいなのかもしれない。仕方ない、時代は急速に変化しているのだから。


久しぶりに根津方面へこの桜の季節に行くのだから、西日暮里から地下鉄に乗らずに上野まで行って山から池を一回りして行くことにする。時間が許せば岩崎邸か安田楠雄邸にでも寄ろう。そう思い立って早起きして東所沢を出て来た。


上野の公園口を出ると、平日とは思えぬ人出で西洋美術館が途切れる十字路で、燦燦轟々博物館や動物園方向へ分かれて行くかと思ったけど、やっぱり桜並木に向かう人が圧倒的に多かった。

いつもは広々としたこの道も、ロープが貼ってあったり、ゴミ箱が設けられていたり、何より人が大勢居てとても狭く感じる。

花は盛りを少し過ぎた様で、見事な花吹雪だった。桜は青空にこそ美しく映る。今日は圧倒的な青空で、もうそれだけでラッキーな気分だ。

山の先まで降りて、下町風俗資料館の脇から不忍池に降りて行く。

ポルノ映画館の間を通るこの道は、若い時に1人で通るなんて恐ろしい事は出来なかったけれど、今は改築したせいか、なんだか明るい雰囲気にもなったし、こちらも結構なお年頃になったので、昼間なら全然臆する事なくひょいひょいと階段を降りる。若い子達は此処が怪し気な雰囲気だったことも知らずにカップルも女の子同士も朗らかに通っている。

今日は、花見の盛りだから池之端は平日なのに骨董屋市が立っていた。何軒か冷やかしながら歩いていると、池に張り出る木道が出来ている。こういう時、私は必ず遠回りでも通ってみる性分だ。好奇心旺盛とか言えば少しは聞こえが良いが、つまりミーハーなのだ。

テレビや雑誌で新規オープンなんて取り上げられているところへわざわざ先手を切って行ったりはしないけれど、近くに用が有ったら間違い無く立ち寄る。そうするとちょっとホッとする?違うかな。空っぽの引き出しに入れるべき物を仕舞って満足する様な感じかな。そして仕舞ったこともすぐ忘れちゃう性分でもある。


興味が湧けば、知らないより体験的に知っていたい。何年か前にマカオが世界遺産になった時は、それこそTVや雑誌によく取り上げられていて、「今年はどこ行こうか?」って毎年一緒に旅行を共にする友達に相談された時に即座にマカオと答えた事が記憶に新しい。

アンドリューのローズカフェのエッグタルトがまた食べたい。

そんな事を思い出しながら、木道を歩くと少しだけ池の上まで入って行ける。これは夏、睡蓮が咲く頃にまた来なきゃな。と頭にメモる。

池越しに山を見るとまさに春爛漫。新緑のもやっとした緑も美しい。山の左にの方にドカンとある日本の西洋料理の草分け精養軒の高いコースが一度は食べてみたいなぁと見るたび思う。


周回道路に戻って歩くと音楽堂を過ぎたところの出口に宝くじのバスが停まっている。へぇこういうところで屋台で売ったりすんだと感心する。その前の辺りの八重桜がチラホラ咲き始めている。

池の枯れた水草の茎に鳥が止まっている。桜に池、鳥に弁天堂が奥に見えて春色の山が背景にある。カメラマンなら撮りたくなるよね。と周りの大きなレンズを構えたおじさん達を眺めて思う。

よく見ると、鳥は青くて嘴が長めだ。なんとカワセミ。昔からいたのかな。此処では初めて見た。

前に小石川後楽園でやっぱり大きなカメラを構えている人が大勢いたから、1人に声を掛けて聞いてみたらカワセミだよって教えてもらったことがあったっけ。

もっと自然の濃い渓谷の様な所に生息しているとばかり思っていたからビックリする。

こんなに人が沢山いても君達は平気なんだね。

すると、弁天堂から蓮の池とボート池の間の道の真ん中辺りで、すごい数の鳥が1人のおじさんの周りを飛んでいる。

「ザ.バード」だ。どうやら餌を撒いているみたいだけれど、ヒッチコックの映画のワンシーンさながらだ。

周りにいた女の子達がキャーキャー言いながら走って逃げる様子についニヤリとしてしまった。


時計を出して時間を確認すると、約束の時間まで、後一時間を切っていた。

此処からなら歩いて15分は掛からないだろう。

でも打ち合わせ前に寄るには、安田楠雄邸は遠すぎるし、岩崎邸もちょっと戻る感じだし坂を登らなければならない。

ん〜真っ直ぐ行くにも早過ぎる。

東天紅を見上げて、お茶だけで入れんのかな?と思ったけど新しくビルになった東天紅は立派に聳え立っていて、1人で時間潰しに入るのは憚られた。

ふと横を見るとバス停の前に黒い板塀が目に入る。

そうだそうだ、横山大観美術館があったではないか。

時間的にも丁度良い広さ。

知り合いの家にお邪魔する様な気持ちで門を潜る。

何度来ても日本画を描くために設えたこの家のお庭は素晴らしい。

ゴージャスでは無い。でも細部にまで気を配った造りは、古い家の良い所だ。私は建築には詳しくは無いが、こうやって手の込んだ建物を見て回るのが好きだ。


此処は、横山大観が住みながら絵を描くために作らせた庭がある。春には春の、秋には秋の趣きが充分発揮できる様に庭師の方が心配りをされている。

桜のこの季節、柔らかな若葉の木々も一服の絵の様に佇んでいる。

真ん中の座敷の縁側のすぐ手前で、若い男の人が座って庭を眺めている。邪魔にならないように先に2階に上がって、ぐるりと見回ってから降りて来ても、まだその男の人は、庭を眺めていた。

最初に覚えた違和感の様なものを、なんだろうと心の中で自問して、斜め後方から座った姿をじっと見つめてみる。

僅かに左に顔を向けた時、その端正な横顔を見て、あっと思った時には声を掛けていた。

「アレ、もしかしたら新木田君かな。」

彼は私の顔を見てもすぐには思い出さなかったが、内見の事を口にするとすぐに

「堀川さん。」と名前を思い出しすぐに気付かずにスミマセンと如才なく言う。

中々若いのに出来た青年だ。と、おばさんは母のような気持ちになって思う。

おばさんがあまり絡んでも、家を借りてくれとせがんでいるみたいになるのは避けたかったので、

「ごゆっくり。」と部屋を出ようとすると、ランチに誘われて驚いた。

どうせお昼は食べなきゃならんし、1人だとつい選び過ぎて失敗る事も多いから、まぁいっかと打ち合わせの後ならと了承する事にした。


何食べよう。串揚げ今から席取れるかな。穴子寿しも捨てがたい。中華は、1人だとつまらんからこんな機会にいくのも良いな。天外天、東天紅。それこそ精養軒行っちゃうかな。

あっ私ちょっと浮かれてんな。

あんなに若くてハンサム君にランチ誘われたら仕方ないかぁと一人でニヤニヤして、軽くステップ踏むとちょうどシール屋さんの前に着いた。


打ち合わせが終わって担当の岸田さんにご飯どうするんですかって聞かれてしまったので、ちょっとドキッとしたけれど、一緒にどうかっては、言ってこなかったので

「ここら辺なら何処がお勧めですかねぇ。」と聞いてみる。

「僕らは近くの蕎麦屋とか弁当とかで済ませちゃうからなぁ。ガイドブックに載るような旨い店は、案外知らないんですよ。」ハハハと明るく笑う。

「ここら辺久しぶりなので、散策しながら探してみます。帰り谷中銀座の三陽食品寄って寒天も買わなきゃ。あそこの寒天はプリッとしていて美味しいし黒蜜がまた絶品なんですよ。それに塩豆も」と言うと

「へぇ、そうなんだ。私はちくわぶ専門です。今度買ってみますよ。うちのカミさんみつ豆好きだから。」と笑った。

こちらも、

「ちくわぶ?美味しいんだ。買ってみます。」と買い物リストに入れますねと応じた。

ではと、いとまを告げて外に出て時計を見ると、大観さんのウチを出でもう1時間半近く経っていた。

痺れ切らして帰っちゃったかなと思いつつ、電話を掛ける。

2コールめで、

「はい、新木田です。」と礼儀正しい若い声が聞こえた。

「お待たせしちゃってすみません。今終わったんですけど、まだ大丈夫ですか?」

「えぇ、はい待っていましたから全然大丈夫です。どっちに向かえば良いでしょうか。」

「じゃ不忍通りを北へ根津に向かって歩いて来てください。えっと右側の歩道の方で。それから食べられない物ありますか?」

「はい、右側を北に向かいます。嫌いな物はらっきょうとホヤですけど、まぁ大概なんでも食べられます。ひどいアレルギーも有りません。」

「オッケー、じゃ後ほどね。」と電話を切る。密かに嫌いな物ご一緒ですねと呟く。

先ずは遅くなったので近場の串揚げ屋に電話を入れると、時間がずれたお陰か入れるというので、私は横断歩道を渡ってから不忍池の方に戻る。

串揚げ屋の前を通り過ぎて少し行くと、向こうから早歩きよりちょっと小走り気味に、新木田君がやって来る。

そんなに走らなくても大丈夫だよ。遅くなったのは私の方なんだからと思いつつ手を振る。

私に気付いた彼は、嬉しそうに白い歯を見せて手をふり返した。

運動会に行った時、甥っ子が私を見つけてブンブン手を振っていたのを瞬時に思い起こす。あはは。


「ごめんね待たせちゃって、お腹空いたでしょ。串揚げで良いかな、そこが一番近いと思ったから席確保しといたからさ。」

「はい、勿論。木造三階建の串揚げ屋さんですね。」

「そうそう、その持っているガイドブックにも出てるでしょ?」

「ええ、上野には昔からよく来て来たのに全然知りませんでした。」

と話しながら暖簾をくぐり、名前を言うと、蔵の座敷の席に通してくれた。

私もこの席は初めてでラッキーな気分だ。

さて、ほぼ見知らぬ男の子と差しでランチか。何を話せば、美味しくご飯が頂けるだろう。

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