透明の人
初めて会った時、彼は顔の半分から上が微かな輪郭を残してすでに透明になっており、横から見ると美しい視神経の有り様がよく見えた。瞳は薄い紅茶色をして、かろうじて球体を保ち、間も無く周囲の透明に溶けて、形を失いそうであった。私は彼の姿をみとめた瞬間、品のよいゼリーを吸う想像をした。
透明になった部分も脳は機能し、彼はこちらをしっとりと見つめて、てきぱきと珈琲を淹れた。私は彼の透明な部分を見つめ、触れてよいか尋ねた。
「どうぞ」と彼が少しかがむ。輪郭の残っている部分は、なんとなく何かがあるという手触りがした。完全に透明な部分は、もう、何かがあるという感じは全くしなかった。
私が両手で確かめるように何度も触れると、「心配しなくとも、ここにありますから」と彼は言った。私は調査のため、一時間ほど彼から話を聞いて、それから数冊のノートと、彼のお気に入りの本を譲り受けて帰った。
翌週。彼のもとを訪ねると、上顎から上の部分がすべて透明になっていた。下顎の整った歯列がよく見え、その真ん中で、透けかけた舌がのたうつ魚のように動いていた。室内を埋めつくす植物たちと重なると、彼の首から上は背後にある美しい緑や花の色に支配された。錦鯉のように思えた。私は彼にまた許しを得て、透明な部分に触れた。眼球のあったあたりを包み込むようにそっと指を動かしたが、もはやそこに何も感じられなかった。
「体調に変わりはありませんか」
「ないとも」
残された唇の動きで、彼が穏やかに笑んでいることが分かった。
また次の週、彼のもとを訪ねたが留守だった。ポストからはいくつもの新聞や郵便物があふれ、庭の植物たちはみずみずしく光っていた。
さらに次の週。彼のもとへ足を運ぶと、家のすべての窓と戸は開け放たれ、室内に置かれていた植物たちのほとんどが庭に出されていた。ポストは決壊し、窓からはカーテンが好き勝手に外へとび出して風を受けていた。ベルを鳴らしたが反応はなかった。植物であふれる玄関に片足を踏み入れ、声をかける。返事はなかった。庭を通って、彼がいつも私を招いてくれたテラスの方へ向かう。他のところ同様、テラスに接した大きな窓も開け放たれており、私はそこからそっと家の中を覗きこんだ。
「声は、出せますか」
返事はなかった。すっかり風通しのよくなった室内。机上に残された小さな植物、本、ガラスの器。
「また、来てもいいですか。これからも、また」
返事はなかった。鞄の中に入れていた彼がくれた詩集。その気に入って何度も読み返しているページを開き、机の上に置いた。
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