第60話 名前で呼び合う

 ドキドキなハプニングがあったけど、なんとか無事にショッピングモールに辿り着いた僕たち。

 地上五階、地下一階の大きな建物を前にして、柊さんは上を向いていた。

「大きいですね」

「柊さんって、ここに来るのは初めて?」

 駐車場も合わせると、やっぱり柊さんの屋敷よりも大きいけど……。

「そうですね。といいますか、わたくしはこれまでほとんど外でお買い物をした経験がなく、こうして出歩くのも久しぶりなのです」

「え? そうなの!?」

「はい。なにか必要な物がありましたら加奈子さんたちが買ってきてくれますし、わたくしがどこかに行こうとしたら、皆さんが止めてしまうのです」

 う~ん……。柊家の皆さんの気持ちも分からないでもないけど……。

 柊さんは有名な会社の社長令嬢だ。もし万が一誘拐にあってしまったらと思うとゾッとする。

 でも、瀬川さんが付いていたら問題ないと思うんだけどなぁ。

 そこまで考えて、僕はある可能性が浮かんだ。

 柊さんは言わずもがな、瀬川さんもかなりの美人だ。

 そんな二人が街中を普通に歩いていたら、色んな人の注目を浴びてしまうのは間違いない。

 ナンパなら瀬川さんが一刀両断するけど、もし同性の人から声をかけられたら、流石の瀬川さんでももしかしたら対処しにくいのかも……?

「上原さん?」

「え? あ、ごめん……」

 そうだよ。今は柊さんとデートしてるんだ。

 気になりはするけど、それを考えるのはあとだ。

「ふふっ、謝らなくても大丈夫ですよ。何を考えていたんですか?」

「えっと、えっと……ひ、柊さんの、ことを」

「へっ!? わ、わたくし、ですか?」

 咄嗟に誤魔化せなかった僕は、つい本当のことを言ってしまったんだけど、それを聞いた柊さんは顔を真っ赤にしてしまった。

「「……」」

 そして再び流れる沈黙。

 ああもう! 僕ってやつはどうしてこう気まずい空気を作ってしまうんだ!

「そ、そうです!」

 僕がまた話題を探していると、柊さんが何かを閃いたように、両手をパンと合わせた。

「ど、どうしたの柊さん?」

「う、上原さん。わたくしたちは今……デ、デートをしているじゃないですか」

「そ、そうだね」

「だとすれば、お互い苗字で呼び合うのは不自然ではないですか?」

「……へ?」

 柊さんが言っている意味は分かる。つまりそれって……。

「その、上原さんさえ良ければ……な、名前で呼び合いませんか?」

「っ!」

 ひ、柊さんを……下の名前で?

 そ、そりゃあ、柊さんに好意を抱いてからは、たまにだけど名前で呼んでみたいなって思ってはいた。

 だけど、それが今、こうして柊さんから提案してくるなんて。

「ひ、柊さんはいいの?」

「何がですか?」

「ぼ、僕なんかに、名前で呼ばれるの」

 柊さんの返答は分かりきっていたけど、それでも僕は聞かずにはいられなかった。

「もちろんです!」

 やっぱり予想通りの答えが返ってきた。

 そうだよ……せっかく向こうからやって来たチャンスなんだ。ここでビシッと名前で呼んで、柊さんとの仲を一歩前進させるんだ。勇気を出せ! 上原恭平!

「じ、じゃあ………………せ、せいか……さん」

「っ!」

 僕は真っ直ぐに柊さんの目を見て言おうとしたんだけど、やっぱり恥ずかしくなってつい逸らしてしまった。

 一方、僕に名前を呼ばれた柊さんは、顔を思いっきり逸らして後ろを向いてしまった。やっぱり嫌だったのかな?

 それから柊さんは、僕に背を向けたまま何度も深呼吸をして、四回目の深呼吸が終わったあと、ようやく僕の方を向いた。

「はい。……恭平……さん」

「っ!」

 ……好きな人に名前を呼ばれるのって、こんなに嬉しくて、こんなにもドキドキするんだ。

 それに、名前を呼んだときの満面の笑みはズルい。

 その美しすぎる笑みは、きっとどんな人も魅了して、恋に落ちてしまうだろう。

 大袈裟なんかじゃなく、本当にそれほどの威力がその笑みにはある。

「お二人とも」

「うわぁ!!」

「びゃあぁ!!」

 またすぐそばで女の人に声をかけられたら。やっぱり瀬川さんだった。

「せ、瀬川さん! 気配を消して近づかないでくださいよ!」

「そ、そうです……わたくし、本当にびっくりしました」

「? 私は気配を消してはいなかったのですが……お二人の世界に入られて気づかなかったのでは?」

「「~~~~~」」

 瀬川さんにツッコまれ、僕と柊さんはなんともいたたまれない空気になった。

「そんなことより、早くデートを再開してください。護衛対象が一つ所にいるのは守りやすいのですが、それだとお二人も嫌でしょう? せっかくのデートなのですから」

「そ、そうですね。……では行きましょう。……恭平さん」

「そ、そう、だね。……せ、清華さん」

 ショッピングモールにやって来て早十数分、僕たちはようやく店内へと足を踏み入れた。


「一歩前進ですね。お嬢様」

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