第29話 受付嬢ちゃんがピンチ

 デクレンスはシオリの耳元に口を近づけ、悪魔のように囁きます。


「君は女神エレミアを篤く信仰しているかな?」


 ――そういう貴方はどうなのですか?


「しているとも。微塵の後ろめたさもなく、一部の躊躇いもなく、私は女神が銘じれば心臓を捧げることも辞さない」


 ――女神は貴方の心臓なんて欲しくないと思います。


「まさにその通りだ。慈悲深き女神はあらゆる野蛮な行いを肯定しない。しかし、神が望まずとも神の望みの為に殉じる覚悟を持った人間がこの世界には存在する」


 デクレンスの言葉を聞き、シオリは脳裏に過るものがあり、今までとは異なる冷汗を流しました。


 ――まさか、『異端宗派ステュアート』!!


「そう……世界は気付いてない。我らこそが真の信仰者であることを!!」


 完全に見えない何かに陶酔したデクレンスの瞳の輝きの正体に思い当たったシオリは戦慄しました。


 女神エレミアは、世界最大宗派で誰もが知っていて当たり前、信仰して当たり前のエレミア教の主神です。その教えは世界中に深く根付いており、あらゆる法律や文化の基礎として人々の心の安寧を支えています。

 世界が何度滅び描けても人々が立ち直れたのは、不滅の信仰があったからと言う人もいますが、それが大げさとは言い切れないほどエレミア信仰は世界になくてはならない心の寄る辺です。


 しかし、エレミア教に殉じる者は誰もが社会規範に従っている訳ではありません。


 あるとき、エレミア教を余りにも深く信じすぎるが故に、女神の教えに即していない現実のあらゆる不義に制裁を加えると宣言した宗派が生まれました。


 彼らはエレミア教の聖地から多数の聖遺物を奪取し、世界各地で過激なテロ活動を始めました。幾人ものヒトが、魔物ではなくヒトの手で死に、失い、涙を流しました。


 それが、長い世界の歴史の中でただ一度だけエレミア教を信じながらエレミア教に拒絶された者たち、『異端宗派ステュアート』の興りとされています。


 彼らは言うならば、この世界――ロータ・ロバリーにおける絶対悪。

 あらゆる国家、あらゆる種族、あらゆる組織にとって許容することの出来ない、しかも退魔戦役さえ乗り越えて今なお厄災を振ります最低最悪の犯罪組織なのです。


 デクレンスは今までより饒舌に、杖を手に身勝手に独白します。


「今回はテストのつもりだったが、やはりエレミア様の慧眼は素晴らしい! こんなにも新たなる可能性が世界に芽吹いているのだから! シオリくん、これは大変名誉なことだ! 心配ない、私が皆を説得して必ずや神の御許に君を連れて行く! 君はそこで知る!! 真実を!! 世界の、あるべき姿をッ!!」


 このとき、シオリの胸中を渦巻いたもの。

 それは、純然たる恐怖でした。

 二度と戻る事の出来ない破滅の門が開き、引きずり込まれようとしている。


 行き先に待っているのは無秩序な犯罪と狂信が生み出す地獄か。

 或いは自分を喪失するほどの狂気に晒され、嘗ての自分すら忘れて神に万歳と叫ぶ天国か。

 どちらにせよ、そこに行けばシオリはもう戻れない。

 皆のところに、家族のところに、ギルドに戻れなくなる。


 ――いやっ!!


 シオリは恐怖から、反射的に拒絶の言葉を放ったが、デクレンスはそれすら信仰を知らぬが故の拒否だとばかりに全てを受け入れた笑みで口元を吊り上げる。


「なに、『アップデート』なんて無粋な真似はしないさ! ただ少し、そう少し――私は真なる信仰の道案内をするに過ぎない!!」


 デクレンスがカツンッ! と、杖の先端を地面に打ち鳴らしました。その瞬間、今まで木製か何かだと思っていた杖が螺旋の形にはらはらとほどけ、見たこともない雅で上質な帯に姿を変えました。


「『アロディータの宝帯ほうたい』、開帳!! この帯の支配の魔性にしばし酔いしれるといい!!」


 シオリはその帯を見た瞬間、脳が揺さぶられるような衝動に襲われます。


 魂が惹かれている。

 ただの布である筈の、あの帯に。


 帯の艶めかしいまでの美しさを直視していると、シオリのこれまでの善意、シェリアさんのこと、敵意や恐怖、自己という存在が塗り替えられることへの絶叫したくなる忌避感までもが薄れていきます。

 薄れていくという事実がどうしようもなく怖い筈なのに、その意志すら捻じ曲げてどうしようもなく魅了されていきます。


 ああ、駄目です。このままでは、このままでは――。


 脳裏に今まで世話になったあらゆる人々の顔が過っていきます。

 親代わりとしてもずっと面倒を見てくれたお姉ちゃん。ギルドの先輩たち、同僚たち。担当した冒険者さんたち――サクマさん、グラキオちゃん、ブラッドリーさん――。


「それ以上、何もさせん」


 直後、ズバァァァァァンッ!! と、凄まじい音を立ててドアが突き破られました。

 破壊されたドアの破片が勢いのままデクレンスに迫り、彼はあの美しい帯を咄嗟に回転させて弾きます。ドアの先にあるのは抱えることさえ困難なほどの大剣です。


 その切っ先を目で追っていくと、先にいたのは――ギルド最強、ブラッドリーさんです!


「くっ、何故ここが!?」

「問答無用」


 彼の鋭い眼光は、シオリが初めて見る彼の感情――怒りを湛えていました。

 ブラッドリーさんは入り口から一瞬で部屋に踏み込み、剣で斬るのではなく剣の腹を用いてデクレンスに強烈な体当たりを浴びせます。足下が陥没するほどの凄まじい踏み込みの深さと膂力から繰り出される破壊力は絶大で、デクレンスは帯を不思議な術で操ってガードしたにも拘わらず弾き飛ばされて壁に激突しました。

 壁に放射線上の日々が入り、デクレンスが身体をくの字に曲げて吐血します。


「がはっ――ッ!! が、ガード越しの衝撃だけで……貴様、この化け物がぁ!! どうやってここを嗅ぎつけた!!」

「教える道理もなし。ここに沈め、外道」

「誰がッ!! 主よ、慈悲トレデキムの下に跳躍の奇跡をッ!!」


 全く躊躇のない大剣の一閃がデクレンスさんに命中するか否か――そのタイミングで、突然デクレンスの姿が掻き消えました。

 ブラッドリーさんの剣が空振って床を大きく破砕します。暫く周囲を注意深く警戒した彼は剣を仕舞いました。代わりに短剣を取り出し、シオリの背後に回ってロープを切っていきます。


「……奴はどうやってか逃げ出したようだ。体に傷はないか? 何かされなかったか?」


 大丈夫です、と震える声で返します。

 それが精一杯でした。

 後れて、グラキオちゃんが部屋に駆け込んできます。


「シオリ、無事か!! 乱暴狼藉などされておるまいな!? おぬしに何かあったら妾は、妾は……!」


 目に一杯の涙を湛えたグラキオちゃんは次の瞬間「泣いてない!」と叫んで袖で目を拭き、シオリに駆け寄って無事を確かめるようにぎゅっと抱きつきます。


「心配したんだぞ、莫迦者ぉ……」

「……匿名の通報で、ギルド職員が何者かに攫われたとあった。ギルドの外に出ているのはお前だけ。そして、レジーナが『シオリはこの店について調べていた』と言い、そこからデクレンスの存在が浮かび上がって奴の根城を一斉に捜索していた」


 ――それで、飛んで駆け付けて……来てくれたんですか。


「当たり前じゃ! そこの唐変木はともかく、このグラキオ、受けた恩は必ず返すのじゃあ!!」

「……ニーベルとサクマも手伝って、奴らはデクレンスの工房と思われる方へ、俺はこちらへ。他にも何人か動いたが、最悪の事態は……免れた、か?」


 攫われ、拘束されたせいか体がふらついたのをグラキオちゃんがひしっと受け止めて支えてくれます。

 そのグラキオちゃんの感極まった顔とブラッドリーさんの心底ほっとした顔を見て、やっと自分が助かったのだと認識した瞬間、これまでに感じた様々な感情の抑えが利かなくなりました。


 我慢できず、シオリはグラキオちゃんに抱かれたままブラッドリーさんの鎧に覆われた胸に抱き着いて泣きました。

 ブラッドリーさんは、優しくシオリの背中を擦ってくれます。


「……よく、いままで我慢したな」


 本当に、怖かったのです。

 少しだけ粗相もしてしまいました。

 もう、こんな恐ろしい思いは二度としたくないと、シオリは心底思いました。

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