第3話 スキルボードという名のまな板

 酒を飲みながら漫画や小説を楽しむことがあるが、最近ではその中に異世界転生ものを含むことが多くなった。

 美女を侍らせ、見たことのない世界に興奮し、魔法の便利さに舌を巻き、身に余るような栄光を手にする。

 一日の終わりに、転生すればそのような人生を歩めるのではないかと夢見、何者にもなれなかった自分をさかなに酒をやるというのはなかなかになものだ。

 所詮しょせん、私の生活くらしは会社と三尺四方の卓袱台ちゃぶだいと万年床しかない。


 少々湿っぽくなってしまったが、転生ものに話を戻すとその主人公はなんらかのスキルや大きな力を得ていることがあり、その違いに舌を巻く。

 こうした上手い話が描ければ……というのは物書きの性であるのだが、呑兵衛のんべえが現実を生きるにはより大切なスキルがある。

 それは肴をこしらえる能力であり、ここが酒飲みとの大きな違いだ。


 酒飲みさけのみは、酒だけでいくらでも飲んでしまう。

 その姿はどこか孤高で、さしずめファンタジーに登場する魔王や英雄のような存在だ。

 一方、我らが呑兵衛はいわば

 酒に肉に女にとその欲に際限はなく、おごると言われればその権力にひれ伏し、飲めない奴と知れば情け容赦はない。

 そのため、酒を勧めてくれる肴は欠かせず、失くしてしまえばその姿は小さなものとなってしまう。


 とはいえ、単純に料理が上手ければよいという訳ではない。

 ちょいと飲みたいなという時に、船盛やフレンチのフルコースを並べてしまっては威勢という言葉が尻込みして逃げてしまう。

 だからといって、魚肉ソーセージやトマトを丸のまま置き、それにかぶりつくというのもちと違う。

 そういう気分の時もあるにはあるのだが、毎日続くようであればその日、そのよいを成仏させてやることができなくなってしまう。

 良い塩梅で、急に湧き上がってくる欲望の手綱を握りうる肴に辿り着くというのは難しいことだ。


 例えば、先に挙げたトマト一つにしてもその使い方は酒と時期で変わってしまう。

 暑い夏の日であれば、熟れたものをよく冷やして薄く切り、塩を振るだけで立派な肴になる。

 少し元気のある時であれば、これにオリーブオイルをかけまわすものよいだろう。

 青みの残るものであれば、あえて冷やさずかぶりつくのもよい。

 黒糖焼酎や泡盛のロックとやれば、後に残るは爽快さだけになる。

 これが冷えた時期となると、出汁で煮込んで燗酒でるのもいい。

 迷うようであればオムレツにしてしまうのも楽しく、ビールが止めなく入ってしまう。


 この千差万別の在り方の中からその日の気分を満たすものを選び抜き、手早く作るのが呑兵衛流。

 時間をかけてよいのは煮込むもの、刹那せつなの思いを重視する。


 たとえおでんであってもその神髄しんずいは変わらない。

 「クッキングパパ」で「ぐーたらおでん」というものがあったが、あれは我らが呑兵衛が雄、田中一氏の逸品である。

 どうしてもおでんといえば様々な具を楽しみたくなるが、このおでんは大根、蒟蒻こんにゃく、牛筋のみが並ぶ。

 これを洗練と取るのであればお門違いであり、正しくは単純とするべきだ。

 洗練とは無駄を認識して削り落としていくことであり、呑兵衛には「手間」を切り落として省こうとするいやしさしかない。

 だからこそ「ぐーたら」というかんむりがよく似合う。

 具が足らぬのは分かっているが、そこに気を入れるのは本筋ではないのだ。

 私のおでんも、精々がこれに玉子を加えるぐらいである。


 こうして考えてみれば、異世界転生というのも然程さほどに良い物ではないのかもしれない。

 どのような名声や美女を前にしても、かような癒しを得るのは困難であろう。

 西洋風のファンタジー世界ともなれば、それこそ火起こしも食材の加工もそれなりに力を入れねばならぬ。

 冷やすも水で洗うも魔法かそれなりの労力が欠かせない。

 なるほど、現代社会というのは存外に呑兵衛にっては理想郷と言うべきなのかもしれぬ。

 しかし、それを噛みしめられるだけの生活くらしがここにあれば良いのだが……。

 いや、となりの芝は青いという。

 今宵も鶏もも肉と草臥くたびれたニラを焼肉のタレで炒めて、ウィスキーのお湯割りで慰められるとしよう。

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