4話

「はぁ、はぁ…………」


 無我夢中に走ったせいで乾いた喉を唾で潤す。ゴクリと鳴る音がやけに大きく聞こえてくるのは、夜遅く、通りに人の姿が見えないから。

 多分、15分くらい走ったり足を止めて息を整えたりを繰り返した。


「あそこで水を飲もう」


 スマホも財布も持ってくるのを忘れたから何も買えない。こういうところで抜けている自分が本当に嫌になるけど、今はそれを抑えなきゃ。


 ひとまずはおぼつかない足取りで先に見えた公園へ向かう。

 広々と開けられた出入り口に沿って敷かれている、今私がいるT字路の間には飛び出し注意の子供がいる。


 もう何十年もここにいるんだ。頭から目元まで錆びついて可哀想。誰もが目にしているはずなのに、誰にも心配されなくて、そういうものだって放置されたまま。

 君萱きみがやくんがあのとき守ってくれなかったら、私もこんなふうに勝手に廃れていったのかな……。


 もし、このままもう手に負えないって君萱くんが追って来てくれなかったら…………。


「むしろ、そっちのほうがいいのかもね」


 冷えた笑いが出る。強がる自分に。

 どうせそれでも貴方が来たら私は泣いて喜ぶでしょうに。


 とにかく今はもうこれ以上どこにも行けない。

 ベンチに腰かけよう。




 15分ほどが経った。

 君萱くんどころか、人の気配すら怪しく心細くなってきた。


 自分で勝手に飛び出したくせに早くも見つけて欲しいという気持ちが先行しちゃってる。本当、馬鹿だ。こんな私をそれでも愛してくれている君萱くんに申し訳ない。

 もし神様がもう一度だけチャンスをくれるなら、必ずこんな間違いを起こさないよう頑張るから。だから、お願い。


「……してくれー!」


 途端、聞こえてきた声に顔をあげる。

 耳を澄まして発声場所を探す。


「七ー! どこにいるんだ! いるなら返事してくれー!」


 それは私が来た道から聞こえてくる。

 やっぱりだ。やっぱり君萱くんは探しに来てくれた!


 早くその顔を見たい。そこにあるのが怒りでも、貴方の温もりを感じたい。


 湧きあがる感情と共に立ち上がってすぐその姿を見つける。部屋着のまま、上着を一枚羽織っただけの姿を。

 扉が閉まる音に気付いて慌てて準備したのかも。スマホを耳にあてて、辺りをキョロキョロしながら大きな声で呼びかけてくれている。


 どうして貴方はそこまでしてくれるの?


 なによりそんな疑問が浮かんできたけど、そこに貴方がいることはたしかだから。今はどうでもいい。

 さあ、行こう。そして、ちゃんと謝って、こんな私をまだ許してくれるならこれまで感じてしまっていた苦しさを話そう。


「君萱くん!」


 手を振って大声で存在を知らせた。

 気が付いた貴方は立ち止まり、良かった……と言わんばかりに安堵に包まれた表情を浮かべて、それからいつもの優しく温もりのある笑顔に変わっていった。


 それがただ嬉しくて。たとえ貴方と言っても、内心は怒っているはずなのに私のことをまだ気遣ってくれるんだと分かって、視界が滲みだす。

 私は未だ疲労の抜けきれない足に鞭打って走り出した。最後の余力を全て使い果たすように。


 早く貴方の元に行きたい! 謝罪の言葉を伝えて冷えた身体を温めるように抱きしめて欲しい!


 そうして、公園から飛び出したときだった。


「七、危ないっ!」


「えっ――」


 必死な声を出す貴方と、突然ライトアップされた私。

 高鳴るブレーキ音に耳を支配され、目を向けた先に映る車はスローモーションでこっちに進んでいる。

 驚きと困惑とで止まってしまった足はもう動かない。視界の端っこで笑みを浮かべる小さな子供のように。



 ドンッ!



 刹那、真正面から私の身体を襲う衝撃と、鈍いぶつかり合った音。


 予測不能なそれに身体が浮く。そんな私の目の前からは車も君萱くんもいなくなっていた。


「っ!」


 受身なんて取れるはずがなく、背中を強く地面に打ち付ける。

 痛い、痛い、痛い、痛い。

 一瞬にして思考を染めるあまりの衝撃。でも、今はそれどころじゃない!


「君萱くんっ!」


 視界の先で壁にぶつかった自動車とその近くでぐったりと倒れている貴方。


 いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!


「君萱くん! 君萱くん!」


 反応はない。

 血はそこらにまき散らされ、貴方から留まることなく流れている。

 早く寄りたいのに、足は今の衝撃でもう微塵も動かせない。


 救急車、救急車呼ばなきゃ!


 慌てて自分のポケットに手を入れる。ない、ない、ない!

 そうだ、さっき君萱くんが持っていたはずじゃ。


 必死になって辺りを見渡してみるけれど見当たらない。


「どうしてこんなときに、スマホひとつもすぐ見つけられないの!」


 情けない自分にいら立ち、地面を強く握り拳でたたく。

 こんなちっぽけな痛みで、私は貴方を救えない。守れない。


 あまりの無力さに涙が頬を伝った。


 結局救急車が来たのは、腕を抑え、表情を歪めた運転手が連絡をしてから10分ほど経った頃だった。

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