第18話 推しも推されぬ
昔は行きつけの飲み屋でよく話をする子を馴染みの
裏を返さねぇのは客の恥、馴染みにならねぇのは店の恥という格言を知った頃に学んだものと思うが、中々に好きな言い回しであった。
ただし、長い。
他の言い回しも色々とあるのだが、どうしてもややすれば
それが今では「推し」という言葉で方がつく。
日本語の乱れがなどと言われてしまいそうであるが、私はそれなりに気に入っている。
言葉としての重みはやや劣るが、短く思いがまとめられており、様々な相手に使うことができる。
元はネットスラングであるため一般的であるとまではまだ言えないのかもしれぬが、百科事典に載ることもあるほどには広まっており、ある程度相手にも伝わるのではないか。
この言葉の良さの一つは偏務的な執着であるところであり、酒を一方的に愛する
呑兵衛とはわがままであり、気まぐれであり、それでも酒という一点においては止め処ない執着を示す。
ただ、酒から何か見返りがあるかといえば、そのひとときの幸せとやがて至る彼岸の景色ぐらいであろうか。
推しもまた同じであり、
これが双方向となれば恋愛という営みともなろうが、呑兵衛とはにはちと重い。
勝手にその場で好意を抱き、その場限りで断ち切るのがちょうど良いのだろう。
それに、
独り占めしたいと思うのは呑兵衛としては下であり、隠れ家であれば話は別だが、自らが足繁く通う店は栄えて欲しいと思うのが王道である。
とはいえ、呑兵衛の多くは酒のおかげで爪に火を灯すような生活を強いられており、一人ではどうにもならぬは自明の理であろう。
故に、推しという言葉を用いる時、呑兵衛は酒場との共存共栄が頭の片隅にあるのだ。
さて、呑兵衛が飲み屋で「推し」に対するとき、どのように振舞えばよいかといえば、単純に飲んで飲ませればよいという一言に尽きる。
無論、持続可能な
それが誕生日であり、祝いの席であり、別れの席である。
普段は意地汚く、せせこましく、己が欲望に飲み従おうとも、呑兵衛としての矜持を見せねばなるまい。
特に別れの席を外さぬよう心を配るべきで、行きずりの間柄であろうとも、いや、行きずりの間柄であるからこそ重い。
「酒は飲むに任せよ、肴は出るに任せよ」
という教えも、この時ばかりは脇に置くのが礼儀である。
今までで最も気合を入れたのは、県を
いや、正しくはこれを私は二度行っており、我ながら酔狂が過ぎると呆れるばかりである。
なに、座して終わる後悔に比べれば微々たるものであり、次に繋がる飲みであったと自負している。
先日、行きつけの飲み屋である娘の誕生日と送別とが重なり、三日にわたる催しが行われた。
私も出はしたのであるが、その娘を推す常客は見事に三日の間通い詰めた。
そもそもその常客はあまり酒を飲まぬはずである。
それでもボトルを開け、盛り上げ続け、最後に店が閉まるまで見届けたのは何と立派な姿であったろうか。
遊びに何を、と言う者には何も分かるまい。
「遊び」だからこそその生き様が如実に表れ、酒の味を変えるのである。
果たして呑兵衛でもあれ程に鮮烈で見事な在り方を見せることができるだろうか。
悔しいが、私もまだまだ修行不足なのであろう。
なお、推しとの別れに全力を尽くすのは、次なる推しと出会った時に備えてのことでもあると私は思っている。
精一杯に駆け抜けた彼に、またよき出会いがあることを願うばかりである。
まあ、あまりに出会い過ぎては財布が破れかぶれになりかねないが、それもまた学びである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます