パネル絵を見て

加藤の背丈は僕の眼の高さほどしかなくて、線の細いなめらかな髪がつむじから流れているのが視界の脇にうつる。

右隣でゆっくり歩く加藤が数メートル先の床に視線を向けながら、ぼそぼそとつぶやく。

僕はそれにあわせて小さめの歩幅で歩く。


「男子の人は……面白がってる人多いみたいだけど、女子はあんまり気に入ってない人も多くて……」


やはりそうなのか。朝以外誰もこの話をしなくなったから、よくわからなかった。


「もちろん勝手に落書きしたのは悪いけど、本番まで一週間しかないし……。それにそこまでひどくなかったから、今回は水に流してもいいと思うのよね……わたしは」


男子のなかには面白ければそれでいいと思っている人もいるみたいだが、だからといって無かったことにできないと思う人も多いだろう。立華やパネル絵女子みたいにラインで怒りのコメントを残さなくても、納得していない気持ちであるというのは僕にもわかる。むしろそれが普通だ。だから加藤の言葉は意外だった。

普段は立華たち明るい女子と一緒にいることが多く本心を見せることはあまりない加藤が、今回の件では立華とは意を異にしているのか。

僕は自分でもわからないけど、なにか励ましてあげなければいけないと思って言葉を探す。


廊下と壁の境目に、いつも掃除がいい加減に行われているからか、ほこりが溜まっている。


「寺木君はどう思う?」

「……僕も、加藤さんと一緒かもしれない」


通り過ぎるどの教室からも、昼休みだからと大騒ぎする生徒たちの声がすりガラス越しに聞こえてくる。

僕は右を歩く加藤の顔を見ようと、横目を振る。

毛先と対照的につむじから下りた、曲がりの少ないまっすぐな黒髪からわずかに耳をのぞかせ、両手を胸の前で握りしめて、そのこぶしから大事なものがこぼれ落ちていかないか心配するように力なく、それでも離さまいと優しく包んでいる。

廊下の床に踏み込む足がいつもよりわずかばかり滑る感触を覚えて、僕は丁寧に足を運んだ。



僕と加藤はピロティ―へ行って、おいてあるパネル絵を眺め——そこではあまり何も話さすことなく——、教室へ戻った。



途中屋内に戻るとき侘実と鉢合わせた。

侘実もパネル絵を見に行こうとしていたようで、口をきりっと閉じてすたすたと歩いてくる。少し遠くの正面に視線を定めていて、こちらに気づかなかったらしい。

加藤に声をかけられ、はっと眉を上げ僕たち二人に顔を向けた。


「侘実ちゃん」

「——加藤さん」

「今見てきたけど一応絵にはなってたよ」

「そう。私も昨日はどうなることかと思ったけど、ならよかった」


侘実は頷く。整然と長くのばした髪が揺れる。


「ただ、立華さんたちのように納得してない人も多いから、クラスが二分してしまわないか心配してる。佐々木君も今日○○君に声かけてたけど、○○君不貞腐れるばかりで話そうとしないのよね……」


いたずら男子は午前中ずっと机に突っ伏していた。あいつの周りだけ空気の澱みが磁場のギザギザした写真のように目に見える気がして、佐々木以外誰も話しかけられていなかった。


「佐々木君、立華ちゃんとか○○ちゃんにも説得してくれてるけど、ずっと負担かかりっぱなし……」


加藤が小さな声で言う。二人は眼を合わせて同時に視線を落とす。


「寺木君も佐々木君のことフォローしてあげてほしいな。ほかの男子はなにもトラブル起きてると思ってなさそうだし」

「わかったよ」


侘実に毅然と述べられて、僕は了承した。


「たぶん佐々木君も寺木君のこと頼りにしてると思う」


加藤が僕を見上げ、つぶらな瞳にうつる白い鏡から溢れたガラス玉が揺れる。加藤の言葉が空中に散乱して、窓から吹き込む冷たい風と共に去ってゆく。


————僕、——のこと頼りに




昨日通話がかかってきてやっと気づいた。友人としてずっと佐々木と仲良くしてきたつもりだったのに、わざわざ自分に言葉を求めるくらい追い詰められていたことに気が付けなかった。

僕がただ言われるままにパネルに色を付けている間、佐々木は知らないところでいろんな人に指示を出して、いろんな人に気を配っていたのだ。団長だから当然みんなを引っ張っていく責任はある。それでも部活も忙しく体育祭ともどちらにも注力しないといけないなかで、誰にでも愛想よくいつも朗らかに振る舞って、文句を垂らす男子たちにも対応して、ここまできちんと役目を果たしてきたことは、決して今の自分には到底できないだろう。

もし大人になって社会人になったって僕はそれができる姿が浮かばない。それを佐々木は高校生のうちから一人前にこなしているのだ。

あんなに悩みがなさそうに見えても、同じ人間であるからには僕と同じく悩むことはあるに決まっている。僕は自分一人が悩んでばかりいると思い込み、誰かに手を伸ばすということから逃げていたのかもしれない。


手を握ろうとして拒絶され弾かれるんじゃないかと怖くて、大きくもない体の内側にいろんなものを押し込めてきた。

自分ではそれを宝石だと思い込んでいたガラクタたちが一杯いっぱいになった僕の身体は、それらを吐き出す場所を求めて、じゅうぶんさまよい歩いた。

もうそれは破けてしまってもいいんじゃないか————佐々木と通話してそう思えた。

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