第5話 焔の罪


「だぁから何度も言ってんだろ! 張り込みには牛乳とあんぱんが鉄板なんだよ!」

「だーから何度も言ってんじゃない! そんなのは忘れ去られた定番なの! 今時はカレーパンといちご牛乳なのよ!」

「地獄の組み合わせ! 胃もたれするわ!」

「バカ! 根本的にバカ!」

 夜の七時を回っていた。

 場所は東京都小平市内にある、ここ数年で廃校になってしまった中学校の、正門前。もっと正確に言えば正門から少し離れた電柱の裏である。

 廃校になったこともあり、校舎に灯りは点いていない。ひっそりとした、時の流れに忘れ去られた悲しい雰囲気が漂っている。まるで心霊番組の特番に使われそうな空気感が、この学校の役目の終わりを知らせていた。

 

 陸堂裕太。

 奈切雫。


 二人は張り込みに適した食べ物に関して不毛な言い争いをしているが、ここにいるには理由がある。

 「口裂け女」。

 今回の事件の騒動にして、渚沙の命を狙う張本人。〈エデン〉に所属してるアリスと名乗った原罪者カルマホルダーの少女が、雫に伝えた「口裂け女」の居場所がこの廃校だったのだ。

 よって、裕太と雫はヤツをぶっ飛ばすためにいるワケなのだが……。

「つーか何でオレたちはこんなところでメシ食ってんだよ。さっさと乗り込んで「口裂け女」をぶっ飛ばしにいこうぜ」

「そりゃ私だってぶった斬りに行きたいわよ。でもね、そう簡単に事は運ばないのよ。さっきも説明したでしょ?」

「……原罪者カルマホルダーに、常識は通用しない、か」

 残り少なかったあんぱんを食べ切ってから、裕太は神妙な面持ちでそう呟いた。

 雫はカレーパンの最後の一口を口に放り込んで、

「そう。『拳銃を持っていれば最強』なんていう当たり前は通用しない。というか拳銃なんて水鉄砲と何も変わらないわ。そんな化け物連中を相手に、ただ無策に殴り込むワケにもいかないでしょ」

「いまいちまだ原罪者カルマホルダーの恐ろしさが分かってなかったけど、そー聞くとやべーな。……いやまて。拳銃も効かないくらいにゴリラだから奈切のパンチはあんなにイテーのか。なるほど納得」

「するな! 年頃の乙女にゴリラとか、デリカシーゼロ助じゃん! モテる要素ゼロ丸じゃん!」

「ぐはぁ⁉︎」

 とか言いながら雫は裕太の顔面に拳をめり込ませ、少年は道路の上でノックアウト。そーゆーところだよ、とは口が裂けても言えなかった。……絶対追い討ちを喰らうから。

 などとやってる場合ではなく。

 裕太はノロノロと立ち上がると廃校に目を向けた。

「で? どーすんだ」

 雫は裕太から廃校に目を移すと、全体を見回すように目線を彷徨わせて、

「……考えがあるわ」

 裕太は首を傾げる。

「ほう。それは一体?」

 雫はいちご牛乳を飲み干し、紙パック容器を手の中で握り潰すと裕太に視線を戻して笑った。

「アンタ、一回死んできなさい」

「……………………は?」



            



 ––––虫が二匹入ってきた。

 家の中に入ってきた蚊を見ているような、不快感。潰そうと思えばいくらでも潰せるが、動くことが面倒で処理を後回しにしてしまう、その怠惰。

 女は人知れず静かに息を吐き、電気が点かない教室の窓の外を眺める。星あかりはなく、街頭の人工的な光と家々の灯が際立ち輝いていた。

 異能の存在なんて知らない世界の日常が、等しく回っているその光景に、女はどこか切ない気持ちを抱く。

 『原初の夢』を見るまでは、自分もあの世界の住人だった。だけど夢を見てから全てがガラリと移り変わり、血生臭い世界が女の日常となった。

 そのことに対して、後悔はない。

 ただ、ほんの少しの嫉妬があるだけ。

 もしも、夢を見ていなかったら。

 もしも、頬に目立つ傷がなかったら。

 もしかしたら、もっと違う選択をしていたかもしれない、と。

「……無意味な感傷だわ」

 ボソリと呟いて、女は座っていた椅子から立ち上がった。

 そう、全ては無意味。実際に現実は動いていて、もう取り戻せない。女は自身の目的のために数多くの命を狩り取ってきた。世間で言われていた「口裂け女」の異名通り、お暇な方々の想像の肴の期待に応えるように、女は人を殺してきた。

 自分に合っていると思ったから。

 「口裂け女」という通り名は、ひどく自分にフィットしている。だから演じた。だから果たした。

 故に己の目的を完遂しないなんて事は決してありえない。

 『イブの転生者』。

 あの少女を手に入れるために。

 あの少女の魂を失落させるために。

「……だから。邪魔は絶対にさせないわ」

 誰であろうと。

 何者であっても。

「等しく殺す」

 限りなく透明な殺意が、どこまでも充満する。

 世界を塗りつぶす勢いで、女の殺意が広がる、広がる、広がっていく。

 赤いリンゴが、淡く輝き顕現した。

 シャクリ、と一口食べて、次の瞬間には赤黒い大鎌が現世に現れる。その大鎌を、美しく流麗に振り払って、女は教室を後にする。

 コツ、コツ、コツ、と。ヒールの足音が鳴る。

 扉の開閉音が、ひっそりとした暗闇の教室に響き渡っていた。



           2



 原罪者カルマホルダーとは『原初の夢』を見て人間本来の力を覚醒させた者である。

 その能力は個人によって異なり、己の中に存在する原罪の形が各々の力に変異する。

 例えば「切りたい」という衝動の罪。

 例えば「裂きたい」という衝動の罪。

 一見同じように思える罪たちではあるが、「切りたい」と「裂きたい」はまるで違う。だからその罪を、その衝動を明確な形にするための、適した能力が具現化する。

「私の場合は『大鎌』が最も適した形だった」

 廃校の体育館は月明かりに照らされて仄かに明るい。まだ衰退せずにある広い体育館は古ぼけた印象はあるものの廃校となった印象はまるでなかった。

 その、真ん中。

 二階部分にある窓から射し込む月光を怪しく浴びながら立つ紫髪の女性が、死者の魂を迎えにきた死神のようだった。

 彼女は赤黒い大鎌を持ちながら、目の前にいる人物を真っ直ぐ見ている。

「原罪名は「奔放な切り裂き魔」。原罪は「裂く」。だからなのかしらね、女性の口を裂きたくなってしまうのは」

「てめぇの都合とか知るか。どうでもいい。オレはてめぇを殴り飛ばすだけだ」

 相対するのは黒髪の男子高校生だった。

 陸堂裕太。

 右手に日本刀を握り締めて一人、彼は死神の前に立っている。

 まるで敵として見ていない目。  

 舞台に上がる資格すらないのに、演劇の役だと所詮『木』のような端役なのに、何故か目の前に立っている少年が心底理解できない顔つきだ。

 死神の女性はそっと息を吐いた。

「立場を分かっていない。分を弁えていない。一体何の資格があって、あなたは今私の目の前に立っているのかしら?」

「兄貴だから」

「……は?」

 裕太の返答に、紫髪の死神はぽかんとした。しかし裕太としてはその反応をする意味が分からなかった。

 兄貴だから。

 それ以上の理由もそれ以下の思惑も必要ない。

「オレはナギの兄貴なんだ。妹が変態野郎に命狙われてたら、守るために前に出るに決まってんだろ」

「兄貴……。そう、あなたが『イブ』の……」

 どこか観察するように紫髪の死神は目を細めて裕太を見る。それから、彼女はくすりと笑った。

「酷な話ね。『イブの転生者』に兄がいるなんて。しかもその兄はこちら側とは全く無縁のただの高校生。神様も意地悪をするわ」

 本当にそう思っていそうな声色だった。偽善が源の発言というより、子供に小さな不幸が訪れたことを可哀想に思うような、そんな言葉と声の質。

 だがそれは、聞き手を完全に下に見ている者が振りかざす無作為の暴力に近い。だって、小さな不幸が訪れた相手が自分より上ならそんなことは思わないのだから。

 だから、完全に下に見られていると自動的に裕太は理解した。けれど、それに対して苛立ちを抱いてもいなかった。

 下なのは、悔しいことに事実。

 下なのは、悔しいことに否定出来ない。

 しかし一つだけ、ヤツは間違っている。

 こちら側とは無縁の高校生。

 果たしてそれは正解か?

 裕太は「はっ!」と、死神の女性を馬鹿にするみたいに笑った。ヤツは訝しむように眉を顰める。

「何がおかしいの?」

「いやちょっとな。見当違いも甚だしいと思ってよ。オレが無縁の高校生、無縁の高校生か。お前には、そう見えんのか」

「……何が言いたいわけ?」

「考えなかったのか? 妹が『イブの転生者』なら、その兄貴はどうなんだって」

「……なにを。……いえ、まさか」

「考えなかったのか? 兄貴は本当になにもないのか。こっち側じゃないのかって」

「……まさか!」

 信じられないものを目の当たりしたみたいに、紫髪の死神は表情を驚愕に染めた。

 そんな彼女を見て、裕太は思う存分自身の存在を誇示するように言ったのだ。

 奴にとっては想定外。

 彼にとっては想定内のことを。


「オレは『アダムの転生者』だ馬鹿野郎。人間の祖先様だぜ、分を弁えてさっさと平伏しやがれ!」


 それが開戦の合図とばかりに、裕太は日本刀を強く握りしめて駆け出した。

 ダッ! と体育館に一歩目の足音が響くくらいのスタートダッシュ。死神の女は面を食らったおかげで対応が一瞬遅れる。それを裕太は確認する。互いの距離はそこまで離れていなかった。だからこそ日本刀の射程圏内にまで踏み込むのに時間はいらなかった。

 四秒。

 一秒が戦いの場において生死を分ける時間に値するのに対して、最早確定的な死を意味する四秒だ。

 だが。

「––––隙を突いたと思っているのなら、それはただの驕りに過ぎないわ」

「––––ッ⁉︎」

 日本刀の突き。

 殺陣役者の見様見真似。漫画やアニメの再現。裕太自身剣道やフェンシング、刀剣を使うスポーツはまともにやったことはない。だからそれっぽいことしか出来ない。

 それでも日本刀の突きなんて繰り出されたら怯むのが普通である。

 なのに、だ。

 紫髪の女、その死神は冷たい視線を裕太に送ると、造作もないと言わんばかりに身を捻って半身になり、日本刀の一撃を回避した。

「『アダムの転生者』。あなたがもし本当にそうなら、話は変わるわね」

 冷んやりとした声色だった。思わず背筋に悪寒が走るレベルのである。裕太は生存本能に従って、伸ばし切った腕を瞬時に戻して距離を取ろうとする。

 しかし遅い。

 裕太が動こうとした時には、すでに「口裂け女」と呼ばれている死神は刀を持った少年の腕を、その手首を細い手で掴んでいた。

 とても女性とは思えない剛力で。

 手首の骨が折れてもおかしくない握力で。

「ガァ……っ⁉︎」

「おはよう、アダム。あなたたち兄妹のおかげで、私は素晴らしい力を手に入れることができたわ」

 グイッと引っ張られた。女の姿が下にある。片腕だけで上に持ち上げられたとすぐに分かった。

(なんつー馬鹿力……! 原罪者ってのは、どいつもこいつもゴリラなのかよ!)

 そんなことを口に出して雫にでも聞かれたらぶん殴られそうではあるが、事実なのだから仕方ない。

 原罪者カルマホルダーは、異能の付与とは別に身体能力の向上もギフトされるのかもしれない。

 そしてそんなことを思っている場合でもなかった。

 時間にして二秒。

 裕太の視界が勢いを増して揺さぶられた。

 体育館の床に叩きつけられると悟った。

 グワァンッ‼︎ と、短時間の急降下が始まり、そのまま為す術なく裕太の全身は固い床に叩きつけられた。

 ドッパァン‼︎ と、床が陥没し蜘蛛の巣のようにひび割れが広がった。

 パラパラと床の破片が舞う中、女は言う。

「理不尽を正当化できる、圧倒的な暴力を」

「ごぐガァ……ッッッ‼︎⁉︎」

 冗談なしに血を吐いた。受け身なんて意味はなかった。体の中の臓器たちが一斉に悲鳴を上げ、骨と筋肉が泣きじゃくる。

 激痛も激痛。

 気絶しなかったのが奇跡。ミシミシと泣く全身の痛みに視界が明滅するが、裕太は歯を食いしばって意識の遮断を強引になかったことにした。

 このままじゃ戦いにならない。力の差がありすぎて馬鹿馬鹿しく思えてくる。

 でも。


 ––––ナギが泣いていたから。


「……っ! だったらオレは……」

「……?」

 叩きつけられたまま、裕太は歯の隙間から声を漏らす。血の味がする口の中で、必死に言葉を出した。

 ガシッと、「口裂け女」の腕を掴み返して、睨んで、少年は言った。

 文字通り、血を吐く叫びだった。

「その理不尽を否定してやる……っ!」

 ことここに至るまで、「口裂け女」は多くの女性を殺害してきた。雫から聞いた話によれば、それは渚沙の魂を『堕とす』ためだという。

 その行為がどういう意味なのか裕太には分からない。だが、その行為のせいで渚沙に変な責任を、罪悪感を抱かせるのは絶対に間違っているし、コイツは許せない。

 それに、だ。

 これは単純な話なのだが。

 簡単に人を殺せるような人間になんか、死んでも負けたくないと思った。

「大言壮語も度が過ぎるとイタイわね」

 ため息混じりに「口裂け女」はそう言うと、裕太の顔をわし掴みする。ミシッと頭蓋骨が軋む音を立てて少年は思わず痛みに顔を顰めた。

 何をされるのか考えるまでもなかった。「口裂け女」は裕太の顔を一度ゆっくりと持ち上げて、再度地面に叩きつけることを決定する。

「あぐぁ……っ!」

「そんな思考に至る脳みそを撒き散らして、無様に、無念に、無力に死になさい」

 グンッ‼︎ と、方向感覚と平衡感覚が狂う急降下の現象が裕太に襲いかかった。このまま床に叩きつけられたら、今度こそ死ぬ。ヤツの言う通り脳みそを汚い地面に散らかして終わるだけだ。

「そんなわけには、いかねぇんだ!」

「……‼︎⁉︎」

 咄嗟に、瞬時に裕太は右手に持っていた日本刀をなりふり構わず振り回した。どこかに当たってヤツの手が緩めばいいと思った。

 結果、その行動は功を奏す。

 刀の切っ先が、運良く「口裂け女」の肉感的な太ももに突き刺さり、掴まれていた手が僅かに顔から離れた。

 それを裕太は見逃さない。訪れた幸運を最大限に活かす。今さら落下の中断は出来ない。だからそれはとりあえず受け入れる。しかし叩きつけられた後の「押し付け」がない分威力は半減されるはずだ。

 ここは歯を食い縛り激痛に耐えるしかない。

 そうして床に背中が直撃し、一回目よりも遥かにエグい激痛が少年を襲った。

「……っっっ‼︎」

 だが耐えた。

 血を吐いて全身ズタボロにはなったが、耐えた。耐えようと思っていたから無理をすればすぐに体は動く。

 だから裕太は激痛に顔を顰めながらも、鈍い動きながらも立ち上がり、近距離にいる「口裂け女」の顔面に向かって全力全開の拳を叩き込む!

「おォア‼︎」

 ヤツは太ももの痛みに怯んでいる。先刻の言葉の不意打ちよりも、だ。これは当たる。一発ぶち込める。

 だが裕太のそんな思考は甘いとばかりに、現実が冷たく嘲笑った。

 微かに空気が裂かれる音が彼の耳朶を打つ。

 スパッ、と拳に横一線の裂傷が生まれた。音がした瞬間に打撃の中断をし、拳を引き戻しといて正解だったかもしれない。

 裕太はすぐに後退し、裂傷が走った拳をチラッと見た後「口裂け女」に視線を戻した。

「……お前」

「偶然を自分の実力だと勘違いされるのは、あまりにも不快だわ」

 大鎌を横に振り払っていた。

 もしあのまま殴っていれば、裕太の拳は豆腐のように裂かれていたことだろう。

 裕太は思い出す。

 そう、そうだ。今、自分はただの人間と喧嘩をしているのではない。

 人並外れた怪物と、殺し合いをしているのだ。

「……原罪者カルマホルダー

 改めて誰を相手にしているのか思い直して裕太は呟く。氷点下並みに冷えた切れ長の瞳が、裕太を見る。

 赤黒い大鎌と、紫色の長い髪の毛。肌の露出が過度な紫のパーティドレス。男を惑わす美貌に付いた、ゾッとさせる傷。

 「口裂け女」。

 その異名に相応しい顔立ちと、武器と、佇まい。

咲崎美玲さきざきみれいよ。この名を覚えて楽園エデンに戻るといいわ、アダム」

 裕太は日本刀を構えて、言い返した。

「陸堂裕太だ。よく覚えとけ、テストに出るからよ」

 言葉のジャブはもういいだろう。

 互いに譲れないものがあり、分かり合うことなど最初から不可能。ならば、あとはもう命を賭け合ってどちらが正しいのか強引に決めるしかない。

 陸堂裕太と咲崎美玲。

 両者の視線が交差して。

「「おォア‼︎」」

 鋭い声が重なり、今、一直線に走ってぶつかった。

 刀と大鎌。

 二つの刃が火花を散らして甲高い音を奏で、交わった。

 そして言うまでもないが、裕太はどこまでいってもただの高校生である。そんな彼が原罪者と呼ばれている異能持ちの規格外と互角に渡り合えるわけはない。

 だから必然、刃が衝突した瞬間に裕太は体育館の壁まで砲弾のように吹っ飛んだ。

「がぁぁぁあああああああああ‼︎⁉︎」

 激突、破壊、轟音、衝撃。

 漫画やアニメの世界を再現するみたいに、裕太の体が冗談抜きで体育館の壁をぶち壊して激しい外出を完了させる。ボールのように地面を何度もバウンドしながら転がって、痛すぎて身体のどこが痛いのか分からない激痛の嵐に顔を顰めながら、裕太は体勢を整えようとした。

 地面をのたうち回って、苦鳴して、咳き込んで、血を吐いて、頭から流れる血を乱暴に拭いて、そうしてようやく顔を上げる。

「よそ見」

「な……っ!」

「自殺願望が強いのね?」

 眼前に、咲崎美玲の大鎌の刃が迫っていた。直撃すれば鼻から後頭部にかけて綺麗に切断される位置取りである。

 いくらなんでも速すぎる、などと思っている暇はなかった。ある意味では火事場の馬鹿力。裕太は生存本能に従うかのように日本刀を不恰好に前に出し、大鎌の刃から自身の命を守り抜いた。

 火事場の反射神経。しかし日本刀は大鎌の威力に耐えきれずに粉砕された。細かな銀色の破片が体感的にスローモーションで舞い踊り、続けて第二撃目の刃撃が裕太の首を狩り取ろうと動き出した。

 咲崎が、不敵に笑った。

 その、妖艶に上げられた口角。

「これはお子様の喧嘩なんかじゃあないのよ」

「……っ!」

「ようこそアダム。殺し合いの世界へ」

 ザン‼︎‼︎‼︎ と。

 身を守る術を全て失った無防備な裕太に、容赦のない大鎌の一撃が振り抜かれた。



            3



 ––––真っ黒な場所に、一人でいる。

 

 たまにみる夢の景色だと『私』はすぐに分かった。

 どうしてこんな夢を見るのか。

 この夢に何の意味があるのか。

 細かいことはさておき、こういう夢を見る時は、大体本人に無自覚のストレスが溜まっているとテレビか何かで言っていたような気がする。

 ストレスなんて、自覚症状はまるでない。

 いつもこなしていることは『私』にとっての日常なんだから、それを大変と思うことはあれ、ストレスだと感じたことはない。

 だから多分、これはストレスで見る夢なんかじゃないと『私』は思う。

 もっと、別の。

 ストレスなんかよりも、タチの悪い何か。


 ––––やぁお嬢さん。


 と、暗闇の世界で声をかけられた。

 声、という概念と、その音を聴く自分の聴覚の存在、それから体があるという不思議な感覚に『私』は戸惑う。

 とりあえずこの夢の中で誰かに話しかけられたのは初めてのことだから、『私』は音源の方向に目をやった。

 蛇がいた。

 あなたは誰、と聞いた。


 ––––僕はただの蛇さ。お嬢さんは、どうしてここにいるんだい?


 人の言葉を話す蛇に『私』は何故か驚かなかった。

 普通ならありえない光景に叫び出す人もいるだろう。なのに『私』は無反応だった。

 不思議だった。

 何となく、『初めて会った感じ』がしなかったから。

 『私』は蛇の質問に対して、分からないと答えた。


 ––––いいのかい? 早く目を覚まさないと、後悔することになるかもしれないよ?


 『私』は首を傾げた。

 どうゆうこと? と訊き返した。


 ––––大切な人を、失うかもしれないということさ。


 そう言うと、蛇が目の前から消えた。

 蛇の言っていることが分からない『私』は、辺りを見回して蛇を探した。

 蛇は後ろにいた。

 『私』は「あなたは誰?」と訊いた。

 同じ蛇なのか不安になったから。


 ––––僕はただの蛇さ。早く起きて、助けてあげないと。


 『私』はもう一度訊いた。

 よく分からないけど、どうすれば起きられるの? と。

 蛇は教えてくれた。


 ––––この果実を食べればいいだけさ。大丈夫、不味くないよ。とっても美味しいから安心して。


 蛇がそう言うと、『私』の目の前に赤色の果実が電球のように淡く光りながら現れた。

 ふわりと浮かぶそれを、『私』はそっと手に取った。

 蛇に訊いた。

 どうして、そこまで良くしてくれるの?

 あなたは、本当に誰なの? と。

 すると、蛇は笑って言った。

 心を惑わせるような、甘い世界に導いてくれるような、悪魔のような笑顔と声で。


 ––––それはね。僕がただの蛇だからさ。

 

 その言葉を最後に蛇は完全に『私』の目の前から消えて、探してももうどこにもいなかった。

 それから、『私』は手に持った赤い果実に視線を落として、まるでそうすることが当たり前かのように口元に運んでいく。

 大切な人。

 そんな人はこの世界で一人しかいない。

 もし仮に、蛇の言っていることが正しいのなら寝ている場合ではない。早く起きて助けに行かなければならない。

 ずっとそうされてきた。

 次は自分の番だ。

 だから。

 『私』は、その果実を蛇に言われた通り。

 

 ––––シャクリと一口食べた。


 赤い果実は、甘くて美味しかった。



           4



「実際のところ。こちらがアダムとイブの転生者両名を探し出せたのはアリスの原罪があったからだけど。今回の敵は……「口裂け女」と呼ばれている原罪者、咲崎美玲はどうやって『イブの転生者』を見つけたんだろうね?」

「それは儂と同じ系統の原罪者が向こう側にもおったからじゃろう? じゃないと見つけるのは困難じゃ」

 東京のどこかにある〈エデン〉の支部。

 大きな執務室の皮椅子に腰掛けるメガネ男の九条院直義と、その光沢のある重厚な机の前に備えられた椅子に座るアリスが話し合っていた。

 執務室の壁は白く、直義の背中側の壁には歴史的な威厳を感じる『創世記』の絵が描かれていた。

 アダムとイブ、それからイブに果実を渡す蛇。

 様々な動物たちと植物。

「アリスの能力は『原罪者を探し出す』、だ。条件はあるけど満たした場合心強いね。だけど、原罪者を探し出すなんて能力はそうそうあるもんじゃない。探知、探索系の原罪でも上位の位置付けだ。だから、ピンポイントで陸堂渚沙を見つけ出すなんて芸当は出来ないはずなんだよ」

 そもそも探知系統の原罪は空間系の原罪と、それから『原初の現象に属する原罪』くらい貴重で稀で、滅多に発現するものじゃあない。

 だからこそアリスは〈エデン〉で重宝されているし、常に直義と共に行動している。

 直義が話した通り、裕太と渚沙を見つけられたのはアリスが二人の存在を感知したからだ。その時に直義は裕太と渚沙が悪巧みをしている連中に捕まるよりも先に保護しようと考え動いた。

 だが、それと同時期に咲崎美玲は渚沙と接触した。それはつまり、相手にもアリスと同系統の原罪者がいるということに他ならない。

「でも、正直それだけならまだいいんだ。だけど問題なのは、咲崎美玲が『イブの転生者』だけを狙っていることなんだ」

「……そうか。儂と同じ系統の原罪なら、陸堂渚沙だけじゃなく、陸堂裕太も感知していなければおかしい」

 直義は頷いた。

「だからおそらく、咲崎美玲に渚沙ちゃんの情報を与えた人物は意図的に裕太君の情報を伏せたんだ。その理由は分からないけれど、そうすることで都合が良かったんだろうね」

「でもそうなるとますます分からんの。アダムとイブの話は世界で有名じゃ。じゃが一般的に世間的に、多く知られているのはイブではなく『アダム』じゃ。普通ならそちらに興味が向くはず。……何故『イブの転生者』である必要があったんじゃ?」

 アリスの疑問は正しかった。

 『聖書』に記載されている内容を全て理解している人間は殆どいない。だから様々な創作物でその情報を取得、理解することで知識として二人の存在を知ることになる。

 その中で、何故かイブより目立つのがアダムだ。

 知恵の実、善悪の果実を最初に食したのはイブで、その後世に至るまで全ての人間に『原罪』を与えた張本人であるはずなのに、皆はアダムに意識が向く。

 まるで意図的にイブに興味が湧かないように、潜在意識的なモノが働いているようでもある。

「そこが多分、重要なんだ」

「なんじゃと?」

「僕たちの潜在意識、『原罪』が自動的にイブの存在を薄くしている。……それはおそらくイブの能力を隠蔽したいがためだ」

「……イブの能力は解明されていないのではないのか?」

「……いや」

 直義は首を横に振って、アリスの言葉を否定する。

 一拍置いて、彼は言った。

 いつもの陽気でおちゃらけた雰囲気を感じさせない、それこそ裏の世界でトップを張る男のような声色と表情で。

「イブの原罪は––––」



          5



 紫色の斬撃が、三日月の形を模して迸った。

 空気が裂かれる音、風が切断される音、世界が両断される音がいっそのこと鮮やかに響き渡る。

 キン、と。

 ただその一音だけで圧倒的な殺傷能力を魅せつけた「口裂け女」……咲崎美玲の原罪、「奔放な切り裂き魔」はどこまでも強力だった。

 当たれば即死。

 上半身と下半身が離れていてもなんら不思議ではない理不尽が、問答無用に陸堂裕太を襲った。

「……っ!」

 その高火力の一撃が、裕太の胴体をキレイに切断して––––


「––––ねぇ。私、キレイ?」


「……⁉︎」

 可憐な声が咲崎美玲の耳元に届く。鈴を鳴らすような、刀の煌めきが音源化されたような、心地の良い声。

 瞬間、「口裂け女」が放った紫色の斬撃が真横に大きく弾かれて壁を切断し、そのまま外に広がっていた景色を豆腐のように切り裂きながら消えていく。

 破壊の激音が静まり、わずかな沈黙があった。

 パラパラと壁の残骸が地面に落ちる中、陸堂裕太は呆然と、咲崎美玲は明確な苛立ちを宿した瞳で舌を打ち、「彼女」を見た。

「ちょっと見ない間に、随分とボロボロになったわね。まるで地雷を踏んだギャグ漫画のキャラみたい」

「誰が全身黒焦げアフロだ……ったく。来るのがおせーよ。ドタキャン食らったと思っただろうが」

「ちょっと悩んだ」

「悩むなよ!」

 黒い髪を肩まで伸ばす、セーラー服を着た美少女だった。夜空の隙間から覗く月明かりに照らされて、少女特有の美しさが際立ち光っている。華奢な身体の、その肩に担ぐ日本刀は銀色に刀身を光らせていた。

「まぁそんなカリカリしないでよ裕太。作戦通りじゃない」

「いやどこが⁉︎ オレが囮になって「口裂け女」が大技を出す瞬間の隙を狙って倒すっていうお前の作戦は見事に失敗だわ!」

「あれぇ?」

「可愛くとぼけんなこんちくしょう!」

 奈切雫。

 〈エデン〉に所属する原罪者が可愛らしく、しかし堂々と自信を持って裕太の命を守り抜き、そこに立っていた。

 裕太が口にした作戦は『あんぱんとカレーパン戦争』の後、雫が提案したものだ。

 自分の力で倒したいという願望までが作戦だったわけじゃない。出来ることならそうしたい。だけどそれは難しいから、少しでも勝てる可能性のある進路方向に足を向けた。

 作戦は失敗。

 惜しい、と言える。

 しかし斬撃を弾くだけで終わらせないのが雫の憎めないところ。

 咲崎美玲が自分の頬に触れて、裂傷が生まれていることを確認する。数時間前に付けられた傷とは違う、新しい裂傷。

 紫髪の美女は血を拭い、射殺す勢いで雫を睨んだ。

「どこまでも人をイラつかせる天才だわ、あなた。よほど無惨に、凄惨に、悲惨に死にたいようね」

 雫は裕太に手を貸して彼を立ち上がらせながら、

「ちょっと何言ってるのかわからない。私はただ通り魔殺人鬼に制裁を下しにきた正義のヒーローのつもりだけど。イラつかせる天才? 全然違うわ。アンタを倒すことが出来る天才よ」

 心底煽りを孕ませて雫は咲崎美玲に言った。目で見てわかるくらいに「口裂け女」は苛立ちを表情に出し、二人のやり取りを聞いていた裕太は「女こわ」みたいな顔でガクブルしている。

「クス。笑わせないでちょうだい。あなた如きに私が倒せると思ってるの? 所詮は『ステージ・1』のカルマ……。勝敗は火を見るよりも明らかよ」

「だったらそんな火なんて水ぶっかけて鎮火してやるわよ! ……とか言いたいけど、悔しいけどアンタの言う通りだわ。今の私じゃ、『まだ』アンタには勝てない。……だから、こうするわ」

 言いながら、だ。

 雫は隣に立つ少年の肩に腕を置いて、体重を預けるように立ち直す。「ちょっと低くしなさい、意外とデカいのよ」「横暴すぎんだろ」などと言い合っていたけれど。

 咲崎美玲は怪訝に眉を顰めて、それから何かに気づいたみたいに微かに目を見開いた。

「……まさか。本気なの?」

 雫は無邪気な少女のように歯を剥いて笑い、

「マジもマジ。これが大正解の解答よ」

「なに? どゆこと?」

 首を傾げる裕太をチラリと見た後、雫は自信満々に言ってのけた。

 ただ一言。

「私と裕太の二人で、アンタをぶっ飛ばす」

「……………」

 その言葉は、陸堂裕太の心を揺さぶるには十分すぎる意味が込められていた。

 戦いの前、雫は裕太に言っていた。

 力がなければ誰も守れない。

 だから代わりに守ってやる。

 そのはずだった。

 作戦後も、もし仮に不意打ちで「口裂け女」を倒せなかったら裕太は戦線を離脱し、雫に後のことを任せる予定だった。

 なのに、どうしてここに来て急にそんなことを言うのだろう。

「都合いいけどさ。アンタの戦いを見て思ったのよ」

 顔と顔が近い距離で雫は言う。

 裕太は彼女の横顔を見た。

「私は守りたいもののために力を手に入れた。そうしないと手の中にある物は全部落としてしまいそうで怖かったから。だからそれしか正解がないと思ってた、ううん。勘違いしてたんだ」

「……」

「でも、でもさ。アンタの戦う姿を見て、思ったのよ。……人は特別な力なんかなくたって、守りたい人がいればそれだけで勇敢に戦える。命を、賭けることが出来るって」

「……奈切」

 雫は笑うと、裕太のことを見た。

 二人の目が、合う。

「それが出来るアンタは、すごくカッコよかった。死ぬかもしれないのに、大切な人のためにボロボロになってまで化物と戦える陸堂裕太を、奈切雫は心の底から尊敬して、誰よりも『カッコいい兄貴』だと思いました。……だから、家で言ったことは撤回するわ」

 言うと、雫は裕太の肩から腕を離し、それから少年に手を差し出した。

 それは、握手を求める動作。

 もしくは、共闘をしようと同意を求める仕草。

「力を貸して、裕太。一緒にあのクソ野郎をぶっ飛ばそう!」

「……」

 あの時とは逆の光景だった。

 けれどあの時とは違う意味を孕んだ言葉と握手。

 守られるだけの共闘ではない。

 守り守られの、本当の意味での共闘。

 これは裕太が勝ち得た選択肢だ。どう選んで何をするのか彼次第。断るもよし。同意をするのもよし。

 後悔のない選択。

 それを選べれば、なにをどうしようと少年の自由である。

「……都合の良い女は将来苦労するみたいだぜ」

「今回だけよ。それに私は都合を合わせて『あげる』女なの。『合わせられる』女じゃないわ」

「あはは。それでこそ奈切だな」

 どこまでも勝ち気な少女だった。

 でもだからこそ、こういう女の子だからこそ、出会ったのが今日で、一緒にいた時間が短いとか関係なく、信頼できるのかもしれない。

 人が信頼できると感じるのは、付き合った時間ではなく、分かり合った心の距離である。

 だからこの少年が選んだこの選択を、指を差して間違っていると否定出来るのは誰もいなかった。

 陸堂裕太。

 彼は傷だらけの顔で笑って、雫の手を握り返した。

「その話、乗ってやる。足引っ張んじゃねーぞ」

「誰に言ってんのよ、このバカ」

 握り返した手は、小さいけど頼り甲斐のある、力強いモノだった。

 そうして、裕太と雫の二人は改めて「口裂け女」と向かい合う。彼女はすでに冷静さを取り戻したみたいに表情を落ち着かせ、大鎌を肩に担いでいる。

 紫髪の美女は、そっと目を細めた。

「子供の茶番に付き合っている暇はないのだけれど。一人でも二人でも結果は何も変わらない。あなたたちは私の目的の下に沈む。勝ち筋の見えない戦場で、光に焦がれながら死んで逝きなさい」

 ブン‼︎ と、咲崎美玲は大鎌を振り払った。金属バットを振り抜いた時よりも更に鋭くなった音が、破壊された体育館の外で響く。

 学校の裏庭。

 体育館の壁の残骸があちらこちらに散らばる、まるで怪獣映画みたいな光景の場所。ここまでの被害がありながら、警察の出動も近隣の悲鳴もない。それは雫たち〈エデン〉が『人払い』という結界を効果範囲内を決めて張ったおかげらしい。だから渚沙の時も誰ひとり人がいなかったのだろう。

 助かった、と裕太は思う。

 どんなに暴れても、どんな思いをしても、結界外にいる渚沙に被害が及ぶことはないし現状が知られることもない。

 ここからが本番で正念場。

 覚悟を入れ直すようであった。

 裕太はザッと一歩前に出て、刀身が折られた刀の柄を放り投げ、拳を突き出した。

「お前の目的なんか、オレたちにゃ関係ねえ。守りてぇモンがあるんだ。引くわけねーだろ」

「引かなくて結構。押し通るだけだわ」

「ならそれも出来そうにないわ。だって押し通る扉は、その道は私たちで通行止めになってるんだからさ。ま、その前に私が斬っちゃうから関係ないか」

 並ぶように、雫は裕太の隣に一歩進んで立つと日本刀の切っ先を「口裂け女」に向けた。

 二人の闘志が、明確な形を伴って紫髪の美女に刃を突き立てる。

 相手にどんな目的があれ、こちらが引く理由にはなり得ない。先程も説明したが、言葉でどうこうなる問題はとうの昔に過ぎているし、だからこそ自分の我欲を貫き通すためには戦うしか道はないのだ。

 渚沙を守る。

 これだけは絶対に、死んでも譲れない。

「第二ラウンド。ここからが本番だ」

「裂いてあげるわ。あなたたちの魂を」

 三者三様。

 鋭い視線が交差して火花が散る。

 そして、

 そして、

 そして。


「「ぶっ飛ばしてやるぜ! 「口裂け女」‼︎」」

「シンプルに殺してあげる! 〈エデン〉‼︎」


 全員が同時に叫び、全力で駆け出した。

 体育館の残骸を上手く避けながら、裕太は右側を回り込むように、雫は左側から鋭く入り込むように走って「口裂け女」を狙う。

 対して、ヤツは二人を交互に見るとどちらを先に対処するかを判断したようだ。

「まずはあなた!」

「……っ! だと思った!」

 まず一番最初に命を狙われたのは陸堂裕太だった。これに関してはやはり、と言うべきだろう。異能は使えず、構図的には一番弱い立ち位置。故に対処がし易く簡単に殺せる相手と言えるだろう。

 と、自分で自分を下に評価するなんて裕太の性格的に絶対しないのだが、今回ばかりはそうした。だからそれを認めた上で、不恰好でもダサくても、裕太は動ける。

 変に取り繕ってカッコつける必要はない。

「オレが殴る! 助けろ奈切!」

「誰に命令してんのよ早朝セクハラ野郎!」

「今それ言う⁉︎」

 というかまだ気にしてたのか、と裕太は呆れた。

 しかしあーだこーだ言っておきながら行動してくれるのが奈切雫という少女である。彼女は「口裂け女」の懐深くに潜り込むよりも前に、攻撃の手を動かした。

果実アルケ!」

「……!」

 ひらりと、赤色の花弁が雫の周囲を舞う。赤色の果実が疾走する彼女の真横に顕現し、それを一口食べた。

 瞬間、彼女と彼女が持つ日本刀が淡く赤色に輝き、神々しさを増した。

 咲崎美玲が、苛立つように舌を打った。

「チッ! 鬱陶しいわよ!」

「あはは! ざまぁみやがれ! ––––私の『原罪』は「斬る」! 原罪名は「刀姫」! ……刀剣舞踊、弌式・桜花一閃‼︎」

 奈切雫。 

 彼女の原罪が吠える。

 赤、ではない。それは青色だった。青色のオーラが彼女を包み込み、それに応じて赤色だった日本刀が青色に発光を変える。

 構えは抜刀。

 距離は射程圏内。

 「口裂け女」の顔がよく見える。

 時間は一瞬。

 空気と敵の体を一刀両断する勢いで踏み込んで、雫は全力全開で刀を振り抜く!

「甘いのよ。甘ったるくて胃もたれしそうだわ。まるでトロトロに溶けたチョコレートと生クリームを混ぜて食べたみたいに」

「……チッ」

 ガギン‼︎ と、鋭くも鈍い激音が響き渡った。

 雫が振り抜いた渾身の抜刀が、紙一重で盾として出した咲崎美玲の大鎌によって弾かれた、攻撃失敗を知らせる音。

 だがここで忘れてはならない。 

 そもそも雫が「口裂け女」に攻撃を繰り出したのは何故だ? コイツに勝ちたい。倒さなければならない。負けたくない。それも確かに理由の一つだ。 

 しかし今は一人で戦っているわけではない。

 ということは、つまり。

「だったら口直しに苦いのはどうだ?」

「……な」

「てめぇの血でなぁ‼︎」

「ごっぱぁ⁉︎」

 こういうことだった。 

 「口裂け女」の懐深くへと潜り込んでいた陸堂裕太の拳が、ヤツの顔面にクリーンヒットした。鈍い音が、頬骨が砕ける音が響き、その感触が拳に返ってくる。

 紫髪の女の口から血が吹き出し、裕太の頬に微かに着いた。その返り血を拭うことなく、裕太の瞳に獰猛な光が宿る。

 追撃。

 二発目。

「おかわりをくれてやるよ。腹ァ壊さねぇように気をつけることだぜ!」

 岩のように拳を強く握りしめて、裕太は渾身の一撃を「口裂け女」の顔面に叩き込む!

「……ぐっ! そう何度も––––」

「喰らわねぇよな? だから言ったはずだぜ? 腹ァ壊さねえようになってよォ!」

「な……ごろばぁ⁉︎」

 咲崎美玲の華奢な腹部のど真ん中に裕太の拳がめり込んだ。顔面に繰り出される二発目の打撃だと思ったのだろう「口裂け女」は腕をクロスさせる形で顔を守っていた。

 が、誰ももう一度顔面を殴るとは言ってない。勝手に勘違いしてくれて大変結構。そのおかげで裕太は腹部を全力で殴ることに成功したのだから。

「こんなもんじゃねぇぞ」

 細い体をくの字に折って血を吐いた「口裂け女」に向けて、裕太は言葉をぶつける。よろよろと後退したクソ野郎はそんな裕太を見上げた。

 彼は、三度目の打撃を解放せんとばかりに拳を強く握りしめている。

「ナギが感じた痛みと恐怖は……こんなもんじゃねぇぞォ‼︎」

「……な、ぁあ⁉︎」

 グゴギィ‼︎‼︎‼︎ と。

 怒りのままに叫んだ裕太の鉄拳が、強烈な音と共に咲崎美玲の顔面を捉えた。

 

    

           6



 陸堂裕太。

 彼の戦いっぷりを間近で見ていた奈切雫は、言葉を失わずにはいられなかった。それどころか、目を見開いたまま離せない。

「……裕太、アンタは……」

 一言で言って、とてもじゃないが普通の人間、それもただの高校生とは思えなかった。いや、『アダムの転生者』なのだから普通の男子高校生じゃないのは分かっているのだが、異能に目覚めていない状態で原罪者に三発も拳を叩き込めたことが、雫には驚愕以外の何物でもなかった。

 先刻、雫が裕太に言ったことを覚えているだろうか? 原罪者に常識は通用しない。鉄砲玉一つさえ当てることは難しい、と。にも拘らず、裕太は拳を二発もあの怪物にぶち当てた。 

 これは、セオリーの崩壊に他ならない。

 そして、原罪に目覚めていないのにあの身体能力の高さ。

「……裕太」

 陸堂裕太。

『アダムの転生者』。

「アンタは一体、何者なの……」

 ぼそりと呟いた雫のそれを、聞いた者はおそらくいなかった。

 そしてその瞬間、陸堂裕太の拳が、三発目を知らせる音を夜の空気に轟かせた。



           7



 意味が分からない。

 どうしてただの一般人に三発も殴られる。

 どうしてただの高校生にここまで圧倒される。

 どうしてただの子供のパンチが体に響く。

 何もかもが理解不能で意味不明。こちらは原罪に目覚めて通常の理から外れた存在だ。常人のパンチはおろか、銃弾だって避けられる。そう、避けられるはずなのだ。当然どんな攻撃も当たれば相応のダメージは喰らうだろう。効かないモノももちろんあるが、それでも基本的には避けられる。

 なのに、どうしてガキのパンチが当たる?

 目で見て実に分かりやすい大振り。素人のパンチだ。スローモーションに見えて避けられるはずなのに、咲崎美玲は三発も喰らってしまった。

 こんなことは初めてだ。

 こんなことは異常事態だ。

 顔面に二発。

 腹部に一発。 

 顔面に二発。顔面に二発。顔めんに二発。がん面にニハツ。がんめんにニハツ。ガンメンニニハツ。

「よくも。よくも私の顔に傷を……」

 よろりとぐらついた体に力を入れて倒れないようにしながら、美玲は傷ついた顔に手を添えた。元々頬から耳下にかけて裂傷の痕が刻まれている顔。それに追加された撲傷。

「ありえない……。こんなことがあっていいはずがない。私の顔はキレイなんだから……。キレイな私に傷を付けるなんて、許されないんだから……」

 顔を押さえながら俯いてブツブツと何事かを呟く美玲に、裕太は怪訝に眉を寄せた。雫が走って裕太の隣に来る。

「……なんだ、あいつ」

「裕太!」

 不穏な空気が漂い始めていた。不気味な雰囲気が辺りを充満していた。少年少女が美玲から距離を取り、様子を伺っている。

 そんなその場凌ぎの行動に意味なんてないとどうして分からないのだろう。そこまでの頭を持ち合わせていないと言うのなら実に納得のいく話ではあるが、違うのであれば滑稽だ。

「私を殴れたことで調子に乗っているのなら哀れだわ。たかだか二、三発程度でいい気になるのは少々夢見がちな気がするのだけれど。……現実を見せてあげるわよ。圧倒的に圧巻的に。私とあなたたちの差ってやつを」

 ゆらりと、だ。

 美玲の体が左右横に揺れ始める。ゆらゆらと揺れる美玲に応じて、微かに紫色のオーラが彼女の周りを漂い始めた。まるで悪意と殺意、それから執念が具現化したかのような、歪で悪寒を感じるオーラ。

 咲崎美玲の僅かな変化に、少年少女が反応した。

 その反応速度は決して遅くはなかった。

「おい奈切! なんかやべぇ雰囲気じゃねぇかこれ!」

「見りゃ分かるわよ! 一旦距離を取るわ––––」

 

 なのに。


「––––〈奔放な切り裂き魔〉・邂啓かいけい〈ジャックの愛〉」


 ズァ‼︎ と。

 美玲から紫と黒が混ざったドス黒い色のオーラの渦が吹き荒れて、少年少女をいとも簡単に吹き飛ばした。

「うぉあ⁉︎」

「きゃあ⁉︎」

 体育館裏の狭い敷地内を高校生二人が転がって、彼らは近くにあった木などを掴んで暴風に耐える。砂嵐に舞い上がる木々の破片や木の葉。ギシギシと泣くように音を立てる太い木。台風すら可愛く思える嵐の中、少年たちは瞠目した。

「……おい奈切。なんだよあれ……」

「……最悪だわ」

 腰まで届く紫髪に黒衣のパーティドレス。豊満なバストに妖艶な肉体美。男を惑わす狂気の美貌、それに一瞬の寒気を感じさせる口から耳下にかけて走る裂傷の痕。

 それだけなら、何も変わっていなかった。強いて言えば、ヤツが纏う雰囲気が刺々しく、それでいて全ての物を切り裂くような荒々しさに変わっている。

 そして決定的な『変化』、もしくは『変異』と呼ぶべき光景は他にあった。

 大鎌。

 三日月のように反り曲がった赤黒い刀身に、黒檀質の柄だったはずだった。

 だが、ヤツが今持っているのは死神の鎌ではなく、絵面的には忍びなどが使用していた「鎖鎌」にどこか似ていた。

 紫色の刀身が二つ、鎖に繋がれている。

 鎖は緑色に淡く輝き、翡翠石のよう。 

 サイズ感はかなり落ち着いた。しかしそれがあまりにも不気味。威圧感は増している。プレッシャーだけで気を失いそうになるほど。

 暴風が吹き荒れる中、黒髪に黒色のセーラー服を着た少女、奈切雫が口を開いた。

「『ステージ・2』……の、原罪カルマ

「ステージ・2? 何だよそれ、ここにきて新しい設定出してくんなよ!」

「怒鳴りたい気分はこっちよ! 『ステージ・2』っていうのはね、原罪のレベルのことなの! カルマは全部で「四つのステージ」に分かれてて、ステージが上になるにつれてその効果、威力、強さは増大する!」

「つまり何だ、あの野郎は更に強くなっちまったってことか⁉︎」

「強くなった所の話じゃない! クリリンのことかー! くらいの劇的の変化よ!」

「やっべーじゃん! だったら早くお前も『ステージ・2』になれよ!」

「そんな簡単になれたら苦労しないっつーの! こっちは戦闘民族の息子とか娘みたいスーパーサイヤ人のバーゲンセールを開ける訳じゃないのよ!」

「じゃあ精神と時の部屋に入って修行するなりしろよ! 今ならまだ間に合うかもしれ……」


「––––お喋りはおしまい」


 と。

 あれだけうるさかった暴風がいつの間にか凪のように静かに止んでいた。

 時間が止まっていた。

 無音の世界。

 そこに響く艶めいた声。

 陸堂裕太と奈切雫、二人の丁度真ん中に入り込むように、女が一人立っていた。

 咲崎美玲。

 またの名を、「口裂け女」。

 鎖鎌を手にした死の女神が、動く。

「な、ん……!」

「––––蛇腹」

「裕太……!」

 ジャラララララ! と、鎖が激しく音を鳴らした。

 直後、鎖の先端に付いていた鎌が虚空を進む蛇のように蛇行しながら裕太の首を狙う。 

 一瞬の出来事。

 反応は、出来ない。

 そもそも距離が近すぎて避けることなんて不可能。

 だから、雫が瞬時に裕太を手で押して倒さなければ今頃少年はあの世の土を踏んでいたことだろう。

 ただし。

 犠牲はあった。

「……ッッッ‼︎‼︎」

 ぼと、っと。

 地面に何かが落ちた。

 鉄臭い匂いが空気に溶けて漂い始めた。 

 ボタボタと、何かが音を立てながら滴っていた。

 少年は尻餅をつきながら、目を見開いた。

「……な、奈切‼︎⁉︎」

「あ、ああああ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎⁉︎」

 手首がなかった。

 誰の?

 奈切雫の右手首が、だ。

 まるで果物の断面のように綺麗に切断された雫の手首。血溜まりの中に沈む細い手がグロテスクに映っている。雫は泣き叫びながら腕の断面を抑えて地面を転がり回る。その度に雫の血が飛散して、地面だけでなく裕太の頬にも一滴着いた。

 それが動くための着火剤だった。裕太はすぐに起き上がって雫に駆け寄り––––

「奈切!」

「邪魔」

「おろがぁ⁉︎」

 冷たい一言が咲崎美玲の口から放たれた。その結果、裕太の腹部ど真ん中に原罪者の恩恵であるパワーのギフテッドが付与された強烈な打撃が叩き込まれた。

 まるで意趣返し。肋骨が何本か折れ、内臓にダメージがいき、吐血して、そのまま裕太の体が体育館裏の敷地内に生えていた木々を折りながら吹っ飛んでいく。

 そうして邪魔者を排除した美玲は、滂沱と涙で顔を濡らしながら地面に倒れ伏して、腕の断面を必死に抑えて苦鳴する少女の頭を足で踏んで押さえつけた。

「こういう言い方をするのは俗なのかもしれないけれど。言ったはずよ? あなたは私には勝てない。無惨に殺してあげると」

「フー、フー、フー……ッッ。つ、あ……っ、ぐぅう……ッ。はぁ、はぁ、はぁ……」

「痛みで私の声が届いてないのかしら? 無視をされるのはあまり気分が良くないわよ……ねぇ」

「あぐぁぁぁああああああああああああああ‼︎⁉︎」

 断面を蹴り上げた。 

 血が舞った。

 絶叫が響いた。

 美玲はクスリと笑った。

「いい声だわ。あなたのそういう声が聞きたかったのよ!」

「あぁあああああ‼︎⁉︎」

 ズドン‼︎‼︎ と、美玲は横向けで倒れている少女のお腹をつま先で蹴り、そのまま雫はサッカーボールみたいに転がった。

 全身に走る激痛と、チカチカする視界。涙で濡れる頬と瞳。汚れた服と体。うつ伏せで倒れる少女。

 奈切雫は荒い息を吐きながらとある方向に視線を投げる。

 陸堂裕太が、血に染まりながら木にめり込み気を失っていた。

「……ゆう、た」

 手を伸ばした。

 伸ばしたところで、何かを掴む手はどこにもなかった。手首から先がないのだから、彼を助けようと手を差し出すことも出来やしない。

 血が滴るだけだった。

 痛みがあるだけだった。

 でも、手の痛みだけじゃない。

「……ごめん、裕太。わた、私が、弱いから……。アンタと、渚沙ちゃんを……っ」

 心が、胸が、魂がどうしようもなく痛い。

 何が守ってやる。

 何が一緒に戦って、だ。

 何もできていないじゃないか。あれだけ偉そうに啖呵を切っておいて、何一つ有言実行していないじゃないか。

 雫が守らなければいけなかったんだ。

 だって雫は原罪者で、裕太は転生者でも一般人で、「口裂け女」は通り魔なんだから。そういう奴らを倒して、みんなが平和で幸せな世界を生きられるようにしなければいけなかったのに。

「ちくしょう……。ちくしょう……ッ」

 涙が止まらなかった。

 恥ずかしくてたまらなかった。 

 悔しくてどうにかなりそうだった。

 どうしてこうなった。

 なんで裕太があんなにボロボロになって、渚沙が命を狙われなければいけない。どうして裕太に協力を仰いだ。二人なら倒せると思ってしまったんだ。

 最初から一人で戦って、アイツを倒せるくらい強ければ、こんなことにはならなかったのに。

「ふざ、けるな……っ。こんな、こんなの、認めるわけには、いかないッ。絶対に、イヤだ……っ」

 自分の力のなさに心底腹が立った。

 悔しくて悔しくて、歯を食いしばって、残った手で拳を握りしめて、体を無理矢理動かして立ち上がった。

 涙を乱暴に拭って、血と泥で汚れた顔で、鋭い目つきで、雫はヤツを睨んだ。

 ゆっくりとこちらに歩いてくる、殺人者を。

「しぶとい。今さらなにを足掻くの」

「うるさい。……意地よ」

 美玲は嘆息した。

「くだらない意地ね。それは悪足掻きっていうのよ」

「それ、でも……っ。女には、やらなきゃいけない時があんのよ」

「くだらないわね」

 どうでもいいとばかりに美玲は嘆息混じりに呟いて、鎖鎌を振るった。鎖が獲物を求めるような音を立てながら、刀身を雫の胸へと誘う。

 距離はあった。 

 それでも重症の雫には近距離からの攻撃と何も変わらなかった。もはや条件反射のように「原罪」を発動して刀を顕現、片手で持って弾くというより鎖鎌の軌道を逸らすように刃を動かした。

 飛び散る火花。

 走る激痛。

「……痛っ!」

「何をそんなに必死になるのかしらね」

 まるで動きが見えなかった。

 いつの間にか「口裂け女」の顔が目の前にあり、そのまま投擲された刃とは違う、鎖と繋がれたもう一つの刃で胸を斜めに斬られた。

 ザシュ‼︎ と血飛沫が舞い散って、雫は絶叫した。

「がぁぁあああああああああ‼︎⁉︎」

「無様。眠りなさい」

 流麗な動き、コンビネーション。

 「口裂け女」は雫を斬った後、その場で回転して遠心力を利用し足の裏で押し出すように蹴撃を喰らわせた。

 裕太と同じように、だ。

 雫は体の内側が破壊される感覚をリアルに味わいながら校舎の中まで吹っ飛んだ。外壁が壊れる重い音と、窓ガラスが割れる甲高い音。

 その残骸に埋もれて倒れる、奈切雫。


「退屈だわ」


 優雅に髪を払っていた。

 たった一言そう言うと、咲崎美玲は鎖鎌を虚空に消して自分の服に着いた汚れを手で払う。

 土煙と血の匂い。戦いの名残。

 それら全てを無視して、彼女は振り返った。

「さて。迎えに行くわよ、イブ」

 邪魔なヤツらは排除した。ようやく本来の目的を達成することが出来る。少しだけ苛ついたが、それはまぁ良しとしよう。ここから自分の『願望』を叶えられるのなら、安いモノだ。

 見る素振りすらなかった。興味もなかった。

 美玲はたった今ぶちのめしたクソガキ共のことなんか捨て置いて、静かに悠然と体育館裏を歩いて去っていく。

 草や枝木が踏まれて折れる軽い音と、わずかな風の音。人の気配がまるでない、静寂な夜。

 その中を、死神はいく。

 たった一つの望みを叶えるために。


 

 ––––そうして、残された少年少女は。


「「…………………………」」


 指一つ動かすことなく、血に沈みながら完全に意識を失っていた。

 敗北の味すら、分からないまま。



            8



「––––強く在りなさい、鎮来しずく


 その威厳ある声と言葉を日常的に聞かされながら、奈切鎮来しずくという少女は育った。

 『奈切家』は、数百年という深く古い歴史の中で代々「原罪者」を排出する特異家系の一角であった。

 まず前提として、「原罪者」は『原初の夢』を見て初めて異能に覚醒する。そして『原初の夢』がどういう条件で発現するのかは一切不明。

 にも拘らず、『奈切家』のように『原初の夢』を見ることが当たり前になっている血筋の『家系』が、この世界にはいくつか存在していた。

 その原因、理由は未だに不明だが、「原罪者」が出続けてくれるのは常に人員不足で苦しむ〈エデン〉にとっては嬉しい理の流れでもあった。

 だから、『奈切家』は「原罪者」が生まれた場合必ず〈エデン〉に協力すると誓約している。

 そうなれば必然、弱い者を『奈切家』の代表として大々的に表舞台に出すわけにはいかないという思想が生まれる。

 恥ずかしくない「原罪者」。

 誰にも負けない強者の象徴。

 それを目指すにつれて、いつしか『奈切家』は特異家系の中で一番『厳格で弱肉強食の統制』が色濃くなってしまった。

 更にそこで皮肉なことに、『奈切家』の血筋でしか発現しない原罪も生まれてしまう。

 その内の一つが、『斬る』の罪だった。


「––––強く在りなさい、鎮来」


 鎮来の原罪は『斬る』。

 いわく、歴代最強と謳われた『奈切家』四代目当主と同じ異能だという。

 別に、好きで原罪者になったつもりはない。

 別に、好きで『斬る』なんて罪に目覚めたわけでもない。

 それなのに、『奈切家』は鎮来に強者で在り続けることを強要した。

 強くなれ。

 強く在れ。 

 でなければお前に存在理由はない。存在意義もない。


「––––強く在りなさい、鎮来」


 その言葉は、少女にとって体の自由を奪う鎖と同じだった。蛇のように全身に絡みついて、少女がしたいことをさせてくれない。

 こんな力なんていらなかった。

 もっと女の子らしいことをしたかった。

 幼少期からずっと剣の鍛錬ばかりで、同年代の女の子とおままごとや可愛いアクセサリーを見せ合ったり、母親とお菓子作りなんて出来なかった。したかったのに、させてもらえなかった。


 でも、九才の時にとある少年に出会ったのだ。

 名前は七瀬司。

 鎮来と同じように原罪に目覚め、同年代なのにもうすでに〈エデン〉の下で戦っている少年。

 たまたま任務で『奈切家』に赴いたらしく、そこで鎮来は司に声をかけられた。


 ––––君はいつも泣いてるようだね。


 少しだけ悲しそうに微笑みながら、少年は雫にそう言った。

 泣いている。

 ずっと、『雫』が頬を流れている。

 初対面で、初めての会話で、第一声で自分の心の内を見抜かれて、鎮来は驚き、同時に少しだけ嬉しかった。

 初めて誰かに本当の自分を見てもらえた気がしたのだ。


「––––強く在りなさい、鎮来」


 その言葉が決して間違っているとは思わない。実際、強くなきゃ守りたいものも守れないのだから、弱いよりは余程いい。

 家は嫌いだ。

 『戦いの鎮まりを到来させる』という意味を込められた『鎮来』なんて名前も嫌いだ。

 雫。

 これが本当の自分だったのだから、これがいい。

 今はもう泣いていないけれど、思うのだ。

 もし、もし自分と同じように泣きたいのに泣けなくて、心の中でずっと泣いている人がいるのなら。

 もし、もし誰かが辛そうにしていて、傷ついていて、死にそうなくらいに悲劇に呑まれているのなら。


 ––––私が助けてあげるんだ。


 それが『奈切雫』の使命だと。

 それこそが『雫』の役目だと。


 頬を流れるみんなの涙の、『雫』を拭うために。


 ––––私が、弱い人の思いを理解しないと。

 ––––私しか、わかってあげられないから。


 だから、

 だから、

 だから。


 

           9



 宵闇の空気がしんとした世界に浸っている。

 淡く白に輝く満月が、静寂な街並みにひっそりと光を浴びさせている。

 人払いの結界は、原罪者同士の戦いに一般人を巻き込まないための防衛システムの一つ。薄皮一枚隔てた空間を作り出し、「本当の現実世界」に影響を与えない、残さないための手段。

 必然、関係者以外は存在しないのだから街が時間に忘れ去られたみたいに沈黙に落ちる。

 その中に、ヒールの足音が柔らかく響いていた。

「………」

 紫髪に肌の露出が過度な黒衣。切長の瞳に男を惑わす美貌。見た者に微かに寒気を感じさせる、口元から耳下にかけて走った裂傷の痕。魅惑の身体。

 「口裂け女」の異名を持つ女。

 咲崎美玲はただ一人、道路のど真ん中を悠然と歩いていた。

 目的地は言わずもがな、陸堂家。

 そこにいる陸堂渚沙。

 否、『イブの転生者』。

 『アダムの転生者』までいたのは流石に想定外ではあるが、美玲の目的を達成するために必要なのは『イブ』だけだ。

 他の〈エデン〉が来る前に、さっさとやることをやって「消えよう」と思う。

 ふと、彼女は足を止めた。

 前を見ながら、目を細めた。

「……健気ね。ここまでくると褒めたくなるわ。まだ生きていることが恥ずかしいとは思わないの?」


「……私にしか、出来ないことなんだ」


 黒い髪を肩まで伸ばし、黒色のセーラー服を着ている少女。全身はボロボロの血まみれ。傷がない所を探す方が苦労しそうなほどの有様。右手首だけがなく、制服を雑に破って巻いただけの応急処置にも満たない止血方法で立つその姿。重心なんて合っていないし、立っているだけでやっとだし、吐く息も荒い。

 だけど確かに。

 奈切雫という少女が、悪意の根源の前に立っていた。

「……私が、戦わないと。私がみんなの涙を止めて、アンタを倒さないと……。裕太と渚沙ちゃんが、笑って暮らせないのよ……」

 本当なら、こうなる予定じゃなかったんだ。雫がちゃんとしていれば。雫がコイツを圧倒できるくらい強かったら、裕太と渚沙が傷つくこともなかった。

 裕太に頼ったことが間違いだとは思わない。それは裕太の覚悟を踏み躙ることになる。

 でも、雫にもっと実力が備わっていれば、巻き込むことなく裏の世界の人間だけで片が済んだはずなんだ。

 そうすれば。

 そうしていれば。

 こんなことにはならなかった。

「勝てる勝てないじゃないのよ……。惨めでも、情けなくても、格好悪くても……!」

 声はどんどん、荒々しく、そして力強くなっていく。

 果実アルケが彼女の手元に顕現し、シャクリと乱暴に噛み砕くようにかじりついた。

 瞬間、青色に輝く日本刀が神秘的に姿を現して、雫は左手で掴み取った。

 そして言ったのだ。

 どれだけボロボロで、痛くても。

 刃を突きつけて。


「友達のために命張れないなら、ハナからダチになってないってぇのよ! 奈切雫っていう『女』を、舐めんじゃねぇ‼︎‼︎」


 故にこれは女同士の戦いであった。

 勝敗のパーセンテージなんぞ知ったことか。

 舐められたまま終わったら『女』がすたる。

 さぁ、始めようじゃあないか。

 

 楽しい楽しい、女同士の本気の『喧嘩』を。


 ––––友のための、『戦闘』を。



           10



 右手がなくても戦える、なんてのは強がりだ。

「ァァァァ‼︎」

 奈切雫の原罪は「斬る」。その効果を十分に発揮するために必要なのが日本刀だ。日本刀の重さは約一キロ。十六才の少女の平均握力は二十六キロ。万全の状態なら原罪者の恩恵である膂力のギフトによって片手で日本刀を軽く扱えることは出来るだろう。

 だが度重なる負傷に、片手の喪失という過度なダメージ。精神的にも身体的にも限界なんてとうに迎えている状態で、一キロの物体を自由自在に振り回すことは難しい。

 それでも雫は不利な条件をぶった斬るように吠えて、咲崎美玲に突撃した。

「足掻くのはいいけれど、くどいのは嫌いなのよね」

 嘆息混じりに呟かれるのは何度目だろう。

 ともあれ人の形をした怪物は、瞬時に鎖鎌を顕現させて雫の攻撃を相殺しにかかる。

 いきなりの「ステージ・2」。どうやら向こうはもう出し惜しみをするつもりはないらしかった。

 表面だけの字面をなぞれば、それは勝ち目がないと言われているようなもの。

 だが本質は表面だけに表れるとは限らない。

 つまり。

 いきなりの「ステージ・2」の裏を返せば、だ。

「アンタも焦ってんでしょ……」

 ギシ……ッと、日本刀を握る雫の手に力が込められる。

 そして彼女は言った。

 強がりでも。

 ハッタリでも。

「「ステージ・2」じゃなきゃ、私には勝てないってさ」

「……死になさい」

 凄みが増した表情と顔つきで、「口裂け女」は打って出た。凍てつくような色を孕んだ瞳を細めて、女は鎖鎌を振るう。鎖特有のジャラジャラとした音が、刃が空気を裂く音が命を狩る演奏を始める。

 それに対して、右手首から下を失った雫は歯を喰い縛りながら左手で握り締めた日本刀を意地と気合いだけで振り下ろす。

「……ぅ、おォア!」

 正面から真っ直ぐ突っ込んできた鎖鎌と、振り下ろした日本刀が合間見えた。ガッギン‼︎‼︎ という激しい音が響き、オレンジの火花が演奏を聴いていた観客の拍手のように舞い散った。

「一度目は何とかなる。けれど、二度目はどうかしら?」

「……ッ⁉︎」

 インターバル、タイムラグなんて贅沢な時間はなかった。左手は振り下ろしたままなのに、こっちの事情なんて関係ないと、むしろそっちの方が好都合とばかりに、咲崎美玲は唇を緩めながら鎖鎌を振るった。

 柄を持ち、ゾンッ‼︎ という狂気じみた音が鳴った。

「二本目をいただくわね」

 迫り来る鎖鎌。

 避けきれない。

 切断される。

 またあの痛いがくる。

「……そう思ってんのは、アンタだけ」

「––––⁉︎」

 ここにきて。

 「口裂け女」の余裕綽々だった態度が、その表情が崩れた。

 驚愕の二文字。

 無理もない。

 何故なら、連続殺人鬼の鎖鎌が甲高い音と共に盛大に弾かれたのだ。ヤツは視線を雫の左手に落とす。刀は持っている。なら右手は? ……当然ない。

 ならば、これは何だ?

 どうして鎖鎌が弾かれた⁉︎

「いつ誰が。私の「ステージ・1」の原罪だと『刀は一本までしか』造れないって言ったのよ?」

 心底バカにするように。

 それでいてしてやったりとばかりに。

 雫は笑いながら、振り下ろしたままだった左手を手首のスナップを効かせて上方に振り戻す。

 逆袈裟斬り。

 または、下段袈裟斬り。

 「口裂け女」はそれさえも紙一重で避けて後退した。

 だが。

「聞いてなかった?」

「……な」

「一本『だけ』じゃないのよ。私のかくごは!」

 クン、と雫が柔らかく左手の指を二本咲崎美玲に向けた。瞬間、「口裂け女」からわずか一メートル離れた空間が青色に発光し、歪み、その中から銀色の刀身を顕にする日本刀が鋒を向けながら飛び出した。

 完璧な、不意を突いた連撃。

 グサッ‼︎ と、細い肩が貫かれる痛々しい音が響き、血飛沫が舞った。

 咲崎美玲に、まともなダメージを与えることに成功する。紫髪の美女は明確に表情を歪ませて、自身の肩を貫いた刀を抜こうとしながら、更に後退しようとした。

「逃すと思うの?」

「ぐ……ッ。調子に乗るのも––––」

「いい加減にしろって? なら言わせてもらうわ。……女子高生を舐めるのも、大概にしろ‼︎‼︎」

 こっちはハナから負けるつもりで戦いを挑んでるわけじゃない。勝つ気もないのに命を賭け合うバカがいると思うのか? 

 プライドなんてとうの昔にズタズタだ。

 修復するのに時間はかかるだろう。

 でも、それでも負けられない戦いが目の前に広がっているのなら、矜持なんてクソ喰らえだ。

 意地と覚悟と、ほんの少しの勇気。

 それさえあれば、人はどんな逆境の中に立っていようとも、無限の力を手に入れることが出来る。

 故に、ここで奈切雫が大敗を喫するなんていう答えはなかった。

 いつだって、勝利は自らの手で手繰り寄せるモノ。

 舐められたままじゃ終われない!

「実力だけならアンタの方が強いかもしれない。でも今この瞬間だけは……私の方が強い‼︎」

 吠えて、雫は一気に距離を詰めた。肩を貫いた刀を抜かせる暇なんぞ与えるつもりは最初からなかった。

 左手で持った日本刀を自ら投擲して追撃を実行。女は不快げに舌を打つと鎖鎌で刀を弾いた。攻撃は当たらなかった。しかし肩を貫いた日本刀はそのままだ。

「健気ね。まだ刀を刺してくれてるなんて。恥ずかしくないの?」

「アナタ……ッ!」

「ハロウィンには、まだ少し早いんじゃない!」

 互いの距離が手を伸ばせば届くくらいに縮まった。直後、雫は意趣返しとばかりの台詞を吐くと洋画のヒーローみたいに勝ち誇ったように笑い、女の肩を鞘にして収まっていた日本刀の柄を握る。

 そして黒髪の美少女は、そのまま刀を斜め上に振り上げた。

「あぐぁ‼︎⁉︎」

「右手のお返しよ。まだ釣り合ってないけどねぇ!」

 ザシュッ‼︎ という肉と骨が抉れる音が鳴り響く。血が飛沫を上げる。雫が咲崎美玲の肩を、刀が貫通していた箇所から上に掛けて切り裂いたのだ。

 実に痛々しい光景。

 しかし雫の右手首にはまだ釣り合わない。

 だからこそ、お釣りをもらうくらいの追撃がまだ必要だ。

「刀剣舞踊、肆式」

 雫は肩を押さえながら後退した女を追う。

 距離が再度縮まる。

 黒髪ショートの少女は、刀を構えた。目を細めた。

「死点・あざみ‼︎」

 鋭い刺突が、空気を貫きながら「口裂け女」を容赦なく襲った。目にも止まらぬ速さ。反応はおそらく出来ない。出来たとしても急所を外す程度の動き。

 必ず当たる。

 ダメージを与えられる。

「……ッ!」

 そしてその通りになった。

 咲崎美玲はわずかに体を動かすだけで精一杯だった。雫は彼女の心臓を狙ったが、しかし刀が突き刺さったのは華奢な腹部。柔らかい感触が刀を通して伝わってきた。

 また、距離が近くなった。

 雫は、痛みに苦鳴し顔を歪ませる「口裂け女」を至近で睨んだ。

 息がかかる近さで。

「……っ!」

「ようやく。ゆっくりと話が出来るわね」

 ここまで近くにヤツの顔が。

 コイツと対面しているのは初めてだ。

 「口裂け女」を倒すことは目下、最大目的ではある。だが、倒すだけじゃ話は何も終わらないし、スッキリしないのは言うまでもないだろう。

 落ち着いて会話をするような状況ではないかもしれないが、ここまでしないと言葉を交わせないのも事実。

 アドレナリンが出ていて大分マシになった右手の痛みを意識から排除して、雫は息を吐くと口を開いた。

「咲崎美玲。アンタ、渚沙ちゃんを利用して一体何を企んでいるの」

 紫髪の女は痛みに歪んだ顔を強引に笑みに変えた。

「アナタ、には。関係のないことよ。仮にあったとしても、話す義理も理由も、ないわ」

「義理とか理由とか、そんなのどうでもいいわ。アンタは私の友達を、その妹を危険に晒した。それだけで万死に値すんのよ。それなのにまだ殺さないのは、アンタにはまだ私に『イブの転生者』について情報を与えることが出来るっていう価値があるからよ。言葉はちゃんと選ぶことね」

「あらあら……。少しだけ形勢逆転したくらいで、こうも上から目線で物事を語られるとイライラするわね。舞い上がってるところ悪いけれど、私は何も話す気はないわよ」

「なら、話す気にさせてあげるわ」

 簡単に情報を吐くとは思っていなかった。だからこの流れは予想通りと言っていいだろう。最初から力づくで話を進めようとしているのだから、それが一つや二つ増えたところで変わりはない。

 直後。

 青白い光と共に、二人の周囲に、合計十五本の刀剣が顕現した。それらは全て「口裂け女」に照準を合わせている。

「……アナタも食えない女ね。まだ本気を出していなかったなんて。とても「ステージ・1」の原罪者とは思えないわ」

「女は最後まで秘密を隠しておくものよ。 ……アンタの最後は今この瞬間なんだから、さっさと吐くもの吐いちゃいなさい。じゃないと私は容赦なくアンタを串刺しにするわ」

 キキン、と。

 刀剣たちが音を鳴らした。

 いつでも射抜けるという、刀の鳴き声だ。

 咲崎美玲は、それらを確認した後、浅く息を吐く。

「……自分の命が惜しいと思うんだったら、最初から人なんて殺していないわ」

「なんですって?」

「人を殺すということは、人に殺されるリスクを考えるということよ。自分だけ安全地帯にいて、命も賭けずに他者の命を切り裂くのは不公平だわ」

「自分の命を捨てる覚悟があれば一般人を殺してもいいって? ずいぶんと自分勝手な思考じゃない。そんなのは、ただの子供のわがままよ。救いようのない不遜だわ」

 そもそも前提として、どんな条件、どんな環境下であろうと『殺人は許されない』。

 例えば人類史において一番最初の殺人は『カインとアベル』だ。この兄弟はアダムとイブが「エデン」を追放された後に誕生した人類の祖先。兄であるカインの中で弟のアベルに対して鬱憤が募り、結果として殺害してしまうという話が創世記に書かれている。そこから人類には『殺人は許されない』という原点の罪、根源的な制約が刻まれた。

 それほどまでに、殺人の歴史は古く深く、同時に重い罪になっている。

 だから、どんな理由があれ何も悪いことをしていない人間を殺すのは間違っている。

「なら。アナタが私を殺すのは正しいことなの? 人間を殺すという結果は何も変わらないけれど」

 ふと、美玲がそう言った。

 どこか落ち着いた声色だ。

 雫は少しムキになるように口調を強めた。

「それとこれとは話が違うわよ。私が言っているのは『必要悪』の使い所。死刑っていう罰法があるでしょ。それがいい例よ」

「違うわね。人は皆、理由があるから人を殺すのよ。空腹だから人を殺した。眠いから人を殺した。陵辱したいから人を殺した。腹が立ったから人を殺した。……殺人に間違いも正しいもない。殺人は等しく殺人、同罪なのよ。自分だけ正しい殺人を行なっていると思うのは、流石に「不遜」なんじゃないかしら、〈エデン〉のお嬢さん?」

「ごちゃごちゃと言い訳を……!」

「ならアナタは一度も罪を感じたことはないの?」

「……っ!」

 咲崎美玲。

 多くの女性を殺してきた連続殺人鬼は、スッと冷えた真顔で、雫を直視しながらそう言った。雫は言い返そうとした言葉を、つい飲み込んだ。

 気圧された、とはどこか違う。

 確かに、人を殺した時、罪の意識を感じたことはあったからだ。

 例えば、ついこの間の。

 〈骸蛇〉に堕ちてしまった、少年。

 彼を殺した時に。

「ほら、あるじゃない。罪の意識が確かに。その時点で、アナタの殺人は正しくない殺人なのよ。罪悪感がある限り、それは罪のまま。決して贖罪にはなり得ない。……まぁ無理もないわね。だってアナタはまだ『子供』なんだもの」

「アンタが私を語るんじゃないわよ!」

 まるで図星を突かれた子供みたいに、だった。

 雫は怒りのままに叫ぶと周囲に滞空させていた刀剣の一本を射出し、死なない程度に美玲の骨肉を抉った。

 血が舞って、美玲が苦鳴する。

 雫は至近で言った。

 早口に。

 口調は強めに。

 焦るように。

「私は私の行動に後悔なんて抱いてないし、罪悪感なんてない! わた、私はただ、みんなが笑っていられるように刀を握ってるだけよ! アンタらみたいなクソ野郎がいるから、私が殺してんじゃない!」

 本当にそうか?

 そうやって自分を誤魔化し続ければ、罪悪感から逃れられると思っているんじゃあないのか? どんな理由があれ、人を殺してはいけないという定義があるのは、お前だって知っているじゃあないか。

 〈骸蛇〉にしろ悪に堕ちた原罪者にしろ。

 殺害という物騒で力任せな解決方法ではなくて、もっと優しくて温かい正解があったんじゃあないのか?

「そもそも! アンタが人に公爵を垂れる立場なの⁉︎ 実際に正当な理由もなく人を殺してるアンタに、私の生き方をとやかく言われたかないわよ!」

 『奈切家』のことなんて何も知らないくせに。

 アンタらみたいな世界の悪意がいなければ、あんな辛い思いをせずに済んだのに。それなのによくもまぁ、いけしゃあしゃあと語ってくれたものだ。

 こっちが殺したくて殺してると思っているのか? お前みたいに自分の目的を達成するために殺してるんじゃない。

 ––––『仕方なく殺してるだけ』なんだ。

 殺さずに済むなら、最初からそうしているに決まっているだろ。

 

 ––––強く在りなさい、鎮来。

 

 もうずっと聴いていなかった声が、どこかでした。

 ハッとなって顔を上げた。

 目の前に、顔にモザイクがかかった、着物を着た男が立っていた。

「……ッ」

 瞳が、顔が、雰囲気が。

 雫の全てが恐怖に染まる。

 本能的な。

 身体と魂に刻まれた、逆らえない恐怖。

「アナタも私と同じだわ。人殺しなのよ」

「……違う」

––––強く在りなさい、鎮来。

「人を殺してる時は、正義のヒーローになれるものね」

「……ちがう」

––––強く在りなさい、鎮来。

「偽善者でいる時は、さぞ気持ちがよかったでしょう?」

「ちがう……。ちがうちがう」

––––強く在りなさい、鎮来。

「違くないわ。貴方は私と同じ……殺人鬼よ」

「違う! 違う違う! アンタと、アンタと一緒にするなぁ!」

––––強く在りなさい、鎮来。

「もう、もう! 黙ってよォおおおお‼︎」

 泣き叫ぶようにであった。髪の毛を振り乱すように揺れながら、雫は制御が効かなくなった力を解放……というより暴走させた。

 全ての刀剣が四方八方に射出され、轟音と共に地面を抉る。対して、雫は握りしめていた日本刀を離し、それを好機とみた美玲はすぐさま腹部から刃を引き抜いた。

 雫を蹴り飛ばし、血の唾を地面に吐いた。

「やっぱり子供ね。激情してチャンスを逃す。今のが、アナタが私を殺せる最後のチャンスだった」

「ぐ、うぅ……っ」

 荒い息を吐きながら、美玲は雫をそう見下した。雫は地面に倒れながら、どこか苦しんでいるようだ。

 戦意喪失、に近い雰囲気だった。

 もうすぐそこまで勝利が掴めそうだったのに、どんどん遠くなっていく。

 視界が霞む。

 音が遠ざかっていく。


––––強く在りなさい、鎮来。


「やめ、ろ……。うる、さい。私は、弱くない。強くなった。強くなったのよ……」


 声が止まない。

 身体の中に、心の中に、魂の中に響いてくる。どんなに耳を押さえても、聞きたくない声が聴こえる。

 思い出したくもない過去が、自尊心を抉ってくる。


––––強く在りなさい、鎮来。


「やめろ、やめろやめろやめろ。……やめて、やめてよ。私が、みんなを。裕太を、渚沙ちゃんを、助けないと……。私しか、いないんだから……ッ」


 強くなった。

 みんなを守れるくらいに強くなった「つもり」だった。色んな事件を経て、自信をつけて、己の実力と向き合って。能力のステージはまだ上がってないけれど、それでもそこら辺の能力者になら負けない自信はあった。

 なのに、このザマ。

 倒れて、右手を失って、偉そうなことを言って、一丁前なことを恥ずかし気もなく吠えて。結局、言葉に実力が伴っていないから、有言実行も出来やしない。


––––強く在りなさい、鎮来。


「……私は。こんなに弱かったのかッッッ」


 涙が止まらなかった。

 とめどなく、溢れてくる。

 自分の弱さが、ここまで悔しいと思ったことはない。

 誰も守れない。

 友達すら、その家族すら、救えないなんて。

 もし、雫が来なければ。

 もし、雫が裕太と渚沙に会わなければ。

 こんなことにはなっていなかったのだろうか?

 あとからあとから、「もしかしたら」が噴水のように出てきて、溜まっていく。

 殺しの定義もわからない。

 何が正しくて何が間違っているのかさえ。

 自分が今まで正しいと思ってやっていたことは、正解なんかじゃなかったのか。

 でも。

 言われてみれば確かに。

 

 ––––殺人は、どこまでいっても殺人だ。


「ごめんなさい……。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「謝罪は地獄でしてちょうだい。後悔も罪悪感も、何もかもを抱いたまま、ね」

 ザッと、雫の目の前に咲崎美玲は降り立った。

 まるで死神。

 「ステージ・1」の大鎌を手に持って、紫髪に黒衣の女は雫の命を狩り取るべくそこにいた。

 冷たい目。

 興味が失せた表情。

「……飽きたわ。本当に、これで最期よ。逝きなさい、みっともなく憐れに!」


––––強く在りなさい、鎮来。


 声が止まらない。

 ……強くなんて、なれなかった。


  

           11



 ザンッッッ‼︎‼︎‼︎ と。

 一片の慈悲すらなく。

 殺意に塗れた大鎌が、振り下ろされた。



           12



 夢を見た。

 炎に包まれている夢だ。

 悲鳴が聞こえる。

 笑い声も聞こえる。

 どうしてこんな場所にいるのかと不思議になるけれど、すぐに合点がいく。

 事故で車のガソリンに火が引火して、燃え上がっているのだ。おそらく、もう少ししたら車は爆発して一帯を火の海にするだろう。

 原因はなんだったか。

 理由はなんだったか。


 ……そうだ。変な蛇が、妹を。


 守ってあげなくちゃ。

 辛い思いから、悲しい思いから、寂しい思いから、痛い思いから、守ってあげなくちゃ。

 オレしかいないから。

 オレにしか出来ないことだから。


 声がした。

 聴いたことのある声だ。

 妹の声、じゃない。

 誰だろう。

 炎の夢から場面が変わって、どこかの古びた校舎裏の敷地。荒れている。地震か、怪獣映画のワンシーンみたいに、破壊に染まっている場所。

 誰かが泣いていた。

 ひどく辛そうにしながら、泣いていた。

 手を伸ばしても、届かない。

 どうして泣いているんだろう。

 どうして苦しそうなんだろう。


 どうして、こんなにも悲しくなるのだろう。


 守ってあげたい。

 助けてあげたい。

 涙を拭ってあげたい。

 そうしなくちゃいけないような気がした。

 

 でも自分には、あの子を助けられる程の力が『まだ』ない。

 どうすればいい。

 どうすればいい。

 どうすればいい。


『––––なら思い出すといい』


 声がした。

 また、別の声だ。

 姿はない。

 この声は、自分の中から聴こえる。


『––––原点の夢を。己の罪を。キミは、いや……』


 熱い。

 魂が、燃え上がっている。

 まるで業火の中にいるような。

 まるで炎になったかのような。


『–––僕たちの「罪」は、全ての始まりなのだから』


 次の瞬間。

 爆発的な炎の嵐が、一人の少年の『魂』に喝采を与えた。



 ……いわく、とある書籍にはこう記されている。

 人類史における全ての発展は、その歴史は「火」から始まり、同時に「火」で終わるだろう、と。

 で、あるならば。

 その性質は物理現象を遥かに超えた超常にも適用されなければおかしい。

 それが人類の祖であるのなら、尚更だ。

 だから。

 きっと。

 その「炎」が鎮火されることは、決してない。



           13

 


 咲崎美玲が大鎌を振り下ろした瞬間。

 辺り一面をメラメラと燃える赤色の炎が包み込んだ。

 息をするだけで焼ける熱気。

 肌がヒリヒリと痛む熱さ。

 突然の発火現象に、美玲は思わず手を止めて周囲を見た。

(……何、この炎は。原罪なの?)

 理解不能な現象に、美玲は訝しむばかり。

 そしてハッとなって、彼女は視線を戻す。

 いなかった。

 地面にいるはずの、殺そうとしたはずの少女が、どこにもいなかった。


「––––ありがとう。奈切」


「……⁉︎」

 この場面で絶対に聞こえるはずのない声が耳を打って、美玲は衝撃を隠さないままそちらを見やる。

 黒い瞳に映ったのは、全身血だらけのボロボロのくせに、堂々と少女を抱えて立つ少年だった。

 黒髪に制服。

 平凡な顔立ち。

 第一印象だけなら何の取り柄も無さそうな、どこにでもいる普通の高校生。

「お前のおかげで、オレとナギはまた平和な日常に戻れそうだよ。守ってくれて、ありがとう」

 炎がメラメラと燃えていた。

 火の粉が舞っていた。

 雫は霞む視界の中、ゆっくり彼を見た。

「……ゆう、た」

「おう。遅くなって悪かった」

 陸堂裕太。

 瀕死状態だった少年が、そこにはいた。

 彼は雫を安全な場所に寝かせると、そのまま美玲の方へと足を向けた。

 雫は掠れた声で言う。

 彼の背中を見ながら。

「ごめ、ん。ゆうた……。わ、私のせいで……」

 涙が溢れる。

 頬を伝う。

「何言ってんだ。お前は何も悪くねぇだろうが。お前は泣くんじゃねぇよ、奈切。お前はさ、生意気で勝ち気で、意地っ張りで、偉そうなことを言う奴だけど……でも、それが奈切雫なんだから。そんなお前だから、オレは今ここに立ってんだよ。……だから、泣くんじゃねぇ」

「……ゆうたっ」

「後は任せとけ。あのクソ野郎は、オレが必ずぶっ飛ばしてやるからよ」

「うん……っ」

 守ってあげられなかった。

 むしろ、守られてしまった。

 悔しい。

 みっともない。

 でも、どうしてだろう。

 裕太の背中を見ていると、ひどく安心した。

 何とかなるって、思ってしまったのだ。

 あの、炎のように頼り甲斐のある背中が。

「……炎の原罪。『原初の原罪』ってことでいいのかしらね」

 『原初の原罪』は、この世界に存在する『現象』を扱う罪。他の原罪とは格が違う、それこそ『現象』がなければ何も生まれていないのだから「神の力」と言っても過言ではないだろう。

 『アダムの転生者』。

 陸堂裕太。

「……どうやら。ここからは本気でいかないとダメかもしれないわ––––」

 グゴギィ‼︎‼︎‼︎ と。

 言葉途中で、だった。

 殴られた瞬間すら、美玲は呆然としていた。  

 全く見えなかった。

 速すぎて視認できなかった。

 気づけば拳が頬にめり込んでいて、美玲は砲弾のように吹っ飛んでいたのだ。彼女はそのまま勢いを殺すことも出来ずに校庭まで吹き飛び、地面を何度もバウンドしてようやく静止した。

「あ、ガァ……ッ! つ、うぅ! ……ゲホ、ゲホッ! はぁ、はぁ、はぁ……っ。な、何、今のは……」

 先刻に喰らった三発の打撃とは明らかにレベルが違うモノだった。原罪者のパンチでも、ここまでの威力にはならない。

 それに、一瞬しか見えなかったが……炎を纏っていた。

 チリ、と打撲とは違う焼かれるような痛みが頬に走った。

 火傷。

「火を纏った、パンチ……。全く、お寒い覚醒劇のくせして私の顔に熱い傷をつけるんじゃないわよ!」

 鎖鎌を顕現。

 こちらに歩いてくる影に向けて投射。

 刃と鎖が不気味な音を立てながら虚空を走り、影の命を求める。

 次の瞬間。

 影に直撃する寸前で鎖鎌が『溶けた』。

「……なっ」

 流石に意味がわからないと、美玲は瞠目する。

 だが驚いてる場合でもない。

 今、美玲は確かに感じてしまった。抱いてしまった。

 あの影に対して、明確な恐怖を。

 気づけば、微かに手が震えていた。

 そして、影の姿が露わになる。

 黒髪に制服。平凡な顔立ち。ボロボロの身体。

(恐怖? ……私があんな路傍の石ころ程度の人間を恐れていると?)

「お前はやり過ぎた」

「……っ!」

 ボッ、と。

 静かに、けれど荒々しく、赤色の炎が少年の全身を燃やし始めた。否、纏っているのだ。彼が炎を。

 その姿が、妙に神々しく見えて、美玲はやはり恐怖を抱く。

 自分なんかよりも、遥かに高位な魂。同じ空間にいること自体が烏滸がましいと断罪されているような感覚。

「……やり過ぎたんだッ」

 言葉が。

 口調が。

 炎が。

 雰囲気が。

 一段階熱くなる。

 燃え上がる。

 陸堂裕太。

 彼は言ったのだ。

 脳内で再生される、妹の泣き顔と、雫の泣き顔を魂に刻みながら。

 全ての罪を、消し炭にするかのように。


「––––オレの『家族』を! 泣かせるじゃッねぇよッッッ‼︎」

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