第5話


ばったり出会う



東所沢へ行った次の日から、僕の漫然とした日々が、急に慌しくなった。

利根さんが言った『垢にまみれていない平凡な自然』と言う言葉が頭から離れないので、僕の当たり前だと思っている生活の中にある自然から検証することにしたのだ。


初めに東京駅の丸善に行って東京周辺のガイドブックや地図を買った。

東京のガイドブックなんて気に止めた事も無かったけれど、東京だって観光地なんだから、有って当然だよな。

ガイドブックを見ていたら、東京駅の周りだけでも見どころ満載で、千代田区のレンタサイクルを借りて皇居周辺を見てみることにする。

行幸通りから大手門に向かう。自転車を置けるか分からなかったので今回はパスしたけれど、三の丸美術館や三の丸公園は無料開放しているらしい。公園の中の売店では、菊の御紋が入った土産物が買えると本に書いてある。

ヘェ全然知らなかった。

右回りにお堀沿いを進むと近代美術館。その隣に公文書館、また隣に科学技術館。科学技術館へは小学生の頃よく遊びに来た。大きなシャボン玉の中に入れて嬉しかった事を思い出す。そう言えば、三年生くらいになると親がついてくる事なんて無かったな。今も子供達は、ふらりと遊びに来たりするのだろうか。

一階の売店で宇宙食が売っていたけど、その頃僕のお小遣いでは買えなかった。今はどんな味の宇宙食が売っているんだろう。日本人の宇宙飛行士が宇宙ステーションに行く事になると新たな食材についてのテレビとかで特集が組まれているので、あの売店でも売っているのかなとよく此処のことを思い出していた。売店だけ寄って買おうかと思ったが、今の僕なら爆買いしてしまうかもと、思いとどまって中には入らずそのまま北の丸公園へ坂道を登って行く。

全く気づいてなかったけど、公園の入り口付近にドテンと吉田茂像が立っていた。子供の頃は興味が無いせいか目に入らなかった。馴染みの場所にさえ、知らないことはまだまだ沢山あるもんだ。

北の丸公園の中を通ると右手に武道館が見えて来る。

田安門を出てその先の橋を渡ると目の前には靖国神社。左に折れると千鳥ヶ淵は直ぐそこだ。


隅田川の土手を固める為に植えられた桜の木。その説でいけば、千鳥ヶ淵も外堀の桜も目的が有って植えられたものなのだろうか。

イギリス大使館の人が関係していたとも聞いたことがあるから、明治になって植えられたのかな?

そうか、公園の緑も桜並木もコレらが作られた自然ってやつだな。

美しくて整備されていて僕にとっては馴染みの深い自然。


靖国神社を横切ってまっすぐ降りて行くと、僕の住む飯田橋。飯田橋駅のある総武線は外堀沿いに走っていて、堀の両側に染井吉野が植えられている。

春になると、こんな所にもと驚かされるくらい東京には桜の木が植えられていて、空をピンク色に染める。

自転車に乗ると東京駅から、ウチまでなんて近いんだろう。

案外、歩いても東京駅まで行けそうだ。


駅前のビルの下にある駐輪ポートに自転車を返して、目の前のカフェに入る。

今見てきたお堀や公園を思い出す。気持ちを豊かにする木々や花たち。それでも確かに言われてみれば、アレらは整備されて人々に提供する為の自然なのかもしれない。

堀の桜に心酔して、石垣や遊歩道と調和の取れた美しい自然に心踊る。僕にはコレがいつもの平凡な自然だ。

都会の垢まみれと言われると、ちょっとムッとするが、手付かずかと問われたらまぁ手が入り過ぎているから反論も出来ないのだけれど。

では、乾山さんが住んでいると言っていた三鷹や吉祥寺とかはどうだろう。パラパラとガイドブックをめくりながら、随分と昔に行った街並みを思い出す。確かに自然豊かな武蔵野の風景だけど、東所沢に比べたらやっぱりお洒落な風が吹いていそうだ。

もっと気取らなくていい自然だって利根さんは言いたかったのだろうか。


近場から巡り、新宿御苑や代々木公園。中央線沿いを所々降りながら高円寺や吉祥寺、三鷹まで行ってみた。湾岸エリアや神社仏閣も見て回る。古くからある参道や境内は、どんなに周りがビルだらけになろうと、太い木が残されているところが多くて自然の持つ強さを感じる。

小石川後楽園は流石に大名屋敷の御庭らしく、回遊庭園で殿様が見る為に設えた自然だ。夏には夏の秋には秋の美しさがあるのだろう。四季折々に訪れたい。特に水戸家らしく梅園には名前を聞いたこともない梅の木が沢山植えられている。梅の季節にまた来ようと築山を背に枝垂れ桜が散るのを見上げてそう思う。

またこれは、違う分類に書き出される自然の頁だろか。


そう言えば、馴染み深い上野の山へまだ行ってないのを思い出し、天気予報で明日は1日を通して晴れというので、上野の山から谷根千の方を回ってみようと少し早起きをした。近いから自転車で行こうかと思ったけれど、上野は台東区だから途中で自転車を乗り捨ても出来ないから、飯田橋から大江戸線で真っ直ぐ上野御徒町まで行くことにする。

マンションの下のパン屋でサンドウィッチと、チェリーのデニッシュを買う。ここのデニッシュ生地はサクサクとしてバターがよく効いていてお気に入りだ。潰れない様に黄色いビニール袋を下げて地下に降りる。神田川の下を走る大江戸線は、地下六階でかなり深い。

総武線で秋葉原で乗り換えて、山手線で行った方が、早いかなとも考えたけど、乗り換え無しの魅力に負ける。

上野御徒町の松坂屋のところから地上に出て、まずは山へ向かう。あまり知られていないようでいつも昼間には歩いている人がまばらだけど、今は御徒町から上野駅まで表通りの下は地下道で繋がっている。でも今日はせっかくの桜の季節だから、賑やかな桜並木を潜って西郷さんを右手に感じながら満開の桜のトンネルを桜吹雪を浴びながらゆるゆると登る。平日とは言ってもやはり結構な人出で、みんな幸せそうな顔をして宴会を開いていたり、そぞろ歩いていたりする。東照宮の所の開けたところでは、大道芸の人がコマを回していた。ちゃんと都からの許可証を看板と投げ銭入れの間に立ててある。

何年か前に東京都は、公共の場でこういったパフォーマンスをする人達に許可証を出す様にした。

それがいいのか悪いのかは分からないけれど、許可されている場所で認可を受けたならパフォーマンスが堂々と出来る。そして、取り締まる事も出来る様になったわけだ。などとコマを見ながらそんなことを考えて、ちょっぴりの投げ銭をカゴに入れると、噴水の方へは向かわず弁天堂へ向かう。降りて行くと途中にお稲荷さんが在って祠の奥にお稲荷さんが祀ってある。今の様に賑やかな時でも、祠の中はわりと静かで、ましてや桜の時期を外すとしんと静まり返っている。子供の時分初めて行った時は沢山祀ってある狐の眼が此方をじっと見ている様で怖くて母の手をギュッと握ったのを思い出す。

上野に母と来る時は必ず弁天堂に行った。参道にはいつも屋台が出ていて、何かを買ってもらえる訳でもなかったがワクワクした。今でも七味やお札の様なキーホルダー、ワンワン鳴いてバク転する犬のおもちゃ、お好み焼きに綿飴そんなお店が並んでいてその間を抜けると弁天堂がある。お詣りした後、渡り廊下の下を潜って池のそばへ行ってみる。

夏になるとみっしりと蓮の花が池を覆って、それを見るのが母は好きだった。今はまだ蓮の葉が茂っていないけれど、懐かしい。

今日は、桜の季節で人通りを見込んでか、対岸の音楽堂の当たりで骨董市が開かれているみたいだった。

そちらへは向かわず、白鳥のボートと動物園を眺めながら買ってきたパンを食べようと、池の間の道を空いているベンチを探しながら行く。

立ち止まって池を挟んで山を見上げる抜ける様な青空。桜は本当に青空が似合うなぁ。そう毎年思う。

池の真ん中辺りで空いているベンチを見つけて、デニッシュをサクサク噛んでバターとイーストと小麦粉の焼けた匂いを味わっていたら、2つ先のベンチの所で、オジサンが何かをまき始めた。

途端に鳥が驚くほど飛んで来て、オジサンを取り囲む。ヒッチコックのバードみたいだ。勿論鳥はオジサンを襲ったりはしないけど。むしろ懐いていて、雀も人の肩に乗るのだなと感心してしまった。


パンを齧りながら、根津方面には根津神社以外には何があるのかな、とガイドブックをめくると、動物園の池之端門の向かい側に横山大観美術館があると書いてある。

「へぇ」1人なのに声が出てしまう。梅雨の季節には閉館と書いてあったが、まだ梅雨には少し早いので行ってみようと腰を上げた。


大観が住んでいた家がそのまま美術館になっているらしい。

縁側から眺める庭は、何処を切り取ってもそのまま日本画になりそうな景色だった。座敷に座って暫くぼうっと眺めていると、学芸員さんが絵を描く為に、その時々の季節らしさが出る様に木々が配置されているんですよと教えてくれる。

確かに今の季節は、桜の花びらが美しく舞っている。今はまだ青いけど、紅葉も植っていて秋には真っ赤になってこの庭を照らすんだろうな。

作られた自然だからといって、人の心を動かさない訳ではないんだなぁと、今までだって何気なくそう思っていた事を、改めて考えて感心してから、もう一度庭を眺める。

利根さんの垢にまみれと言う語感に、悪いものという印象を必要以上に持ってしまったのかも知れない。

よく考えたら、里山だって田畑だって山や河さえも手付かずとはいかないところが多いはずだけど、都会の自然は人に見せるということに重きを置く、その辺が違うということか。


そうすると僕にとっての平凡は、多数派じゃ無いって事なのだろうか。

他の人の平凡が解らないって、なんか僕のスタンダードポジションなのかな、と負の思考に落ち入りそうになった時

「アレ、もしかしたら新木田君かな。」と女の人が言った。


びっくりして振り向くと、どこかで見たことのある、歳の頃は40半ばの背の小さな人が、こちらを不思議そうに見ていた。

誰だか思い出せずに、眉間に力が入ったのが分かったのか、

「ごめんごめん、分からんよね。一回ちょっと会っただけだもんね。この間ウチに内見に来てくれたでしょ?その時のおばさんよ。」

「あぁ、堀川さんでしたよね。スミマセンすぐに気づかずに。」

「いえいえ、凄い偶然。ビックリしちゃった。大観お好きなんですか?」

堀川さんは、物凄くフラットな感じで聞いてくる。まるで昔からの知り合いみたいに。

「いえ、たまたまです。池之端にはよく来ていたのに全く知らなかったら、今日の散策の順路に急遽取り入れてみました。」

「そうなんだ。私はさ、こういう家が資料館や美術館になっているところが好きなので、こちらに用がある時は時々寄るの。」とニッコリした。

「じゃぁごゆっくり。」とパタパタと手を振って行こうとするので、

「あの、これから何処か回られるんですか?」と咄嗟に言って自分でも驚いた。僕はこの後何を言おうとしてるのだろう。

「えっ、ここからちょっと先のシール屋さんに頼まれてイラストを提出しに行くの。そんなには時間が掛からないとは思うけど。」

「あの、もしよかったらお昼ご一緒しませんか?此処ら辺でお勧めが有れば教えてもらいたいし。」

堀川さんはキョトンとしてから、時計を見た。

「そうだね、打ち合わせが終わったら丁度お昼になるね。ウチの様子とか聞きたいのかな?

それでは、先方さんにお昼誘われなかったらご一緒しましょうか。そんな曖昧なお約束で良いかしら?」

僕がコクリと頷くと

「では、終わったら連絡入れますね。電話番号教えてくれる?」と段取りをテキパキと決めて素早くバックから携帯を出した。

「あっすみません。なんか強引で。」

「良いよ良いよ。1人のご飯ってのもつまらんから。合流出来なかったらごめんね。連絡します。」と早口で言って

「2階見た?ゆっくり見学すると良いよ。じぁ後でね。」と踵を返して玄関の方へスタスタと向かって行ってしまった。


僕はどうしたんだろう?

近頃人と話していなかったから、人恋しくなったんだろうか。

こんな風に、殆ど知らない人とご飯を食べようと誘ったことなんて未だかつて無い。


2階に上がって学芸員さんの大観先生は老眼鏡をずっと使わずに過ごしたんですよというエピソード等も聞きながら、館内をゆっくり時間をかけて観たけれど、それ程広くも無い館内はすっかり見終えてしまう。堀川さんと別れてから一時間も経たないうちに、庭を見るのも飽きて外に出た。

堀川さんにどっち方面へ行くのか聞いておけば良かった。表に出てから右に行くか左に行くか悩む。

うまい具合に喫茶店でも無いかなと見回すが、パッと目に入るのは東天紅だけだ。お茶だけでも出来るんだろうか?一瞬見上げてから、ため息をついて、もう一度道を渡って池之端に立ってぼんやりとスワンボートを眺める。

手にガイドブックを持っているのを思い出して、パラパラと不忍通り周辺のページを読み始めた。

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