第6話 罪の味を知った者


「––––はい。こっちは何も問題はありませんよ。あまり心配しないでください、直義さん」

 白い外壁の、洋風でお洒落な落ち着いた家の前で、白髪に学ラン、知的な顔立ちをした少年がスマホに耳を当てながら立っていた。

『心配もするよ。何せ向こうの狙いは「彼女」なんだから、警戒をし過ぎるくらいで丁度いい』

「……まぁ。それもそうですね」

 確かに否定は出来ないことを特殊能力対策組織のトップに言われ、白髪の少年……七瀬司は頷いた。

 彼は雫と同じく、陸堂渚沙の護衛任務に就いている。二人で敵対象である咲崎美玲に挑むと陸堂渚沙が無防備になるため、行動を別にした。

 仲間がいた場合に備えての、保険である。

 だが数時間経った今も、襲撃者の影はない。

 懸念、で終わってくれればいいのだが。

「ともあれ、ひとまずは何も起こってないですからね。今は雫と陸堂くんの無事を祈るとしましょう。あの二人なら、必ず咲崎美玲を倒してくれるでしょうからね」

『そうだね。じゃあ司は引き続き、渚沙ちゃんの護衛を頼んだよ』

「了解」

 と、直義からの命令を承諾した時だった。

 不意に陸堂家から、いいや部屋の一角から、その窓から強烈な発光が漏れ出て異変が生じた。

「な……っ」

 カッ! と光ったのはほんの一瞬に過ぎない。だが明らかに只事ではない事態に、司はスマホ向こう側にいる九条院直義に急いで言った。

「直義さん! 渚沙ちゃんの部屋から異変を察知しました! 新手の原罪者の可能性があります! 今すぐ中に入ります!」

『何だって? ……いや、少し待って司。もしかしたら異変っていうのは部屋じゃなくて––––』

 ギィ……と、だ。

 発光というインパクトのある異変とは裏腹に、次に起きた現象は静かなモノだった。

 もはや、静か過ぎて不気味ささえあった。

 そういえば、心霊現象というのもシンプルなモノが一番人間心理に恐怖を与えると、誰かが言ってたような気がする。

 扉。

 陸堂家の玄関の扉が、ゆっくりと開いたのだ。

「……」

 新手の敵?

 侵入された? でもどこから? 気配なんてなかった。見逃すなんてミスはしない。

 でも待て。

 確か雫の報告によれば、咲崎美玲は空間系のカルマも扱っていた。カルマは一人につきひとつだが、神器という可能性もある。

 なら、雫たちが敗北した? いや、それも考えにくい。彼女の実力は司も認めている。なにより彼女の性格を考えたら自分から負けを認めるとは思わない。

 では。

 扉の奥から出てくる者は。

 いったい、誰だ?

「……」

 臨戦体勢に入った司は、顔の近くに果実アルケを顕現させた。これで奇襲を受けても反撃は可能だ。

 そうして。

 軽い足音がひっそりと夜に響く。

 司は目を見開いた。

 扉の奥。

 その向こうに広がる闇の中から出てきたのは。

「……まさか」

『司、つかさ! その光は、光の正体は敵じゃない!』

 直義の声がスマホから聞こえるが、司は聴いていなかった。

 だって。

 中から出てきたのは。

「……まさか!」

『逃げろ司! 「ソレ」はもう……!』

 直義が何かを言っていた。

 聞こえなかった。

 直後。

 有無を言わさず。

 なんの前兆もなく。

 轟音と共に、白い光の奔流が、一直線に司を飲み込んだ。

 白光が解き放たれた場所には、もう何も残っていなかった。

 あるとすれば、怪獣の破壊光線を喰らったかのような光景が広がる、現実だけだった。


            

            2



「おォア!」

「ッあァ!」

 陸堂裕太と咲崎美玲が激しく火花を散らす。

 炎と鎖鎌。

 互いに常人の域を超えた力を最大限に行使し、第三者が介入できない状況を作り出していた。

 まるで神話の再現。

 一言で言って、只人が目撃すれば新しい聖典を作り出し、後世に語り継ぐであろう光景でもあった。

 裕太の炎を纏った拳が美玲の鎖鎌を見事に破壊して、刃のカケラが銀色にキラキラと光りながら散った。

 炎の煌めきを、微かに映している。

「新しい力を手に入れて舞い上がってるんじゃっ、ないわよ!」

「いいや舞い上がるぜ。これでようやくお前を堂々とぶっ飛ばせるんだからよォ!」

 火を纏った一撃が、情け容赦なく美玲の腹部にめり込んだ。彼女は盛大に吐血する。吹っ飛びそうになった体を、その意識を無理矢理食い止めて、歯を食いしばって、反撃に出た。

 鎖鎌、ではない。

 ただの拳だ。

「覚醒して一時間も経っていない子供に、私が負けるわけないでしょう!」

「時間の問題じゃねぇ。勝ちてえかどうかだ!」

 グゴキィ‼︎ と。

 両者の拳が、互いの頬にめり込んだ。瞬間、鈍い音が響き、ビリビリと軽い衝撃が空気を揺らした。

 裕太も美玲も、拳を頬にめり込ませたまま睨み合った。

「思い出したんだ、『原初の夢』を。……オレも、やっぱり見てた」

「何だっていい。私は私の望みを叶えるだけよ」

「お前の望みは、ナギを利用しないと叶わないのか」

「だからこうして。殺し合っている」

 ならば分かり合うことは最初から不可能だったのだろう。裕太にとって渚沙は自分の命よりも大切な存在だ。その妹を利用されて望みを叶えようとしている敵対因子を、みすみす裕太が見逃すはずもないのだから。

 だからこそ。

 それを分かった上で、美玲は裕太とわざわざ殺し合っている。本来なら裕太を無視して渚沙を殺しに行ってもいいだろうに、彼女はそうしなかった。

 それも今考えてみればおかしい話でもある。

 まるで殺しに対しても礼儀を重んじているような。

「……あなたは、どうしてそこまで妹を守ろうとするの」

 ふと。

 美玲が静かにそう言った。

 互いに拳を引き離し、わずかに距離を取った。

「どうせいずれは死ぬ命。それが遅いか早いかの違いでしかない。もしくは死因の違いなんかもあるでしょう。……それなのに、どうしてあなたは、そんな必死になってまで妹を守ろうとするの?」

 その質問の意味も、意図も。

 裕太には分からなかった。

 兄は妹を守る。

 それ以外に、理由なんてないからだ。

 確かに渚沙を守り通すためには力が必要だった。今まで通りじゃダメだった。これから先、妹を守るためには原罪という超常が必要だったのは紛れもない事実。

 でもそれは守備方法であって、目的ではない。

 妹を守るための目的。

 そんなのはない。

 ただ、純粋に。

 大切な人だから。

「オレとナギはさ、ガキの時に両親を事故で亡くしてんだ」

 裕太は息を吐いてから口を開いた。

 話す気なんてなかったけれど、何故だろう。

 気づけば言葉を紡いでいた。

 美玲はそれを邪魔することなく耳を傾ける。

「幸せな日常ってやつが、一瞬にして終わった時間だったよ。アダムとかイブとか、転生者とか。そんなしがらみなんて考えてもいなかったクソガキの時だ。オレは、その事故の前に『原初の夢』を見てたけど、事故が原因で忘れてたんだ。……それほどに、両親の死は大きかった」

「……」

「大切な人を失う痛みは、恐怖は、もう十分なんだ。あんな思いは二度としたくねぇ。……だから戦ってるんだよ。だから守るんだよ。一緒にいたいから。失いたくないから」

 自分勝手だと思うだろうか。

 他人のことを考えていないと、思われるだろうか。

 例えそうだとしても、裕太は自分の信念を曲げることはないだろう。

 一人なのは寂しいことだ。

 一人なのは悲しいことだ。

 一人なのは苦しいことだ。

 一人なのは辛いことだ。

 そんな思いをするくらいなら、いっそのこと死んだ方がマシかもしれない。でも、死んだら「死んでほしくないと願う人」に同じ痛みを与えることになる。

 死ぬのが遅いか早いかの違い?

 そんなのは神様の強引な意見だ。

 時間の問題なんかじゃない。

 いつか死ぬ命だとしても、大切な人とはずっと一緒にいたいと願うものだろうに。

「……分からないわね。あなたのそれは、あまりにもワガママな思想だわ。そんな都合の良いこと、この世界になんてありはしない。それがあったなら、最初から「原罪」なんて生まれていないのよ」

 「原罪」とはアダムとイブが犯した、この世界で一番最初の罪。それが後世に渡って子孫である人間に脈々と受け継がれている。

 神から生まれた先祖ですら、罪を犯さずには生きていられなかったのだ。

 完璧なんてこの世界には存在しない。

 だから裕太の考えは、美玲にとって理解が出来ないモノだったのかもしれない。

 大切な人同士、悲しい思いをすることなく享受を全うするなんて。……出来るはずもない、と。

「人は死ぬ。台風みたいに過ぎ去る災害に巻き込まれるように、理不尽の下命を奪われる。『自分が大切に思っている人は死ぬはずない』なんていうセオリーは、どこにもないのだから。……だったら、誰が誰をどう殺そうが、当事者以外には関係ない。……関係、ないじゃない」

 咲崎美玲のその呟きは、声色は、言葉は。

 どこか儚いモノだった。まるで過去に読んだ悲しい絵本の結末を思い出すかのようでもあった。

 気づけば、二人は戦いの手を止めていて、風が流れる音だけが聞こえていた。

「……なら。お前はどうなんだよ」

 しばらくして、裕太がそう言った。

 美玲は俯いていた顔を上げて、少年を見る。

「お前には。死んでほしくないって思える大切な人はいないのか。この人だけは泣かせたくないって、そう思える人はいないのかよ?」

「……わたし、は」

 紫髪の美女は片腕を押さえて、妖艶な体を縮こませる。触れられたくないモノに手を伸ばされたみたいに、彼女は顔を歪ませた。 

 その反応は、間違いなく『ある』者のソレだ。

 考えてみればそうだ。誰にだって大切な人はいる。それが親であれ兄弟であれ恋人であれ。死んでほしくないと願う人は必ずいるはずなんだ。途中でいなくなってしまう人も、中にはいるだろう。

 でも、始まりはみんな同じだ。

 だから、美玲だけが『いない』なんてことは、絶対にありえない。

 逆に言えば。

 分かるはずだ。

 失ってしまうかもしれないという、恐れを。

「……私には。何もない。そんなモノは、ないのよ。親も兄弟も恋人も、私にはいないし必要ない」

 何かを振り払うように。

 もしくは現実逃避をするかのように、美玲は長い髪を振り乱しながら首を横に振ってそう答えた。

 裕太は眉間にシワを寄せると、一歩近づいた。

「おいてめぇ。いま、自分に『嘘』吐いたな?」

「……。吐いてないわよ。知ったような口を叩くのもいい加減にしてちょうだい」

「いいや。てめぇは今『嘘』を吐いた。分かるんだよ。そーゆー顔をするヤツが、そーゆー言葉を言う時は、決まって『嘘』を吐いてんだ。漫画とアニメの常識だぜ?」

 もちろん最後の方はほぼ冗談だ。だが、ヤツが嘘を吐いたというのは間違いじゃない。

 おそらく、いいや絶対に。

 美玲は今嘘を吐いた。

 似ていたのだ。

 強がっている時の、ナギの顔に。

「……もう、うんざりだわ。あなたたちの、その他人を理解したような口振りを聞くのも。私は私なのよ。私以外、私を理解できる人間なんていない」

「……寂しくないのか、その生き方」

「……なんですって?」

 他人に自分のデリケートな部分に触れられて苛立つ美玲は、裕太の知ったような口に対して顔を顰めた。

 一方で、裕太はそれを承知の上で言葉を続ける。

「自分は一人だから、周りからどう言われようが関係ない。自分は一人だから、自分の考えが全て正しい。自分は一人だから、自分が一人いれば、それでいい。……そんな、自分から一人になりにいく生き方、寂しくはないのかよ?」

「……っ」

 同情。

 あるいは、憐れみ。

 まるで公園でぽつんと一人、砂場で遊んでいる子供を見ているような悲しい表情になった裕太を見て、咲崎美玲は唇を噛んで反論の言葉を飲み込んだ。

 食い込んだ。

 確実に、今。

 裕太の言葉は美玲の心の琴線に爪を入れた。

 ここが攻め時だ。

 暴力だけでなく。

 言葉の。

 裕太は少しずつ、美玲に近づいていく。

「最初から一人なんてありえねぇ。殺人鬼も変態も、バカもアホも、原罪者も非原罪者も。みんな親から生まれてる。そこから人生は始まって、歩き方によって分岐して、生き方も違ってくる」

「……やめて」

「お前が今までどんな人生を歩んできたかなんてオレには分からねえ。人殺しのお前しか、オレは知らねえ。……でもな。それだけがお前の全てじゃないってことくらいは、拳を交えて分かったぞ」

「……こないで」

「ナギが目的なら、最初みたいにナギを直接狙えば良かったんだ。ナギが必要なら、最初からオレたちに構うことなく殺しに行けばよかったんだ。それなのに、お前はそうしなかった。……なんでだ?」

「……それ以上、何も言わないでっ」

 一歩、また一歩と近づいていく裕太を、美玲は恐るかのように下がっていく。ゆっくり距離を取っていく。そんな彼女の顔は、今にも泣き出しそうな子供のようだった。

 ずっと疑問だった。

 どうして咲崎美玲は、渚沙を直接狙わらなかったのか。わざわざこちらが攻めてくるのを待ち、自ら険しい道に進んで目的を達成しようとしていた。

 いいや。

 例えこっちの相手をしてから渚沙を狙ったとしても、美玲なら裕太と雫なんて瞬殺できたはず。

 だけど「口裂け女」と呼ばれている女は、そうしなかった。自分が楽をできる道を、歩まなかった。

 どうして?

 

 ––––そんなの。考えるまでもない。


「いたんじゃないのか、お前にも。オレのように、いいや。みんなと同じように、大切だと思える人がいたんじゃないのか。だから殺さなかったんだ。……いや、殺せなかったんだ。オレも奈切も、ナギでさえも。お前は躊躇したんだよ」

「……違う。そんなはずない。そんなはずがないでしょう。私があなたたちを殺すのに躊躇した? そんな妄想を押し付けないで。躊躇していたら、今こうしてあなたと殺し合ってないわよ」

「それなら! どうしていつもいつも! トドメを刺す瞬間にオレも奈切も間に合ってるんだ! それはテメェがオレたちを殺す瞬間、迷ってるからだろ! どーなんだ、咲崎‼︎」

「……っ!」

 裕太は怒鳴った勢いで、さらに歩みを強めた。一歩一歩確かに、美玲に近づいていく。紫髪の美女は裕太の怒声にビクつくと、果実アルケを虚空に作り出す。

 ずっとおかしかった。

 本来なら、裕太も雫も、ピンチに間に合わないはずだった。いつもいつも間に合うなんて、そんなご都合主義みたいにこの世界は廻っていないし、神様も優しくはない。そんな作りをしていたら、原罪なんて生まれていない。

 にも拘らず、実際に彼らは間に合った。

 これは可能性の話なのだが。

 美玲は、待っていたのではないか?

 渚沙が助かるために必要な人材を。

 それこそ、ヒーローのような存在を。

「逃げてんじゃねぇぞ……。自分の本心から逃げてんじゃねぇぞ! 取って付けたような言い訳を並べて曖昧に歩いていいワケねぇだろうが! お前が誰にどう嘘を吐いてもオレは死ぬほどどうでもいいけど、自分テメェに嘘は吐くんじゃねぇ!」

「うるっさいのよ! 私は嘘なんか吐いていないわ、決めつけないで! ……私の選択は! 私の行動は! 私の言葉は! 何もかも本心よ!」

「自分を追い込むだけの意地なんて張ってんじゃねぇよ! そんなのは本心って言わねえ。現実逃避をしているだけだ!」

「……だったら!」

 叫んで、美玲は果実アルケを掴んだ。

 それを見て、裕太も果実アルケを顕現させて掴む。

「証明してやるわよ! 私の本心を‼︎」

 ガジュリ! と。 

 美玲は乱暴に果実アルケを食べた。

「否定してやるよ! お前の嘘心を‼︎」

 ガジュリ! と。

 裕太も乱暴に果実アルケを噛み砕いた。

 そして、やっぱり言葉だけでは分かり合えなかった。それが原罪者同士の争いだからなのか。それとも同じ時間を歩んでこなかったからなのか。

 解決方法は、やはり力しかないのか。

 陸堂裕太と咲崎美玲。

 両者の罪が、激しく吠えた。

「邂啓! 〈ジャックの愛〉‼︎」

「原罪! 〈アダムの涙〉‼︎」

 裕太の全身を、煌めくオレンジ色の炎が包み込み、美玲の全身を、ジャラジャラとした蛇のような鎖鎌が包み込んだ。

 そして先に打って出たのは裕太だった。

 彼は走ればすぐ拳が届く距離ですらもどかしいと考えて、その場で炎を解放した。具体的には、裕太は拳に纏った炎をそのまま放出するイメージで解放したのだ。

 ゴァ‼︎ と。

 凄まじい熱気と炎の破壊力が、咲崎美玲に襲い掛かる。

斗具路とぐろ蛇縛じゃばく!」

 対して。

 美玲は鎖鎌を使って炎の奔流をぶち壊す。鎖が蛇のとぐろを巻くかのように炎に絡みつき、そのまま獲物を締め殺すが如く霧散させた。

 ボァ‼︎ と、辺り一面に火の粉と炎の波が広がり、空気が焼けた。

 一撃目は通じなかった。

 だがこれで終わりなわけじゃない。というより、防がれることは想定済みでもあった。ヤツは覚醒したての裕太と違い、戦い慣れたベテランの原罪者。最初の不意打ちは当たったが、ずっとこちらの流れで圧倒出来るとは到底思えない。仮に裕太の原罪の方が強くても、だ。

 経験の差はすぐには埋められない。

 だから、一撃目は必ず防いでくれると、裕太は美玲を信じていた。

 だから、この行動が出来た。

「……なっ」

「技名を考えてみたぜ。––––掌帝・焔!」

 裕太は一撃目の炎を放った瞬間、自らその炎の中に身を投じて疾走していた。完全に相殺したと美玲に思わせ、その隙を狙って殴り飛ばすために。

 結果、裕太の作戦は成功に至る。炎を纏った掌が、美玲の鳩尾に直撃した。

「ご、ぁああ⁉︎」

 ドンッッッ‼︎ という激音が響き、衝撃が美玲の背中を突き抜けた。炎が揺らめき、彼女の身を焼いて魅せる。

「まだまだぁ!」

 炎を纏った拳を握り締めながら、裕太は吠えて連撃を放った。妖艶な体をくの字に曲げて吐血した美玲の顔や胴に、次々と打撃の嵐を叩き込む。

 骨が、筋が、肉が、泣き喚く感覚が拳に返ってくる。

「起こしてやるよ、てめぇの眠ったままの頭を! そのひん曲がった魂を!」

「ぐ、うぅ……っ! 調子に乗るなぁぁあ!」

 合計十二発の炎拳の連撃を喰らった美玲が、血反吐を吐きながら叫んで反撃に出た。防戦一方だった戦況が、一転する。

 美玲の鎖鎌が、その刀身が、鎖が、全てが三日月形の刃に変わって裕太に襲いかかった。まるで剥き出しになった獣の牙が乱雑に並んだような、殺傷能力にだけ特化した武器。

 ザクザクザク‼︎‼︎ と。

 裕太の全身を、乱れ刃が切り刻んだ。

 顔にも、口元から耳下にかけて、裂傷が刻まれた。

 血が飛沫を上げた。

「……っ!」

「あはは! よく似合ってるわよ、その傷! いいザマだわ、アダム! ……いいえ。陸堂裕太!」

 暴走。

 その二文字がよく合う雰囲気だった。顔も、全身に纏うオーラも、能力も。咲崎美玲の全てが、暴走という名の力の奔流に呑まれていた。

 狂戦士。

 いや、狂殺人鬼と呼ぶべきか。

 裕太の口元に、自分と似たような傷が出来たことを認知すると、美玲は更に攻撃の手を加速させた。

 愉悦に恍惚に、心底嬉しそうに。

 裕太の返り血が彼女の顔に着いた。

 血化粧をした顔が、殺しの呪いに染まった鬼のように綺麗だった。

 それを、そんな彼女を見た瞬間、裕太は切り刻まれながら思った。

「……。そっか。お前はずっと、一人で苦しんでたんだな」

「あはは! 死ね、死ね死ね! 私の邪魔をする奴は、全員死ね! 切り刻んで殺してやる! 口を裂いて殺してやる!」

 切られる。

 裂かれる。

 血が吹く。

 美玲の顔に着く。 

 美玲の手に着く。

「誰にも相談出来なくて、一人で抱え込んでたんだな。殺しが最良で最善の解決方法だって、信じて疑わなかったんだな」

「アハハハ! これが私の力よ! 誰も私には勝てない! この力があれば誰も私に逆らえない! 誰も私から何も奪えない! 誰も私に近づいてこない!」

 裂かれる。

 斬られる。

 血が舞う。

 美玲の目元に着く。

 美玲の口元に着く。

「一人でいれば辛いことも悲しいことも、痛いことも嫌なことも全部自分だけ背負えばいいだけだから。周りには何の迷惑を掛けることなく生きていける。……そうすれば、誰も悲しまないって。そうすれば、強くなったと思えるからって。……嘘をついていたんだなぁ」

「キャハハははははハハハははは! 裂けろ裂けろ! 全部全部裂けちまえ! ……ちゃんと見てる、見えてる、見てくれてる⁉︎ ねぇ、『玲花』!」

 裂傷。

 裂傷。

 裂傷。

 血。

 血。

 血。

 ……でも、それ以上に。

「……もう十分だ。これ以上は、もうダメだ」

 キン、と。

 静かに音が鳴った。

 パラパラと、何かが宙を舞っている、落ちている。

 銀色の光を帯びている。月明かりを反射している。

 美玲の乱杭刃だった。

 ギザギザした鎖鎌が、一つ残らず破片となって地面に落ちていっていった。

 裕太が、敵意も何も感じさせない、けれどどこか寂しそうな表情をしたまま、鎖鎌を右手一本で全て粉砕したのだ。

 時間が止まっていた。

 美玲の手も止まっていた。

 彼女はこれ以上攻撃に動くことなく、ただ呆然としながら自分の武器の命の終わりを見届けながら、静かに息をしていた。

 彼女の目元から、何かが頬を伝っていた。

 先程着いた、血。

 まるで血涙。心にひどくダメージを負った者の、悲しい色をした涙。

 口元からは、傷が流しているように思える、血の滴が伝い地面に落ちた。

 そっと、裕太が口を開いた。

 美玲の手を、優しく握り締めながら。

「……ナギを殺そうとしたことは、絶対に許せない。でも、お前の事情を何も知らないで一方的に嫌いになるのは、違う気がした。何かあるなら、話してくれ。ずっと抱え込んでたモノを、吐き出してくれ。オレたちはもう、『殺し合った仲』じゃねえか」

「……」

 殺し合った仲、とはよく言ったモノだと裕太は自分で口にしておいて自嘲する。

 生きていく中で、殺し合ったと言葉にするのはなかなかどうして稀なことだ。

 でも、それは事実。

 だから、と言ったら変かもしれないけど、殺し合えば分かってくることもあるし、ある意味で距離は縮まる。 

 あの時あの瞬間。

 美玲の顔に血がついた時。

 裕太はふと、クラスメイトで親友の無明むみょうはじめの言葉を思い出したのだ。


 ––––口を裂くという殺人方法にこだわっている。

 ––––執念。

  

 ずっと渚沙を狙っている理由しか聞いてこなかったが、そもそもどうして美玲は被害者全ての殺害方法を『口を裂く』に限定したのだろうか。

 もしかしたら、過去に何かあったのではないか?

 美玲の顔と、何か繋がりがあるのでは?

 

 ––––『玲花』。


 その、誰かの名前が決定打だった。

 裕太の中で、妄想が確信に変わった。

  

 美玲は、『玲花』という誰かに拘っている。

 

「……あなたには、何も関係ない。辛くないし悲しくない。だから……」

 へたり込もうとした。

 美玲は力無く、座ろうとした。

 流石に我慢の限界だった。

 どこまで嘘をつくんだ、と。

 ブチ、と。

 裕太は犬歯で唇を噛んだ。

 血の味を噛み締めながら、裕太は美玲の目の前で吠えた。怒鳴った。

 現実逃避をする女の子の両手を強く握って、正面から堂々と。

「うるせえ! さっさと自分の嘘心を切り裂けよ! オレたちを裂いたみたいに! ……それがてめぇの『罪』なんじゃねぇのか⁉︎」

「……っ」

 咲崎美玲。

 原罪・『裂く』。

 〈奔放な切り裂き魔〉。

 これは何も、外界の理だけを対象にしているとは限らない。

 『心を閉ざして仕舞い込んだモノを、その箱を引き裂いて、中身を露出することもできる』。

 検証はされている。

 陸堂裕太。

 彼は美玲の原罪を喰らい、記憶の底に封印した『原初の夢』を思い出すことに成功している。

 さらにダメ押しとして。

 奈切雫もまた、トラウマである『家の記憶』を思い出している。

 ならば、能力者本人もまた例外ではないはずだ。

 出来ないとは死んでも言わせない。

 自由『奔放』で全てを『切り裂』く『魔』法のような力は、きっと本人の硬化しきった心さえも。

 だから。


「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………妹を、助けたかった」

 

 震えた声だった。

 涙声だった。

 美玲の顔は、まるで宝物を取られた子供みたいに涙と鼻水でくしゃくしゃだった。

 彼女は。

 嗚咽しながら。

 こう続けたのだった。


「『通り魔』から、妹を助けられなかった自分が、心の底から大嫌いだったの……………ッッッ」

 

 涙の色が。

 心が泣いているみたいに。

 赤色だった。



          2



 ––––咲崎美玲に原罪が宿ったのは十八才の時だった。


 それまで彼女の人生はごく普通なモノで、異能とか原罪者とか、そういった裏の世界とは無縁に生きていた。

 何の前触れもなく、蛇と果実が出てくる夢を見て、次の日の朝、起きた瞬間に自分が昨日までの自分ではないと自覚する。

 しかし、異能に目覚めたからといってその能力を自慢して、大々的に行使するかどうかは本人次第。

 悪用するのか人助けに使うのか。

 美玲はどちらでもなく、そもそも力を使わなかった。

 怖かったからではない。

 単純に興味がなかったし、使う場面なんて皆無だったからだ。

 悪いこととか人助けとか、そんなものに構っている暇は美玲にはなかった。もっと他に、やらなければならないことがあったからだ。


「––––もうお姉ちゃん! 早くしないと遅刻するよ!」


 少女特有の甲高い声が、白を基調としたシンプルな部屋に響く。美玲は寝起き眼のまま布団に寝転がりながら、声がした方を見る。

 扉を開けて美玲を『お姉ちゃん』と呼んだのは、紫髪を長く伸ばし、絶世の美女だと全世界の人間が思うであろう容姿をこれでもかと魅せる少女だった。

 ブレザー制服に、華奢な身体。

 咲崎玲花。

 美玲の妹である。

「……玲花。朝からうるさいわよ。紅桜編に出てくるお兄さんくらいうるさいわよ。静かにして」

 と、「黒髪にショートヘア」の美玲はそう言いながら毛布にくるまって二度寝に入ろうとした。しかし簡単に睡眠という名の天国には行かせてくれないらしい。玲花はムッとすると美玲のベットに近づき、毛布を奪い取った。

「お姉ちゃん! ち、こ、く! 早く起きて!」

「……なんなのよ。部活をサボる部員に厳しく当たるマネージャーか何か? 私この後更生して熱心に部活に取り組むの?」

「部活じゃなくて学校! ……いや部活も学校に行くようなものか。いや、そうじゃなくて! 部活は遅刻していいけど学校はダメ! さっさとベットから出て朝支度していくよ! 待ってるからね!」

「……部活はいいのね」

 ちょっと玲花の遅刻基準が分からない美玲は首を傾げつつもベットから起き上がった。時刻は朝の七時半。なるほどそろそろ準備をしないと確かに遅刻してしまう。 

 あくびをしながらベットから出て、机の上に置いてある化粧鏡を見て、自分の眠そうな顔が映った。相変わらずひどい顔だ。まるで妹と似ていない。

 何事にもやる気を感じない表情。ほぼ全てのことに対してどうでもいいと感じているような瞳。

 同じ血が流れてるはずなのに、こうも顔面偏差値に違いがあると笑えてくる。まぁ、別に気にしたことはないからいいのだけれど。

「……準備しますか」

 玲花は美玲の二個下で今年で十六才。最近ようやく高校に入学したばかりのピチピチJ Kである。そして玲花は美玲と違い社交的で人当たりが良く、誰とでも仲良くなれる女の子。更には顔がモデル並みだから、将来有望株の美少女として最近雑誌デビューを果たした。本人も将来はそういった業界で生きていきたいと美玲にだけ語ってくれていたのを覚えている。

 美玲もそれは素晴らしいことだと思った。

 玲花が誰よりも努力をしていることは知っていた。肌のスキンケアや髪の手入れ。ファッションセンスを磨いたり、最近のトレンドを常にチェックしたりと、彼女が本気で「テレビに映るような仕事」を頑張ろうとしているのは、美玲が誰よりも知っていたのだ。

 だから、自分の顔が彼女と似なくてよかったと思う。玲花の顔は世界で一つだけ。この世に二つもいらない。似ていることさえ許されない。それは日々努力をしている彼女に対して無礼なことだから。

 だから、美玲は玲花の影になるように生きていく。

 自分が目立たなくても構わない。目立たなくていい。

「お待たせ、玲花」

「ううん、大丈夫! さ、行こお姉ちゃん!」

「はいはい」

 無邪気に嬉しそうに、お日様みたいに笑って美玲を待っていた玲花。姉でも見惚れてしまうほど。

 そんな子だった。

 そんな子だったから、美玲は自分の全てを与えてもいいと本気で思っていた。

 みんなから好かれる人気者。

 みんなを好きでいられる善者の女の子。

 

 ––––なのに。


「––––いやぁああああああ!」


 幸せだった日常が、何の前触れもなく瓦解した。

 何てことはない、いつも通りの一日を過ごしていた、その夕方。美玲は家にいて、玲花は雑誌の撮影があるとかで帰りが遅くなると親から聞いていた。

 時刻は夜の七時。

 すっかり暗くなった外を自分の部屋の窓から眺めて、流石にあんな可愛い子が夜道を一人で歩くのは危ないと思った美玲は、身支度を軽く済ませて迎えに行った。

 連絡したらすぐに帰ってきて、あと五分もしない内に家に着くという。それでも美玲の足は止まることなく、玲花の元へと真っ直ぐ進んだ。

 そして美玲の運命が回り始め、玲花の人生がどん底に落ちる瞬間は、あっさりと幸せの時間を食い破って顔を覗かせた。

 通り魔。

 鎌のような刃物を持った男が、街灯下で玲花の顔を裂いたところを、美玲は目撃した。

 玲花の絶叫が響き、通り魔は美玲に気づくとそのまま慌てることなく、ただひっそりと笑って夜の空気に溶けるように消えていく。

 美玲はその場から数秒動けずにいて、玲花が顔を抑えながら呻いて泣き喚く姿をしばし見つめる。


––––あぁ。やっと壊れてくれた。


「……っ!」

 吐き気がした。

 涙が出そうになった。

 どうして今、とんでもない状況なのに、妹の顔が傷ついたところを見て、安心してしまったのだ? どうして、いい気味だと思ってしまったんだ?

 耐えられなかった。 

 目の前で泣いて苦しんでいる妹を他所に、自分が今までずっと気付かないフリをしていた『嫉妬』に目を向けた瞬間、自己嫌悪が止まらなかった。

 その場で吐いた。

 自己嫌悪を、その醜悪さを吐き出すように。

「……れ、玲花。れいか……っ」

「いたい、いたいよお姉ちゃん……っ。助けて、お姉ちゃん……っ」

「だ、大丈夫。顔の傷なんてすぐに治るわ。早く病院に……」

 つい、だ。

 言葉を呑んだ。

 目を疑った。

 あんなに可愛かった妹の顔が、ぐちゃぐちゃになっていた。口元から耳下に掛けて、裂傷が刻まれていた。まるで都市伝説に出てくる「口裂け女」のようだった。

 そんなこと、妹には言えない。

 いずれ分かることとは言え、今は言えない。

 だから美玲は玲花を連れて病院へ行き、通り魔は警察に通報した。

 それから二週間が経過して。


「…………………………………………あはは」


 妹は壊れた。

 夢が、潰えたのだ。

 玲花の今の顔じゃ、テレビには出れない。モデルにもなれない。学校でも不気味がられ、欲しくもない心配と憐れみを受けて。周りはみんな離れていって。

 いつしか妹から明るさは無くなり、部屋に引きこもるようになった。

 毎朝起こしに行って、学校に行こうと言うのは玲花の役目だったのに、今は美玲の役目。

 全部が逆になった。

 顔の良さも。

 生活も。

 何も、かもが。


 そして、その日が来ることは必然だったのかもしれない。

 雨が降る放課後。

 鉛色の空が薄気味悪く広がる時。

 美玲が玲花の部屋に行くと、妹がどこにもいなかった。

 嫌な予感がして、美玲は外へ飛び出し玲花を探した。名前を呼んで、思い当たる場所には全て行った。

 学校の前で雨に濡れながら息を整えていた時、一通のメールが美玲のスマホに届く。 

 アプリを開き、メールを確認する。

 玲花からだ。

 そこにはこう書かれていた。


 ––––ねぇ、私。キレイ?


 写真の添付。

 開く。

 傷は完治しているが、裂傷の痕が残った、綺麗さの名残がある顔で、玲花が精一杯笑っていた。

 雨に濡れている。

 今撮ったのだろう。

 綺麗だと、本気で思った。

 そして彼女がいる場所が、写真のおかげで分かった。

 事件があった、あの街灯下だ。 

 美玲は走ってそこへ向かう。謝ろう。全て包み隠さず話して、謝ろう。

 大丈夫。

 玲花は玲花だよ。

 ずっと可愛くて、キレイなままの。

 きっと夢は叶うから。

 そうしたら、二人でさ……。


「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」


 ザーザーと、雨が強くなっていた。

 アスファルトに流れる雨の色が、赤色に変色しつつあった。

 玲花が、街灯に背を預けて死んでいた。

 包丁で喉を貫いていた。

 全身血塗れだった。

「……れい、か」

 その場で美玲はへたり込み、玲花の顔に手を伸ばす。傷を優しく治すように。

「……れいか。起きて」

 起きない。 

 学校には行かないし、雑誌の写真撮影もないから。

「れいか……。起きて、起きてよ」

 起きない。

 モデルにはなれないし、みんなに捨てられたから。

「れいか、玲花! …‥起きて、起きなさい! ……起きて、起きてよぉ……っ。れいかぁ……っ!」

 起きない。

 だってもう。

 妹は死んでいるから。

「ぁあああ。ああああ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎」

 どれだけ叫んでも。

 妹には届かない。

 どうしてもっと早くに気づいてあげられなかったんだろう。どうしてもっと早く、味方になってあげられなかったんだろう。どうしてもっと早く、彼女を助けることが出来なかったんだろう。

 どうして、どうして、どうして。

 雨が降っていた。

 ザーザーと、雨が降っていた。

 美玲はずぶ濡れになりながら、玲花を抱き締めて泣いていた。

 涙の色は。

 心が泣いているみたいに、赤かった。

 

 それから、数日後。

 美玲は未だに捕まらない通り魔を探すが、一向に見つけられなかった。

 

 それから、数年後。

 美玲はある人物に出会い、奇跡みたいな話を聞く。

 

 ––––『イブの転生者』を探して、その『魂』を失落させなさい。そうすれば、『イブの転生者』の原罪が、あなたの願いを叶えてくれるでしょう。


 原罪。

 久しく忘れていた言葉。

 そうだ。

 自分には特別な力があるのだから、これを使えば何だって出来るではないか。

 美玲の望み。

 それはもう一度、『玲花に会うこと』だ。 

 会って、謝りたい。

 今度こそ、一人にしない。

 でも、そのためにはまず初めにやらなければならないことがある。

 一つ目は、『イブの転生者』に会うこと。

 どんな人物なのか。どういう工程を経れば、転生者の魂は失落するのか。堕ちるのか。

 美玲は『望みを叶えるために必要な方法』を教えてくれた人物に言われた通り、とある中学校に足を向けた。

 名前は陸堂渚沙。


「渚沙ちゃん! また明日ねー!」

「––––うん! また明日!」


 茶色い髪をポニーテールにした、可愛い女の子。

 セーラー服がよく似合う女子中学生。

 不意に、重ねてしまった。

 自分の、妹と。

 似ているわけじゃない。顔も形も、声だって似ていない。

 でも。

 あの、お日様みたいな笑顔は。


「……苦しませずに」


 都合がいいことはわかっている。

 こちらの勝手な願望に巻き込むのだから、相手にだって相応の試練を与えることになる。

 でも、出来れば辛く苦しい思いをさせないように。

 あの子に直接害を与えずに。例えば、自分のせいで大勢の人が死んだと思い込ませることに成功すれば、人の心は簡単に失落するのではないか?

 そのためには、多くの人を殺す必要がある。

 そうして、望みを叶えられれば。

 

「……あとひとつは」


 罪を背負うことだ。

 明確な悪にならなければ、後悔に押し潰されてしまう。だから、強引で傲慢な、不遜で我儘な人間にならないと。

 美玲は、ザクッと。

 自分の顔を鎌で引き裂いた。

 玲花と同じように。

 傷があってもキレイだと、証明するために。

 この傷を、自分の罪を忘れないために。


 そして。

 五月十日。

 新宿歌舞伎町の夜の下に。


「––––ねぇ。私、キレイ?」


 ––––悲劇の「口裂け女」は、誕生した。


 

           3



「……そうか。だからお前は……」

 悲痛で悲惨な、美玲の物語を耳にして、裕太はさっきまで抱いていた全ての敵意が霧散していく感覚を味わいながら、悲しい目をしていた。

 もう。

 とてもじゃないが殴れない。

 敵だと、思えなかった。

 だって、あまりにも辛すぎるじゃないか。

 やり方は間違っていたけれど、決して褒められるモノじゃないけれど、彼女の「望み」と、その発端は絶対に悪ではないから。

 誰だって、大切な人には会いたい。

 もしも叶うのなら、どんな手でも使う。

 美玲の気持ちは、痛いほどわかった。

 多分、裕太も美玲と同じ立場だったら、同じを選択をしていたと思う。

 ……でも。

「気持ちは、痛いほど分かる。お前が妹を助けられなくて自責の念に押し潰されて。そして妹ともう一度会うために、その方法に手を伸ばす切実な願望も。……でも、やっぱり「殺人」はダメなんだ。殺人をしちゃったら、もう「その頃」には戻れねぇよ」

 へたり込んだ美玲の手を包み込むように優しく握っている裕太は、彼女の泣き顔を見ながらそう言った。美玲はそんなことを裕太に言われなくても分かっていると言いたげに、けれど実際には口に出せずに、唇を浅く噛んでいた。

 それからしばらくして、美玲は息を吐いてから呟いた。

「……私は、あの子に何もしてあげられなかった。あの子の夢を応援すると口だけでは立派なことを言っていたけれど、心の奥底では妬んでたのよ。何であの子ばっかり、どうしてあの子ばっかり、って。……そんな自分が、どうしようもなく嫌だった。だからその罪を背負った。だから贖罪のために自分を傷つけた。そうすることで、あの子の美しさは揺るがないモノになると思ったから」

「……違う。それは違うぞ、咲崎」

 裕太は首を横に振ると、美玲の手を更に強く、優しく握った。

 美玲は泣いて赤く腫れた目で裕太を見返す。

「お前が罪を背負っても。お前が贖罪のために自分を傷つけても。お前の妹は喜ばない。そんなのは、ただの自己満足で終わるだけなんだ。……お前の妹はさ、お前が自分のために人を殺したって知ったら、どう思う? どんな言葉を、お前にかけるんだよ?」

「……」

 その時。

 その瞬間。

 美玲の瞳の向こう側には。

 確かに。


『––––お姉ちゃんのバカ! 私なんかより、自分の幸せを掴んでよ。私はそっちの方が、嬉しいよ』


 お日様みたいに笑った玲花が……。


「……違う。違うの、玲花。私は、わたしは、ただ……。あなたにどうしても、謝りたかったの……っ」

 ボロボロと、美玲の瞳から大粒の涙が溢れてくる。

 あとからあとから、頬を伝って流れていく。

 謝りたかった。

 心の底から、あなたに謝罪をしたかった。こんなどうしようもない姉だけど、あなたを愛していたことは揺るがない真実だったから。世界で一番可愛くて、本気で夢を応援していたから。

 妬んでいたなんて。

 羨んでいたなんて。

 嘘だ。

 全部全部、嘘なんだ。

 ただ、私も一緒に、あなたと同じように、同じ場所にいたかった。

 ひとりは、寂しいから。

 ずっと、一緒にいたかった。

 それだけだったのに……。

「泣くなよ、咲崎」

 陸堂裕太。

 彼は美玲の涙を拭いながら、そう言った。

 まるで自分の妹に、そうするかのように。

「お前はやり方を間違えたけど、それでもお前が妹を愛していた事実は変わらない。もし、お前の愛が間違ってるなんて言ってきたやつがいたら、オレが全員ぶっ飛ばしてやるから。……だから、もう泣くなよ」

「……………っ」

「大丈夫。オレがお前の味方になってやる」

 世界は理不尽で不平等で、冷酷な現実を個人に押し付けてくる。それは時には心を破壊して、かき集めても取り返しがつかないくらいに粉々になってしまう。

 それでも一人じゃなければ、人は何度だって立ち上がることができるはずだ。それこそが人間の強さのはずだ。

 ここに咲崎美玲という、ひとりの女の子がいる。

 年上で綺麗な、少しだけ道を誤ってしまった女の子。だけど妹想いで、その実とても優しい女の子だった。

 そんな子が一人で悩んで膝を抱えて蹲って、顔をくしゃくしゃにして泣いている。

 手を差し伸べないなんて選択は、最初からないはずだ。そこまで冷たくする必要はないはずだ。

 誰だって、過ちはある。

 誰だって、辛い過去はある。 

 あとはそこに触れてくれて、優しく甘く、傷を舐めてくれるような、そんな人との出会いがあれば。

 それだけで、救われる心はきっと……。

「……もう少し早く。あなたと出会いたかったわ」

 淡く、それでいてどこか垢が取れたような、ずっと縛られていた鎖から解放されたような、年相応のキレイな笑みを浮かべると、美玲はそう言った。

 彼女は自分の手を握ってくれていた裕太の男らしい手をゆっくり離して、涙を自分で拭う。

「今更だけど、イブのことはごめんなさい。もう、あの子のことは狙わないわ。……最初から、裏技なんて使う必要なかったのよね」

「あぁ。あとはお前が自分の罪と向き合うだけだ。オレはずっと、お前の味方だし、お前を待ってる」

「フフ。何年もかかるわよ。それこそ、お婆ちゃんになってるかも」

「それでもだ。何年、何十年経っても、オレはお前を待ってる。その時は、みんなでメシでも行こうぜ! にしししし!」

「……まったく。あなたには振り回されてばかりだわ」

「いやそれは割とこっちのセリフ」

 なんならずっと被害者はこっちである。振り回されてるどころか、地球一周分くらいぶん回されている気がする。

 などと軽口を叩き合い、お互いに笑い合った。

 ボロボロもボロボロ。二人してボロ雑巾みたいだ。

 これから先、美玲にのし掛かってくるのはとてつもなく険しい道のりと、罪の重圧だろう。ともすれば生きていたくないと思えるほどかもしれない。

 それでもひとりでも誰かが外で待っていると考えただけで、気持ちは随分と楽になるはずだ。

 裕太と美玲はゆっくり立ち上がる。

 美玲が口を開いた。

「〈エデン〉の子は、あの子も伊達に原罪者じゃないと思うから、きっと大丈夫だわ」

「いやお前があそこまでズタボロにしたけどな」

「そしてあなたの妹。イブのことだけど」

 と、美玲が真剣な表情でそう言ってきて、裕太はすぐに口を閉じた。

 美玲の目的は、渚沙の魂を失落させることで、イブの原罪を発動させて『望み』を叶えることだった。彼女の望みは妹にもう一度会うこと。イブの原罪ならそれが可能だったという。

 だが、今現在彼女にこれ以上強引に望みを叶えようと思わせる意志は感じられない。

 だから、これで万事解決だと安心していた。

 しかし裕太は美玲に「妹のこと」と言われてハッとする。

 もし仮に、渚沙の魂が既に『失落』していたとしたら? 美玲に望みを叶える意思がなくても、渚沙に異変が起きてしまったら手遅れなのでは?

「心配しないで。そっちもおそらく大丈夫だわ」

「……本当か?」

 クスリと笑って、美玲は裕太にそう言った。

 裕太が聞き返すと、美玲は頷いて、

「ええ。まだ私の行動と言動だけじゃ、彼女の魂を失落させることはできなかった。だから大丈夫。あの子はあの子の『まま』よ」

「……そ、そっか。よかった。……本当に、よかった」

 安心が、全身を駆け巡って、裕太はつい地面に座り込んだ。

 渚沙の顔が、脳裏によぎる。

 今頃家で寝ている渚沙の顔が。

 ここまで安心に気持ちを支配されたのは久しぶりだった。それこそ事故にあった時渚沙が無事だったと確認が出来た時以来だ。

 これでもう、渚沙に危険が及ぶことはない。

 これでもう、渚沙は日常に戻れる。

「立てる? 手を貸すわよ」

「あ、あぁ。わりぃ、ありがとう。ていうか、お前が原因だからね。お前が敵役だからね」

「耳が痛いわね。裂いちゃおうかしら」

「もっと痛いわ!」

「あらあら。裂くらい対したこと––––」


 ……ドッ。



           4



「––––お兄ちゃん。みーつけた♡」



           5



 時間が止まっていた。

 目の前に広がる景色が全て白黒に統一され、世界が鼓動を止めたみたいだった。

 人間は、自分の脳の処理能力を越える現象が発生すると数秒フリーズして、呼吸すらも忘れるという。

 では。

 ここで時を動かしてみよう。

 秒針を正しい速度で動かしてみよう。

「……ゴフッ。……かはッ!」

 白黒の景色に、異物が混ざる。

 赤。

 鮮やかな赤。

 鮮血。

 誰の?

「……さっ」

「ありゃりゃ。血が沢山♡」

「咲崎ッッ‼︎⁉︎」

 紫色の髪の毛を長く伸ばした美女。  

 咲崎美玲が、胸の中心を抉られて盛大に吐血したのだ。ほっそりとした少女のような手が美玲の胸から突き出ている。血がドバドバと落ちている。

 ほっそりとした腕が美玲の胸からゆっくりと外れていく。美玲の体が裕太に倒れかかる。裕太は美玲を抱き支え、傷口を押さえて、叫んだ。

「さきざき、咲崎っ! おい、しっかりしろ! 死ぬんじゃねぇ、こんなところで死ぬんじゃねぇぞ! こ、こんなっ。こんな終わり方、オレは絶対認めねぇぞチクショウ‼︎」

 傷口を必死に押さえても血は止まらない。どんどん溢れてくる。美玲の血が裕太の服を、手を、体を赤に染めるだけで、止まることはない。

 どうしてこうなった。

 なんでこんなことに。

 荒い息を吐いて、必死に美玲の傷口を押さえて、裕太はゆっくり顔を上げた。

 突然すぎてすぐに反応出来なかったが、ちょっと待ってくれ。

 美玲をこんな目に遭わせた新しい敵対因子は今、なんて言った?

 嘘だろ。

 冗談だと言ってくれ。

 そう思いながら、裕太は顔を上げていく。

「……」

 目に映ったのは、白く細い手足を過度に外気に触れさせ、華奢なお腹や背中を出した踊り子のような服装で立つ少女だった。

 色は白金。

 神々しく淡く輝く光を纏う、少女だった。

 銀色の髪の毛をポニーテールで束ね、頭頂部には天使の輪っかを浮かべ、背後には神様のマークでもある光輪があった。胸の中心には入れ墨だろうか? 『蛇のマーク』が描かれている。

 姿形。

 雰囲気。

 何もかもが変わっている。

 だけど声だけは。

「……なんで」

 現実は、時に残酷だ。

 こうやって、訪れてほしくない現実が刃を剥き出しにして襲いかかってくるのだから。

「……なんでだよっ」

 どうして神様は、ここまで酷いことをするのだろう。一体裕太が、神様に何をしたというのだろう。

 ここまでのことをされる謂れなんてないはずなのに。

 あとどれくらい、裕太から大切なモノを奪えば気が済むのだろう。

「……なんでッッ!」

 そして。

 新しい悲劇が、生まれた。

「何やってんだよっ! ナギ‼︎‼︎‼︎」

「あは。助けに来たよ、おにーちゃん♡」

 と。

 場違いな笑みを浮かべて。

 血で汚れた手で横ピースをしながら。

 

 陸堂渚沙が兄の目の前に立っていた。

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