第59話 『聖女』に壁ドン

 切符を購入した僕たちは、電車に乗り込んだ。

 柊さんはお嬢様だから、もしかしたら切符の買い方がわからないんじゃないかと思ったんだけど、実際その通りだった。

 普通に改札に向かっていく柊さんを慌てて止め、僕は券売機に柊さんと共に向かった。

 柊さんはカードしか持ち歩いていないのでは? とも思ったけど、財布にはしっかりと小銭も入っていて、僕は切符の買い方を柊さんに教えた。

 お金持ちのお嬢様にありがちな展開を経験しつつ、僕たちは電車に乗ったんだけど……。

「やっぱり日曜日だから混んでるね」

 電車の中はけっこう混んでいた。

 よくドラマで見る朝の通勤ラッシュほどではないにしても、あまり身動きが取れない状況に変わりなかった。

「そうですね。まさかこんなに人がたくさんいるとは思いませんでした」

 柊さんも驚いている。

 でも、参ったなぁ……。

 今のこの状況……柊さんが痴漢にあいかねないぞ。

 僕たちの周りには男の人の方がいっぱいいるし、もしその中に痴漢がいたとしたら、ただでさえ目立つ柊さんを狙わないわけはないよね。

 この密度だと、瀬川さんにも頼れないかもしれないし……。

 その時、電車が大きく揺れた。

「きゃっ!」

 その衝撃で、柊さんは僕の方にバランスを崩した。

 僕は柊さんの両腕を押さえて、柊さんが倒れるのをなんとか防いだけど、柊さんに思いっきり触れてしまった。

 僕が掴んだところはニットのある部分だったので、直接柊さんの肌には触れていない。

 そこは良かったんだど、倒れそうになった拍子に柊さんは前かがみになっていて、僕の目に柊さんの胸の谷間がバッチリと映ってしまった。

「ご、ごめん柊さん!」

 僕は慌てて柊さんの腕から手を離し、目も思いっきりつむった。

「い、いえ。助かりました。ありがとうございます上原さん」

 僕は目を瞑ったまま、無言でこくこくと首を縦に何度も振っていた。

 そ、そうだ。柊さんが痴漢に出くわさないように、移動しないと。

「ひ、柊さん。扉の近くに移動しよう」

 僕はまだドキドキしている心臓を無視して、柊さんに移動を促した。

 柊さんも僕に従って、人を掻き分けて電車の扉まで移動してくれた。

 そしてもう少しで扉というところで、また電車が大きく揺れた。

「きゃあ!」

「うわっと!」

 今度は僕が大きくバランスを崩してしまったけど、幸いにも扉がすぐそばにあったので、扉に両手をついて倒れるのを防げた。

「………………」

 だけど、僕の両手の間には、柊さんがいて、僕の眼前には柊さんの背中と、長く美しい黒髪があった。

 そう。僕は柊さんに壁ドンをしてしまっていた。

「ご、ごめん柊さん!」

「い、いえ……」

 それからはどちらとも何も言えずに、ただ電車のガタンゴトンという音だけが聞こえていた。

 それから一分くらい経過したとき、柊さんが口を開いた。

「……あの、上原さん」

「ど、どうしたの柊さん?」

「その、上原さんの方を向いたら、ダメでしょうか?」

「え? い、いいけど……」

 僕は大して考えもせずに、柊さんの言葉に肯定した。

「し、失礼します」

 柊さんは一言断りを入れて、ゆっくりと僕の正面を向いた。

 向いている途中、柊さんの髪の間から耳が見えたのだけど、ものすごく赤くなっていた。そして、僕の正面を向いた柊さんの頬も同様にすごく赤くなっていた。

 その照れている表情があまりにも美しくて、僕は無意識に柊さんに見惚れていた。

「す、少し照れてしまいますね。こうして男性に壁ドンをされるというのは……」

 僕は未だに柊さんに壁ドンをしているんだけど、この時ほど身長が低いことを恨んだ日はない。

 僕の身長は百六十五センチと、一般の男子高校生の身長よりもちょっとだけ低い。

 大して柊さんの身長は百七十センチに届くか届かないかくらいで、僕より少しだけ高い。

 僕の身長があと十センチくらい高かったら、壁ドンしてもカッコ悪くなかったかもしれないのに……。

 竜太の身長、分けてくれないかな?

「その、僕の身長がもう少し高ければ様になったかもしれないのに……」

 自分でもちょっと卑屈っぽいセリフを言ってしまったと、あとになって後悔した。

 せっかくのデートなのに、ネガティブ発言で気分を下げてしまったかもしれないな。

「……そんなの、関係ないですよ」

「え?」

 でも、柊さんは僕の言葉を聞いてもテンションが下がるわけでもなく、むしろそんな発言をしてしまった僕に、『聖女』の微笑みを見せてくれた。

「その……わたくしは、上原さんに壁ドンをしていただいているのが、嬉しいのですから」

「っ!」

 それを言うのは……ずるいよ柊さん。

 そんなこと言われたら、どうやっても柊さんを意識してしまう。

 僕の中で、柊さんが好きという気持ちがまた少し大きくなった。

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