第4話 余韻もなく罪は廻る


 午後六時半を過ぎて、5月の空はすっかり暗くなり、もう冬は終わったというのに肌寒い。春の匂いを漂わせ、草木が風に揺れていた。

 青梅街道は激戦の余韻すら残さずに、いつも通りの光景に戻っている。車のライトや人の流れ、店々の明かりが夜の世界に命の温かさを与えていた。

 

 場所を移そう。

 そう言ったのは誰だったか。

 

「……アダムとイブって、知ってる?」


 夜の住宅街は家の明かりで満たされていて平和な色をしていた。耳を澄ませば夕飯の支度をしている音や、鼻をすすれば美味しそうな匂いが嗅げるかもしれない。自転車のブレーキ音、バイクのエンジン音などが聞こえる。

 日本の日常、と言ってもいいそんな空間で、ピリピリとした雰囲気をまとう住宅が一つあった。

 清潔感のある白い外壁の家。

 陸堂裕太とその妹である渚沙が住む家だった。

「……知ってる、と言えば知ってます。確か、聖書に出てくる人類の祖先でしたっけ?」


 家に命の灯火とも呼べる明かりが点いている。

 リビングだった。

 夕飯の支度などは何もしていない。ただテーブルに並べられているのは人数分のお茶だけだ。

 三人分。

 裕太と、渚沙と、雫の三人。

 「そう。正確には旧約聖書だけど、間違ってないわ。アダムとイブは神に生み出された一番最初の『人間』のこと」

 渚沙が買った夕飯の食材などは一応回収しているが、当然使い物にはならないだろう。キッチンに置かれたソレは、調理されずに役目を終えたことを悲しんでいるかのようにある。

「その、アダムとイブ? がさっきの件とどう関係してるんですか?」

 スマホもスマホで液晶が割れているので修理しないと使えない。今は渚沙の自室に置いてある。

 戦い、というよりも一方的な攻撃によって壊れてしまったから。

「……そうね。なんて言えばいいのかな……」

 渚沙と雫。

 二人が話を進め始める間、裕太は口を閉ざしたまま渚沙の隣に座っている。不機嫌、なのは誰が見ても分かる。だが、無理もない。唯一無二の妹が危険な目に遭い、傷を負い、下手をしたら死んでいたかもしれない状況下に置かれたのだ。

 そんな悪夢みたいな世界に妹を一人にして、怒らない兄はいない。

 いいや。

 情けない、か。

「まず大前提として、『人間』には特別な力が備わっていたの」

「……特別な力?」

 テーブルに置かれたお茶を、雫が一口飲んだ。

 コト……ッとカップの底がテーブルの面に着く音が柔らかく響く。

 時計の秒針が規則正しく時間を刻む中、渚沙は小さく首を傾げている。

 特別な力。

 それは渚沙視点からみれば、既に疑いようのない現実の中で立証された力だ。噂の『口裂け女』が平然と振るっていた大鎌、その能力。アレは、特別な力と表現しても差し支えのない暴力だ。

 

 一方で、裕太の立場から考えると雫の言葉は理解不能だ。この世界は漫画やアニメではないのだから、超能力や魔法なんてモノが存在するわけがない。

 対照的な考えを持つ兄と妹。

 そんな二人のことを分かった上で、雫は口を開く。

「テレビなんかでも、たまに言ってるでしょ? 人間の脳は全体のたった五%しか使われていないとか、第六感シックスセンスがあるとか」

「……一度くらいは。ねぇ?」

「……そうだな」

 渚沙に同意を求められ、裕太は静かに応える。

 それから、雫は続ける。

「まぁ脳とか第六感シックスセンスとかは例え話で引用しただけだから関係ないんだけど……重要なのは特別な力が「あった」っていう事実よ」

「……「あった」。過去形?」

「そう。そこがポイント」

 雫は怪訝に眉をひそめた渚沙を、テストの問題を解いた生徒に合格を告げる教師のように指差した。

 「あった」。

 これは渚沙の疑問通り過去形だ。

 「ある」でも「あるらしい」でもなく、わざわざ過去形で表現する辺りに重要性を感じる。

「回りくどい言い方をしてはぐらかすなよ。つまりお前は何が言いたいんだ」

 話を進めようとしない、いいや前置きが長い雫の言葉の流れがイヤなのか、裕太が結論を早めに言えと存外に告げる。

 ピリッとした空気感。

 妹の渚沙は静かに口を閉じ、雫は裕太を真っ直ぐ見た後、微かに息を吐いた。 

果実アルケよ」

「……アルケ?」

「アダムとイブが口にしたとされる禁断の果実。それが原因で人間の特別な力は封印された。……でもね、それを解放する唯一の方法がある。それが『原初の夢』を見て、果実アルケを食べること」

「夢って……」

 小さく呟いた渚沙の脳裏に、今朝の記憶が蘇る。

 『原初の夢』。

 それは確か、奈切雫が陸堂裕太に質問していた内容だ。その夢を見たかどうか、その真偽を知りたがっていた。

 そして裕太の方もまた、意味深な単語に眉を顰める。

 『原初の夢』とは、体育館裏で雫に言われたことだ。本当に見たことがないのか。その確認をされた。

「そして『原初の夢』を見て、己の能力を自覚すると……」

 言いながら、だった。

 雫がふっと、何の気なしに右手を前に突き出した。

 直後、赤色をした淡い光が瞬き、その虚空に変化が生じる。

 果実。

 リンゴに似た果実が、彼女の右手に掴まれたのだ。


「……な」

「これが果実アルケ。……そして」


 シャクリと、雫が果実アルケと呼んだ果実を一口食べた。

 瞬間、彼女の周りに赤色の花弁が漂い始め、それらが右手に集まっていく。そうして三秒も満たない内に雫の右手に握られたのは、一本の日本刀だった。

 果実アルケは宙に浮き、日本刀は妖しく輝く。


「これが『原罪カルマ』。人間に隠された能力」

「「……」」


 裕太も渚沙も、現実離れした光景に言葉を失った。

 雫が説明してくれたことは、理解できる。

 つまり、人間には元々特別な力があった。だがその力は先祖である『アダムとイブ』が『禁断の果実』を口にしたことで封じられた。

 しかし、その力を解放する手段がある。

 それが『原初の夢』と呼ばれる夢を見て、夢の中に出てきた果実を食べること。そうすることで己の中に封じられた力が解放される。

 そして、現実にその力を使用する際は、雫が今実行して見せたように果実アルケを具現化させて食べることが条件なのだろう。

 

 力の全体名を、『原罪カルマ』と呼び。

 力の発動手段を、『果実アルケ』という。


「……その力が、雫とどう関係してるってんだよ」

「お兄ちゃん……」

 この世界には不思議な力が存在する。それはもう分かった。納得していない部分もあるけれど、目の前で不可思議な現象を見せられては頷くしかない。

 だが、百歩譲って異能と呼ばれる超常現象があったとして……それが今回雫が狙われたことと繋がっているのか?

 裕太の声は怒りをとにかく抑えたように震えていて、今にも爆発しそうだった。

 雫はそんな彼を、真摯に、真っ直ぐ見る。

「渚沙は……ただの女の子だ。オレの妹だ。お前の言う『原初の夢』も見てないし、異能なんて使えない。……それなのに、どうしてオレの妹が危険な目に遭わなきゃいけねーんだよ」

 雫は手に持っていた日本刀を虚空へ消した。

 同時に、朱色の花弁や果実アルケも消失する。

「渚沙ちゃんがどうしてあの「口裂け女」に狙われていたのかは私にも分からない。……でもね、アンタが原因で巻き込まれたかもしれないっていう可能性はあるのよ」

「……オレ、だと?」

 予想外の返答に裕太は瞠目した。渚沙も驚きながら裕太を見る。

 裕太には、当然ながら殺人鬼に狙われる心当たりなんて全くない。しかも異能持ちの変態野郎となれば尚更だ。

 にも拘らず、裕太が原因で渚沙が狙われる?

 何故だ?

 雫はそっと息を吐いて、

「アンタが目的で私がここにきたことは昼間に説明したわよね。……その理由はね、裕太。アンタがアダムの生まれ変わりかもしれないからよ」

「………は?」

 衝撃発言……いいやそんな確定的な言葉では表せない。突拍子もないことを唐突に言われて「はいそうですか」と頷けるほど、裕太は利巧な頭を持ち合わせてはいないのだから。

 アダムの生まれ変わり。

 全くもって、意味がわからない。

「……ちょっとまて。いきなりそんなこと言われても……アダムの生まれ変わり? は? 何言ってんだよ、お前」

「状況を理解できないのも無理はないわ。アンタの気持ちはよくわかる。でも、アンタがアダムの転生者の可能性があることは揺るがない」


 アダム。

 それは聖書の創世記に記載されている、人類の祖。

 雫いわく、アダムは知恵の実と呼称されている禁断の果実を食し、楽園エデンから追放されたという。

 結果、その行動が人間の力を封印し、解くためには果実アルケを手に入れなければならないという「矛盾」を生んだ。

 そこまで分かっていて、しかし理解なんて出来るはずもない。

 陸堂裕太はただの高校生だ。

 平凡な顔つきで、両親はいないけど妹と二人で月並みの幸せを享受して、不満なんて一切なく暮らしている、勉強が苦手で運動が得意で、人より少し喧嘩が強いだけの一般人だ。

 それなのに。

 急に『アダムの転生者』なんて言われても。

 自分が原因で渚沙に危険が及んだと言われても。

「……そもそも。どうしてオレが『アダムの転生者』だってわかったんだよ。……いや。その前に」

 言葉を区切って、裕太は一度息を吐いた。

 異能とか転生者とか、重要なことは沢山ある。だが、それよりもまずは訊かなければならないことがあった。

 それは。


「奈切。お前は一体、何者なんだ」


 全てはそこに繋がった。

 難しい話は置いておいて、結局はそこに回帰する。

 朝から自分のベットにいて、朝食を食べて、学校に着いてきて、中二病だと思われるようなことを平気な顔して言う少女は。

 そもそも一体何者なんだ?

 世界の裏側を知り、同時に異能を扱うこの少女は。


「………」


 一拍の間があった。

 雫は目を瞑り、開いて、息を吐き、裕太と渚沙を見る。

 そして。

 言った。


「私は特殊能力対策組織〈エデン〉、第参部隊所属の『原罪者カルマホルダー』・奈切雫。……陸堂裕太。アンタを特異転生者として拘束する」



            2



『いやーずいぶんと大変だったみたいじゃあないかシズク! あははは! 予想通り他の『原罪者『カルマホルダー》』も介入してきて、楽しくなってきたね! あはははは!』

 心底腹立つ、妙に癪に障る声に黒髪ショートヘアの少女は真顔で、黒髪ボサボサ少年は微妙な顔をしていた。

「……おい奈切。なんだこの人を馬鹿にするのが大好きです、みたいな気色悪い声を出す奴は」

「あ、ごめん。電話間違えちゃった」

 ブツ。

 もう切った。

 数秒後、雫のスマホが鳴る。

 電話に出る。

 真顔と冷たい声で。

「……なに」

『ねぇひどいよ! あまりにも理不尽だ! 僕が一体キミたちになにをしたっていうんだよ!』

「「生きてることが罪」」

『僕に死ねって言ってるのかい⁉︎』

 電話越しでも分かるくらい涙声だ。下手したら、いや多分男は泣いている。初対面というか会ってすらいない裕太にこの扱いをされるのだ。きっと雫にはいつも雑にされていることだろう。余程下っ端、もしくは舎弟とかに違いない。

「はぁ……。直義、アンタ一応東京支部のトップなんだからもっとちゃんとしなさいよ。そうしないと裕太がこっちの話聞いてくれないでしょ」

「いやこいつが頭なのかよ!」

 似合わないにも程がある。何かこう、リーダーとかってもっとオーラとか話し方とか、とにかく無意識の内に信頼できる感じだと思ったのに。

 裕太は疑心の目をしながら一応確認のために雫を見て、

「……まじ?」

「マジもマジ」

「正気か?」

「んなわけないじゃない。……その内終わるわ、日本」

「……オレまだ死にたくねぇよ」

『ねぇちょっと、勝手に僕をニートみたいな扱いにして不安がらないで!』

 などと電話の向こうで半泣きになっている見知らぬ男に、裕太はため息を吐いた。

 特殊能力対策組織・〈エデン〉。

 それが奈切雫が所属している特異な組織。彼女と同じ異能を扱い、異能が関わる全ての事件を解決するために存在する組織。

 そんな世界の裏側を知り尽くしたような存在の頭が、こんな頼りない泣き喚き野郎だと不安で仕方ない。ため息も吐きたくなるものだ。

「で。コイツに会ってオレはどーすりゃいいんだ」

 裕太は話を変えるように、というより戻すように雫に問いかける。

『あはは。コイツとは酷いな、陸堂裕太くん。僕の名前は九条院直義。東京支部〈エデン〉のボスにしてイケメンメガネだよ。よろしくね』

「あまりよろしくしたくねーな」

『そろそろ本気でへこむよ、僕』

 つい本音を言ってしまった裕太は特に詫び入れる様子もなく直義と名乗った男のへこみリアクションを無視する。

 というより、そろそろ本題に入りたいのだ。

 裕太は軽く息を吐いて、

「奈切から話は聞いた。お前なんだろ。オレが『アダムの転生者』だって言ったのは」

 それは漫画やアニメの話などではなく、実際にこの現実で起きていること。妹が「口裂け女」に狙われた原因かもしれなくて、雫がこの街にきた理由。

『確かに雫にそれを伝えたのは僕だ。だけどキミが転生者だと探り当てたのはまた別の人間。もう説明しなくても分かると思うけど、その人は雫とは違うタイプの原罪者カルマホルダーだよ』

 『原初の夢』を見て、異能を取り戻した人間。

 それが原罪者カルマホルダーと呼ばれていて、世界に蔓延る悪い異能者を相手にしているとか。

 例えば、あの「口裂け女」とか。

「だからオレを拘束するために雫をよこしたって? 普通こっちにアポくらい取るもんだろ」

『事態は急を要したからね。すまない』

「こっちは妹が命狙われたんだぞ! すまないだけで「はいそうですか」ってなるワケねーだろうが!」

 裕太の怒声が、彼の部屋に響き渡った。

 そう。今はもうリビングにはおらず、裕太の部屋に移動している。雫と二人で話がしたいと裕太が言い出し、渚沙は今頃自分の部屋で休んでいることだろう。

 スピーカーにした雫のスマホは、裕太の勉強机の上に置かれていて、明かりが点いていない部屋にひっそりとある。窓から差し込んだ月光が、スマホの画面を怪しく照らしていた。

 一拍空けて、だ。 

 努めて冷静に、裕太は口を開く。

 今すぐ電話の向こう側にいるクソ野郎をぶん殴ってやりたい衝動を、力の限り抑え込みながら。

「百歩譲って、オレを拘束しに来たのはまだいい。五百歩譲って、オレが狙われるのはいい。……だけど、千歩でも一万歩でも、渚沙が狙われるのは譲れねぇ。奈切から聞いたぞ、九条院直義。オレが『アダムの転生者』だから渚沙が狙われたってな。だから、まずは聞かせろ。『アダムの転生者』って何だ」

 聞きたいことは山ほどある。だけど順序も必要なことだ。もちろん一番聞きたいのは渚沙が狙われた真の理由。それが裕太の責任ならまだいいが、仮に渚沙自身に理由があるのであれば、話はかなり変わってくる。

 電話の向こうにいる九条院直義は、裕太の質問に対して数秒、間を空けると答えた。

『原罪や果実アルケの話はシズクからもうされたと思うから、その話は省くとしよう。だから僕からキミに話すことは、もう一つ上のステージだ』

「上の、ステージ?」

『そう。陸堂裕太くん。キミは、輪廻転生を信じるかい?』

 輪廻転生。

 それは仏教に伝わる生まれ変わり理論。死んだ者の魂は『世界のシステム』たる大きな輪に誘われ、また新しい人生を過ごすために違う魂となって生まれ変わる。

 もちろん裕太が持つ輪廻転生の知識などアニメや漫画、学校の授業程度レベル。おそらく、九条院直義が口にした輪廻転生とは、もっと深い。

 それこそ、表側の人間が知る由もないことで、誰も信じられない『真実』なはずだ。

「……信じない、なんて言っても信じるしかないんだろ。大体、こっちはもう異能とやらを見せられてるんだ。今さら生まれ変わり程度で驚くかよ」

 電話の向こうで九条院直義は笑う。

『あはは。流石、話が早くて助かるよ。まぁ、輪廻転生のイメージは裕太くんの知識で概ね間違ってはいないかな。宗教なんかで転生論は変わるんだけど、「死んだ魂が別の肉体に宿って生まれ変わる」という流れは何一つ変わらないんだ』

「……つまり?」

『人類創成期。アダムが死んで数億年経った今。アダムの魂は六道祐拿りくどうゆうたという君の魂に惹かれ、そして肉体に宿ったんだ。それはもちろん、キミが生まれる前にね』

 九条院直義はそう言うと、裕太の返答を待つようにしばり黙り込んだ。難しい単語や理解できない言い回しはひとまず置いておくとして、用はアダムと呼ばれる人類の祖先が裕太の前世? ということでいいのだろうか?

 チラリと雫を見てみれば、彼女は裕太の考えを汲んだようにコクリと頷いてくれた。

「直義が言っていることは間違ってないわ。そこは安心して」

「……わかった。じゃあ、なんで『アダムの転生者』を拘束する必要があったんだ?」

 最もな疑問を裕太は口にした。

 雫の話によれば、アダムとはイブと同じく禁断の果実を口にして人間の能力を封じた存在だ。結果、それが『原罪』と呼ばれ、能力を解放するには『原初の夢』を見て果実〈アルケ〉を食べるしかない。

 そして雫たち〈エデン〉は悪い能力者を相手にしていると言っていた。だから、そういう悪意ある原罪者カルマホルダーを生んだ直接的原因であるアダムは危険だと判断したのだろうか?

 それは、『アダムの転生者』である裕太も変わらないと。

「仲間にするためよ」

 雫が言った。

「『アダムの転生者』が生まれたなんて前例は過去に一度もない。どんな能力でどんな奴なのか分からない以上、敵側に連れて行かれるリスクを考えたら〈エデン〉で匿ったほうがいいと判断したのよ、直義は」

 まぁ、急にこの任務をぶん投げてきたからムカついたけどね、と雫は説明の補足程度にそう言った。もちろん声色は冷たくて、電話の向こう側にいる九条院は誤魔化すように笑っている。

 話は逸れたが、ようは〈エデン〉の人間は裕太が悪い能力者たちに捕まらないよう守るために来た、という解釈でいいのだろうか? もしそうなら色々と納得することはできる。どうして裕太にしつこく関わってくるのか、どうして渚沙を助けてくれたのかも。

 けれど一方で、気になることもあった。

「敵側って、あの「口裂け女」のことか」

 渚沙を狙った張本人。悪意が詰まった異能を存分に誇示していた化け物。

「アイツは、なんだ。見たところ、お前らと同じ異能を使う人間だったみたいだけど。……アイツは、お前らの仲間じゃねーのかよ?」

「違うわよ。アイツは原罪に目覚めて、自分の罪に酔いしれて周りに悪意をばら撒く害よ。まぁ、さっきも言ったけど悪い能力者だと思って。私たちは、そーゆー奴らを相手にしているの。……あとは原罪に目覚めたのはいいけど、それに呑まれて「化け物」になった奴も斬ってるわね」

「バケモノ……。もうなんでもありだな」

 情報量が多すぎて、裕太は頭が痛くなってくる。

 だが、ここまでの話をまとめると、大分見えてくるモノもあった。

 裕太は『アダムの転生者』で、悪い奴らに捕まらないように雫たち〈エデン〉がきた。『アダムの転生者』は原罪の起源であり、故にどのような能力が目覚めるのか不明なことから、狙われている。

 それは味方にするためか、はたまた殺すためか。

 正直『アダムの転生者』なんて言われても意味は分からないし、こっちはなったつもりなんてない。普通の人間で、普通の兄で、普通の高校生で、普通の人生を過ごしてきたのだから。それが、いきなりあなたは特別な存在ですなんて言われても、困るだけだ。

 だが、裕太が特別な存在ということが、渚沙が狙われた理由だと雫は言っていた。

 つまり、裕太を捉えるために渚沙が狙われたということなのだろうか?

「……多分。そうじゃない」

「なんだって?」

 裕太の考えを読んで、そして否定した雫。彼女はヤケに真剣な顔つきでそう言うと、机の上に置いてある自分のスマホを見た。

 いいや、その向こうにいる〈エデン〉の頭を。

「直義アンタ、まだ私に……私たちに隠してることがあるでしょ」

『……』

「沈黙は肯定と見るけど、いいのね」

『……やっぱり。隠し通せなかったみたいだね』

 雫の問い詰めに、九条院直義は諦めたように息を吐いた。裕太は終始首を傾げてハテナだらけだったが、二人には共通する問題があるようだ。

 それも、雫は任務をこなす上で重要な何かを隠されていたようだった。

 電話の向こうで、九条院は静かに言った。

『もう一人。陸堂家には生まれ変わりがいる』

「……なんだと?」

 その言葉を聞いた瞬間に、九条院が誰を差してそう言っているのか、裕太はイヤでもわかってしまった。だって、陸堂家は「二人しか」いない。

 二人しか、いてくれないのだ。

 九条院、ではなかった。

 雫が隣で言った。

「……『イブの転生者』」

 裕太は雫の言葉を静かに聞いた。

 受け入れたくない事実だった。

 だが、トドメとばかりに、九条院が重ねるように言った。

 『イブの転生者』。

 その、正体を。


『陸堂渚沙。彼女が『イブの転生者』だ』



           3



 部屋の明かりは点けなかった。

 暗いのがいいからとか、そういう理由ではなく。

 単純に、明かりを点けるのが面倒だっただけ。

「………」

 月明かりだけが唯一の光で、部屋の中は少しだけ神秘的に照らされている。月光を浴びてしゃらしゃらと音を立てて揺れそうなカーテン。眠り姫が真実の愛がある口づけを待つようなベット。部屋の電気を、人工的な灯りを点けないだけで、こうも雰囲気は変わるのかと、少女は少し驚いていた。


 陸堂渚沙。

 茶髪にポニーテールの、中学三年生である女の子は、自分のベットの上で膝を抱えて座っている。


「………」


 兄である裕太と、特別な力を使って自分を救ってくれた雫は、二人だけで話があるからと別室にいる。その話に加わりたいと思ったけれど、兄がダメだと言ったから、渚沙はそれに従うしかない。


「………」


 激動の一日だったと、表現しても差し支えのない日だった。

 「口裂け女」に命を狙われ、異能とかよく分からない世界に巻き込まれ、兄が誰かの転生者だと伝えられて。

 一般人の、それも中学三年生の少女の頭では理解できない、処理できない情報ばかりでパンクしそうだった。

 鬱、なんかじゃない。

 ただ、少しだけ、寂しかった。

 どうして寂しいのと訊かれたら、正直分からない。寂しいなんて思う時間なんてなかったけれど、むしろ恐怖を抱く時間の方があったけれど、どうしてだろう。

 渚沙の心は、寂しさで押し潰されそうだった。


「………」


 ギュ……っと。

 渚沙は膝を抱えていたその腕に微かに力を込めた。その膝の上に顔をうずめて、気づく。

 

 あぁ、そうか。

 お兄ちゃんの迷惑になってるから、寂しいんだ。


 ずっと二人で生きてきた。

 ずっと一緒にいてくれた。

 ずっと助けてくれていた。

 それは、嬉しい。嘘じゃない。

 でも、それは寂しいし、罪悪感を抱かずにはいられない。

 だって、それは兄が違う場所にいるみたいで。

 だって、自分のせいで兄がいつも苦しんでいる。傷を作って、血を流して、痛い思いをする。それは心も身体も、だ。

 どうして、渚沙はいつも裕太に迷惑ばかりかけるのだろう。家のこととか、兄のサポートをしている自分に酔いしれていただけで、実際のところは何もしていない。足を引っ張って、心身的に疲労を与えて。

 きっと、このことを、この悩みを裕太に言っても、彼は笑って「大丈夫、気にするな」と励ましてくれるだろう。

 それにまた、渚沙は甘えて、その兄の甘い言葉の海に肩まで浸かって、溺れてしまうことだろう。それは気持ちのいい、麻薬みたいなモノだ。


 では問題。

 それは果たして正しいことなのだろうか?


「………」


 顔を上げた。

 ひっそりと、顔を上げた。

 明かりはまだ点けていない。

 しかし月光は雲に隠れて遮断され、今はすごく部屋が暗かった。

 だから誰も気づかない。

 だからきっと、大丈夫。

 だからきっと、許される。

 

「………私なんて」


 ––––いない方がよかった。

 

 そんな自殺じみた罪深い声を聞く者はいないし。

 頬を伝う涙を見る者も、いなかった。



           4



 裕太は渚沙の部屋の扉を軽くノックした。


「……ナギ。入っても大丈夫か?」

「……………うん。いいよ」

 少しだけ間が空いたことを裕太は少し怪訝になったが、とりあえずドアのノブを掴んで下にさげ、手前へ引いた。扉が開き、明かりが点いている部屋に入る。渚沙はベットの上で座っていて、チラリと裕太を見た。

「どうしたの? お兄ちゃん」

「あーいや。大事な用って訳じゃないんだけど、単純にお前の体が心配だったからさ。大丈夫か?」

 大丈夫、と訊いてはいるが、大丈夫なわけないと裕太は今更ながらに思う。命の危険に晒され、訳の分からない事態に巻き込まれて、大丈夫なわけない。

「うん、『大丈夫』だよ。心配してくれてありがとう、お兄ちゃん」

「………っ」

 強がって言ってると、裕太にはすぐ分かった。大丈夫なはずがない状況なのに、渚沙はいつも「大丈夫」だと言う。それは、おそらく裕太に無用な心配をかけさせないためだ。

 気持ちは嬉しい。

 でも、悔しいし寂しい。

 もっと頼ってくれてもいいのに。

 もっと甘えてもいいのに。

 もっと縋ったっていいのに。

 

 いつからだろう。

 渚沙が裕太の前で強がるようになったのは。

 年相応の感情を、出さなくなったのは。


「……そうか。大丈夫なら、それでいいんだ」

 これもこれで、ひどいと思う。

 渚が強がっていることに裕太は気づいているのに、それを否定して本音を聞き出さない。

 渚沙の気持ちをないがしろにしたくないのだ。それをしてしまったら、渚沙が悲しい思いをしてしまうかもしれない。それこそ、決定的な『何か』を壊してしまいそうで、怖い。

「お兄ちゃんこそ、大丈夫なの?」

 渚沙が首を傾げて訊いてきた。

 裕太はカーペットが敷かれた床に腰を下ろして、

「あぁ。全然大丈夫だよ。つーかオレ、怪我してねぇしな」

「あはは。確かに。……でも、そうじゃなくて。雫さんのことだよ」

「ああ……」

 雫のこと。

 それは先刻、裕太と雫だけ別室に行って話した会話内容のこと。それから、異能や転生者のことだろう。

 裕太は少し目線を下げて、渚沙の顔は見ないように口を開いた。見たら、言ってしまいそうだと思ったのだ。

 渚沙が、『イブの転生者』だということを。

 それだけは、絶対に教えられない。

 伝えられない。

 もうあれ以上、危険な目に遭わせたくない。

「まぁ、なんかアレだな。知らない間にオレに中二病設定が組み込まれてたって話だよ。お前が気にするようなことは何もない」

「中二病って……。今はふざけないで答えてほしかったんだけどなぁ」

「ふざけてないぞ。お前のお兄ちゃんは常に真面目だ」

「真面目だった時なんて、二回しかないでしょ」

「逆にその二回が気になる……」

 などと軽口を叩き合い、兄妹はあははと笑った。たった一日、いつもと違う日常を過ごしただけなのに、妙に久しぶりなような気がする。

 裕太は渚沙の笑った顔を見て、優しい表情になる。それは、まるで親が子を見るような。兄が妹を大切に想うような。

「……そうだよな。ビビってちゃ、何も前に進まないよな」

「お兄ちゃん?」

 裕太が呟くと、渚沙はこくりと首を傾げる。妹からしてみれば、兄の言葉の心意が分からないのだろう。

 だが、それでいい。

 ずっと、分からないままでいい。

 ナギが、知る必要なんてないのだから。

 裕太は立ち上がると、渚沙に近づき、頭を撫でた。

「ちょ、お兄ちゃん? いきなりどうしたの、恥ずかしいよ……」

「いいだろ別に。だって、オレはお前の兄貴なんだから。頭くらい撫でさせろ。もちろんオレ以外の男にされる時は、まずオレの許可を取ってからだ!」

「はいはい。わかったわかった」

 渚沙に近づく悪い虫は許さない。妹の頭を撫でる特権なんて誰にも渡したくない! ていうか渚沙が他の男と部屋で二人きりとか想像したくねぇ! 未来まで飛んで彼氏でも夫でもぶん殴ってやりたい! ……などと兄の葛藤を必死に飲み込んでから、裕太は渚沙の頭から手を離した。

 それから、裕太は渚沙をまっすぐ見る。

 目が合う。

「ナギ。明日の夜飯はとんかつで頼む」

「……え? いきなりどうしたの?」

「ダメなのか?」

「いや、それは全然いいんだけど……。このタイミングで普通言う? って思ったから」

「そうか? 別にいいだろ。オレたちは兄妹なんだから、どんなタイミングでどんな話をしようと罪になるわけじゃないんだし」

「それは兄妹じゃなくてもそうだけど……。でも、うん分かった。明日の夜ご飯はとんかつにする。楽しみにしててね!」

「おう!」

 笑って頷くと、裕太は最後にもう一度だけ渚沙の頭を撫でた。渚沙は照れ臭そうに、けれど嬉しそうに唇を綻ばせている。

「今日は疲れただろ。もう寝とけ」

「ううん。大丈夫。まだ起きてたい……し、お兄ちゃんに、訊きたい、こと、が……」

 言いながら、渚沙はコクリコクリと首を動かして、眠そうにする。そして言葉が完成する前に、渚沙はストンと眠りに落ちた。裕太はそれを見届けると、渚沙の体を優しく動かしてベットにしっかり寝かせ、毛布をかけてやる。

「もういいのね」

「……あぁ」

 背後から声をかけられた。

 振り返ることなく裕太は答える。

 奈切雫だ。

「ナギは起きないんだな。今日一日は、絶対に」

「起きない。アンタが使ったその『神器』は、対象に睡眠を強制させるモノよ。それを受けた対象者は、少なくとも十時間は起きないわ」

「そうか。なら安心だ」

 『神器』と呼ばれる、異能が宿った道具がこの世界にはあるそうだ。その内の一つである、指輪型の『神器』を裕太は渚沙に使った。

 〈夢遊招引むゆうしょういん〉と言うそうで、付けた手で対象に数秒間触れることで眠らせることが出来るらしい。結果は上々、悪くない。

 これで全部片が着くまで渚沙は起きない。

 裕太は指輪を取ると振り返り、それを雫に投げ返した。雫はそれを軽くキャッチする。

「最後の確認だ。オレが〈エデン〉に入れば、ナギを永続的に守ってくれるんだな」

「ええ。あらゆる原罪所持者カルマホルダー、〈骸蛇〉。とにかく渚沙ちゃんに仇をなす全ての要因を、〈エデン〉が排除する。生活面の金銭的な援助も怠らない。奈切家の名に誓って、誓約は守るわ」

「……わかった」

 全部を信用した訳じゃない。出来るできないの話で言えば、まだ出来ない。だが、出来ないことを突っぱねて事態を先延ばしにしては、意味がないのだ。

 だから裕太は条件を飲んだ。

 



『––––キミがこちらの仲間になってくれたら、陸堂渚沙ちゃんは〈エデン〉が保護すると約束しよう』

 渚沙が『イブの転生者』だと教えられ、流石に理解が出来ずに呆然と立ち尽くしていた時に、九条院直義が裕太にそう言った。

 裕太は返事をせず、九条院の言葉の続きを待つ。

『渚沙ちゃんが『イブの転生者』である以上、これから先全く危険な目に遭わないと保証は出来ない。けど、〈エデン〉に保護されるという形を取れば渚沙ちゃんに危険は及ばないだろう。悪質な原罪所持者カルマホルダーでも、〈エデン〉に直接攻撃を仕掛けてくることはまずないからね』

 九条院の提案は裕太にとって有難い話だった。それこそ蜘蛛の糸のように、地獄から引っ張り上げてくれる救いの糸だ。掴めば高確率で安全と安寧が両手を広げて待っていることだろう。

 だけど。

「……その話に。オレが食いつくと本気で思ってんのか?」

 拳を握りしめていた。

 無意識に、裕太は拳を握りしめていて、爪が食い込んだ掌からは血が滴っている。その様子を、その光景を見て、雫が裕太の肩に手を置いた。焦るように。

「裕太、落ち着きなさい。手から血が……」


「ナギが死ぬかも知れなかったんだぞッッッ‼︎‼︎‼︎」


 喉が潰れるくらいに。

 裕太は最大の怒りを込めて叫んだ。

 渚沙に聞こえるかもしれないという懸念すら彼方の向こうに吹っ飛んでいて、目の前が真っ赤に染まっていた。 

 怒りでどうにかなりそうだった。

 裕太は肩に置かれた雫の手を振り払って、彼女のスマホを乱暴に掴み上げる。

「てめぇはナギが『イブの転生者』だと分かってた! それなのに、てめぇはナギの保護よりオレを仲間にすることを優先した! そっちにどんな事情があって、どんな思惑があんのかオレには分からない。でも、だけど、それでもだ! 兄貴が妹より安全地帯にいるなんて、絶対にあっちゃダメなことなんだよ‼︎」

 兄は妹を守るためにいる。

 それはこの世の摂理で、赤信号は渡らないくらい当たり前の事実である。裕太には渚沙以外家族はいない。両親は幼い頃に事故で死んでいる。だから裕太には渚沙しかいない。

 そんな、自分の命よりも大切な妹を後ろに置いて、自分だけ先に助かるかもしれなかっただと? そんな話、誰が喜ぶのだ?

「親は事故で死んだ! その事故で生き残ったのはオレとナギだけだった! あいつにとって家族はオレだけで、オレにとっても家族はナギだけだ! ……そんな、自分の命を投げ打ってでも助けたいと思う大切な家族を……てめぇらはオレの許可なく見殺しにさせようとしてたんだ。オレにそのつもりがなかったとしても、てめぇらが形上そうさせてた! ふざけんな! 守るべきモノも分からないようなクソ組織に! 殺されるかもしれなかった組織に! ナギを任せられるわけねぇだろうが……ッッッ‼︎‼︎‼︎」

 どこまでも、裕太の怒声は響き渡った。九条院は電話の向こうで沈黙し、雫は隣で眉尻を下げて裕太を見ている。罪悪感、に呑まれてそうな顔だった。

「……なぁ。どうして、オレとナギが『転生者』なんだ。……教えてくれよ、九条院。奈切。『転生者』って、何なんだよ……」

 疲れたように呟くと、裕太はその場に座り込んでしまう。

 『転生者』。

 人類の始祖であるアダムとイブの魂が、裕太と渚沙の肉体に宿った。九条院直義の話だとそういうことらしい。

 だけど、どうしてそれが裕太と渚沙なんだ? 他の人たちじゃ、ダメだったのか? どうして神様は、この兄妹に試練ばかりを与えるのか。普通に生きて、普通に幸せを享受して、普通に死ぬじゃダメだったのか?

 ずっと普通に生きてきたのに、いきなり特別な存在と言われて、危うく妹を失いそうになって。こんなのは、あまりにも理不尽で不公平じゃあないか。

『……『転生者』は、この世の歯車の一つなんだ』

 九条院が言った。

『世界が、いや。神が失ってはいけないと思う魂が輪廻を巡り、再びこの世に舞い戻るために必要なシステム。それが輪廻転生。アダムとイブはね、裕太くん。全ての始まりだからこそ、絶対に消えてはならない魂なんだ。その魂を受け入れることが可能な肉体を、魂の輝きを持っていたのが裕太くんと渚沙ちゃんだったんだよ。……『転生者』とは、世界のバランスを保つためには必要な存在なんだ』

「……だから、狙われるっていうのかよ」

『そうだね。輪廻転生の歯車を壊そうとする奴らも中にはいる。今回の敵は、その思想を掲げた側の人間なんだろうね』

 では、何か?

 この世界が上手く回るように必要な道具の一つに裕太と渚沙は勝手に当選して、そのせいでこの先ずっと、死ぬまで命を狙われ続けると?

 裕太は静かに立ち上がり、全然面白くないのに「はっ!」と笑って、

「十六年普通に生きてきた、ただの高校生と、その妹が世界の歯車ね。ずいぶんと大層な役割じゃねえかよ。……こっちはなりたくてなったわけじゃねえ。命を狙われる義理もねぇ。てめぇらの世界に巻き込まれる筋合いも、どこにもねぇ!」

『かもしれない。だけど裕太くん。これしか渚沙ちゃんを確実に守れる方法がないんだ』

「てめぇに頼むくらいなら、オレが自分で守る! 今までずっとそうしてきた! ……これからもだ!」

「なら聞くけど」

 と、感情的になっていた裕太の言葉に答えたのは、隣にいる雫だった。彼女は細い腕を組みながら、こちらを見ている。

「ただの高校生が。異能も使えないただのガキが。一体どうやって渚沙ちゃんを守るっていうの?」

「……っ。強くなりゃあいいんだろ! 喧嘩なら負けたことはねぇ! 異能なんか使えなくたって、オレならナギを……」

 守れる。

 特別な力なんてなくても。今まで通り、守れる。

 そう思った。言おうとした。

 でも、言えなかった。

 雫が、いつの間にか出していた日本刀の切っ先を、裕太の喉笛に向けていたから。少しでも動けば斬られる、殺しに最適な位置に刃はある。

 裕太は息を呑み、雫は真剣で、それでいて死を何度も見たことのある、闘う者の目をしていた。

「守れない。この程度の攻撃すら気付けない、避けられないような素人が。この先一生、死ぬまで渚沙ちゃんを守れるわけがない」

「……そ、そんなのまだ分からねぇだろうが!」

「分かるわよバカ!」

 日本刀が消えた。明かりが点いていない部屋で、赤色の花弁となって消えていく。怒鳴ったら怒鳴り返されてたじろぐ裕太の胸ぐらを、雫は掴んで引き寄せた。

 息がかかる距離で、言われた。

「変なプライドなんて捨てなさい! そのプライドのせいで大切な人を失うかもしれないのよ! 力がなきゃ、守りたい人も守れない! アンタが弱いから、私たちが代わりに守るって言ってんじゃない!」

「……っ!」

 正面から堂々と。言葉を濁されることなく雫にそう言われ、裕太は言葉を失った。彼女の勢いに気圧されて、何も言えなかった。

 本当は分かっている。

 雫の言う通りで、裕太じゃこの先渚沙を守れない。

 でも。それでも兄として妹を助けたいと思うことは悪いことなのか。

 雫は裕太の胸ぐらから手を離す。裕太は力なく壁に背を預けて、ズルズルと床に座り込んだ。

「守りたいなら。相応の力を身につけなさい。私もそうやって、強くなったんだから」

『……話は。まとまったようだね』

 最後に九条院がそう言った。話の流れ、二人の態度、裕太の沈黙が、彼にその判断をさせたのだろう。

 裕太も裕太で、九条院の結論に異議は唱えなかった。反論しろと言われたらいくらでも出来る。綺麗事を並べて、その場限りの安寧を手に入れることも出来るだろう。

 ただ、それを永続的にと言われたら、即答は出来ない。

 分かるのだ。

 九条院と雫が言っていることが、正しいと。

 悔しくて、情けなくて、裕太は唇を噛んだ。

『……渚沙。アレを裕太くんに』

「わかってるわよ」

 俯いている裕太に、雫は近づいた。顔を上げると、彼女は裕太にある物を渡してきた。

 指輪だ。

「……なんだよ、これ」

「これは『神器』。異能が宿った道具よ。これは数秒間触れた相手を眠らせることが出来る『神器』なの。アンタにコレを貸してあげるから、コレを使って渚沙ちゃんを眠らせなさい」

「なんで、そんなこと……」

 する必要があるのか、そう訊こうとして裕太は気づく。渚沙は『イブの転生者』であることから、その身を狙われている。だから狙われている者の正しい動きとしては、常に動き続けて場所を特定されないようにするか、もしくは堅牢な防御に固められた場所に身を置くこと。

 今回の場合、渚沙は後者。

 そして。

「転生云々は隠しておきなさい。渚沙ちゃんにこっち側の世界を詳しく教えない方がいいと思うから。そっちの方が安全よ」

「……あぁ。最初からそのつもりだ」

 危ない世界の事情なんて、知らない方がいい。だったら眠らせて、渚沙が一人で行動しないように静かに場所を移して、全て片が着くまで大人しくしてもらった方が得策だ。

 裕太は雫から指輪を受け取ると、立ち上がって電話の向こうにいる九条院に声をかけた。

「納得は、しない。でも条件は飲んでやる。ただし。必ず渚沙は守れ。てめぇの命を賭けてもだ」

『約束しよう。陸堂渚沙に危険が及ぶ場合、この僕が命を賭して守ると』

「守れなかったら、その時はオレがてめぇをぶっ殺す」

『いいだろう。その時は殺されるとしようか』

 どこまでも腹立たしい男だと、裕太は舌を打った。最初から、全部こーなるように仕組まれていたようにしか思えない。

 だが、今はもうそれでいい。

 それで渚沙を守れるなら、いい。

 裕太は切り替えるように息を吐いた。

「それで。ナギを眠らせた後はどうすんだ?」

「もちろん奇襲を仕掛けに行くわ」

「奇襲?」

 雫の即答っぷりに裕太は思わず首を傾げる。

 雫は笑って、

「やられたらやり返す。このまま黙って身を隠すだけなワケないでしょ? だから、あっちが攻めてくる前にこっちから攻めんのよ」

「なるほど。でもどうやって?」


『それはワシに任せるといい』


 と、電話口から新しい声がした。

 幼い声だが、喋り方が妙に年老いている。

 裕太は雫を見て、

「だれ?」

「アリス。探知系の原罪カルマを持った能力者よ」

『これこれ雫。それはワシの台詞じゃて。……まぁ良い。例の「口裂け女」がどこにいるのかは、もうワシが探知しておる。座標は後で雫に送っておくから、思う存分やり返してくるといい』

 仕事が早い、と言っていいのか。正直まだ異能云々はわからないから、能力を使っての仕事が平均的にどれだけ早いのかは判断がつかない。

 だが、そうか。

 渚沙を傷つけたクソ野郎の居場所はもう分かっているのか。ならば話は早い。

「……ありがとうアリス。本当に」

電話の向こうでアリスは笑って、

『気にするでない、『アダムの転生者』よ』

「オレはアダムじゃねえ。陸堂裕太だ」

『それは失礼をしたな。ならば裕太。くれぐれも気をつけるようにの。それではな』

 話は終わったとばかりに、アリスの声はそこで聞こえなくなった。

 入れ替わり、というより元に戻る形で九条院が口を開く。

『と、いうわけで。大体の流れは分かったかな。まずは渚沙ちゃんを眠らせて、それから裕太くんとシズクには動いてもらう。……いいね?』

「あぁ。異論はねぇよ」

「問題ないわ」

 裕太と雫が同意の上で頷いた。

 今後の動きが決まった以上、相応の準備は必要だ。異能が使えない裕太は尚更だ。

 と、そこでふと思った。

 裕太は単純に疑問な様子で、九条院に問う。

「なぁ、九条院。オレが本当に『アダムの転生者』なら、どうしてオレは『原初の夢』を見てないんだ? そんなにすごいヤツの生まれ変わりなら……全ての始まりである『アダムの転生者』なら、異能を使えたっておかしくないだろ」

 ずっと気になってはいたことだった。

 雫から散々問われて、けど本当に見たことはないから否定し続けていた。だが、ここまで専門的な話をされた後だと考え方は少しだけ変わってくる。

 多分。

 裕太も渚沙も、『原初の夢』を見ていないとおかしい。

『それは多分。忘れているからだと思うよ』

「忘れている?」

 九条院は「うん」と答えて、

『夢を見たっていう実感を得ない限り、その夢は夢として確立されない。だから忘れてしまったら夢自体見てない扱いになるから、『原初の夢』は見たけど「忘れたから見てないことにしよう」と錯覚しているんだよ』

 夢を忘れることはよくある話だ。

 だが、『原初の夢』という相当インパクトが強い夢を、そうそう忘れることはないと思うが。

『本来なら『原初の夢』を忘れることなんてないんだけど、もしかしたら忘れるほどの「何か」が君たちにはあったのかもしれないね』

「何かって……」

 考えるが、何も思い浮かばなかった。

 『原初の夢』を忘れるほどの衝撃なんて、それこそ記憶にない。

 少し考えて、結局何も思い出せなかった裕太は諦めた。無いものをねだったところで、ないものはない。だから今あるモノで戦うしかない。

「まぁ、その話はまた今度だ。今はとりあえず「口裂け女」だ。……一緒に戦ってくれ、奈切」

 雫を見た。

 彼女は笑って頷くと、手を伸ばしてきた。

 握手を求める、その仕草。

「当然。アンタも渚沙ちゃんも。私が守ってあげるわ」

「はっ。守られたくねーな」

「生意気。せいぜい足は引っ張んないようにね」

 裕太は笑い、雫の手を取った。

 握手が交わされ、共闘と、それから渚沙の安全が誓われた瞬間だった。


 

 

 ––––渚沙が眠ったことを再度確認すると、裕太は部屋を出ようと扉の前に立った。その奥で、廊下で、雫が待っている。

 部屋の外が、違う世界に思えた。

 この部屋から出れば、もう後戻りはできない。

 前に進むしか、ない。

「覚悟はいい?」

「あぁ」

「じゃあ、行くわよ」

「あぁ」

 一歩、また一歩と進んで。

 二歩目で裕太は別の世界に足を踏み入れた。

 平和だった世界。

 渚沙がいる世界と分かれるように、裕太は静かに扉を閉めていく。

 ギィ……っと扉の閉まる音が鳴る。

「……必ず助けてやる」

 最後にもう一度、渚沙を見て。

 誓いのようにそう言って。

 扉は完全に閉まった音を立てて、裕太は廊下を歩いて行った。

 玄関の扉の開閉音が響き、そうして家の中が沈黙に満たされた。

「……嘘つき」

 ベットの上。

 寝ているのか起きているのか。

 寝言なのか何なのか。

 ともあれ陸堂渚沙が一筋の涙を頬に伝わせながら、静かにそう呟いていた。

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