第3話 始まりの罪に犯されて


 世界には理解不能な現象が度々発生している。

 その『現象』の信憑性や起因はひとまず置いておくとして、『そういう』ことが確認されているのは間違いない。

 例えばUFOが作り出したミステリーサークル。

 例えば電気が点滅したりするポルターガイスト。

 例題を上げたらキリがないが、ともあれ一般常識では測れない『謎』がこの世界には存在している。


「そして多分、これは地球の歴史において一番意味不明な『謎』だと思うんだ……」

 二◯二二年、五月十七日。

 午前七時二十分。

 天気は快晴、気温はぽかぽか、風は穏やかで素晴らしい一日が始まりそうな朝に自室のベットで目を覚ました陸堂りくどう裕太ゆうたは頭を抱えていた。

「だって脈絡がない。伏線だって皆無だ。何をどう生きたらこんなことになる? このあとにオレがどうなるかなんて、漫画とかラノベとかアニメとか観てれば誰にだってわかるじゃねぇか……ッッ」

 頭を抱えながら冷や汗をかき始め、更には目を見開いて怖がる裕太は非常にいたたまれない。

 では発表しよう。

 何故さっきから陸堂りくどう裕太ゆうたがこの世の終わりみたいな顔をしているのか。

 

 ––––黒髪セーラー服の美少女が隣で寝ているのだ。


 ほらね、意味がわからないでしょ? と改めて摩訶不思議な現象に頭を抱える裕太。

 字面と絵面だけ見れば、男心をくすぐられる最高な展開ではある。寝て起きたら隣に美少女? なんだそれは天国なのかごっつぁんです! 

 ……だが冷静に考えてほしい。

 男なら漫画やアニメを一度は見るだろう。ご都合主義のハーレム作品の主人公や、なんかどっかの異世界に転生しちゃった不登校児などなど。

 彼らには必ずと言っていいほどの『ビッグイベント』が存在している。

 

 それが美女との出会い。


 だが、美女との出会いなんぞ初っ端はロクなことにはならない。『きゃー! 何してんのよこのヘンタイー!』とか言われながら殴られたりするのが世の常だ。

「だから絶対オレは殴られる。もう分かる。だってオレの経験がそう叫んでる!」

 オレの経験というか今まで読んできた観てきた創作物の羨ましい主人公共の体験談ではあるが。

 まさか現実で二次元の羨ましい展開が巻き起こるなんて想像していなかった裕太は、とりあえずおそるおそる美少女の様子を伺うことにした。

 ゴクリと喉を鳴らし、壊れた人形のようにギチギチと動きながら、起こさないように細心の注意を払って、美少女を見る。

「……カワイっ。いや、そうじゃなくて」

 眠ってる時の第一印象は完璧であった。白い肌に長いまつ毛。整った顔立ち。今まで出会ってきた女の子の中でまず間違いなく一番可愛いと言える少女だ。

 だからこそますます分からない。

 何故こんな美少女が、平凡な高校一年生である思春期真っ只中の男の子のベットに転がりこんでいる?

「落ち着け、とりあえず冷静になるんだ。こんなところで慌てたら『きゃー! このヘンタイー!』になるのがオチだ。それだけは絶対に回避せねば……!」

 まるで同じ檻の中で寝ているライオンを起こさないように逃げ出す方法を考える十六才の黒髪頭の少年は、 大きく息を吐くと次に取るべき行動を決める。

「まずはこのライオンの懐とでも形容すべきベットの中から出ることだ。そうしないとオレはきっとコロコロステーキにされちまう……」

 などと心底怯えている裕太ではあるが、そもそもここは彼の家で、彼が普段から眠っているベットの上だ。完全に私物なのに、他人行儀のように行動しなくちゃいけないなんてこの世界は理不尽すぎる。本当だったら今すぐ泣き叫んで部屋から出て行きたい。

「だけどそんなことをすれば更にややこしいことになる。ただでさえ隣にいるライオンで手一杯なのに、ここでチーターに参戦されたらコロコロステーキどころかスーパーで売ってるひき肉のお得パックにされちまう……」

 自分でも何言ってるのか分からないのは現状のせいなので仕方がない。

 もーすぐ七時三十分。

 そろそろ起きないと学校に遅刻するし、チーターがこの部屋に来てしまう。どうにかしてその前にベットから抜け出さないと……、


「ん、んん……っ」


「……⁉︎」


 ビクン‼︎ と、裕太は肩を大きく揺らして驚いた。隣で寝ているライオン(美少女)が声を出したから起きたのかと思ったのだ。

 しかしどうやら寝言みたいなものだったらしい。

 ホッと安堵して、裕太はまず足を床に着けようとゆっくり動き始める。成功する。

「よ、よし。このまま立ち上がれば何事もなく……」

「お兄ちゃーん? いつまで寝てるのー。早く準備しないと学校に遅れる……よ」

 遅かった。

 もう何もかもが遅かった。

 ブレザー制服の上からエプロンを着る、茶髪ポニーテールの中学生、陸堂りくどう渚沙なぎさという「妹」が––––チーターが参戦してきた。

 妹は言葉途中で固まり、裕太も裕太でアホな顔をしながら硬直状態。

 だが悲しいかな。

 現実というものはどこまでいっても非情。 

 妹目線からしてみれば、「実の兄」が女の子を部屋に連れ込んでいるという衝撃展開は変わらない。

 渚沙なぎさは一度心を落ち着かせるかのように息を吐くと、心底兄を軽蔑する眼差しを作り出した。

「……最低」

 裕太は咄嗟に誤解を解こうとして、

「ち、ちがう! オレは何もしてない! 起きたらもうコイツがいたんだ! お前が想像してるようなことは何もしていないぞ! 断じてしていない!」

 渚沙なぎさは華奢な自分の体を守るように両腕で抱いて、

「……最低」

「何故だ⁉︎ お兄ちゃんはホントに潔白なんだぞ!」

「じゃあなんでそのキレイな人はお兄ちゃんの後ろで涙目になりながら「はだけてるの」?」

「……な、んだと?」

 意味がわからなかった。

 渚沙なぎさが英語で話しかけてくる、くらいに意味がわからなかった。

 裕太は錆びついた人形のように首を動かして後ろを見る。

 ……起きてた。

 起きてやがった。

 しかも自分から転がり込んだくせに、わざわざご丁寧にセーラー服を細い肩が見えるくらいにズラして、スカートも裕太に冤罪を被せるかのように際どくしてるオマケ付きで。

 何で涙目になってんだこっちが泣きてえ!

「……もういい。もういいよ! ほら殴れよ! あははは、どうせオレはこの二人に今から殴られた後訳わかんない事件に巻き込まれて裏の世界で生きていくんだろ! あははははは! 上等じゃねーかやってやんよ、オレやってやんよーーー‼︎」

「何すんのよこの『クソどヘンタイ』がぁああああああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎」

「だから何もしてね––––」

 グゴキィ……ッッ‼︎‼︎ と。恐ろしく鈍い音が世界に響き渡った。

 陸堂裕太。

 彼の予想は少し外れたようだ。

 『ヘンタイ』ではなく『クソどヘンタイ』らしい。


 午前七時三十五分。

 「あまりにも理不尽すぎて神様を呪いました」と、後に陸堂裕太はそう語る。



 

           2




 東京都小平市内の、どこにでもある住宅街。

 白い外壁で落ち着いた雰囲気の一軒家が陸堂りくどう裕太ゆうたとその妹である渚沙なぎさが住む家だ。

 両親は幼い時に事故で亡くし、現在は兄妹きょうだいで二人暮らしという形になっている。

 だから今朝の『クソどヘンタイ』騒動を親に知られるという痴態をさらす羽目には陥らなかった。まさに不幸中の幸いである。

 そうして現在。

 時刻は午前七時五十分。

 諸々の朝支度を終えた裕太ゆうたは赤く腫れた顔をムスッとさせながら渚沙なぎさが作ってくれた朝食をモグモグしていた。

 そんな裕太を他所に、彼の周りでは女子特有の甲高い声が響いている。


「おいっしー! これ全部渚沙なぎさちゃんが作ったの⁉︎ 天才、いやこれは天才だわ。完璧な味付けね!」

「えー、ホントですかー! お兄ちゃんは全然味の感想言ってくれないんで、正直もう作るのやめようかなって思ってたんですけど……しずくさんにそう言ってもらえて私嬉しいです!」

「こんなに美味しいのに、渚沙なぎさちゃんの兄貴はロクに褒めてくれないの? どんな奴よそいつ。腑抜けた顔を一度は拝んでやりたいものね」

「拝むどころかボコボコにしちゃってくださいよ、ほんとに」

「…………………こんな顔だし、すでにボコボコなんですけど」


 白米を食べているのに口の中は少し血の味がしている。岩くらいに顔面はボコボコで、ハタから見れば完全にイジメ被害者だ。

 肉食獣の少女二人はそんな裕太に慈悲すら感じさせない目をしていて、正直怖すぎる。命があっただけでも感謝しろ、くらい言われそうだ。

「つーか、なんでお前は一緒に朝メシ食ってんの?」

 文句の一つや二つを言ってやりたいところだが、まずは根本的な疑問を解決しなければならない。

 そう思った裕太は白米を飲み込むと、向かい側に座る黒髪美少女––––奈切なきりしずくに話しかけた。

 彼女は裕太の声を受けると箸を置いて、

「お腹空いてたから」

「理由が普通! オレが言ってるのはそーゆーことじゃねぇ! なんでどこの誰だか知らない奴が勝手に人ん家でメシ食ってんだって言ってんだよ!」

「お腹空いてたから」

「やだもう! この子話が通じない! ちょっとカミサマー! バカの言葉が分かるバカ語翻訳機持ってきてー!」

「誰がバカよ!」

「グギャむッッ‼︎⁉︎」

 とことん理不尽だった。

 黒髪美少女の拳が裕太の顔面にギャグ漫画みたいにめり込んだ。

 それから、黒髪美少女は裕太の顔面から拳を引っこ抜くと息を吐いて、

「っていうか、お互いに自己紹介は済んでるんだから全くの赤の他人ってワケじゃないでしょ。朝からギャーギャーうるさいのよ。ハゲるわよ」

 裕太はめり込んでしまった顔を元に戻そうと必死になりながら動いて、

「初対面の人間に冤罪を被せるだけじゃなく、二度も殴ってくるような常識ハズレのクソ女となんて赤の他人以外の関係性を持ちたいとは思えんなぁ……ぁあああ!」

 内側にめり込んだ鼻やら口が全然元に戻らない裕太の顔を、妹である渚沙なぎさは後頭部をどこからか持ってきたハンマーで殴打して強制的に治療した。

 裕太は苦悶しながら頭を押さえて床を転がり、そんなダサい兄を妹は呆れた目で見ながら、

「だからさぁお兄ちゃん。お兄ちゃんが何もしていないっていうのはもう分かったって言ってるじゃん。殴ったことも雫さんはちゃんと謝ってくれたんだし、いい加減気にするのはやめなよ。恥ずかしいよ、男でしょ」

 裕太は後頭部を摩りながら椅子に座り直して、

「お、男なら何でも許さなくちゃいけないなんてルール、この世界にはありません……」

 そんな裕太を見ながら雫は大きくため息を吐いて、  「はぁぁあああ。……ちっちゃ」

「表出やがれクソ野郎!」

「やってやるわよミジンコ野郎!」

 とにかく話が噛み合わないし気が合わない二人ではあった。

 『クソどヘンタイ』騒動後、何とか誤解を解いた裕太ではあるが、互いに自己紹介をした後でも『殴られた』事実が変わるわけではないので奈切なきりしずくと名乗ったこの少女が好きではない。

 しかもそれは少女も同じなようで、面倒くさいことこの上ないのである。

 ガルルルッ、と野犬同士のように睨み合う裕太と雫。そんな二人を苦笑しながら止める渚沙なぎさはまるで飼い主のようだ。

「まぁまぁ落ち着いて、二人とも。とりあえずまだご飯残ってるし、食べちゃお? 早くしないと学校に遅刻しちゃうしさ」

 ごもっともな言い分だった。

 渚沙なぎさの言うことには流石に逆らえないのか、裕太と雫は不満そうに睨み合うのを止めると朝食を進めていく。

 ガツガツと食べながら、裕太は再度雫に訊いた。

「ホントお前誰だよ。ウチの妹は優しいからお前みたいな不審者にメシ食わしてやってるけど、普通のご家庭だったら即通報レベルだぞ」

「こんないたいけな美少女を警察に売るような奴は人間じゃないわ」

「自分で美少女とか言うなよ……」

 なら世の一般ご家庭は人間じゃないのか? とハテナが浮かび上がったがそれは今重要ではない。

 裕太は朝食を完食し、両の掌をパシンと合わせて、

「じゃあ何で『オレん家』にいたんだよ。他の家でもよかったのか?」

「なワケあるか。私はアンタに用があって来たのよ、陸堂りくどう裕太ゆうた

 と、朝食を完食し両の掌を合わせた雫が神妙な面持ちでそう言った。その雰囲気には先刻までのおふざけを感じさせるモノはなく、裕太も渚沙も少し気圧された。

 どうやら、漫画やアニメでありきたりの『たまたま屋根を走っていたら落ちた』、『ゲートが上手く作用しなかった』などなどの理由ではないらしい。

 明確な目的があって、この少女は裕太の家にいた。

 裕太はゴクリと喉を鳴らして、

「……なんだよ」

 雫は息を吐くと、片目を瞑ってから言った。

「アンタ、最近『リンゴと蛇が出てくる夢』を見なかった?」


           2


 午前八時二十分。

 東京都立第一高校、一年二組の教室は騒がしい。

 予鈴が鳴る五分前、本鈴が鳴る十分前はクラスの人たちがほぼ集まる時間帯で、少年少女たちのかしましい声が教室に響き渡っているのだ。

 『昨日のドラマ観た?』『駅前のカフェがすごい映えるんだよねー!』『宿題見せてくれー!』『そういえばまた出たらしいぜ、噂の口裂け女』……と、話題が尽きない高校生たちの会話をBGMにして、窓際後方の席に突っ伏して座っているのは陸堂裕太。

 彼はひどく疲れた様子で、それこそ魂が抜けていきそうなくらいに口を開けて呻いている。

「あぁぁぁぁぁ……。朝からほんっとに疲れたぁあ」

「朝からなに復活したミイラみたいな声出してんだよ裕太。ここは日本、エジプトじゃねぇぜ。宝探しなら他を当たってくれ」

 そう言って、ミイラ化している裕太の席の前にドカっと座ったのは白と黒をメッシュにした髪色の少年。

 陸堂裕太と同じクラスにして、中学からの親しい間柄––––友達の無明むみょうはじめである。

 のろりとした瞳の動きでハジメを見ると、裕太は独り言のように呟いた。

「人生何が起こるか分かったもんじゃねぇなぁ。世界の七不思議の一つである『朝起きたら真横に美少女』がいきなり特大イベントとして発生するんだからよ」

「マジで何言ってんだよお前。渚沙なぎさに頭をハンマーで殴られたのか? いつもイカれてるお前が、今日はより一層輝いて見えるぞ」

「何でハンマーで殴られたこと当てられるんだよ。つーか輝いてるって何。今のオレ、そんなにイカれてるの? 全然嬉しくないんだけど、ミジンコ足りとも嬉しくないんだけど」

「褒めてねーからな」

「褒めてねーのかよ」

 などと軽いジャブのような挨拶程度の会話を交わす裕太とハジメ。いつもならここでワンツーくらい勢いのあることを連続で馬鹿みたいに言い合うが、今日はそんな気にもなれない。

 ハジメはボーッとする裕太を怪訝そうに見て、

「ホントに疲れてそうだな。なんかあったのか?」

「……いや。まぁ、なんだ。中二病って思ったよりイタイんだなーと思いましてね」

「?」

 ますます意味がわからないとばかりにハジメは首を傾げている。

 裕太は突っ伏していた顔を上げると頬杖をついて、

「なぁハジメ。お前さ、自称特殊能力者に会ったらどうする?」

「俺も使えるようにしてもらう。正確には女風呂をバレない方法で覗ける能力を伝授してもらうな!」

「お前に訊いたオレがバカだった。来世からやり直してこい、宝の持ち腐れを地で行くヘンタイが」

 友人は選んだ方が良いとはまさにこのことだ。アドバイスもクソもないハジメはもう放っておくとして、裕太は今朝の一件を思い出す。

 奈切なきりしずく

 彼女は言っていた––––。



『––––リンゴと蛇の夢?』


『うん。アンタ、そんな夢見なかった?』


『見てねぇよ。なに、何かの占い?』


『見てない? そんなはずは……』


 予想外とばかりに驚く雫。

 裕太と渚沙は首を傾げる。


『その夢を見てたら、何なんだよ?』


『俗に言う「異能」ってヤツが使えるようになるんだけど……私はその「異能」を使うアンタを連れてこいって上から言われてんのよ。だからわざわざ不法侵入したっていうのに……』


『自分で不法侵入って認めちゃってるよこの子。ってか「異能」? 何お前、イタイ中二病なの? 朝から意味わかんねーこと言ってんじゃねぇぞブス』


 バコッッ‼︎と、顔面めり込みパンチを裕太は喰らった。苦痛に叫びながら床を再度転げ回る兄を見る渚沙は呆れた息を吐いた後、思考にふける雫に訊いた。


『雫さん。「異能」云々うんぬんはともかく、お兄ちゃんに用があって来たのは本当なんですか?』


 雫は頷いた。

 どうやら嘘ではないらしい。

 彼女の態度には信憑性が不思議と感じられた。渚沙なぎさは転げ回る兄をゲシッと足で止めると、


『お兄ちゃん。「異能」とかよく分からないことはひとまず置いといてさ、雫さんの話くらい聞いてあげてもいいんじゃない?』


 裕太は渚沙なぎさの言葉を最後まで聞くと上体を起こして床に座り、


『……分かった。話くらいなら聞いてやる。ナギがそう言うんなら、仕方ねーな』


『……あ、ありがとう』


 少し意外、と言いたげなように雫は呟いた。

 だが、その直後だ。


『なーんて言うと思ったのか、この怪力女が‼︎ あはははは! 誰がてめぇみたいな怪人Xの話を聞いてやるもんかよ! てめぇの中二病ごっこに付き合ってる暇はねーんだよバーカ‼︎ 大人しく中二病の青春を一人で楽しんでろぉおおおおおおお‼︎‼︎』


『はぁぁあああああああああ‼︎⁉︎』


 逃げた。

 叫びながら逃げた。絶対殴られると思ったから。

 学校に遅刻するし仕方ないんだよ。

 雫の叫び声、渚沙の呆れ果てたため息を聞きながら、陸堂裕太は家を飛び出した––––。



 ––––そんな一悶着を終えて現在、裕太は少しだけ悪いことをしたかなと考えているが、常識的に正しいのはこちらの方だ。客観的に見れば暴言と捉えられることを吐いてはいるが、それを差し引いたとしても向こうは住居不法侵入に虚偽の流布るふである。

「罪悪感なんてオレは絶対に抱かないぞ……っ!」

「なにブツブツ言ってんだよ裕太。そんなことより、お前知ってるか?」

 と、人知れず葛藤かっとうしている裕太の顔を覗き込むようにハジメが口を開いていた。

 裕太は一旦今朝の騒動を頭の隅に追いやってからハジメを見て、

「知ってるって、なにを?」

 ハジメはスマホを取り出すと、その画面を裕太に見せる。それに目をやれば、表示されていたのはネットニュースだ。

「……猫百匹が脱走したって記事か?」

「そっちじゃねーよ。ってか猫百匹が脱走ってかなりエグいなおい。……いやそうじゃなくて、こっちのニュースだ、こっちのニュース」

「あん?」

 ハジメがスマホの画面に表示されたとある箇所を指差した。

 彼が指していたのは猫百匹の脱走なんかが霞むレベルの大事件。そのトピックだ。

 裕太はそれを口に出して読んで、

「……猟奇殺人事件。口裂け女」

「そ。お前も一回くらいは耳にしたことあんだろ?」

「……そりゃあな」

 朝からどんだけ重い話をするんだコイツは……と思いながらも裕太はテレビのニュースでアナウンサーが言っていたことを思い出す。

 一番最初の事件発生は先月。場所は新宿区歌舞伎町の裏路地だ。被害者は全員『女性』で、例外なく皆が『口を耳まで裂かれて殺害』されていたそうだ。 

 そのことから世間では「口裂け女」の再来と噂され、更には被害者に共通点はなく、無差別の猟奇殺人事件として現在注目されている。

 テレビの中の話、ではないのだ。

 実際に、東京都内で起きている連続殺人事件である。自分には関係ないと知らぬ顔をすればいいのかもしれないが、裕太には渚沙なぎさがいる。

 被害者は全員女性という共通点だけはあるのだから、自分の妹に注意喚起をしておくのは兄として当然のことだ。

 だから、「口裂け女の事件」は他の事件よりある意味興味はある。

「で? それがどうした」

「また出たらしいぜ。しかも今回の事件現場は武蔵境らしい」

 そういえばついさっきクラスの誰かがそんなことを言っていたなと裕太は思い出す。雫の一件を引きずっていたから正直聞き流していたが。

 だが、これで「六人目」だ。

「そりゃずいぶんと物騒な話だ」

「今じゃ世間もウチの学校も「口裂け女」の話題でもちきりだぜ。裕太、お前はこの殺人鬼どう思う?」

 興味半分、といった様子でハジメは訊いてくる。

 どう思う、と言われても。

 裕太は軽く息を吐いて、

「別にどうもこうもねぇけど……逆にお前はどう思ってんだよ?」

「俺はコイツ、執着が強い変人だと思ってるぜ」

「執着……?」

 眉をひそめた裕太を見て、ハジメはこくりと頷いた。

「だってよ、殺人方法なんてこの世界には数え切れないほどあるだろうに……この「口裂け女」は敢えて『口を裂くという』行動を一律して守り、人を殺してる。余程『口』か、あるいは『顔』に執着を抱いているんだろうな。じゃなきゃここまで一寸違わず「口裂け女」を実演できない」

「……」

 確かにその通りだ。

 言われてみれば、『口を裂く』に拘らなくても人を殺す手段なんてそれこそ山の様に積まれてそこにある。それはこの世界の歴史が証明している。

 異質、あるいは異常。まるで獣の本能のように「牙と爪」でしか獲物を狩れない異常者で、己の『裂く』という『本能』に従っているようだ。

 「……ずいぶんと物騒な奴だな、その「口裂け女」っていう殺人鬼も」

「遭遇しないことを祈るしかねぇな。出会ったら即殺されちまいそうだ。……まぁ今んところ被害者は全員女らしいから、男を狙う可能性は低いと思うけどよ」

 だったら尚更、渚沙なぎさには夜道は気をつけろと警告しとかないといけない。殺人鬼がどこを歩いてるか分からない状況で、たった一人の家族である大切な妹を危険な目に遭わせるなんて出来るわけないのだし。

 ––––そう、大切な妹だ。かけがえのない存在だ。

 裕太に残された唯一の肉親で、親愛を注ぐべき相手で、命を懸けて守るという大言壮語を迷うことなく言ってその手を握り締める家族だ。


『––––おにぃちゃん』


『何かあったら、いつでもこの「絵文字」を送れ。文字を打ってピンチを伝える暇がねぇなら、コレを送ればオレは、オレだけはすぐに分かるから』


『……うんっ』


 そういう約束を、交わしたことがある。

 幼い頃、両親を亡くしてすぐに、しんしんと雪が降る、白く冷たい冬の夜に。

 だから兄として。

 妹だけは、何があっても……、


「––––そいつは十中八九、私と同じ原罪カルマ所持者ホルダーね」


「な……」


 と、過去の記憶に意識が向いていた裕太のソレを、少女の声が現代に呼び戻した。

 声の先に視線をやれば、教室のドアの前。そこに立っていた人物を見て裕太は絶句する。

 何を隠そう、声の主はアイツだった。

 黒い髪を肩まで伸ばし、黒いセーラー服を着ている、常軌を逸した美少女で、中二病末期患者でもある女の子。

奈切なきりしずく……! 何でお前がここにいんだよ⁉︎」

 驚いているのは裕太だけではない。ハジメや他の生徒たちも皆が雫を見て驚いている。ザワザワとクラスや廊下に「誰あれ? 陸堂の知り合い?」「カワイイ」などの声が広がり始めている。

 そんなのを当然のように無視して、雫は心底呆れたように息を吐き、

「はぁ。何でってアンタね……私はアンタに用があってこっちに来たんだから、そりゃアンタのこと追いかけるに決まってんじゃない」 

「そんな当然のように言われても! お前ハタから見ればただのストーカーだからな⁉︎」

「うっさいわね。私の服を脱がそうとした『どヘンタイ』に言われたかないわよ」

「戦争だぞ! それ言ったら戦争だ! ……ってこっち見んな!」

 マジで……? みたいな若干軽蔑する眼差しを一身に浴びた裕太はもう泣きたかった。 

 だけど泣いたら絶対バカにされると思った少年は何とか立ち直り、それからふと首を傾げた。

 今、雫はなんて言った?

「かるまほるだーって、なに」

「だから。私やアンタみたいに『リンゴと蛇が出てくる夢』……通称『原初の夢』を見て「異能」を覚醒させた人間のことよ」

「……「口裂け女」が、そうだって言いたいのか?」

「そうよ? ソイツは多分『裂く』っていう原罪なんだと思う。どうして女性の口だけを裂いて殺してるのかは知らないけどね」

「頭が痛くなってきた……」

 言いながら、裕太は額を片手で押さえた。「異能」だの変な夢だのそろそろいい加減にしてほしい。この現実にそんなのがあるわけないし、そもそも裕太は『原初の夢』なるものを見た記憶がない。

「おい裕太。この子ってまさか……」

 ハジメが雫を指で差しながら訊いてくる。

 裕太は頷いた。

「そうそう。コイツが中二病の残念系美少女」

「やっぱり!」

「誰が中二病よ!」

 グム‼︎ と三度目のめり込みパンチを裕太はキレイに喰らって床に倒れた。コイツは人の顔面を内側にめり込ませないと気が済まないのか? などと思ってる場合ではないと、裕太はハッとなって勢いよく飛び起きた。

 何かと女好きであるハジメが雫に絡もうとしていたのとほぼ同時だ。裕太は時計と周囲でザワついてる生徒たちを見回して、

「もう八時半! 授業が始まるぞ! てめぇのせいで変な注目集めてんじゃねーかよ! 帰れ!」

「私だって帰りたいわよ。だけどね、アンタが私の話を真剣に聞かない限り帰れないのよ。分かる?」

「分かるか! いいから帰れ! 宗教団体の勧誘とか、最新の占いとか全然興味ないから!」

 裕太のそんな言い方に雫はムッとなって、

「だからそんなんじゃないって何回言えば分かるのよ! いい加減少しは信じなさい!」

「信じられるわけねーだろ! こっちは健全な高校一年生なんだよ! そんなに言うならな、証拠の一つや二つ出してきやがれ!」

「あーいいじゃない! やってやるわよ、私やってやるわよ! 放課後もう一回来るから、その時場所を移して証明してやるわよ!」

「手品のタネを仕掛けるんですかぁ? やれるもんならやってみろ!」

「上等よ! 首を洗って待ってなさい! この、ばーか! バーカバーカ!」

 とんだ痴話喧嘩だな、と周りの生徒たちがそう思っていたことを裕太と雫は知らない。

 裕太はムスッとしながら帰っていく雫を見ながら、本鈴が鳴るまで勝ち誇ったように高笑いを上げていた。


           3



渚沙なぎさちゃーん! 今日みんなでカラオケ行くんだけど、一緒にどう?」

 午後四時三十分。

 陸堂渚沙なぎさが通う中学校だった。

 授業は全て終わり、後は帰るだけで荷物をまとめている時、友人に声をかけられた。

 ブレザー制服に、茶髪ポニーテールの渚沙なぎさは振り返る。

「カラオケ? みんなで行くの?」

「そうそう! 渚沙なぎさちゃんもたまには一緒にどうかなぁって思ってさ」

「うーん……」

 渚沙なぎさは細い顎に人差し指の腹を当ててしばらく考える。

 行きたくない、と言えば嘘になる。渚沙なぎさだって中学三年生だ。受験を控えているからこそ、友人との時間は大切にしたい。

 それに、渚沙はあまり友達と遊びに行ったことがないから。

 カラオケ。

 惹かれる四文字だ。

 ……だけど。

「……ごめんね。せっかく誘ってくれたのに悪いけど、今日は買い物に行かないといけなくて」

「そっかー。仕方ないね。渚沙なぎさちゃん、お兄さんと二人で暮らしてるから家事とか色々大変なんだもんね」

 しょんぼりしながらも気を遣ってくれる友人に感謝しつつ、渚沙は苦笑した。

「もう慣れてるから全然大丈夫。次は絶対に行くから、また誘って!」

「もちろん! じゃあ頑張ってね! バイバイ!」

「うん、また明日」

 いい人たちだ、と思いながら渚沙は小さく手を振って友人たちを見送る。それから彼女たちの姿が見えなくなると、渚沙は帰路に着いた。

 外はもうすっかり夜の匂いをまとっていて、上を見れば空は赤と青が混ざった絶妙な美しい色をしている。下校時間、夕食の時間帯ということもあり、学生や主婦の姿が多く見られる。

 スーパーに向かっている時だ。

 小学生くらいの兄妹きょうだいが渚沙の横を笑いながら通り過ぎて行った。

「……」

 振り返り、しばらく後ろ姿を見つめる。

 今日の夕飯は何しようとか、お兄ちゃんの洗濯物また多いのかなとか、お風呂掃除もしなくちゃなぁとか……いつも通りのことを考えていたけれど、それがふと途切れた。

「……」

 唐突に、思い出したのだ。

 まだ渚沙も裕太も小さかった時のことを。それこそ、今通り過ぎて行った子供たちと同い年くらいの頃を。

 両親を亡くして、頼れるのも信頼できるのも互いだけで、唯一無二の家族で。

 だけど、渚沙が悪いことをして、喧嘩した。

 だけど、裕太は怒らないで、優しくしてくれて。

 だけど、渚沙が泣いていたら、頭を撫でてくれて。

 小さな公園だった。

 冬の夜で、雪が降っていた。

 そこで言われたのだ。

 何かあったら、いつでもこの「絵文字」を送れよと。そうしたら、だれよりも先に駆けつけて、お前を必ず助けてやるって。

 子供の強がりだとしても。兄の去勢だとしても。

 渚沙はその言葉が本当に嬉しかったのだ。

 だから兄を愛している。家族として心から信頼しているし、大好きだ。

 友達とは遊びたい。家事も楽じゃない。

 でもお兄ちゃんといたいから。

 お兄ちゃんといるから、辛くないし苦しくない。

 だから頑張れる。 

 だから笑っていられる。

「……あ。早くしないと特売が売り切れちゃう!」

 感傷に浸っていた渚沙は今日のミッション内容を思い出し、慌てて子供たちから目を離す。それから少し急ぐように小走りでスーパーへと向かって行った。

 今日は豚肉と卵が安いから、何としても主婦方よりも早く多くゲットしなければ……!

「今日の夜ご飯は何にしようかな。えへへ」

 美味しいと喜んでくれる兄を想像して、嬉しそうに頬をほころばせる渚沙。

 午後四時四十分。

 彼女の足取りは、まるでお城の舞踏会に向かうお姫様のように軽快だった。


 ––––子供たちの姿はもうどこにもなく。

 ––––代わりに、足音が……カツン、とどこかで鳴っていた。


           4

            

 逢魔ヶ時。

 それはあの世とこの世が繋がると言われている、奇跡に近い時間帯。

 悪魔や妖怪などが跳梁跋扈ちょうりょうばっこする夜の前の、前座とでも言うべきか。

 ともあれ人間がその時間からわずかに人気ひとけのない場所に恐怖を抱きやすくなるのは知れたこと。それが『本能』なのか何なのか。答えを知るには暗闇に足を踏み入れるしかないのだろう。

 

「……ねぇ」


 では。

 その暗闇には果たして明確な形が存在しているのだろうか? それは人間の心の奥底に眠る悪意や殺意、憎悪や嫉妬のように、どす黒く粘ついた、影みたいな感情ではないのだろうか?


「……ワタシ、キレイ?」


 もし仮に、都市伝説や怪談に登場する怪異たちが感情という形のない化け物だとするのなら、こちら側には身体的ダメージも内心的ダメージも喰らうリスクはないと言える。

 ならば、その理論に一石を投じてみよう。

 悪意や殺意、憎悪に嫉妬は絶対的な『罪』である。『罪』とは生物にんげんの魂に刻まれた抗えない業だ。寝ても覚めても、泣いても笑っても、怒っても苦しんでも、『罪』がその者から剥がれることは決してない。


「ワタシ、綺麗?」


 だからきっと、魑魅魍魎ちみもうりょうや怪異などは人間の逃避心理によって生み出された「感情の化け物」などではない。

 奴らは人間という肉体に、魂に宿った『罪』の具現化だ。だからその『罪』が誰かを殺せと叫んだら、その者はその欲求から逃れられない。


「……ねぇ。わたし、キレイでしょ?」


 故にこれは必然であった。

 逢魔ヶ時。

 オレンジと紫が混ざった空が広がる、夜の前。

 人通りの少ない、どこかの路地。

 経緯はどうあれ、その者は己の『罪』に従って欲求を解放する。


「……き、キレイで、す。だから、お願い……っ。助けて……っ」


「––––これでもォ?」


 あの世とこの世が繋がる奇跡に近い時間帯。

 しかしそれはこの世の者があの世に近づく最悪の時間とも言えるのだ。

 興味半分で「あちら側」に足を向けるのもまた一興だろう。

 

 ただし。


「いやァァァァァァァァア––––ォ」


 ––––命の保障は、致しかねるが。


            

            5



 午後五時十五分。

 東京都立第一高校、体育館裏。

「……マジで来たのかよ」

「マジに決まってるでしょ」

 まさに約束通りであった。

 下校時間はとっくに過ぎた、閑散とした学校の隅と言ってもいい場所に、二人の少年少女が向き合っていた。

 陸堂裕太。

 奈切雫。


 二人は朝の教室で感情的にとある約束を交わした。

 それは「異能の証明」。

 裕太としてはそうすることで雫に嘘であることを認めさせたかったのだが、まさかの彼女は「異能」とやらを実演証明する気満々のご様子だ。

 裕太は自信満々に立つ雫を見て息を吐いた。

 極めてめんどくさそうに。

「はぁ……。めんどくせぇ」

「何よそれ! アンタが証明しなさいって言ったんでしょ!」

「いやさぁ。普通はそんなこと言われたら「急用を思い出したから次の機会ね!」とか取ってつけたような苦し紛れのことを言って逃げるでしょ。……何お前、マジでやる気なの?」

 雫は細い腕を組むと鼻から息を吐き、少しだけドヤ顔をして、

「あったりまえじゃない。この私が小さいことで嘘をつくワケないでしょうが」

「いやこの私がって言われても、オレはこのお前しか知らねーんだけどな」

「うっさい。……で、アンタに「異能」を見せるのはいいとして、一つ確認しときたいんだけど」

 裕太は首を傾げて、

「なんだよ……?」

 雫は真っ直ぐと裕太の目を見た。

 二人の視線が、繋がる。

「アンタ、本当に『原初の夢』を見てないの?」

「……またそれか」

 くどい確認だ、と裕太は息を吐いた。

 雫いわく、『原初の夢』? とやらを見れば誰でもお手軽に「異能」を使えるようになるらしいが、あいにくと裕太はそんな中二病チックなメルヘン夢を見た記憶はない。

 何度も同じことを言わせるな、と適当に答えようとした裕太だが、そこで雫をの目を見て少し躊躇った。

 彼女の眼差しに、虚偽やおふざけの色がなかったのだ。雫は真剣に訊いている。それだけは何故か分かったから、裕太は多少背筋を伸ばして真摯に答えた。

「……見てない。それは本当だ。ナギに誓って、オレは『原初の夢』とやらを見た記憶はない」

「……………………………………」

 しばしの沈黙があった。

 雫は裕太の目を真っ直ぐ見つめ、嘘かどうかを見抜こうとしているのかもしれない。

 やがて、彼女は諦めたように息を吐くと苦笑した。

「どうやら本当みたいね。疑って悪かったわ、ごめんね裕太。真剣に答えてくれて、ありがとう」

「お、おう……」

 雫が小さく笑った。

 それを見て裕太は少し照れてしまう。

 彼女は顔だけなら一級品なので、こうも正面からお礼とか言われたり笑われたりすると思春期男子は赤面せざるを得ない。

 そんな裕太を見ると、雫はおちょくるような悪い笑みを浮かべて、

「何アンタ、もしかして照れてんの? かわいーところあんじゃない」

「だ、誰がテメェみたいな貧乳に照れるかよ!」

「誰が絶壁のマウンテンよ!」

「そこまで言ってねーよ!」

 などとクラスメイトが見たら「また痴話喧嘩……」と呆れられそうなやり取りもそこそこに、雫が言った。

「アンタはいい奴ね。正直今朝から現在に至るまで、私は一般人からしてみればかなりヤバい奴なんだけど……」

「自分で言うなよ」

 軽く頭を引っ叩かれた。 

 それから、雫は話を続ける。

「それでもアンタは、アンタと渚沙ちゃんは私を受け入れてくれた。だからありがとう。嬉しかったわ」

「……なんだよ、急に改まって」

「真剣に向き合ってくれてるから、私も真面目に応えるのよ。––––魅せてあげる。世界の真実を」

「…………………」

 言い終わると、雫の雰囲気がガラリと変わった。

 いいや。

 彼女だけではない。雫を取り巻く空間が、空気が、世界が色を変えていくみたいに動き出す。

 目に見えてわかりやすく強風が吹いたり、雷が轟いたり、怪しいカラスが鳴いたり、オーラが表出したりなどの変化ではない。

 分からない。

 分からないが、とにかく「そういう力」があってもおかしくはないという雰囲気が、そう思わせるだけの信憑性が、奈桐雫の周囲に集まっていくのだ。

「……これが、『原罪カルマ』よ」


 そして。

 雫が細い腕を水平に振るった直後。

 夕日の色より鮮やかな、赤色の花弁が幻想的に彼女の周りを漂い始めて––––、

「……花?」

 ピロン、と。

 雫が奇跡を振るうかもしれないと思われたその直前に、タイミング悪く裕太のスマホが鳴った。

 同時に、雫は空気がぶち壊しとばかりに息を吐くと超常的な雰囲気を解いた。

「締まらないわねぇ。空気読みなさいよ」

 裕太は少し恥ずかしそうにして、

「し、仕方ねーだろ。……ったく、誰だよこんな時に連絡してくるの、は……」

 文句の一つでも言ってやる、とそう思っていた。

 時間が止まった。

 何もかもがどうでもいいと思った。

 とにかく、裕太の目は見開かれ、彼の視界にはすでに雫は入っていなかった。さっきまで彼女にしか目がいっていなかったのに、だ。

「……裕太? どうした、の––––」

「………ッ!」

「ちょっ、裕太⁉︎ いきなりどうしたのよ! ねぇ!」

 雫の声なんて裕太の耳には聞こえていなかった。

 顔色を変えて、陸堂裕太は全速力で走り出したのだ。

 

 午後五時二十四分。

 その時刻は日本では、丑三つ時と肩を並べると呼ばれる、あの世に最も近い、逢魔ヶ時の時間だった。


            

            6


 

 ブレザー制服に茶髪ポニーテールが風に揺れる。

 白い肌に栗色の瞳、中学生とは思えない美貌は夕焼けと調和されてキレイだった。

 陸堂りくどう渚沙なぎさ

 彼女は買い物を済ませると住宅街から少し外れた通りを一人で歩いていた。

 人通りは少なく、街頭は等間隔で並んではいるが、何個は電灯がチカチカしていてどこか不気味。

 別にこの道を通らなくてもいいが、近道だから仕方ない。少しだけ怖いなと思いつつ、渚沙は歩いていく。

「早く帰って準備しないと」

 食材を選ぶのに少し時間がかかったから、もしかしたら兄はもう帰ってきてるかもしれない。 

「……それに、最近物騒だからね」

 「口裂け女」の事件は渚沙ももちろん知っている。というか、裕太が口うるさく言ってきたからイヤでも知っているのだ。……まぁ心配してくれてるのは悪い気分ではないのでニヤついてしまうけれど。

 ともあれ、兄には迷惑も心配も不安もさせたくはない。

「今日はとんかつだし、お兄ちゃんきっと喜ぶな」

 えへへ、と笑った顔は夕焼けに照らされて美しいほどだ。

 そんな時だ。


 ––––カツン。


 音がした。

 周囲には風の音や鳥の鳴き声、遠くからは車のエンジン音などが聞こえるはずなのに、何故かその「音」が世界の中心みたいに聴こえて、渚沙は思わず足を止めた。

「………」

 音源は後ろから。

 振り返る。誰もいない。街灯がチカチカしている。

 

「………」


 ぶるりと、背筋が震えた。

 特に意味も理由もないけれど、とにかくこの場にいない方がいいと本能が告げている。

 じゃり、と。足を動かして、食材が詰まった買い物袋を握り直して、渚沙は振り返り帰ろうとする。


「––––ねぇ」


「…………っ!」


 いた。

 振り返った瞬間、目の前にいた。

 足音が一回しただけで、それ以降は一切音も立てずにそこにいた。映画とかだと三回は同じ音が連続するという定番が通用しない、現実の非道さだった。

 息が詰まり、目を見開き、時間の流れを忘れてしまう。


「ねぇ……」


 甘ったるい、脳の中に直接ハチミツや生クリームをぶち込まれたような、蕩けるような声だった。

 艶のある紫髪を足首まで長く伸ばし、紫色のパーティドレスを大胆に着こなす色白の肌、切長の瞳を鈍く光らせる妙齢の女性だが、それを差し引いたとしても尚こわい。

 まず、整っているはずの美貌は刃物傷に侵されていた。口の端から耳まで、線を描くように裂傷の痕がある。

 どこか、都市伝説の「アイツ」に似ていると思った。

「……あ、の。何か、用、ですか?」

「ワタシ、キレイ?」

「……っ!」

 「口裂け女」で有名なのはセリフと顔である。

 

 一、私キレイ?

 ニ、これでも?


 その二つの問いの後、「口裂け女」は自らの顔を晒すという。

 顔は元々晒されていた。

 だが、セリフの一つが合っていて、人相は酷似し、最近の事件を思い出すと……この女性の正体は言わずもがなであった。


「––––なんて言うのは、もういいかしらねぇ?」

「……っ!」

「あら」

 逃げた。

 全速力で駆け出した。何かを言われるより前に、何かをされるよりも前に、渚沙は人通りが多い場所へと避難しようと走り出した。

 とにかく、連続猟奇殺人事件の犯人なのはほぼ確定だ。そしていくら殺人鬼でも周囲の目が多い場所で人は殺せまい。

 正体が人間であれ本物の怪異であれ、捕まればゲームオーバーだ。

「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」

 何でこんな目に遭わなきゃいけないの、と世界と神様に悪態の一つでも吐いてやりたいが、今は逃げることだけに集中しないといけない。

 荷物が心底邪魔だと思うけれど、捨てるわけにもいかない。

 走って走って、ようやく大通りが見えてきて。

 そして。

「……はぁ、はぁ、はぁ……っ。な、んで」

 青梅街道はこの時間、かなりの人と車の数が行き交っているはずだった。だからここまで来れば大丈夫だと信じて疑わなかった。

 なのに。 

「なんで、車の一台も……」

 なのに。

「どうして、誰もいないの……っ」

 なのに!

「どうなってるのよ……っ」

 理不尽が止まらない。

 異変が終わらない。

 こんなのは明らかにおかしい。常識が覆っていて、現実がとても歪んでいる。

 汗を拭き、荒い息を整えつつ、渚沙は後ろを振り返る。

 そして、当然そこにはソイツがいた。

 優雅にゆっくりと、歩きながら追いかけてくる女性の影が一つ。まるで最初から『こうなることが』分かっていたかのように、その足取りは余裕だった。

「人払いは済んでるわ。助けを求めても無駄よ。……それにしても、ようやく会えたわね––––『原女イブ』」

「……っ。お兄ちゃん……!」

「あらダメよ」

 スマホを取り出し、裕太に連絡しようとしたが、「口裂け女」が離れてる距離から手を振った途端、渚沙なぎさの端末が弾かれるようにアスファルトの上へと落ちた。

 何をしたのか全く分からない。

 何かをされたのは間違いないが、その原理がまるで掴めない恐怖は大きい。

 身が竦み、じゃりっと一歩下がる。

 そのわずかとも思える距離ですらダメなのか、「口裂け女」は嫣然えんぜんと微笑みながら近づいてくる。

「悪いけど、通信手段を断つ効果は今回の人払いには組み込んでいないの。だから今ここで助けを呼ばれては面倒なのよね。ごめんなさいね?」

「……わ、私に何の用なんですか」

「あら。意外と精神はタフなのかしら? この常識外れの状況下でよくもまぁ質問をしてくるわ」

 ザッと、そうして「口裂け女」との距離は三十メートルもなくなった。粘ついた恐怖をそのまま見に纏う紫髪の女は口元に手を添えて小さく微笑む。

「今から死ぬ人間にこちら側の要件を話してもメリットなんてないのだけれど……まぁ冥土メイドの土産というものなのかしらね? いいわ、少しだけ教えてあげる」

 今から死ぬ人間。

 迷うことなくそう言われて、渚沙なぎさは泣き叫びたい気持ちを必死に抑えた。まなじりに浮かびそうになった涙さえ耐えて、震える唇や手足を強引に止めて、「口裂け女」から目を離さない。

 一瞬でも目を離せば、その間に殺されると生物の本能が告げているのだ。

「私の目的はあなたの『魂』を完全に「堕とす」ことよ。その下準備としてここに来るまでに何人か殺してたんだけれど、いい感じに恐怖があなたの『魂』に定着しているわね」

「……どういう、意味?」

「そのままの意味よ? ……あなたのせいで、七人もの被害者が出てしまったのよ、『原女イブ』」

 暴君とでも呼ぶべき暴論に、意味不明な言葉の羅列だった。

 魂に恐怖を定着させる?

 私が目的?

 最初から最後まで、まるで理解ができない。

 でも、コイツが自分の命を狙っている。それだけは十分に分かる良い説明だった。

 だからこそ、一刻も早く逃げなくてはならない。……ならないのに、どうしてこうも体が言うことを効かない⁉︎

「クス。震えてるじゃない。可愛いわね」

 「口裂け女」がゆっくりと水平に手を突き出す。

 直後。

 赤色の花弁が彼女の周りを漂い始め、その手のすぐ前の虚空に一つの果実が顕現した。

 赤色の果実。 

「……りんご?」

果実アルケよ。知っているでしょう? あなたが一番最初に食べたんだから」

「なにを……」

 またしても理解できないことを言われて戸惑う渚沙なぎさの脳裏に、ふと今朝の出来事が過ぎった。


 ––––リンゴと蛇が出てくる夢。


 ––––異能。


「……まさか」

「話はおしまい。そろそろ『兄』の所に逝きなさいな」

 それはまるで殺害予告のようだった。

 兄のところに逝きなさいの言葉の真意は不明だが、とにかく「死ね」と言われているのだけは嫌でも分かった。

 だからこそ、今朝の雫の言葉はとりあえず忘れて、渚沙なぎさは逃走を再開する。

「逃げても無駄よ。誰も助けには来ない」

 刹那、だ。

 走り出した瞬間、背後からの殺気が渚沙の命を確実に愛撫あいぶした。

 全身の産毛が逆立ち、背筋が震える。走りながら目だけ動かして後ろを見ると、紫髪の「口裂け女」が赤いリンゴを一口……「シャクリ」と食べていた。

 そして。


「来なさい。〈奔放な切り裂き魔〉」


「な……」

 何事かを呟いていた。

 直後、女の右手に特大の、まるで死神が持つ命の刈り取り道具––––三日月に似た大鎌が握られたのだ。

 手品や奇術の類だろうか?

 とにかく普通じゃない。あれを一回でも振るわれたら確実に命はないと分かる。

「……お兄ちゃんっ」

「死になさい」

 ブンッ! と、風を切り裂く音がどこまでも響く。同時に、偶然渚沙なぎさは道路の縁石につまずいて、うつ伏せに倒れた。

 顔や手足に微かな痛みが走るが、それが幸いして一命を取り留める。

「……っあ!」

 つまずいた瞬間、真上を通り過ぎていく「斬撃」? をビリビリと背中で感じたのだ。

 バツンッッ‼︎ と、前方にあったマンションが豆腐みたいに切断され、轟音を立てながら崩れていく。

 粉塵が舞い、怪獣映画みたいな光景に息を呑む渚沙なぎさ

「……こんなのって」

「偶然にしてはよくできてるわね。だけど次は外さないわよ」

 調子を確認するみたいに何度か大鎌を振るう「口裂け女」は余裕の笑みを崩さない。その声にハッとなり、渚沙は急いで立ち上がる。そして気づく。転んだ時に出来た傷とは別に、明らかに「裂かれた」と思わせる裂傷が頬に一筋出来ていることに。

 指で触れ、ぬるりと血がついて、痛みが走る。

 女が笑った。

「惜しいわね。もう少しで口が裂けたのに」

「……っ」

「私と同じように、キレイに裂いてあげるわ」

 全然嬉しくないことを言われて、それが更に渚沙の恐怖心を煽り、少女は走り出す。今日の夕食にする予定だったとんかつの材料が買い物袋から飛び出していることに気づかずに踏んでしまい、その感触に胸を痛めながらも、渚沙は逃げ出すことを止めない。

 荷物が無くなり身軽になったとはいえ、相手は常識外の能力を使う化け物である。

 とにかく距離を取り、何があっても助けを呼ばなくてはならない。裕太ならきっと助けてくれる。裕太ならあんな女やっつけてくれる。

 だって、裕太はとても強いから。

 だって、裕太は私のお兄ちゃんだから。

 泣きたい衝動を必死に我慢して、ポケットにしまったスマホを走りながら取り出す。画面が割れているが、操作をするのに支障はない。

「ゆうた……っ。お兄ちゃん……っ、助けてっ」

「言ったでしょう?」

 ブン、と。

 大鎌が薙ぎ払われる気配。

「助けを呼ばれては面倒なのよって」

 渚沙の背後に、紫色の「斬撃」が迫った。


 

            7



 ––––両親を事故で亡くした時、ナギが毎日泣いていた。


「うわあぁあぁああぁん! うわあぁぁあああん!」


 ––––その泣き声をウザイとか、うるさいとか、とにかく煩わしいと思ったことは一度もない。


「泣くなよ、ナギ。お兄ちゃんはここにいるぞ」


 ––––そう言っても、大丈夫だと頭を撫でても、ナギは泣き止まなかった。多分、母さんと父さんがいなくなって、寂しかったんだ。

 だから、それを責めることはしなかった。

 とにかく、泣き止んでほしかった。


「うわぁぁああん! うわぁぁああん!」


「泣くなよ、ナギ。お前が泣いてたら、お兄ちゃんは悲しいよ」


 同時に、自分の無力さを心底痛感した。

 妹がこれだけ悲しがっていて、涙を流しているのに、頬を流れるその一粒一粒の涙さえ止めることが出来ない、自分の無力を。

 ナギの心には毎日雨が降っていて、晴れてはくれない。太陽になれるのはオレだけなのに、オレにはまだナギの雨を止ませるだけの、それこそ『炎』のように燃える太陽にはなれなかった。


「うわあぁぁぁあん! うわぁああぁあん!」


「泣くなよ、ナギっ。……泣かないで、くれよッ」


 みっともない。情けない。惨めでカッコ悪い。

 泣き止ませるどころか、自分まで泣くなんて。

 ……オレだって母さんたちがいなくて悲しかった。だけどオレはお兄ちゃんだから。兄は妹を守るのが当然だから。兄が泣いていたら、妹が安心して泣けないだろ。だから泣いちゃダメなのに、ナギが泣いているところを見ると胸が痛くなって、『魂』が傷ついて、どうしようもないくらいに、泣きたくなる。


「……ぐすん、ぐすん。……お兄ちゃん、どうして泣いてるの? な、なぎさが泣いてるから?」


「……ち、違う。別に、泣いてなんかいないよ」


「……泣かないで、お兄ちゃんっ。なぎさ、もう泣かないから……っ。だから泣かないで。お兄ちゃんが泣いてると、なぎさも悲しい」


 お兄ちゃん失格だ。

 そんなことを妹に言わせるなんて。

 ナギはオレに気を遣って、だけどそんなことを言いながらも、ナギは泣いていた。鼻水と涙で顔をくしゃくしゃにして。

 ……神様、どうしてオレたちを「二人」にしたんですか?

 どうして、コイツから親を奪ったんですか?

 どうして、コイツがこんなに泣かなきゃいけないんですか?


「ごめん、ごめんな、ナギ。頼りないお兄ちゃんで、ごめんな……っ」


「ううん。なぎさはね、どんなお兄ちゃんでも大好きだよ。だって、お兄ちゃんはなぎさのお兄ちゃんなんだもん。……えへへ」


 その言葉に救われたなんて、死んでもナギには言えない。

 守りたいと思った。

 死んでも守りたいと。

 ナギの笑顔を奪う奴は、誰であろうと許さない。

 そう心に誓って、今まで生きてきた。

 だけど常に一緒にいられるわけじゃないから、約束した。

 冬の夜。

 雪が降る寒い夜。

 ナギがクラスメイトに両親がいないことをバカにされ、泣きじゃくって家に帰ってこなかった時。そのクラスメイトをぶっ飛ばした後、オレはナギに言った。


「泣くなよ、ナギ。あいつはもうオレがぶっ飛ばしといたからさ」


「……助けてくれるって、お兄ちゃん約束したもん」


「そうだな。最初から守れなくてごめん」


「やだ。お兄ちゃんの嘘つき」


「ごめんな、ナギ。……じゃあこうしよう!」


「なぁに?」


 オレはスマホを出して、『泣いている絵文字』をナギに見せた。


「何かあったら、いつでもこの「絵文字」を送れ。文字を打ってピンチを伝える暇がねぇなら、コレを送ればオレは、オレだけはすぐに分かるから」


「……ほんとう?」


「本当さ! お前がどこにいても。オレが必ず駆けつけて、助けてやる」


「……うんっ」


 これだけは何があっても守り通す。

 例え世界を敵に回しても、神様に天罰を下されようとも、ナギだけはオレが守る。

 これは『魂』に誓った約束だ。

 己に課した使命だ。


 ––––だから。


「……はぁ、はぁ、はぁ」


 青梅街道。

 人の通りも車の通りも全くない、異世界みたいな場所まで走ってきて、陸堂裕太は荒い息を吐きながらそこにいた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 ぐしゃりと潰れた食材に、買い物袋。

 地面に着いた血痕。

 怪獣映画みたいに壊れているマンションや、建物の群れ。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ」


 周囲を見回し、人を探す。

 誰もいない。

 血痕がある。

 血がアスファルトに着いている。

 買い物袋が潰れている。

 好物のとんかつの材料が潰れている。


 ……ナギのだ。


「はぁ、はぁ、はぁ……っあ」


 血がついている。

 血が着いている。

 血がツイテイル。


「はぁ、はぁ、はぁ……。どこだ、ナギ……ッ‼︎」


 悲鳴のような、裕太の声が異世界に響く。

 返答はなく。

 『泣いている絵文字』が送信されてきたナギからのメール。

 その画面を開いたままのスマホが軋む音を鳴らし、液晶が割れるくらいに握り締めていることには気づかなくて。


「どこにいるんだよ……ナギッッッ‼︎‼︎」


 兄の声が妹に届いているのかは、分からない。


            8


 ガシャン! と、スマホの画面が割れる音が響いた。アスファルトの上に落ち、液晶が割れている。もう使い物にはなりそうになくて、変えないと通話の一つも出来ないだろう。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

「鬼ごっこはもうおしまいかしらね? ありきたりなセリフだけれど」

 青梅街道沿いにある、古本市場の中だった。どれだけ走っても人っ子一人見当たらず、屋外より屋内に隠れて潜んだ方がいいと判断して、古い本が並んだ棚の列に身を隠す。

 その気になればこんな本棚の列なんて紙切れみたいに切断し、建物ごと粉砕することが可能なはずの「口裂け女」は何もしてこない。

 それがより一層不気味ではあるが、寿命が伸びているのは事実だ。

 『泣いてる絵文字』は送れた。

 裕太なら来てくれる。

 そう信じている。

 だからそれまで、渚沙は生き残ることだけに集中すればいい。

「……どうして、そんなに私に固執するの? ううん。そもそも私が目的なら、最初から私だけを狙えばよかったじゃない……っ。はぁ、はぁ、はぁ……」

「クス。見え見えの時間稼ぎね? 一体誰に期待してるのかしら。まぁいいわ。だから言ったでしょう? 『自分のせいで人が死んだという事実』を、あなたに植え付けたかったのよ。そうすることで、あなたは罪悪感を抱かざるを得ないものね?」

「……っ! そんな横暴な理由で人を……っ」

「理由が正当なら人を殺してもいいの? 違うわ。目的があるから人を殺すのよ」

 頭のネジが数本飛んでいてもおかしくない、それこそ子供じみた言い訳を並べる「口裂け女」に渚沙は嫌悪を抱く。

 渚沙の『魂』に罪悪感を植え付けて、「堕とす」という訳のわからないことを述べる紫髪に妖艶な四肢を晒す女。

 根本的に、こいつはなんだ?

 あの大鎌は?

「………っ」

 考えて考えて、答えなんて思いつかなくて、頬に走る痛みに顔をしかめて、渚沙は息を吐く。

 とんだ一日だ。 

 自分で言うのもアレだが、日頃の行いは良い方なはずなのに、ハズレクジを引いたにも程がある。 

 思えば今日は朝から「いつもとは違う日常」だった。兄の部屋には美人がいて、「異能」やら何やらを説明されて。最終的にはこの始末だ。全く神様の性格の悪さには恐れ入る。

「さて。そろそろ諦めてちょうだいな。どんなに足掻こうとも、あなたはもうおしまい」

「……っ。そんなの、イヤだ!」

 本棚の裏から渚沙は飛び出した。屋内に逃げたのはいいが、これだと的に絞られやすいと今更ながらに気づいたのだ。

 体裁なんて気にせずに、とにかく少しでも長く生き延びるために悪足掻きと分かりつつも行動する。がむしゃらに走り、震える足が原因で本棚には何度もぶつかり、その度に本が落ちてきて、頭を守りながら抗う。

「……はぁ。もう飽きたわ。大人しくして」

 ため息。

 刹那。

 ズバンッ‼︎ という凶暴な音が渚沙の鼓膜を叩く。

 真っ二つ。

 女が振り抜いた大鎌が起因して、古本市場が横に裂かれて上下に分かれ、崩れ落ちていく。

 息を呑み、目を見開いて、震える足を叱咤しったして、渚沙は崩壊に巻き込まれる一歩手前で外に脱出した。

 だが、そこまでだった。

 崩壊に巻き込まれることはなかったが、その余波で右足をやられた。それだけじゃない。ここまで来るのに傷を負い、血を流し過ぎたのだ。

 頭はクラクラするし、視界は明滅して、息を整えることすら体力を必要としている。

「終わりよ、『原女イブ』」

「はぁ、はぁ、はぁ……っ」

「あなたはよく頑張ったわ。健気なほどにね」

 もう無理だと悟った。

 なんの取り柄もないただの女子中学生が、こんな化け物に歯向かえるわけなかったのだ、最初から。

 ここで死ぬ。

 後悔だらけのまま、死ぬ。

 お父さんとお母さんを亡くして、お兄ちゃんがずっと守ってくれて。

 結局、私はお兄ちゃんに縋っていただけで、あの人に何も残してあげられない。

 

 ––––何て無意味な人生だったんだろう。


 そう思うと途端に力が抜けて、ストンと地面に尻もちを着いてしまう。抵抗する気力はもうない。あっても無視をする。

 

「……お兄ちゃん。ごめんなさい……ッッ」


 そして、

 そして、

 そして。


 死神の鎌が、嫣然とした笑みと共に振り抜かれた。


           9


 ––––大鎌が振り抜かれ、渚沙は命を諦める。

 

 だが、諦めるという思考が終わらずに、まだ意識の中で波打っていることに気がつくと、渚沙はゆっくりと閉じた目を開けていく。


「……ったく。何やってんのよ、あのバカは」


「……っあ」


 黒いセーラー服に、黒い髪の毛だった。

 華奢な後ろ姿なのにすごく安心感があり、頼りがいのある大きな背中をしていた。

 渚沙を守るように立つその少女は、赤色の花弁を周囲に漂わせながら、手に持つ日本刀で大鎌の一撃を受け止めていたのだ。

 

 奈切雫。

 

 今日の朝、兄の部屋にいて、尚且つ不思議なことを言っていたキレイな女の子だ。

 彼女は驚く「口裂け女」との鍔迫り合いの中、チラリと後ろに目をやった。渚沙と目が合い、笑う。

「間に合ってよかった。無事で何よりだわ、渚沙ちゃん」

「……し、ずくさん」

「聞きたいことが山程あるだろうけど、ちょっと待ってね。まずはコイツを片付けないと」

 言って、雫は目の前の敵に目線を移す。

 紫色の髪の毛を長く伸ばす、切長の瞳を持った「口裂け女」は雫の目を睨み返す。

「〈エデン〉の回し者ね……! 人払いの結界を張っていたとは思うのだけれど?」

「ハリボテみたいにずさんな結界だったから、簡単に入れたわよ。……アンタ、噂の「口裂け女」ね?」

「そう呼ばれるようになったから、わざわざ殺し方を統一しただけよ。そう呼びたければそう呼ぶといいわ」

「じゃあ『顔面ブス』が調子に乗って私の友達の妹に手を出すんじゃないわよ!」

 明らかに見下すことを言いながら、雫は日本刀を前に押し込んで鍔迫り合いを終了させる。刀と鎌の間で火花が散り、妖艶な女が舌を打って後退する。 

「逃すか!」

「うるさい娘ね。だから助けを呼ばれると面倒だったのだけれど……!」

 雫が追撃のために走り出し、日本刀を構えたところで「口裂け女」が打って出る。

 振り下ろすだけでも一苦労しそうな大鎌を、彼女は数回振り回した。直後、紫色の斬撃が三つに分かれて迸った。

「ナメんな!」

 現実離れの光景が渚沙の目の前に広がる。あれだけ死を感じていた斬撃が、雫の手によって簡単に弾かれていた。目にも止まらぬ速さで、黒髪の美少女は日本刀を振って死を遠ざける。

 それに、さしもの女も厄介そうに目を細めた。

「素直に裂かれていればいいものを……」

「素直に斬られていればいいのにね?」

 互いに睨み合う姿は言うまでもなく気が合いそうにない。現状に置いていかれている渚沙だが、そこでふと気づいた。

 「口裂け女」の右頬に、一筋の裂傷が走っているのだ。偶然だろうか? 渚沙の傷の位置と同じだ。

 紫髪の女は僅かな痛みに眉を顰め、傷口に触れる。

 雫は笑った。

「渚沙ちゃんに傷をつけたんだから、お揃いね? アンタにはお似合いだわ」

「小娘が……っ」

 まさかさっきの乱戦で傷をつけたというのか。それだけで雫の実力が垣間見えていた。

 助かる。

 明日が見える。

 「口裂け女」の目的が渚沙である以上、簡単に諦めるとは思えないが、雫の存在があまりにも大きい。詳しいことは理解できないけれど、雫と「口裂け女」は同じ世界の住人だ。

 シマウマではライオンに太刀打ち出来ないが、獅子と獅子なら話は変わる。これはそういう話だ。

「アンタ、渚沙ちゃんを狙ってるみたいだけど、それはどうして? ……裕太じゃないの?」

 「口裂け女」は眉を顰めた。

「裕太……? よく分からないけれど、私の目的はその娘よ。あなたこそ、彼女を護衛してるんじゃないの?」

 話がまるで噛み合っていなかった。同じ世界に立っているはずなのに、同じをものを見ていないようだ。

 当然狙われている側の渚沙も首を傾げるが、中心に立つ二人もまた怪訝な様子だった。  

「……まぁいいわ。今ここであなたも殺せば全ては元通りなのだし」

「それが出来るなら、の話だけどね」

 再発する戦闘の熱が場を支配し始める。渚沙は喉をゴクリと鳴らし、緊張で汗を拭うことすら忘れてしまっている。このままこんな近距離で二人の戦闘を見ていたら、間違いなく二次被害を喰らうハメになる。

 だからこの場から少しでも距離を取ろうと動こうとして––––、

「––––ナギぃぃいいいい‼︎」

「……! お兄ちゃん⁉︎」

 その声を聞いた瞬間、渚沙の表情がパァっと明るくなった。荒廃したと言っても過言ではない、破壊にまみれた街の中、心から安堵する声がどこまでも響き渡る。

 雫も微かに笑み、けれど「口裂け女」は苛立つように舌を打った。

「……ここまでね。だけど忘れないことよ。私は必ずあなたの『魂』を「堕と」してみせるわ、『原女イブ』」

 口元に傷がある女のセリフに雫が目を剥いて、

「……イブ、ですって? アンタ、いったい何を知ってるの……?」

「知りたいならあなたの上司に訊くといいわ。……邪魔者も多くなってきたし、出直すわ」

 カツン、と振り返ると女は手にしていた大鎌を虚空に消して、雫たちに背を向けた。明らかに攻撃してくださいと言っているような無防備な姿。

 当然、雫は日本刀を構えて、

「逃すか……!」

「あなたの相手はまた今度よ、〈エデン〉」

 バキバキペキペキバキベキ……ッ‼︎ と。

 「口裂け女」の前の虚空が、まるで扉のように縦に裂かれ始めた。プラスチックを踏み砕くような音が響き、亀裂が広がり開いていく。

 やがて、その奥で待つ闇の中へと「口裂け女」は進んでいく。 

「……! 空間系の『原罪カルマ』⁉︎」

「さようなら。また会いましょう」

「ま、待ちなさい! 話はまだ終わってない!」

 おそらく雫の声は聞こえていた。

 だけど無視をしたのだろう。女は闇の中に入っていき、亀裂が閉じていく。

 逃すわけにはいかないとばかりに雫は握り締めていた日本刀を女に目掛けて投擲とうてきする。

 刃の切っ先が、女の後頭部に届く––––、

「……ナギ!」

「………」

 ––––届くことはなく、闇の扉が閉じる瞬間、「口裂け女」と少年の目があった。

 そして、少年……陸堂裕太は汗だくになりながら渚沙のもとへと走って、力強く抱き締める。

「ナギ……! よかった、よかった無事で! 怪我は大丈夫か⁉︎ 痛くねーか⁉︎」

 渚沙は驚き、苦しそうにしながらも嬉しい様子で裕太の背中をぽんぽんと叩いて、

「だ、大丈夫だよお兄ちゃん。雫さんが助けてくれたから。……来てくれてありがとう、お兄ちゃん」

「……っ。そうか、そうか。よかった、本当によかった……っ!」

「……うん」

 兄の腕の中は暑いくらいに温かくて、そしてひどく安心した。生き残ったのだ。あの地獄から。あの悪夢みたいな時間から。

 そう思えたからだろう、渚沙はホッとすると強張っていた全身の筋肉が弛緩したのが分かった。

「……ナギ。ちょっとそこで座っててくれ。すぐ終わるから」

「……? うん、わかった」

 と、そこで裕太は渚沙への抱擁を止めると立ち上がった。渚沙は首を傾げ、兄の顔を見る。

 ……何か、火山が噴火する寸前のような顔をしているのが分かった。渚沙は咄嗟に手を伸ばして裕太の服を掴もうとするが、もう遅い。彼女の手は虚空を掴み、兄は前に進む。

 奈桐雫のもとへと、だ。

「……………………」

「……………………」 

 ザ、ザ、ザ、ザッと。

 ゆっくり、それでいて荒々しく、だ。

 陸堂裕太は奈桐雫の目の前まで来ると、彼女の胸ぐらを容赦なく掴んで、引き寄せて、言った。

 怒りを爆発させるように。

 火山が噴火したみたいに。


「説明をしろ……ッッッ‼︎‼︎‼︎」

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