散歩に行こう、雨になるまで待って
ちーすけ
***
午後六時には降水確率、九〇パーセント。雷の予報さえあった。
だから飲み仲間から誘われた競馬には行かなかった。
彼は酒癖も相当に悪いが、ギャンブルに対しても随分質が悪かった。興奮すれば雨など気にもせず疾走する馬に向かって「差せ」だとかなんだとか怒鳴り声をあげるような男だ。根は悪い奴ではないが、雨の日とは相性が悪い。
なにも天気予報を気にするのはスーツが濡れることを嫌う会社勤めの人間だけじゃない。無職の甲斐性なしの人間だって雨に濡れるのはいやなのだ。
午後五時四七分。
パチンコ店の自動ドアを抜ける。夏そのものと呼んでも差し支えないむわりとした空気が効きすぎた冷房で冷やされた身体を包んだ。じとりとした気怠げな空気には強い雨の匂いが絡んでいる。
自動ドアの側に設えられた傘立てには夕立ばかりの季節の所為か明らかに店内にいた客の人数よりも多く傘が無造作に立てられていた。
駅前を営業帰りであろうサラリーマンもおそらく夕食の買い出しを終えた主婦も肌に纏わりつくような空気を煩わしがるように険しい表情をして歩いていたが、俺は夏の気怠い微熱を帯びた空気が嫌いではなかった。
コンビニエンスストアに入り、チューハイを一本購入する。
駐車場で買ったばかりのアイスキャンディに齧り付いている男子高校生たちだけが夏の夕暮れを謳歌していたが、彼らがあまりにも俺の居る場所から遠く離れたところに居ることは明白だった。まともな大人の暮らしとは夏の夕暮れを煩わしく思うことなのだろうと思う。
降水確率、九〇パーセント。
空は灰色をした雲に覆われていて、それがきっと「九〇パーセント」のそれなのだろう。
雨が降り出す前に部屋には帰ることの出来る距離だったが、坂の上にある公園に向かう。少しの雨なら凌ぐことの出来る趣味の悪いピエロの顔だけを象った錆びた遊具がある公園だ。
公園に着く頃には降水確率九〇パーセントと予報された午後六時を少し過ぎたあたりになるだろう。
「お医者さまってのは天気予報を見ないものなんですか?」
錆びた遊具の屋根を打つ凛とした雨音に野暮ったい鈍いビニールを打つ雨音が混じったから、地面に落ちていた煙草の吸い殻を意味もなく見詰めていた視線を持ちあげれば遊具の前にビニール傘をさした男が立っていた。
白衣姿など想像も出来ないのだが、彼は医師なのだという。彼が相手にする患者は俺のような呑んだくれなどではなく、正しく真面目に生きていながら不運にも病に侵され、そして病に立ち向かい懸命に生きている人たちなのだから俺には彼の医師としての姿が全く想像もつかないのかもしれない。実際、彼は俺が蹲っている場所から遠く離れたところに立っている人間だ。
「雨の日にお散歩だなんて」
「傘も持ってない無職のアルコール依存性の男にとやかく言われたくない」
彼は趣味の悪い遊具の中で縮こまっている俺を真っ直ぐに見下ろしているというのに、俺から喋りかけなければ口を開こうとしない。そして口を開いたかと思えば、随分ぶすりとした愛想のない声で言葉選びも乱暴なのだ。やはり医師とは思えない。
「無職のアルコール依存性の男だって天気予報は見ますよ。雨に濡れるのはいやですもん」
傍らに置いていたチューハイの缶に彼が視線を滑らせたから、手遊びをするかのように爪で缶のプルトップを引っ掻いた。彼の表情がわずかに歪む。カチカチと鳴る音に安堵とも興奮ともつかない言いようのない熱がじわじわと胸のあたりを満たしていく。
「傘はね、パチンコ屋で誰かに持っていかれたんです。悪い人が居たもんですよ。こっちはアルバイトをクビになってビニール傘を買うお金だってないのに」
「シアナマイドは?」
「今朝飲みましたよ? 酒飲んで地面のたうち回ることになってもあなたが救急車を呼んでくれるだろうから」
彼は俺を真正面から見詰めて、今度はあからさまに顔を歪めた。彼は雨の中、坂の上の公園までやって来て必ず顔を歪めることになる。考えようによっては顔を歪めるために雨の中、公園にやって来ているようなものだった。
「一滴でも飲んだらすぐに部屋から叩き出す。二度と部屋に入れない」
「もう飲みません。約束します。断酒宣言」
彼の望む言葉を口にしたはずなのに彼の表情はさらに歪んだ。けれども、俺は彼の表情がもっと歪む瞬間を知っていた。
言葉が意味をなくしてしまう程に——実際もう意味などないのかもしれない——「ごめんなさい」「捨てないで」「お願い」と呂律の回らない声で繰り返す俺の歪んだ視界の中の歪んだ彼。子どもみたいに泣き噦る俺の後頭部を捕らえる手のひらはどうしてかアルコールが充満した身体よりも熱くて、俺はさらにどうしようもなく泣き噦ってしまう。それを今迄何度繰り返しただろうか。
「ねえ、せっかくだからもう少し散歩していきましょうよ。高台をぐるっと回って街の景色を眺めたりなんかして」
「馬鹿言うな、雨が降ってるんだぞ」
「ケチだなあ。雨の中散歩に出て来たくせに」
「文句があるならおいていくぞ、はやくしろ」
彼はすぐに俺に背を向けて歩き出してしまう。彼の白いスニーカーは泥水に濡れていて心底馬鹿げていると思うし、心底彼のことを理解出来ないと思う。
「怒らないで。待ってくださいよ」
彼の名前を呼ぼうとしてやめる。名前を呼んで、それから彼に問いかけることの出来る言葉など俺にはない。
ねえ。あなたは雨が降るまで待って、傘をさして散歩に出掛けたのでしょうか。
俺はあなたを待って、傘も持たずに散歩に出掛けたのでしょうか。
彼がやって来るから俺は雨の降る公園に居るのか、俺が居るから彼が雨の降る公園にやって来るのか、もうわからなくなってしまっていた。俺たちは雨になるまで待って、散歩に出掛ける。
彼の背中に追いつけば、ビニール傘が俺のほうに向かって傾けられた。彼の右肩に雨が落ち、音もなくシャツに染みていく。それを「優しさ」だなんて呼んではほしくなかった。それが優しさだとしたなら、シアナマイドを服用したあとに酒を口にしたときのように俺は息ができなくなるだろう。熱く苦しい動悸と眩暈と吐き気。
坂の上から臨む雨に濡れそぼった街はどこかぼんやりと曖昧で誰にでも等しく薄情な程に優しく感じる。
雨は明日の明け方まで降り続く予報だった。雨が止むまで待って、俺はきっと彼を裏切ってしまう。
散歩に行こう、雨になるまで待って ちーすけ @chi94
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