第103話 受付嬢ちゃんへ見せつける
夜の宿屋、二つのベッドに座る男女がいた。
ニーベルとサーヤだ。
ニーベルは自称サーヤの愛読書である古いエレミア経典を読んでいた。
最初は本当に彼女の愛読書なのか疑ったが、読んでみると彼女が必死に読み込んだ形跡が微かに感じられる。しかも、この経典は数々の編纂を加えられた今の経典ではなくかなり古い経典で、経典に詳しいニーベルでさえ興味深い記述をたまに見つけることがあった。
彼女は軽薄な態度に反して本当に信心深い。
手紙を読んでニヤニヤしている隣の彼女とは別人のように思える。
彼女は冒険者としてそこそこ稼いでいる筈なのに、稼いだ金をどこかに定期的に送っては数日後に手紙を受け取ってああしてにやついている。失礼を承知で一度内容を見させて貰ったが、そこには仕送りへの感謝ともっと顔を出して欲しいといった旨が子供の丸っこく崩れた文字で書き込まれていた。
彼女の性根が善人であることを、ニーベルはよく知っている。
同時に、彼女が何かに対して底知れない憎しみを抱いていることも知っている。
でなければ一年前のあの日――大火で阿鼻叫喚に包まれたペルグラントをああも大口を開けて嗤う筈がない。
空が紅蓮に光り火の粉が舞う中、彼女は両手を広げて狂ったように嗤っていたのだ。
自らがつけた火に炙られて絶叫する人々の声に酔いしれるように。
ニーベルはそれでも尚、彼女を善人と断じる。
だが、主義の異なる善人同士は長く一緒には過ごせない。
「君は、いつまでこうしてるつもりなんだ?」
◇ ◆
不意にニーベルに問いかけられたサーヤは、手紙から目を外す。
「なによ、急に。先にシャワー浴びてこいっての? やらしっ」
「君はいつまで
「……」
サーヤはその問いかけが真剣なものであることを悟る。
ニーベルは、ギルド内でサーヤの秘めたる真実を唯一知っている人間だ。
彼は恐らくそのことを親友のサクマにさえ言っていない。
その理由はサーヤには判然としないが、それは彼なりの信念に基づいた何かではあるのだろう。
「似合わないとか心外なこと言うわぁ。それとも私は前の仕事をしてるべきだとでも言いたいワケ?」
「いや――今の仕事を続けた方がまだマシだ。俺がしたいのは前の話じゃない、後の話だ」
「……先の事なんか分からないわよ。アタシもアンタもそういう職種でしょ?」
「しかし君はフリーランスではない。表向きそうでも、主君は一人に定めている」
「それは……」
確信を突く言葉に、喉が詰まるような感覚を覚える。
そう、今のサーヤは嘘っぱちだ。
顔も知らない誰かのために働くのはあまりいい気がしていない。
実入りはいいが、この仕事を始めてから随分窮屈な生活になった思う。
しかし、サーヤは心のどこかで今という立場、時間を愛おしく思っている。
それは、束の間の逃避であっても過去を忘れて気楽に振る舞えるからだ。
ニーベルはその時間に触れているように思えた。
「腐れ縁と思いながらこれまで俺は君を監視してきた。手っ取り早い手段も考えたが、君の善意と真意の境界線は曖昧だった。どっちが君の顔か分からなかった」
「……」
「どっちも、なんじゃないか。君は揺れ動いている」
「……知らね。急にマジっぽいこと言っちゃってキモいっつの」
反射的に吐いた悪態には力が籠もらず、自らの演技力の低さに辟易する。
ニーベルのような敏い男相手では、本心を知られたも同然だった。
「どっちに転がっても俺は転がった方に動く。君もいい加減、どっちつかずではいられないんじゃないか?」
「だとしてお前に関係あるかよ」
「今度こそ本気で戦う事になったらどうする。君は俺を殺せるのか?」
「ッ!!」
余りにもあっさりと、しかし明瞭な意思を以てニーベルは問う。
もし、そうなったとき、サーヤは――。
(――……)
葛藤は、ある。
しかし真実を知った時に葛藤するのは自分だけか。
サーヤはそうではないとも感じている。
「お前はどうなんだよ……」
「俺は迷わないよ」
「ホントかぁ? アタシ以外の身近な人が絶対に相容れない存在だったと後から知っても、同じこと言えるのか?」
「何を言って……?」
「どうなんだよ!! 人にばっかポンポン聞きまくりやがって、アンタはどうなんだッ!! 戦いたくない奴と戦わないといけなくなった時、迷わないって言えるのかよッ!!」
何故自分ばかり葛藤しなければならないのかという苦しみを込めた八つ当たりに、ニーベルは暫く言葉を失った。
心から漏れ出した激情に、サーヤはまた自己嫌悪する。
これでは自分と同じ苦しみも周囲も味わえばいいと願っていたあの頃のようだ。
ニーベルはしばしの沈黙の末、答える。
「相容れるよう折り合いを探すよ。全力で、全力で……その果てに結論が一つしかないのであれば、それが天命と従う。だが、もし納得が出来ず、そして微かにでも他の道があるのであれば……俺はきっと、そこに全てを懸けるだろう」
「綺麗ごとだ。お前らアーリアル歴王国の連中は皆最初は綺麗ごとから入る。でも続けていけば建前と本音の折り合いが悪くてボロが出てくる。お前がその時を迎えたとき、どんな面してるか……」
「なら君が見届けてくれるかい?」
「……アタシ、アンタのこと嫌い」
「君に好かれたくて生きちゃいないよ」
サーヤはニーベルの真っすぐさが大嫌いだ。
ニーベルが近くにいるだけでいつも余計なことばかり考えさせられる。
真っすぐに考えられない自分が惨めに思え、文句をぶつけ、それでも真っすぐなニーベルが嫌いだ。
サーヤはニーベルの甘さが嫌いだ。
もっと非情で卑劣で、ヒトをヒトと思わない非道な連中を見てきた。
その集団の中からニーベルは生まれた。
なのにニーベルはどこまでも甘く、それがサーヤの心をざわめかせる。
「嫌い……」
「……まぁ、いいか。確かに急に変な話をしてしまったしね」
そうやって、訣別の時はまだ先だと思っている。
思い込んで遠ざけている。
(だからアンタは甘くて、そして、真っすぐなんだ)
と――サクマとセツナのいる筈の隣部屋がにわかに騒がしくなる。
『大人しくしなさいサクマ! 大丈夫、後でセツナも一緒に可愛がってあげるから! そーれっ!!』
『セツナだけは、セツナだけには手を出さないで! アァァーーーーー!!』
『キュッキュッキュッ』
『シラユキ、嬉しそう。シェリアも嬉しそう。でも、もう眠い……みゅぅ……』
「……何してるんだあの二人は」
あられもない声に目頭を抑えてため息をつくニーベル。
サーヤもなんだか悩んでいるのがバカらしくなり、神秘術で隣の部屋の音だけシャットアウトするとそのまま寝ることにした。
◇ ◆
「今更ながら」
何故か室内なのに耳までかぶさる冬用帽子をかぶったサクマさんが朝食中に口を開く。
「この国、神秘の消費量がパないみたいだけど、魔科学はマナの枯渇を招く的な何某はないだろうな……?」
唐突な問いかけにグラキオちゃんが律儀に応対します。
「神秘の枯渇か? さぁの。地祀神殿で絶え間なく空に放たれる神秘をほんの少し借りておるだけだから、大気中の神秘濃度は変わっとらん。それに、消費が激しいのは冬だけじゃ」
「つまりちゃんと調べとかないことには不明かぁ……」
神秘の枯渇とはまたマニアックな議題だとシオリは思いました。
大量の神秘が一瞬で消費されたとき、その空間は一時的に神秘が枯渇します。
その間、その空間で神秘は使うことが出来ません。
また、継続的に神秘が大量に消費されている場合、周辺に存在する生物にも悪影響が出ることが懸念されています。
今までは机上の空論扱いでしたが、魔将ネイアンの戦いの後に残された死の荒野を見るとあながちバカにもできません。
もし神秘が有限のものであるならば、魔物や魔将みたいな途方もない神秘の塊が出てきて大量に神秘が消費されたはずの退魔戦役で荒廃した土地がなかなか再生せず神殿による回復を待っているのにも納得がいきます。
とはいえ、この手の議論はモニカちゃんとファブリスさん、フェルシュトナーダさん辺りを交えて私的に行なった方がいいのではないでしょうか。
「……だな」
サクマさんは今議論しても仕方ないと納得しました。
ところでサクマさん、どうして耳まで覆うほどの冬帽子を被っているのですか?
いくらエドマ氷国連合が寒いと言っても室内は道路下の暖気システムから温度を貰っているので快適な温度だと思いますが。
「……」
サクマさんは渋くてどこかげんなりした顔で周囲を見回し、自分たち以外ここに視線が注目していない事を確認すると慎重に帽子ずらし、耳を露出させました。
サクマさんの両耳には、くっきりとした無数の歯形が歯並びよく刻まれていました。
「隣の二人に、噛まれた」
それだけ言うとサクマさんは耳を隠します。
両隣のシェリアちゃんとセツナちゃんがてへっと舌を出して頭を掻きます。
「エーフィム式の求愛なの。エーフィムって耳が長いでしょ? だから耳を触られるのって限られた気を許した人だけなの。そこを噛む。で、相手も噛んでくれたら相思相愛って訳。噛んでくれてもいいんだけどなー」
わざとらしく首を傾げながら自分の耳をサクマさんの方に向けるシェリアちゃん。
シオリも次第に昨日の話を思い出してきて、積極的過ぎるシェリアちゃんに赤面します。
あんなにぐいぐい行くなんて、シェリアちゃんくらいの美女でなければ許されない所業です。
あとセツナちゃんはノリで真似して噛んだようです。シオリにもしてほしい。
しかしサクマさん。貴方程の術者なら治癒できるのでは?
「した側からまた噛まれて痛い」
し、障壁を貼れば……。
「そしたらシェリアとセツナの歯と顎にダメージが……」
嫌って言いましょうよ。
「嫌って言ってもシェリアが悪代官ムーブするもん。シオリおめーセツナに可愛く『噛ませてっ♪』って言われて我慢できるのかよォ!!」
無理ですね。
「ダルォ!? そうダルゥオ!?」
「いや、これは完全に聞いた相手が特殊なだけだろサクマ」
「こーゆーときシオリってマジでブレないよねー」
そんなこと言ってるお二人ですが、若い男女が部屋で二人きり。
ニーベルとサーヤさんの間でも何か起きたのではないですか?
実はその上着をめくったらキスマークが残ってるとか。
「「そういう関係じゃないっ!!」」
二人揃って仲良く反応するのが実にアヤシイ。
今日のシオリは仕事外では目に付くすべての色恋沙汰に噛みつく年ごろ乙女モンスターです。
「俺もちょっとその辺気になるぞニーベル。自分から女の子を部屋に連れ込むとかお前らしからぬ肉食ムーブなんでちょっと気になってた」
「君までっ!?」
「友達以上恋人未満の関係ってなんだかロマンじゃない?」
「シェリアぁ!? 何でアタシとコイツがソーイウ関係だってこと前提で話してんの!?」
こうしてシオリたちは随分と姦しい会話を暫く続けました。
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