第131話 薪を翳す者

 ――俺は、何をやっているんだろう。


 自問しながら、ニーベルは町はずれの訓練場の壁に叩きつけられる。叩きつけた相手……後進の育成でもしようと町に滞在し続けるジンオウは、顎を野太い指で掻きながらフゥム、と目尻を下げて見下ろした。


「全然気が入っとらん。力任せにぶん回してるだけだな。そういうのは俺じゃなくてサンドバッグにでもぶつけるもんだが……いきなり訓練付けろと言ったと思ったらこれだ。顔に見合わず猪武者だなお前」


 エドマ氷国連合でどんなに暴れても心の靄を払えなかったニーベルは、我武者羅にジンオウに勝負を挑んだ。結果は語るまでもなく惨敗。八つ当たり染みた戦いに理由も聞かず応じてくれたジンオウに申し訳なくて、心を御せない幼稚な自分が情けなかった。


「……すいません」

「別に嫌いじゃねえぞ、そういうの。行き詰まった思いの丈を何かにぶつけるのもいいと思うぜ。拳の語らいと同じさ」

「フツー拳は語りません」

「なははは! いいや、口より雄弁だ! ゴルドバッハの爺さんに昔言われたんだ! 殴ることで相手を知る、これは【こみにけいしょん】と言うらしい!」


 特に気分を害した様子もなくジンオウはどっかりとニーベルの横に座り込んだ。

 ニーベルも体を起こし、剣を地面に突き立てて座り込む。

 じわじわと朱に染まってゆく夕暮れの空を見上げる。

 気付けば、ニーベルは自然と悩みを打ち明けていた。


「何を信じて戦えばいいか、これからどうすればいいか……分かんなくなっちゃいました」

「んむ。一応はあの女神だという娘から一通り話は聞いたが、ずいぶん面倒なことになったな」


 豪放磊落なジンオウだが、彼は決して考えなしではない。

 特に悩める戦士の悩みには驚くほどに親身になってくれる。

 ニーベルはその優しさに甘え、俯き気味に停滞した心境を語る。


「俺、アーリアル歴王国に生まれたから強く育てたって思ってました。あの国は確かに厭な過去をたくさん抱えている。でも住んでる人たちは前を向いてるし、みんな悪人な訳はない。やっぱり生まれ育った国は誰だって好きでしょ?」

「そうさなぁ……俺は実は光人ウルティム巨人ダラボムの混血で、故郷は二つある。どっちも長く居た訳じゃないが、時々故郷の匂いが恋しくなる。帰巣本能って言うのかもしれんな」

「俺にとってもアーリアルはいつも意識する国です。でも、母国は女神エレミアに祝福されてなかった。そう聞いた時、なんか……俺が今まで学び信じてきた全ての道と選択が否定された気がしたんです。お前はずっと間違った事ばかりしてたんだって……」


 アーリアル歴王国の為になることをするのが、過ち。

 国を誇る事も、富を蓄えることも、他国より強固な文明を持つことも。アーリアル歴王国が麗連潔白な国だなどとはニーベルだって思っていないが、信仰する女神からいずれ消滅すべきと見做されていたという事実は、重かった。


「今ならサクマが酷い顔をしてた時の気持ちが分かります。何で周りの国はよくて俺の国は駄目なんだよって……嫉妬しました。理屈も聞いたし、女神さまが気を配っていたのも聞きましたけど、でも納得できなくて……」

「かといって、周りが悪い訳じゃないから当たり散らすのもお門違い、か。怒りが行き場を失うな」

「今まさにそんな気分です」


 挙句の果てに、可愛がっていたセツナがサクマを傷つけて逃走。

 魔物も魔将も人間の為の存在。

 異端宗派はこともあろうに自分以上の女神信者。


 これまで正しくあれと思い信念を以て選んできた全ての選択が、前提から呆気なく覆った。これではニーベルは存在自体が間違いの塊だと言われたようなものだ。

 ジンオウは話を聞き、おもむろに問うた。


「全部、か。本当に全部か?」

「違うって言うんですか?」

「例えば、餓えた犯罪者にパンをあげるとしよう。その犯罪者はパンを糧に生き延び、また犯罪を犯す。ではパンを与えた者は悪なのか?」

「悪でしょう、それは……悲劇を拡大させただけだし、無責任な行動だ。そもそも犯罪者を捕まえるべきだった」

「そうかもな。でもそれは結果論だ。パンを与えられた犯罪者が改心して人を助けたら、そいつの優しさが未来を良い方向に向けた事になる。お前の評価は覆るんじゃないか?」

「それこそ結果論じゃないですか?」

「そうだ。正しいかどうかなんて最初からわかりゃせん。起きたことだけが真実で、俺たちは不確かな未来を歩むしかない……つって、この問答殆ど受け売りなんだけどな?」


 冗談めかして笑ったジンオウは、真剣な顔になる。


「ニーベル。お前が迷ってんのは、寄りかかってた壁がなくなって腰の収まりが悪くなっただけだ。支えがねぇから自信もなくなって、どうでもいいことまで疑っちまう。だがな、人間は元々なんにも寄りかからなくたって二本の足で突っ立てば倒れやしねぇし前を見られるモンだ。ドコに足着けてんのかしっかり見ろ。それも無理なら誰かに支えて貰いな……友達とか女とかにな」


 大きな腕からは想像できない優しさでぽんとニーベルの肩を叩き、ジンオウは立ち上がる。


「あ゛~~~~、頭使ったら疲れた! なんか甘いモン食いに行ってくらぁ! ガハハハハハハ……」


 訓練場を去っていく巨体を見送り、ニーベルは地面に刺さる剣を抜いて土を丁寧に払い、納剣する。


「正しいかどうかなんて最初から分からない……か……」


 ニーベルは偉業を成し遂げたこともない若造の冒険者だ。信念だ何だと言っても、先ほどのジンオウのような含蓄のある台詞は思いつかない。ニーベルはふと、皆は何に縋って生きているのか知りたくなった。

 自分にないものは、他の誰かに頼ればいい。答えが出なくとも、そこには人生の進み方の指標になる何かがあるかもしれない。


 自分と対照的な存在――サーヤはどうなのだろう。

 女神直属信者でありながら、彼女は女神の教えと完全に同じ考えはしていない。アーリアル歴王国への個人的な恨みを隠そうともしない彼女は、何を思って生きているのか、不思議と知りたくなった。




 ◆ ◇




 西大陸に戻り、ニーベルの監視の目から解放され、サーヤは自由になった。

 なのに、その足取りは浮かないものだった。


「……聞き忘れてた」


 ネスキオに言われていたのに、エドマ氷国連合で気まずさや己の拙さのせいでニーベルに聞けず仕舞いだった話を思い出したサーヤは、ニーベルがおらずどこか気の抜けるギルドの仕事を終えて町をぶらぶらしていた。


 仲のいい仲間はいるし、別に寂しかった訳ではない。ただ、周囲には「ニーベルさんと喧嘩したの?」と聞かれた。サーヤ自身、嫌と言うほど顔を合わせていたニーベルが居ないのに、歩幅が自然とニーベルに合わせるものになっていて収まりの悪さを感じずにはいられない。

 今日、ニーベルは仕事をせずに【神の腕】ジンオウと訓練していたらしい。


 まだ引き摺っているのだろう、反転した世界観を。


「ほんとは、アタシだって……」


 サーヤだって未だに過去を引き摺り続けている。女神の信徒となった後も、アーリアル歴王国への恨みは褪せるどころか心の深くに根付いてゆき、彼らを殺める事の出来ない立場に不満を抱いたことさえあった。

 父代わりのような存在である【遷音速流】ルードヴィヒはそれを笑いながら、自ら手を汚す必要はないと自ら汚れ仕事を買って出ていた。


 だからといって、罪は罪。


(ホントは怖くて聞けないのかな、アタシ……)


 ニーベルは相手が危険人物だと分かっている癖に、自ら近づいてくる。

 その事に甘えて自らが卑しい咎人であることを忘れて罵り合う関係を、本当は心地よく感じていた。

 遠慮しなくていいというのは心地よかった。

 サーヤが唯一等身大の少女でいられる場だった。


 でも、もしもニーベルに直接聞いて拒絶の意思を示されたら、唯でさえ真実を知りぎこちない関係が今度こそ破綻してしまうのではないだろうか――その躊躇が停滞を生み、停滞は懊悩を生み、懊悩を拭い去ろうとすると躊躇する。悪循環だった。


 ネスキオには、話がどう転ぶにせよけじめはつけるべきと言われた。

 このままでよくない事は分かってる。

 でも、心のどこかではやはり、出会わなければいいと邂逅を拒否する心理が働いていた。

 結局はきっかけが重要であり、それは来る時には呆気なく訪れる。


「あっ」

「あっ」


 帰り道の曲がり角で、気もそぞろだったニーベルとサーヤは軽くぶつかった。僅かに体と体が触れあう程度の極めて軽微な接触だったが、二人は伏し目がちで気まずそうに会話する。


「……やぁ」

「……うん」

「「あ、あのさ……」」


 同時に切り出し、同時に止まる会話。

 しばしの沈黙ののち、ニーベルが先を譲る。


「先に聞かせてくれないか」

「あによ、こんな時だけレディファーストぉ?」

「染みついてるんだ。女神に否定された文化だとしても」

「……そんなヒクツな台詞聞きたくないし」


 目を合わせず顔を逸らすサーヤだったが、意を決したようにニーベルに向き合う。


「き、聞きたいこと聞き忘れてた、から……確認だよ!」

「そうか。奇遇なことに、俺も聞きたいことがある。時間、これからいいか」

「い、いいよ……」


 それ以上の会話はなく、二人の足は自然と【ウタカタ】のいつもの部屋に向かっていた。

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