第7話 罪の印


「––––うわぁあああああん! うわぁああんっ!」


 陸堂渚沙は幼少の頃、同世代の男の子に嫌がらせをよく受けていた。渚沙をからかっていた男の子に悪気はなく、特段そうする理由もないが単純に楽しいからだと、当時は言っていた。

 渚沙は気が小さいこともあり、反抗されないと味をしめた男の子たちは、面白半分でからかうことをやめなかった。

 もちろん学校だったら先生や友達が守ってくれたりしたけれど、放課後だとそうもいかない。

 例えば公園で遊んでいる時。

 例えば下校中の時。

 ひとりでいる時は大抵、からかわれたら泣くだけで、近くにいる人は誰も助けてくれなかった。

 でも。

 渚沙には一人だけ、心強い味方がいたのだ。


「––––オレの妹になぁにしてくれてんだクソガキビチクソ丸共がぁあああああああ‼︎」


「「「ぎゃああああ! 逃げろ陸堂のアニキだぁ!」」」


 陸堂裕太。

 兄である彼だけは、渚沙がどんな場所でいじめられていても必ず駆けつけて助けてくれた。

 そう、それはまるで正義のヒーローのようだった。

 裕太は誰よりも強くて、みんなからはよく怖がられていた。誰も裕太には勝てなかった。

 だからだろう。

 兄である裕太には勝てないから、代わりに弱々しい妹をイジめて腹いせをしてやると考えていたのだ。

 それはそれで何ともまぁ二次被害を被っている訳ではあるが、渚沙は特段「兄のせい」にはしなかった。

 だって、裕太はどんな時でも助けてくれる。

 誰よりも強くて、頼りになる兄だから。

 渚沙がどんなことをしても、必ず許してくれた。

 味方になってくれた。

 裕太さえいれば。裕太だけ側にいてくれたら。裕太に理解してもらえれば。裕太さえ、裕太だけ、裕太には、裕太裕太裕太裕太裕太裕太裕太ゆうたゆうたゆうたゆうたゆうた裕太ユウタユウタユウタユウタユウタユウタゆうた裕太裕太裕太裕太裕太裕太お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん。


 ––––お兄ちゃんだけ愛していれば。



            2


 

 状況が裏返る。

 和解、とまでは言わないにしても互いに折り合いを付けた最良の終わりが、その状況下が一変する。

 前兆なんてなかった。

 予兆なんてなかった。

 前触れなんてなかった。

 こんなこと、一体どこの誰が予想できただろう。きっとそれが出来るのは、この世界を創り出し、人間を生み出した神様だけだ。

 もしも未来が視えたなら、こんな結末なんて絶対に回避していたはずだから。

「……はぁ、はぁ、はぁ」

 息が切れる。

 脳が現状を理解するのを拒んでいる。

 意味が分からないと、何かの間違いだと叫んでいる。

 鉄の匂い。

 ぬめりとした血の感触。

 目の前に広がる圧倒的な悪意による光景。

「……はぁ、はぁ、はぁっ。さき、ざき……っ。咲崎、しっかりしろ……ッ」

 咲崎美玲は、動かない。

 陸堂裕太が腕の中で抱える女性は、胸を抉られて大量の血を流したまま気を失っている。普通なら即死レベルの負傷だが、原罪者の身体はどこまでも規格外。奇跡的に息はある。しかしこのまま放って置けば間違いなく失血多量で死に至る。

 それまでに、美玲を病院に連れて行かなければ。

「あーぁ。その人はもうダメだねお兄ちゃん。血が沢山出てるもの。まぁ、当然といえば当然の結末なのかな? だって私のお兄ちゃんを傷つけたんだから。それ相応の報いを、罰を、罪を与えないとね」

 神々しいオーラを纏う少女が、見た目とは裏腹にドス黒い言葉を放っていた。

 見方によっては印象が変わるその姿。

 天使にも、悪魔にも、神にも、堕天にも見える美少女。

 陸堂渚沙。

 彼女は手に着いた血をペロリと舐めながら、美玲を抱える裕太を見た。その目は、いつもと変わらない妹の。その視線は、いつも通りの妹で。

「さ、お兄ちゃん。そんな人放って置いて早く家に帰ろう? 今日はお兄ちゃんの大好きなトンカツだよ♡」

「……なに、言ってんだ。お前、自分が何をしたのか分かってんのか……?」

 渚沙は可愛らしく首を横に傾いで、

「? 何をってなに? 私はただお兄ちゃんを迎えにきたんだよ? 悪い人からお兄ちゃんを助けにきたんだよ?」

「違う! そうじゃねぇ! そんなことしなくたっていい! お前は、今! 咲崎を殺そうとしただろうが!」

「違うよお兄ちゃん。殺そうとしたんじゃない。実際にもう殺した。その人はもうすぐ死ぬ。大体、それの何がいけないの? 悪い人は悪いことをしたんだから悪い人になるんだよ? だから殺されて当然なの。死に至るのは普通なの。胸を抉られるのは必然なの。そうでしょう?」

「……っ」 

 暴論も暴論。

 悪人に対してはとことん非情な法律みたいに、渚沙の言葉は実に冷え切っていた。存在自体が死刑宣告を具現化してるかのような、死の女神。皮肉にも、それは死神に思えた美玲と同質のモノでもあった。

 裕太の言葉が、何一つ届かない。

 というより、場にそぐわない態度や、渚沙らしくない発言と行動。素面の時、と表現したら変なのかもしれないが、いつもの渚沙だったら絶対に『殺す』などと言わない。

 そもそも。

 あの姿は何だ?

 どうして起きている?

「……ナギ。お前のその姿は、なんだ。何があったんだよ」

 裕太の疑問に、渚沙は平然と答える。

「何がも何もないよお兄ちゃん。さっきも言った通り、私はお兄ちゃんを助けにきただけ。それ以外の理由なんてこの世界には存在しないよ」

 話が通じない、なんて思考を妹との会話で芽生えさせるのは初めてだった。

 裕太が渚沙に訊いていたのは、そういうことではない。ただ純粋に、どうして『そうなったか』を訊いただけなのに、兄に対しての依存主張を回答として持ってくるのは何か違う。

 裕太は刻一刻と腕の中で命が消えていく美玲を意識しながら、慎重に言葉を放つ。何か一つでも間違えれば、取り返しのつかないことになるような気がした。

「お前が何を言いたいのかオレにはサッパリ分かんねぇ。でもな、オレはお前を『人殺し』にさせるように教育したつもりはねぇぞ」

「人殺しになるように育った記憶も私にはないよ。私は人を殺したくて殺したんじゃない。殺さなきゃいけないから殺しただけ」

「そんな考えをさせるように教育した記憶もねぇって言ってんだよ。オレがいつ、お前に人を殺せるように生きろって言った? オレがいつ、悪人は全員殺せって言った!」

 この世界において悪人は平等という天秤に置かれない。悪人は、犯罪者は、罪人は一般社会で蔑まれて嫌われて、人権の価値を下げられる。それは日本に限らず、世界各国に共通している無意識下のルール。

 確かに罪を犯すことは、ルールを破ることはよろしくない。良くないからには良くないなりの理由と原因がある。

 だが、一口に悪人だと切り捨てるのはあまりにも無情ではないだろうか? 悪人なんて救う価値はない。悪人なんてみんな一緒だ。悪人なんてやり直す必要はない。……そうやって手を離して、奈落の底に突き落とすだけが正解なんて、残酷すぎる。

 だから、そう思っている裕太は悪人が必ず死ななきゃいけないなんてルールを己の中で抱いちゃいないし肯定もしていない。

 実際、裕太は美玲を『ぶっ飛ばす』と処罰方法を叫んでいるだけで、『殺してやる』とは一言も言っていないのだ。

 故に、妹である渚沙にも裕太は自分の考えをある程度共用させていた。そうしなくちゃ、事故の時のように渚沙が異質になってしまう気がしたからだと、記憶を思い出した今なら思う。

 それなのに、この結果だ。

 失敗もいいところである。

「咲崎はお前を殺そうとした。それをオレは許すつもりはハナからねぇ。でもな。コイツにはコイツの理由があった。方法を間違えただけで、生まれてきたことを否定される謂れはないはずだ。殺される必要なんかどこにもないはずだ!」

「理由が正当なら人を殺してもいいの? 違うよお兄ちゃん。理由があるから人を殺すんだよ」

 さて。

 渚沙が今口にした自己中心的な言葉が、かつて美玲が彼女に言ったことだと陸堂裕太は気づけたか。

 立場が逆転、とはどこか違う。

 思いもよらない展開で、理解してほしくなかったことを渚沙が許容してしまう。美玲は出来ることなら渚沙を殺したくなかった。自分の妹のためにそうするしかなかったから、だからせめて楽に死なせようとした。自ら悪役を演じた。

 それは、渚沙をここまで追い込むことを想定していない。ここまで「堕とす」ことを作戦に組み込んでいない。

 兄と妹。

 互いに愛し合い、けれど意見が食い違う最悪の絵面が、完成してしまった瞬間だった。

 裕太はまるで別人のようになってしまった渚沙に気圧されながら、必死に言葉を探す。彼女を元に戻せる、そんな魔法の言葉を。

 だが。

「私は何も変わっていないよ。ただ、正直に生きることにしただけ」

 ふと、渚沙がそう言った。

「私はお兄ちゃんを心の底から愛してる。お兄ちゃんさえいれば他に何もいらない。お兄ちゃんだけを大切にする。お兄ちゃんが側にいてくれるだけで私は幸せなの。……だからね。私の幸せを壊す害は、私の手で排除することにしたんだよ」

 裕太は痙攣する唇を必死に動かして、

「……な、にを。何を言ってんだ、お前」

 渚沙はニコリと笑って、

「この世界に。私とお兄ちゃん以外の『人間』は必要ないってことだよ。––––だから悲しいけど、あなたもいらないんだよね、雫さん」

「……っ!」

 ガッギン‼︎ と。

 渚沙が瞳を細めて他所を見た瞬間、銀色の剣閃が彼女の胴を穿とうと迸り、彼女が背にする光輪に弾かれ砕けて舞い散った。

 キラキラと雪のように落ちる刃の破片に、一人の少女が映し出される。

 黒色の髪を肩まで伸ばし、黒色のセーラー服を着た、ボロボロの美少女。片手を失い、雑に止血した腕をぶら下げて、残った手を渚沙に向けている。

 奈切雫だ。

「……はぁ、はぁ、はぁ。美玲を連れて、アンタはここから離れなさい裕太」

 裕太は雫の登場に驚きつつも、すぐに返す刃のように反論を口に出す。

「それはこっちのセリフだバカヤロウ! そんな大怪我でこっちに来るんじゃねぇ! お前が咲崎を連れて逃げろ! これはオレたち兄妹の問題だ! お前には関係ねぇ!」

「バカ! 見て分からないの⁉︎ 私たちの目の前にいる『コイツ』は、もうアンタが知っている渚沙ちゃんじゃない! 「骸蛇化」した別の『ナニカ』よ!」

「……っ! それでも、そうだとしても! ナギはオレの妹だぁ!」

 最早ヤケクソであった。

 雫の言葉は百点満点で、減点要素は何一つない。だからこそ、否定できない自分が心底嫌だった。どんな姿形になっても渚沙は裕太の妹だ。

 なのに、『アレ』が妹じゃないと言われて反論できなかった自分がとてつもなく恥ずかしかった。

 だから裕太はみっともない自分から逃げるように、美玲を抱えたまま渚沙に突進した。

 赤色の炎が裕太の全身を包み込み、加速力を増大させる。拳は握らない。渚沙を殴れるわけない。

 手を伸ばした。

 掴んでくれることを信じて。

「戻ってこい、ナギ! お前がいるべき場所は、そっちじゃねぇぞ!」

 人を殺す側じゃない。

 人を救う側だと。

 ––––お兄ちゃん!

 そうやって、元気に笑って、手を掴んでくれ。


「ううん。私はこっちでいい」


 手は、伸ばされなかった。 

 手を、掴んではくれなかった。

 渚沙は首を横に振ると、裕太の炎を吹き散らかすかのように突風を生み出した。それは一直線に裕太を襲おうと唸る。

 刹那。

 ザンッッ‼︎ という斬撃音と共に渚沙の突風が引き裂かれた。裕太の視界にチラリと見えたのは、大鎌。

 ハッとなって視線を落とせば、美玲が息も絶え絶えの様子で能力を発動していた。

「咲崎……⁉︎」

「にげ、なさい……っ。はやく……っ!」

「でも、でも……っ!」

「とっとと行きなさいバカ裕太! 今のアンタじゃただのお荷物なのよ!」

「……………………っくそ!」

 雫と美玲。

 二人に言われて裕太は唇を噛んだ。決断した。

 手を掴んでくれなかった時点で、こうなることは決まっていたのかもしれない。

 裕太じゃ渚沙には勝てない。実力云々の話ではなく、そもそも同じフィールドに立ちたくない。

 怪我人を安全なところに避難させ、なおかつ大切な妹を助けるためには更に怪我人を助っ人として起用しなければならない。

 まさに最悪の状況で、裕太は美玲を抱えて走り出す。

 どうしてこなった。

 いつからこうなった。

 どこで選択を間違えた。

 どうすればこうならずにすんだ。

「どこいくの、お兄ちゃん。その人は私のところに置いていって。確実に殺さなきゃいけないから––––」

 渚沙がほっそりとした腕を伸ばして裕太に向けた。正確には美玲にか? ともかくその瞬間、雫は一本の剣を投擲して渚沙の興味をこちらに向かせる。

 渚沙は走り去っていく裕太の背中を愛おしそうに、それでいて執着じみた目で見た後に、その視線を雫に移した。

「邪魔、しないでもらえますか? 雫さん」

「悪いけど、そうもいかないわ。いいところを全然見せられなかったから、ここら辺で名誉挽回させてもらわよ」

 約束を果たすことすら今の雫にはできなかった。

 でも、これだけは。

 兄と妹は戦わせない。

 裕太に渚沙は傷付けさせないし、渚沙に裕太は傷付けさせない。

 そんな悲劇、絶対に許容しない。させてたまるか。してなるものか。

 当初の任務は、裕太を〈エデン〉に勧誘して連れ帰るだけだった。だけどそこから色々問題が発生して、それらは全て地続きに繋がっていた。

 ならば、この騒動は全て雫に責任がある。

 雫が上手く立ち回れていれば、ここまで複雑になることもなかったろう。

 もっと強く。もっと利口に。もっとたくましく。

 それが出来ないというのなら、せめて。

 友が大切にしているものは死守しよう。

 この身が朽ち果てようとも、友の宝は己の命と同義なのだから守らねばならない。

 奈切雫。

 彼女は片腕しかないボロボロの状態で刀を握り、血まみれの顔で獰猛に笑った。勝ち気に笑った。

「来なさい格下。年上の怖さを思い知らせてやるぜ」

「……遠慮なく殺しますよ、雫さん」

 望まない決闘の、死闘の火蓋が切って落とされた。



           3


 

「……置いて、いきなさい」

「はぁ、はぁ、はぁ……っ」

「おいて、いきなさい。陸堂裕太……」

「クソ、くそ! どうして、なんでナギが……!」

「陸堂、裕太!」

「……っ!」

 ようやく、だ。

 陸堂裕太は腕の中にいる美玲に怒鳴られるとハッとなって足を止めた。少しよろめいたがすぐに近くの壁に背中を預けて倒れることを回避する。

 場所は廃校となった中学校から離れて、小平市内にある鷹の台駅の前。時間帯だけで考えれば人通りはまだあるはずなのに、結界のおかげで人の影はゼロ。

 裕太は荒い息を吐きながらゆっくりと美玲をアスファルトの上に寝かせて、近くに構えるコンビニに目を向けた。

「はぁ、はぁ、はぁ……っ。ここで少し待ってろ。包帯とか買ってくるから」

「……そんなのは、無駄よ。私はもう、死ぬ」

「そんなこと言ってんじゃねぇ。オレが必ず助けてやる。原罪者なんだ、そんな傷屁でもねぇだろ」

「胸を、抉られてるのよ。原罪者でも、これは死ぬわ」

「うるせぇ。いいから黙って待ってろ」

「……陸堂裕太。私は、死ぬわよ」

「うるせぇって言ってんのが分かんねぇのか‼︎‼︎」

 少年の怒声が無人の駅前に響き渡った。まるで体育館で叫んだみたいに、裕太の怒声が反響する。

 月と星が浮かぶ、夜の空。たまに吹く穏やかな風。普段と変わらない日常に似た、けれど全く違う世界で一人、裕太は荒い息を吐きながら拳を握った。

 強く。

 後悔をしているかのように。

「……頼むよ。もうこれ以上、オレから何も奪わないでくれ……っ。助けさせてくれよ……ッ!」

 懇願。

 嘆願。

 あるいは、身勝手な願望の吐露。

 それに対して、美玲は自分の瀕死の状態なんて忘れたみたいに優しく、それこそ弟を見つめるみたいに瞳を細め、微笑んだ。

「その気持ちだけで、私は嬉しいわ……。あなたの優しさで、私の心はもうとっくに救われてる……」

 掠れた声だった。

 胸を抉られているということは、心臓がもうないことを意味している。その状態で生きていること自体が奇跡であり、他者に優しく微笑むことなんて出来ない。

 それなのに、美玲は裕太に救われたと優しく告げた。瞳からは光が失われつつあり、綺麗な顔からは生気が……。

 深く、美玲は息を吐いた。

 今にも泣き出しそうな顔をする、裕太を見ながら。

「あなたは、こんな私にも「赦される未来」を見せてくれた。天使の慈愛のような、優しくて、甘くて、時には厳しい声を、かけてくれた……。それだけで、それをくれただけで……私はもう、救われていたのよ」

「オレは……そんな、そんなご大層な人間じゃない。一丁前に格好つけて、綺麗事を並べただけのちっぽけな『ニンゲン』だ。妹一人救えない、クソ野郎なんだよ……っ」

「……なら。あなたはここで立ち止まって死ぬの?」

「……ッ」

 美玲にそう言われ、裕太は言葉を呑んだ。

 彼女に言われたことを素直に喜べないのは、間違いなく渚沙の件が原因だ。同時に言い返せないのは、立ち止まって死ぬなんていう結果を、裕太自身が望んでいないからでもある。

 勝手に人に教示しておいて、講釈を垂れておいて、自分勝手に死ぬなんて認められない。

 妹を残して死ぬなんて、死んでも嫌だ。

「あなたが、自分に嘘をついてどうするの……。私に言ったことを、あなたが出来ないでどうするの。ここで、死ねないなら……あなたは私に構ってる暇なんてどこにもないわよ……」

 スゥ、ハァ、と。美玲は大きく呼吸をした。

 それから、彼女は裕太の顔に手を添える。少年は泣きそうになりながら、美玲の手を握った。

「あなたの手は、みんなを救うためにあるんじゃないの……? あなたが一番守りたいのは、誰?」

「……オレが一番守りたいのは」

 小さく呟いた裕太の目の奥には、もう答えが映し出されている。

 それは、勝ち気だけど優しい少女。

 それは、道を違えた悲劇の女性。

 それは、血を分けたたった一人の家族。

 だから、考えるまでもなかった。

 気づけば裕太は涙を流しながら、それこそずっと溜め込んでいたモノを吐き出すみたいに、年相応の男の子のように、ボロボロと大粒の涙を流しながら言ったのだ。


「––––みんなだよッ。オレは、オレが大切だと思ってる人たちを、一人残らず助けたい……ッッ!」


 それこそが、なんてことはない。どこにでもいる平凡な高校生の小さな本音だった。

 兄だから守りたいとかじゃない。

 もっと、動機は簡単で簡潔だ。

 大切な人だから、失いたくない。

 だから、そうならないように守りたいのだ。自分のためだろと思うだろうか? だがしかし、自己中が悪だと断じられた訳ではない。自己中にしか叶えられない平和と安寧がある。

 守りたいモノはいつだって、自分から手を伸ばさないと掴めないのだから。

 渚沙がおかしくなって、自分を見失っていた。衝撃に全てを持ってかれていた。

 裕太にしか出来ないことがある。

 何のために力を手に入れた?


 ……こう言う時のためだろう?


「それで、いいのよ。……カハッ! はぁ、はぁ、はぁ……っ。あなたの助けを待ってる人たちが、悲劇に染まってる未来で泣いているわ。……だから、ここで止まってちゃ、ダメなのよ……カハ、ゴフゴホッ!」

「さ、咲崎!」

 言い終えると、美玲は口から血を吐いた。

 命の色が、冷たい道路に飛散する。

 赤。

 人間の口から吐き出されてはならない量の血。

 人間の胸から溢れてはならない量の血。

 裕太は直感的に、最悪の未来が訪れることを察知してすぐに応急処置道具を取りに行こうとコンビニに足を向ける。

 すると、その瞬間に手首を掴まれた。

 裕太は美玲に視線を振って、

「離せさきざ––––」

「––––最後まで。悪役でいさせてちょうだい」

 その声は、掠れていて、少しだけ、寂しそうだった。裕太は唇を噛んで、何とかして美玲の手を振り解こうとした。でも、出来なかった。

 だって、美玲が、見たことないくらいに綺麗に優しく、笑っていたから。

 気づいていないのだろうか。

 彼女は、今。

 泣いているのに。

「あなたの妹を、「骸蛇」にしたのは私だけど、その責任を持って私は死ぬ。最後の後始末をあなたたちに任せてしまうのは心苦しいけれど……。でも、これ以上優しくしないで。これ以上、未来を見せないで……っ。じゃないと、じゃないと……っ」

 震えた声で。

 涙声で。

 頬に涙を伝わせながら。

 美玲は言った。

「悪に堕ちた意味がないよ……ッッ」

 それは。

 その想いは。

 きっと本音で、どうすることもできない後悔の色をしていた。

 美玲は望んで悪の道に進んだ。それはもう一度妹に会うために。本来の彼女は誰よりも優しくて、家族想いの立派なお姉ちゃんだったのだ。

 だから喋り方だってどこか年上のお姉さんぽくて。

 でもそれが今崩れたということは、美玲は死にたくないという「本音」を自らの意思で殺したんだ。

 死ぬのは誰だって怖い。

 でも。

 悪で始まったんだから、悪で終わらせて。

 その想いが、感情が、覚悟が、咲崎美玲という一人の『姉』だった女性から伝わってきた。

 ここで美玲の死を否定することは、覚悟を否定することはいくらでもできる。

 だが、果たしてそれで美玲の尊厳は守れるのか?

 美玲の己の命を諦めて、自分の妹を助けろと望む覚悟を踏み躙ることは、本当に正しいのか?

 これらを選択することを高校生に迫るのは酷な話だろうと思う。

 しかし事態は急を要する。 

 

 では問題。

 悪役を見殺しにして自分の家族を守りにいくのは悪いことでしょうか?


「……ちくしょうッ」

「……それでいいのよ」

 なんて不恰好。

 なんて無様なことか。

 陸堂裕太は自分の唇を噛みちぎりながら拳を最大限に握り締めて、その場で立ち上がった。

 美玲の手を、ゆっくり離した上でだ。

 この選択が正しかったのかどうか、陸堂裕太は一生悩み続けることだろう。

 この「罪」を背負って、生きていくことだろう。

 そっと、美玲は息を吐くと血色が殆どない唇を動かした。

「……あなたに幸福が訪れることを」

 どこまでも優しい言葉をかけてくれた美玲を、裕太は救いたい衝動を抑えて視界にいれない。

 もう、美玲を見れない。

 見てしまったら最後、もう救わざるを得なくなる。それは美玲の勇気と覚悟を無駄にしてしまう。

 だから、裕太は美玲を見ないでそのまま彼女に背を向けた。

 最低なことをしている。

 人間として酷いことをしている。

 死にそうになっている人を見て見ぬ振りをして、自分の家族を優先して助けに行くのだから。

 それでも「これ」を彼女が望んだから。

 せめてその想いを否定しないようにと。

「……咲崎」

 声を出した。 

 見なくても、言葉をかけるだけならまだ大丈夫だと思ったから。

「……なあに」


「––––ありがとう。それから、ごめん」


「いいえ。いってらっしゃい、ヒーロー」


 そのまま。

 陸堂裕太は振り返らずに走り出した。

 走り、続けた。



           4


 ––––目が覚めると、いつも暗い場所にいた。

 

 眠っている時よりも、目を瞑っている時よりも暗い場所。

 そこにはいつも『彼女』一人しかいなくて、孤独の世界がどこまでも広がっていた。

 その冷酷な現実を突き付けられるたびに、『彼女』は己の存在理由と存在意義と存在価値を見失い、結局はどうすることもできなくて立ち尽くしていた。

 だけど、それは神様が『彼女』に与えた明確な「罪と罰」だから、仕方がないと諦める。

 受け入れて、誰に知られることなくひっそりと暗闇の胎の中で命を終えることが、この世界に対しての回答だと頷くだけ。


 それを悔しいとは思ったことはない。

 それが寂しいとは思ったことはある。


 だからいつもいつも、そうやって強がってるくせに『彼女』はうずくまって膝を抱えて、自然と溢れてくる涙の冷たさを孤独に感じて味わっていた。

 

 光が欲しかった。

 光の温もりが欲しかった。

 

 だけどそんな我儘なんか誰にも通用しないから、『彼女』はそのまま血だらけの自分を抱き締めて、後悔と寂寞に押し潰される。

 

 そうして、暗闇の世界での時間はいつも終わる。

 だから変化なんかない。

 いつまで経っても変わらずに、完全で完璧な、硬化しきった闇の中にいる。


 ––––と。

 そこでふと、「光」が射した。

 『彼女』は膝に埋めていた顔をゆっくり上げて、目を細めながら「光」がある方を見た。

 そこには、一人の影が立っていた。

 その影は、『彼女』に優しく手を伸ばしてきてくれて、ただ一言こう言った。


 ––––もう大丈夫だよ。一緒にいよう。


 その言葉を聞いて。

 その声を聞いて。


 古い都市伝説の女王の名で呼ばれた『彼女』は、涙の理由を変えて泣き始めた。

 手を取った。

 温かかった。

 ずっと求めていたモノはこれだったんだと、『彼女』はようやく気づいた。


 そして。

 『彼女』はその「影」と笑いながら、光の奥へと歩いていった。

 『彼女』と「影」は、傷一つない綺麗な顔で笑いながら、どこまでも歩いていく。

 これからも、この先もずっと二人で。

 もう二度と、闇の中に戻ることも。


 ––––離れることも、ないのだから。


 

            5



 「骸蛇」とは原罪者が自らの『罪』に呑まれることで生まれる異形の怪物である。

 この世界に『罪』は数多として存在していることから、「骸蛇」の形態は数え切れず、また同時に原罪者がいる限り絶えることは決してない。

 〈エデン〉の主な役割は社会に害を与える原罪者の処罰、そして「骸蛇」の討伐だ。「骸蛇」になった原罪者に理性はなく、ただ本能のままに、自分の『罪』に従うように暴走を繰り返す。

 原罪者と「骸蛇」。

 どちらが厄介なのか決めるのは非常に難しい。これは強さの基準ではなく、言葉通り『厄介』なのかどうか。

 強さだけなら原罪者ではあるだろう。人外の能力を手に入れて、自分の思い通りに扱い応用し、様々な場面で使いこなすことが出来るからだ。

 しかし一方で、「骸蛇」になると理性を失うことから、本来なら発揮するであろう能力の最大パフォーマンスは急激に下がってしまう。ハンマーを振り回していても釘は打てないのと同じだ。適正な力で的確な場所にハンマーを当てないと釘は刺さらない。

 では。

 今回の場合はどうだろう。


「おォア!」

「クスクス。まるで葉っぱの上を気持ち悪く這うナメクジみたいに遅いですね」


 原罪者・奈切雫。

 「骸蛇」・陸堂渚沙。


 両者の激戦は均衡に近い形で火花を激しく散らしていた。雫は片腕しかない状態で日本刀を鋭く振り下ろし、渚沙はその一太刀を平然とした所作で弾き返す。しかも何の武装もしていない『片手』だけで、だ。

 刀と刀がぶつかったような金属音が響く。

 雫は舌を打ち、再度攻撃を仕掛ける。反り返った腕を強引に前へ引き戻して連撃を放った。

「クスクス。私、実はお姉ちゃんもいたらなーって思ってた頃があったんですけど、姉妹だとこうやって遊んでたんですかね?」

「知る、かぁ!」

 まるで状況に適していない台詞を笑いながら溢す渚沙に、雫は違和感を感じながら刀を振り続ける。

 袈裟斬り、逆袈裟斬り、十文字、横一線、小手、胴突き……。様々な剣閃を魅せる雫を、渚沙は変わらずに余裕綽々といなし続けている。

 それが、その感じが、どこまでもおかしいと雫は眉を顰めざるを得なかった。

 普通、「骸蛇」に堕ちたら自我と理性を保てない。それは真中健太がいい例だろう。今思えば、美玲が言っていた渚沙の魂を「堕とす」というのは、彼女を「骸蛇化」させることだったのだろう。

 『イブの転生者』を「骸蛇化」させると、イブが表出するのか? それとも『原罪』が際立つのか? ともあれ「骸蛇化」をさせることで、美玲の目的は叶う予定だったのだ。どんな目的であれ、今の渚沙を見れば大抵のことは叶うかもしれない。

 それほどまでの力を、今の渚沙からは感じる。

 それにあの姿、あのオーラ。

 間違いなくただの「骸蛇化」ではない。

「刀剣舞踊、参式・四季斬戯しききりぎり!」

 片腕だけの技の解放。

 桜の花のように舞い踊る剣技。

 夏の太陽のように燦々と輝く刀身の閃き。

 秋の枯れ葉のように沈着な刀の剣筋。

 雪のようにしんとした冷たい一閃。

 まさに四季を表したかのような美しい太刀筋が、神々しい姿の渚沙に襲いかかった。

「わわ。春夏秋冬ですね、キレイ!」

「……な」

 幼い少女が季節の移り変わりを楽しそうに堪能するかのように、渚沙は目を爛々と輝かせた。

 そして、春夏秋冬の煌めきが、散る。

 まずは春だった。

「私、春は好きですけど夏の方が好きです」

 次は夏だった。

「夏の海はとてもキレイですけど、秋の紅葉の方が好みです」

 次は秋だった。

「秋の空気は穏やかですけど、冬の静けさの方が過ごしやすいです」

 最後は冬だった。

「冬は雪の音が耳心地良くて落ち着きますよね」

 どれもこれも、否定された。しかも一言付きで全てを粉砕され、雫は瞠目するしかなかった。欠けて散った刃の一つ一つに雫の顔が、渚沙の顔が映し出され、その内の一欠片が嫣然と微笑んだ。

 

 ––––渚沙だ。


「次は私の番ですね」

 不穏な一言だと、雫の背筋がぶるりと震えて直感する。雫は有無を言わずに後退し、渚沙から距離を取った。

 その直後、雫の体勢が僅かに傾いだ。 

「……っ⁉︎」

 足首を何かに掴まれた感触。

 視線を落とせば、雫の足首をグロテスクな『手』が力強く掴んでいた。まるで地獄から這い上がってきた罪人のように汚れた手だ。

 驚愕する雫を他所に、渚沙は楽しそうに唇を緩めた。

「〈奈落人の執着〉。そういう『原罪』らしいです」

「……っ! 離せ!」

 神々しい姿とは裏腹に何て不気味で悍ましい原罪なことか。雫は日本刀で乱暴に「不気味な手」を斬り払い、視線を鋭く渚沙に向けた。

「次はアンタ……っ!」

「そうですね。でもまだ早いです」

 ニコリと笑い返されて、なんなら嘲弄されたと感じて雫は苛立ち疾走を開始する。瞬時に日本刀を握り直して渚沙の懐深くへ切り込もうと。

 だが。

「〈傲慢な勇者の本質〉。これはそういう『原罪』らしいですよ?」

「……な、んなのよそれは……っ⁉︎」

 雫でも未体験な現象が表に立った。あまりの衝撃に理解しようとする努力の種すらゴミ箱に投げ捨てたくらいだった。

 雫が一直線に疾走を開始した瞬間、亜麻色に光る洋風の大きな盾が幾重にも並んで顕現したのだ。

 数えることすら億劫になる数の盾が、問答無用に雫の突進を迎撃する。雫の加速を、疾走を洋風の盾が減速と失走を促して、その度にガラスが砕ける音が響き渡った。

 都合八枚目にして、雫の足が止まった。

 正確には八枚目の盾をぶち破れずに弾き返されたのだ。まるで壁に突撃したような衝撃と激痛が雫の全身を襲った。

「ぁ、がぁああ⁉︎」

「次は〈死屍槍相ししそうそう〉ですね。クスクス。まだ『三つ目』ですよ雫さん。もっと頑張ってください」

「ポンポンと常識を覆すんじゃないわよ、チート野郎……っ!」

 原罪は原罪者一人につきひとつ。

 それがルールで、それが常識で、それが当たり前で、それが普通だった。実際、こんな複数の原罪を持っている原罪者なんて前例がない。

 いや、だからこそなのか。

 美玲がこの複数の能力を有する『イブの転生者』に己の目的を達成するための手段を夢見たのは。

 しかしその上で分からない。

 何故、『イブの転生者』は何個も能力を持っている? オリジナルはどれだ? どういう条件で使っている? 増やしているのか、元々持っているのか?

 そうやって思考を巡らせる雫は、空から降り注ぐ流星群じみた槍の雨を掻い潜りながら渚沙に迫る。槍を弾き、斬って、折って、躱して、避けて、掠めて。

「すごいすごい! まるで劇団の人みたいです! 流石は雫さん、やりますね!」

「これくらい大したことないっての! あまり年上のお姉さんを舐めんじゃないわよ!」

「んー。私、アイスは舐めるよりかじる派なんですよねー。……そんなわけで、次はこれです!」

 全く意味不明な返答を、渚沙は胸の前で両手を重ねながら口にする。

 直後、刀を握り締めて疾走していた雫の眼前に、黒い物体が現れた。

 それは直径二メートル大の正方形。

 それはカバンのチャックみたいに真ん中を開くと、内側からあるモノを覗かせた。

 ……それは。

「次はなんなのよ……」

「〈暴食グラトニー〉です⭐︎」

 次から次へと新しい原罪が飛び出してきて雫は疲れ切ったように呆れるしかなかった。

 チャックの内側から顔を覗かせたのは人間の歯と舌だ。場違いな横ピースを極め込む渚沙は、やはりどこまでも歪で。

「私、多分あまり美味しくないと思うけど」

「いただきます♪」

 グワァバッッ‼︎‼︎ と。

 暴食の食欲が口を開いた。



            6



「『イブの転生者』の原罪は、〈食〉だ」

 〈エデン〉の東京支部。

 その執務室でメガネに紫髪の青年が静かにそう呟いていた。

「〈食〉、じゃと……?」

 九条院直義の言葉に、金髪幼女のアリスが明確に眉を顰めた。

 〈エデン〉のトップである直義はコクリと頷いて、

「原罪名は〈暴食グラトニー〉。対象者に一撃でも当てることが出来れば原罪を奪い我が物とする、とんでもなく厄介な能力だよ」

 そう、『イブの転生者』の原罪を説明する直義だが、言葉通りの意味として受け取ったとしてもその能力は実に絶大だ。

 原罪者一人につき、原罪は一つ。単純にこのセオリーを平気で無視をすることができるのだから。しかも条件が対象者に一撃を与えることだけと言うのだから驚きである。

 そんな規格外の原罪なら、ハイリスクを伴っていてもおかしくはないのに。

「奪う、ということは。模倣コピーでも仮借ボローでもなく、能力そのものを強制的に相手から強奪し、文字通り『自分の原罪』にするということなのか?」

「あぁ。だからこそ、今回の事件で咲崎美玲は『イブの転生者』を狙ったのかもしれないね。イブの原罪があれば、大体の『願望』は叶うはずだから」

「しかし皮肉なモノじゃの。禁断の果実を一番最初に食べた『イブ』の原罪が〈食〉とは。世界とは、神様とは随分と意地悪をするモノじゃ」

「だからこその〈食〉、なんだろうね。……まぁ渚沙ちゃんが『イブの転生者』として覚醒することも、〈骸蛇化〉して魂が堕ちることも今のところ可能性としては極めて低いから、〈暴食グラトニー〉を懸念材料に置かなくても大丈夫だと思うよ」

「それなら、雫たちは「口裂け女」にだけ集中できそうじゃのう。安心したわい」

 直義は笑んで頷くと、ポケットからスマホを取り出した。画面を操作し、スマホを耳に当てる。

「とりあえず司に連絡をしておこう。渚沙ちゃんがちゃんと眠っているのかどうかも気になるしね」

 金髪幼女のアリスはそっと息を吐いて、

「それもそうじゃの。……今はただ、皆の無事を祈るしかない」

 安全圏に自分達はいる。

 だからせめて、神に祈ろう。

 誰一人欠けることなく、笑って明日が迎えられるように。

 そして数分後。

 直義と司の電話で異常事態が発生し。

 轟音と共に司との通信が途絶えた。


  

           7



 暴食の奔流が、奈切雫を喰らい尽くす。

 黒色をした正方形の箱から浮き出た人間の歯と舌。一言で言えば『口』が大きく開いて、圧倒的な不気味さに一瞬足を止めた雫を一直線に求める。

 やばい。

 理屈はわからないし何がやばいのと訊かれたら説明は出来ないけれど、とにかく「アレ」はやばい。「アレ」をまともに喰らえば即ゲームオーバーだと本能が告げている。

「……こん、のっ!」

 避けるのは間に合わないと判断した雫は、日本刀で『黒い口』を受け止めた。予想以上の高重量、高圧力で雫の日本刀に一瞬でヒビが入った。受け止めることは出来たが威力を相殺することは叶わず、そのまま押されて流されるように雫は真後ろへ吹っ飛んだ。

 ズザザザザッッ‼︎ と、両足で地面を削りながら後ろへ後ろへと、雫がどんどん下がっていく。歯を食いしばり、最大限に力を込めて日本刀を握る。

「ぐぎぎぎぎぎぎぎぎぎ……っ!」

「あはは! すごいすごい! 〈暴食グラトニー〉を受け止めちゃうなんて! こんなことは史上初……いいえ。億年以上初の、人類初の偉業ですよ雫さん!」

「ごちゃごちゃと……うっさい!」

 片腕しかないのがとにかく口惜しい。雫は叫ぶと『黒い口』の周囲に五本の刀剣を顕現させて射出した。

 金属音が激しく響き渡り、『黒い口』に突き刺さる。

 だが。

「な……っ!」

 渚沙はクスリと笑った。

「無駄ですよ。〈暴食グラトニー〉は全てを喰らい尽くします」

 言葉通りだった。グラトニーに突き刺さった刀剣たちは、刺突箇所が独立した小さな『口』に変化してボリボリと喰われて消えた。

 更にダメ押しとばかりに、だ。

「でも食べ過ぎたら吐いちゃうのがネックなんですよね。……いいよ〈暴食グラトニー〉。リバース」

 ドッ‼︎ と。

 グラトニーが食した刀剣を勢いよく吐き出した。しかもそのままの形状ではなく、まるでガラスの破片のように細かく砕けた刃が、横殴りの雨霰あめあられとなって降り注いだ。

「……ッ! お、ぁぁああああ!」

 これに対して、雫が取った行動は実にシンプルなモノだ。片腕しかない状態で日本刀を巧みに器用に振り回して、刃の礫を一つ一つ正確に弾き返していく。

 鋭い金属音がどこまでも連続し、オレンジ色の火花が線香花火のように瞬き消えていく。

 そして。

「はぁ、はぁ、はぁ……っ。く、うぅ……ッ」

「よく頑張りました。ご褒美に美味しいケーキを作ってあげますね」

 刃の礫の嵐が降り止んで、雫の全身はズタボロだった。鋭い破片は至る所に突き刺さり、血の色で華奢な身体が染まっている。荒い息を吐いて、痛みに苦鳴して、顔を歪ませて、疲労も限界を超えている様子。

 一方で、渚沙は相変わらず場違いな笑顔を浮かべ、上から目線で雫を見下ろしている。

 規格外とは、まさにこのことだった。

 咲崎美玲が可愛く見えるほどだった。

 雫は残った左手で握る、刀身が折れた日本刀を地面に捨てて、渚沙を見た。

「……渚沙ちゃん。聞こえてる、かな」

「はい。聞こえてますよ⭐︎」

「アンタじゃないわよ、「骸蛇」。私が話しかけてんのは、アンタの中に囚われてる可愛い女の子……っ」

 渚沙と今目の前に『ナニカ』を、雫は明確に切り分けて言葉を紡ぐ。見た目は明らかに渚沙じゃない。声は渚沙そのものだ。

 でも、そうじゃない。

 人間の本質は、見た目なんかじゃない。

「私さ、今回の事件で自分の弱さをすごく痛感したんだ。一丁前なことを言うだけ言って、でも結局はみんなに助けられてばかりで。みんなを助けたいとか、笑顔を守りたいとか偉そうなことを叫んだけど、何一つ達成することが出来なかった。……それが本当に、悔しかったんだ」

 いいところなんて見せられなかった。

 カッコいいところなんてなかった。ずっと弱くて情けない奈切雫ばかりで、大切なモノは全部両手の中からこぼれ落ちてしまった。

「だから、だからね。渚沙ちゃんには私みたいになってほしくないの。私みたいに弱くなってほしくないの。渚沙ちゃんはさ、本当は誰よりも強くて、優しい女の子なんだから」

「……さっきから何を言ってるんですか? 私は––––」


「陸堂渚沙は! 陸堂裕太の妹だから‼︎」


 誰にも邪魔なんかさせない、力強い少女の声がどこまでも響いた。ビリビリと空気を震わせるほどの声に、さしもの『ナニカ』も言葉を呑む。

 雫は畳み掛けるように、言葉を続けた。

「自分で言うのもアレだけど、朝から兄貴の部屋に転がり込んでる変な女の私を快く受け入れてくれて、笑顔でご飯を作ってくれた! 渚沙ちゃんのご飯は本当に美味しくて、私、あんなに愛情がこもってるご飯なんか生まれて初めて食べたんだ! あんなに素敵なご飯を作れて、みんなに等しく優しい女の子が陸堂渚沙ちゃんなんだ! だから『そんな奴』になんか負けないで! あなたはこの世界で誰よりも強い心を持っている! 罪なんか何も背負ってない、透明な水のような魂を抱いてる! あの、バカがつくほどのお人好しで、アホみたいに正義感が強くて、キモいくらいにシスコンな裕太の妹! それが陸堂渚沙って女の子なの! ……こんな、アイツが悲しむようなことをする子じゃないのよ! だから、だから!」

 体なんてボロボロだった。

 叫ぶだけで全身が痛い。

 でも、でも。

 これだけは言いたかった。

 雫は眦に涙を浮かべながら、こう言ったのだ。


「自分を思い出して! あなたの名前は『イブ』じゃない。陸堂渚沙でしょうがぁ‼︎」


 沈黙があった。

 雫の声が木霊して、世界に響く。

 この想いが、どうか伝わってほしいと思う。渚沙の手は人を傷つける手なんかじゃない。温かいご飯を作れて、傷を手当てしてくれるような、大きな手なんだ。

 間違っても、誰かを傷つけるために使われる安いモノなんかじゃない。

 それは、その力こそが。

 雫よりも裕太よりも、強い力なんだ。

 異能なんか足下にも及ばない、尊い力なんだと。

 そして、しばしの沈黙の後。

 渚沙が口を開いた。

 今まで笑顔だった表情が、途端に消える。

 冷たい、氷点下の瞳。無表情で。


「五月蝿いなぁ。『ボク』は今、最高に気分が良いんだ。キミみたいな品性のカケラもない『人間』に構っている暇はないんだよ」


 何かが、変わった。

 渚沙はため息混じりに、

「食べろ〈暴食グラトニー〉。その女は邪魔だ」

「––––っ! 渚沙ちゃん!」

 『黒の口』が、グラトニーが再度顕現して雫をしゃぶり尽くそうと食べ尽くそうと噛み砕こうと唸った。

 しかし何か、先程までとどこか違った。

 グラトニーは相変わらず不気味で正直キモいくらいだが、渚沙の方に違和感が……。

 神々しい姿に変化はない。

 だが、口調が少しだけおかしい?

 そして雫の疑念が、明確な形となって現れた。 

 不意に、渚沙が可愛らしい顔を細い手で押さえて、苦しそうに呻き始めたのだ。

 いいや違う。

 ブツブツと、何かを喋っている?


「なに、なんだ、なになに、なんなのよ。私『僕』はお兄ちゃんが大好きでお兄ちゃんを狙う人は全員殺さないといけないのにどうして『私』は『ボク』を邪魔するの。『ボク』は僕でぼくは『私』なんだから『私』が『私』のために『私』の力を使って『私』はお兄ちゃんと幸せにならなきゃいけないのにどうしてこんなに頭が痛くて胸が苦しいの。『私』は『わたし』は『ワタシ』は私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私わたしわたしわたしわたしわたしワタシはぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎」


 怒涛の嵐。

 言葉の暴風、声の乱舞。

 グラトニーと応戦していた雫は急な渚沙の叫び声に顔を上げた。途端、グラトニーが消失し黒い煙となって渚沙の中へ還っていく。

 そして、変化があった。

 激変があった。

 今までの白く神々しい姿から一変し、全身を黒色の衣装が包み込み、胸の中央で『リンゴと蛇』のマークが赤く輝き、光輪は消えてコウモリのような翼が生え、天使の輪っかは『ウロボロス』へと形を変えた。

 天使から悪魔へ。

 不気味なほどに静かな空気が流れていた。

「……なぎ、さちゃん?」

 流石にこんな形態変化を繰り返す「骸蛇」を雫は見たことがなかった。自然と警戒心を最大に上げていた。

 そして渚沙が、顔を上げた。

 冷たい、赤色の瞳が雫を見た。

 瞬間、渚沙が手をゆっくり動かして、悟る。

 これは、死ぬ。

 原因も分からず死ぬ。とにかくあの手が振り下ろされた瞬間に自分は死ぬと本能が告げている。どうすることもできないと悲鳴を上げている。

 

 だから。

 これは刹那だった。


「……逃げて、雫さん。助けて、お兄ちゃん……」


 渚沙が、片方の目から涙を流し、顔の片方だけで泣き顔を作って、助けを求めていた。

 雫の目には、確かにそれが映ったのだ。

 死の気配なんかに、臆していられるか。

 目の前で友達の妹が助けを求めて泣いているのに、黙って見過ごすわけにはいかない!


「「それだけで十分、助ける理由は足りている‼︎」」


 これは別に。

 狙ったわけではなかった。

 自分が今最大限に思ったことを口にしただけで、わざわざ向こうの都合を考えて、台本通りに言ったセリフなんかじゃなかった。

 だからこれは必然であった。

 雫の声が、怒りが、共鳴した。

 彼女は左手に日本刀を握り締め、周囲には五本の刀剣を侍らせながら渚沙に突撃した。

 必ず応えてくれると信じてる。

 必ず来てくれると信じていた。

 だから、迷わずビビらず前へ行ける‼︎


 ––––炎の煌めきが、視界に映った。


 気づけばその熱い炎は、優しい焔は隣にいて、目を合わせることなく、それこそ阿吽の呼吸のように、雫とその炎の持ち主は渚沙のすぐ近くまで接近して、吠えたのだ。


「「妹を返せ! テメェは誰だァあ‼︎」」


 最後の戦いが、始まった。

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