第111話 くるしい くるしい つらい
サクマさんとシオリ、二人きりの宿屋の一室を重苦しい沈黙が包んでいました。
相談があると呼び出したサクマさんの表情は、今にも死にそうなほど酷いものです。
昨日から何も食べていないとセツナちゃんは心配そうに言っていました。
眠れはしたようですが、見るからに気持ちの整理はついていません。
ここまで切羽詰まった顔の冒険者相談はいつ以来でしょう。
遠距離恋愛していた恋人に振られた若者。
パートナーを失い生きる希望を無くしそうなベテラン冒険者。
借金で完全に首が回らなくなった中年冒険者。
みな、死にそうな顔になる理由は様々です。
重要なのは、理由がなんであれ当人にとっては心の底から深刻で、最悪の場合は自ら命を絶つほど重大な事態であるということ。間違っても「しょうもなこと」とか「自業自得じゃないか」なんて軽々しく言ってはいけません。
本来ならカウンセリングの出来る人間がすべきことなのかもしれませんが、不幸な事にカウンセラーが求められていないギルド・エドマ氷国連合支部にその手の人材はいません。シオリ奮起の時です。
というわけで、サクマさんと防音を施した部屋で二人きり、互いにテーブル越しに向かい合って椅子に座っているのですが、話は未だに始まっていません。
原因は明白で、呼び出した側のサクマさんは沈黙したままだからです。
「……」
自分で呼び出しておきながら喋ろうとしないなど、普段の業務なら相手にしません。
しかし、今ここで焦れて無理に聞き出そうとするのは愚の骨頂。
喋りたい事をこちらからの刺激で引っ込めさせてしまったら、相談の意味がありません。
根気強く付き合うことが肝要です。
五分経過。
サクマさんは俯いたまま喋りません。
シオリは、気分転換にお茶を淹れることを提案しました。
「いらない……」
――そうですか。
十分が経過。
サクマさんは目を開いたまま寝ているのではと疑うほど動きません。
心の整理がつかないか、言い出したい気持ちと言い出せない気持ちがせめぎ合っているのかもしれません。悪いことをした子供が素直にそれを告白できないという心理は、意外と大人になってからも消えないものです。
十五分が経過。
サクマさんは次第に頭を掻き始め、その動作が激しくなっていきます。
シオリの想定以上に情緒不安定になってきてるかもしれません。
なるだけ優しく、サクマさん、と名前を呼ぶと手がぴたりと止まりました。
「なんだよ……」
ここは重要です。
茶化しても駄目、急かしても駄目。
かといって踏み込み過ぎても駄目な局面です。
――質問しても、いいですか。
「……」
返事をしません。
すなわちイエスでもノーでもなし。
まだその問答に入るほど気持ちが纏まっていないようです。
これでは相談になりません。
言いたいことははっきり口に出してください。
……とは、言ってはいけません。
今、シオリは業務を効率的に処理するのではなく、サクマさんの心に秘めた誰にも言えないような悩みを聞き出すことこそが役割なのです。
時間は沢山あります。
焦ることはありません。
もちろんシオリの体力と忍耐力は有限ですが、まだ限界ではありません。
なのでシオリは、今のは忘れてください、となかったことにしました。
そうして二人、言葉もなく飲まず食わずで三十分が経過した頃――サクマさんが遂に自発的に口を開きました。
「聞かないのか、相談の内容」
お前が話を持ってきたんだからお前が喋らんかい!
……と相手を辞書でぶん殴るギャルちゃんみたいなことをしてはいけません。
というかシオリは元々そんなことしませんが。
恐らくサクマさんのなかで喋り出したいという気持ちが強まっています。
しかし、シオリは敢えて直で聞きにいかないことにしました。
――サクマさんの心の準備が出来たなら、教えてください。
相談を持ち掛けたとて、結局話す話さないはサクマさんの決めること。
無理強いすることはしません。
質問する側にその気がなくとも、促してしまえばプレッシャーと紙一重です。
サクマさんは暫く沈黙したあと、一度深呼吸し――様子がおかしくなりました。
呼吸が激しく、荒くなっていきます。
シオリは咄嗟にサクマさんにかけよって大声で意識を確認しながら身体を横にさせます。
「はっ、はっ、かっ……!」
これは確か、過呼吸と呼ばれる症状です。
苦しそうに激しい呼吸をする様から対応する側には命に関わる症状に見えますが、実際は強いストレス等を原因に一時的に発生するものなので精神を落ち着かせれば収まる筈です。癒される存在が一緒にいればよかったのですが、ここにはセツナちゃんももふもふ生物のシラユキも入ってこられない状態。
シオリはせめて、名前を呼びかけながらサクマさんの手を優しく握ります。
やがてサクマさんの呼吸は安定していき、サクマさんがこちらを見ました
「……面倒、くさい、男だと……思った、か?」
ここは否定してもいいもしれません。
しかし、そう言ったということはサクマさん自身の心に少なからず自分が迷惑をかけているという自責の念があるということ。軽々な肯定は逆に気を遣わせているという負い目を感じさせるかもしれないので、シオリは敢えて迷惑をかける行為そのものの是非を口にしました。
――人に迷惑をかけず生きることは出来ませんよ、サクマさん。誰もがそうです。
「……これから、もっと迷惑だ」
――そんなこと、ギルドのカウンター席では日常茶飯事です。
「……」
サクマさんはシオリの手を振り払うように退け、無言で立ち上がって、椅子に座り直しました。
お礼の一つも言わないのは、言う余裕がないからでしょう。
シオリはそのことに意図して触れませんでした。
それから更に数分経って、サクマさんはやっと喋り始めました。
「故郷の話、したよな。地球のこと……」
――はい、覚えています。
サクマさんはそこからこちらに来たのですよね。
「地球はもうないんだ」
サクマさんはその一言で吹っ切れたように、部屋のテーブルに拳を叩きつけて叫びました。
「地球はもう住めないんだってよ!! 人間はみんな死んで、文化は全部なくなって、地球人は俺しか残ってないんだってよ!! ――ふざけんなッ!!」
何度も机を殴る音が段々大きくなっていき、軋み始めます。
自分の腕など壊れてしまえ――そんな言葉にならない激情が迸り、濁流となって言語化されていきます。
「しかも滅んだのは10000年以上前の話でよぉ!! 分かるかよ!? 分かんねぇよなぁ!! 俺だって訳分からねぇんだよッ!! なんだよタイムスリップか!? 未来の力なら出来るかもなぁ!! でもよぉ!! タイムスリップでもウラシマ効果でもなんでもいいんだよ!! 何やってもよぉ――父ちゃんも母ちゃんも初恋の子も友達も国も未来も、俺からすれば全部滅んでるんだからよぉッ!!」
シオリからすれば、半分は意味の分からない言葉です。
しかし濁流に呑まれずなんとか情報を拾おうと必死に言葉を聞き取ります。
ここでサクマさんの豹変に慄いて引けば、もう彼は何も喋らなくなる気がしました。
サクマさんの目は血走り、口から唾が撒き散らされることなどお構いなしに獣の如くまくしたてます。
「地球に何にもなくなって、なんで俺はここなんだよ!! 180万光年離れた訳の分からねぇ土地に訳の分からねぇ力持たされて放り出されて、馬鹿な失敗しながらどうにか今日までやってきたんだよ!! 少ねぇけど友達出来たり女に片思いしたり義理の娘可愛がったりして、進んできたんだ!! もし地球なんざない、帰れないって言われても、それで後腐れなかったんだッ!!」
異郷の地に骨を埋める覚悟が、サクマさんなりにあったようです。
しかし実際にはその覚悟は現実に踏みにじられ、今は見る影もありません。
「それが、今は未来!? 地球も地球人も全部滅びました!? じゃあ俺は何なんだよ!! たった一人ここに残された俺は何なんだよ!! 何がしてぇんだよ!! 仮にタイムスリップして戻れたとして――もう未来がねぇって分かっちまった世界で、俺はどう生きるんだよッ!! 俺の世界が滅んだのに歴史を重ね続けるこのロータ・ロバリーを俺はどんな気持ちで生きていけばいいんだッ!? 夢なら醒めろよッ!! この生き地獄の悪夢を……消してしまいたい。消えてしまいたい……」
全て吐き出したとばかりにテーブルの上に両手を叩きつけたサクマさんは、そのままずるずると崩れ落ちて床に膝をつきました。立ち上がる気力すら湧かない彼の声はか細く掠れています。
「もう分かんねぇよ……どうしていいか、どうやって生きりゃいいか。何考えればいいのかも……」
――故郷のこと、あまりよく言っていませんでしたけど、やっぱり好きなんですね。
「嫌いだよッ!! 嫌いだけど……だからってなにも良いことがない訳ねぇだろッ!! 嫌いだってことと滅んでいいって思う事は全然違ぇんだよッ!!」
シオリを拒絶するように怒鳴り散らすと、サクマさんはそれっきり、無言になりました。
シオリは必死に情報を整理します。
サクマさんの話は過程がかなり抜けて主観的な情報が多かったのですが、要約すると故郷が既に滅んでいるか、滅びの定めが確定している、といったことのようです。そしてサクマさんは、自分たちが先祖代々積み上げてきたもの全てが無駄になる事を思い知らされ、打ちひしがれている……そういうことなのでしょうか。
人が生きるのは未来に何かを残す為です。
それはシオリも共感できるものでしょう。
しかしサクマさんは未来に何も残せない。
本人は少なくともそう感じているようです。
実際にはサクマさんはロータ・ロバリーで何かを残すことは出来るでしょう。しかし、それで納得できるならサクマさんはここまで苦しみません。
サクマさんが重ねた人生、サクマさんの親が重ねた人生、サクマさんの子が生まれたら重ねるであろう人生――それを育んだ、国、社会、星……それらは全て無意味だったと言われれば、人はどう受け取るでしょうか。
人によっては、自分はどうせ寿命で死ぬから未来は関係ないと言えるでしょう。
或いは、そんな難しい事は考えていない。
或いは、こちらの星で残したものが地球の証だ。
或いは……或いは……。
今のサクマさんはその一つに辿り着き、どうしようもなく動かせないでいる。
それだけ、サクマさんにとって地球という世界は大きかったのでしょう。
それは当たり前のことです。
ヒトがヒトを何者か考えたとき、名前を尋ねます。
名前とはそのヒトの国家、土地、文化が反映されたものです。
しかも、筆記で伝えるなら文字、言葉で伝えるなら言語が必要です。
価値観も、仕事も、物事の意義も、誰もが当たり前に行なっている己は何者かを証明する手段は、全て世界に依存しています。
もしシオリが異なる星に行ったとして、何が出来るでしょうか。
サクマさんは翻訳などの力がありましたが、シオリにそんな特別なものはありません。
仮に言葉や文字を覚えられたとして、その世界にはギルドも姉も同僚も何も受け継がれるものがなく、ただ魔物との戦いにヒトは敗北して太古の昔に消滅しましたと言われたら……もしも、シオリが生まれてから今に至るまでにやってきた行動が無意味だったと思ってしまったら……。
かえりたい、と、思うのではないでしょうか。
――地球に戻り、未来を変えようという訳にはいかないんですか?
その言葉にサクマさんはびくりと肩を跳ねさせ、そして震える手で顔を覆いました。
「駄目なんだよ、シオリ……それは、駄目なんだ……」
――よければ、理由を教えてくれませんか?
「シオリは未来と過去の関係を分かってねぇ。過去が変われば未来も変わる……もし俺が過去を変えようとすることで歴史の歪みが生まれ、それを修正するために世界が俺を排除したら? そもそも修正不可能だったら? それだけじゃない、もっと大きな問題だってある……」
サクマさんは震える声で、顔を覆う手をどけてこちらを見ました。
「地球とロータ・ロバリーの文明には関係がある。きっと地球から持ち込まれている。もし歴史が変われば地球とロータ・ロバリーの関係が変わり、ロータ・ロバリーの未来も変わるんだぞ。タイムパラドックスだ……」
その目には、大粒の涙が浮かんでいました。
「変わらない未来と変わる未来は矛盾し、片方が消える。お前ら全員、存在した事実ごと消えるかもしれねぇんだぞ……ロータ・ロバリーを全部犠牲にしてだぞッ!! ボタンの掛け違い一つで、お前を、セツナを、ニーベルたちを存在諸共消滅させて、ここを犠牲に助かるかどうかも分かんねぇ故郷を救えってのか……? 俺がそれをするのかッ!?」
そんなこと、シオリには分かりっこありません。
いや、そもそもそれはヒトが背負うには余りにも大きすぎて――。
「で、出来ねぇよ……出来ねぇよぉ……お、ぁぁ……!」
嗚呼、と。
結局のところ――サクマさんはどこまでも誰かを見捨てる事の出来ない人なのだ、と、シオリは静かに泣く彼をそう評しました。
ならば、出来ることはもうこれくらいしかありません。
シオリはサクマさんの身体を抱いて、言いました。
――そんな大切な事を一人で抱えて、辛かったんですね。
――いいんです。辛いときは辛いと言っても。
――サクマさんはきっと、その悩みが重すぎて人を巻き込みなくなかったんです。
――でもね、サクマさん。私はこう思うんです。
――この世界に沢山のヒトがいるのは、沢山の幸せと同時に沢山の悩みや苦しみを分かち合い、今を乗り越えていくためじゃないかなって、思うんです。
ギルド受付は欲望と悩み、問題の集合体です。
ギルドは冒険者と依頼者の主張に折り合いをつけ、バランスを取らなければなりません。
それぞれが責務を全うすることで、やっち社会の問題が一つずつ解決します。
それはとても緩慢な動きで、大局的ではない影響なのかもしれませんが、同時にここでは一つの事実が厳然と存在します。
――ギルドの依頼は、やって欲しい人とやりたい人と、それを繋ぐ人がいて成立します。
――誰か一人でも参加していなければ、問題は解決しないんです。
――だから、ねぇ、サクマさん。
――独りで答えを出そうとせずに、話してくれてありがとうございます。
問題を解決することが相談役の仕事ではありません。
相談を持ち掛けてきた人の心が孤独にならないよう、きちんと話を聞いてあげることが真に全うすべき役割です。だから、受付嬢の役割を全うさせてくれたサクマさんには、感謝の言葉を贈る。
それがシオリなりの受付嬢のテッソクです。
サクマさんは瞳からぼろぼろと大粒の涙を流しながら嗚咽を堪えていました。
「お前……お前……! 俺、最低な奴なのに……なんでそんなに優しく出来んだよぉ……ッ!!」
サクマさんはシオリの身体に縋るように抱き着きます。
それは抱擁と呼ぶには余りにも情けなくて、弱々しくて。
決壊した感情は止めどなく、彼は暫くシオリの手の中で啜り泣き続けました。
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