可南子
可南子が深夜に家から遁走するようになったのは二ヶ月ほど前からだ。
可南子は今夜も素足のまま、こんな田舎の夜道を駆けていく。一番近い踏切の灯りを目指して、可南子は夜の虫みたいに力強く駆けていく。俺は上着を羽織って、ドアの鍵を閉めてからいつもと同じようにその後を追った。声はかけない。可南子が返事をすることは絶対にないからだ。それに夜の可南子は信じられないくらい足が速い。可南子に声が届くようにするには、近所の人たちがびっくりするほど大きな声を出さなければならない。
可南子は目的の踏切まで辿りつくと、決まって踏切の真ん中で立ち止まって遠くを見ている。真夜中、田舎の踏切に電車がやってくる心配はない。俺はすぐには声をかけることができず、いつも可南子を眺める。車が通らない真暗なところで、電灯に照らされた踏切だけがぽっつりと島のように浮かび上がっている。その景色は、たぶん不気味に思う人もいるだろうが、なんとなく絵になるというか、神秘的なものだった。
「可南子」
ここなら近所の心配もすることはないから、大きな声で呼びかける。でも、可南子は俺の呼びかけに気づかない。はじめのうちはそう。そう分かっていて、何度か可南子を呼んでみる。可南子が俺なんかの声に耳を貸さず、どこか知らないところを見ているのが好きだ。だからしばらくそうしている。
可南子はときおり、ぴょこぴょこと背伸びをして遠くの何かを見ようとする。
可南子のドット柄のパジャマが揺れる。
真暗の田んぼや畑からさわさわと不安になる音が鳴る。
可南子。
可南子。
自然と、可南子を眺めていたい気持ちから、そろそろ可南子を捕まえなくてはいけない、そんな気持ちはやってくる。
「可南子、帰ろう」
可南子はまだ、こちらを見ない。踏切の中は可南子だけのための浮島だ。この世から切り取られたあやしい浮島に可南子は一人でいる。そんな可南子の近くへ行くのを少しだけ怖いと思いながら、浮島の縁である線路のそばで、可南子に背を向けてしゃがみ込む。
「可南子、ほら、帰るから。おいで」
ぴょこぴょこと落ち着きのなかった可南子の小さな踵が、ぺたんと地面につく音がする。そうしてしばらく待つと、可南子の柔い体が俺の背中にのっかってくる。
「可南子、立つぞ。落ちるなよ」
可南子の腕を首に回させて、小さなおしりをトントンと叩きながら立ち上がる。可南子はさっきまであんなに俺を無視していたのに、そんなことなかったみたいに俺の背中にべったりはりつく。よいしょ、とわざとらしく声を出して、俺は可南子の浮島から脱出する。可南子がいなくなった途端、神秘的だった風景は不気味なだけの場所に感じられた。だから、できるだけ可南子の体温を感じながら、可南子の小さな息の音だけを聞きながら道を歩く。背中におぶさっても可南子はまだ元の可南子には戻ってくれない。声をかけても返事をしてくれない。俺ができるのは、夜道にびびる気持ちを我慢しながら、アパートの扉を目指すこと。可南子が元の可南子に戻れるように、そっと同じベッドに寝かしつけること。
「可南子、ほら。ただいまだよ」
可南子を落とさないように、慎重に玄関を開けて中に入る。可南子は裸足だから、俺だけがまず靴を脱いで、そのままベッドのところまで運ぶ。可南子をベッドに降ろしたら、濡らしてきたタオルで足の裏を拭く。傷ができてないかも確認する。そうしたら、可南子の両足もきちんとベッドの中に入れて、布団をかぶせる。可南子が夜に走り出すのは一回だけだから、あとは朝まで眠るだけ。そうすれば、可南子は何も知らない元の可南子に戻っている。きっと明日になれば。
「おはよう」
可南子はやっぱり元の可南子に戻り、俺の肩を揺らした。
「おはよう」
返事をすると、可南子は呆れたふうに笑って、部屋を出ていく。
可南子は夜の出来事を何も覚えていない。いつものように一人で起きて、二人分のコーヒーを用意し、ラジオを聞いて俺が起きてくるのを待っている。
俺は在宅の仕事で、可南子は午後からパートタイムの仕事に出かける。おどろくほどゆったりとした朝の時間が流れる。夜の遁走がなかったみたいに、穏やかな可南子がそこにいる。
可南子には何度か夜のことを覚えているか聞いたことがあるが、すっかりさっぱり「なんのこと?」という顔をして、しまいにはまったく見当違いなことを思い浮かべたのか、赤くなった顔で「私なんか変なこと言ってた?」と言い出す。そういうことを何度か繰り返して、俺は可南子に夜のことを聞くのをやめた。正直、今のところ何も困ることはないのだ。可南子が走る。それを追いかける。それだけのこと。冬になったら、それは少し困るかもしれないとは考えるが、まあとにかく夜に走る可南子を咎めようとは思わなかった。心配をしていないのではなかった。ただ、夜以外では可南子はこの上なく元気だし、ふだんから走りたいのを実は我慢してるのではないかと思うほど、可南子の内側にあるエネルギーは有り余っているように感じられた。だから、ちょうどいいのではないか。そんなふうに思っていた。
今日も可南子が夜の外へ駆けていく。
部屋を出てまっすぐに玄関へ向かい、こちらを振り返りもせず走り出す。
可南子はなぜ夜を駆けていくのだろう。疑問に思っても、可南子なりに理由があるのだろうと勝手に納得していた。聞くのは躊躇われた。聞いてしまって俺の知らない可南子が出てきたらと怯えているのかもしれない。走りながら可南子のことを考える。可南子は、きっとそんな俺のことなんて気にせず夢中で踏切を目指しているのだろう。そう思いながら可南子の背を見つめていると、その体が突然傾いて尻もちをついた。夜を走る可南子が転んだことは初めてで、慌てて走り寄る。何かから逃れるように体を捻る可南子に驚いたが、よく見ると、可南子の左腕が草むらから伸びる誰かの腕に引っ張られていた。悲鳴が出そうになったのを必死にこらえ、可南子を掴む腕を思い切りひっぱたく。感触はあった。人間の腕だった。うめき声なのか笑い声なのか曖昧な声が草むらからして、年齢の分からない男が立ちあがった。男は酔っているみたいに、目の焦点が合っていなかった。俺は可南子を抱えて必死に来た道を戻った。後ろから男がなにやら叫んでいた。田舎にも変な人間はいるんだな、こんなことがあるならやっぱり可南子を一人で走らせるんではないな、と考え、アパートに戻った。
次の日、可南子は体調を崩した。昨晩のこともあり、睡眠時間はいつもよりよっぽど長いはずなのに、日中のほとんどをぼうっとして過ごした。パートタイムの仕事を休んで、パソコンに向かう俺のそばを離れようとしなかった。
可南子はこの日から夜に走ることをしなくなった。いつもなら走り出す時間になっても、体を丸めて眠ったまま、起きることはなかった。走らない日々が続くごとに可南子の体調は悪化した。日中の活動もままならなくなり、朝に自分では起きてこなくなった。可南子のいれる珈琲とラジオの音がない朝はさびしかった。生活が不足していた。可南子はいるのに、可南子の何かは欠けていた。
夜に走らなくなった可南子を抱きしめる日々が続いた。可南子は窓際の植物たちみたいにきれいでかわいいが、それはまったく可南子の要素に欠けた可南子だった。そんな可南子を愛でるのは、まるで違う生き物と生活をしているような違和感があった。
走らない可南子。可南子はもう、夜に走ろうとする理由がなくなったのだろうか。それともあの夜のことが怖くて、外に走れずにいるのだろうか。可南子を膝の上にのせてゆらゆらと揺する。抱きしめて顔をうずめた可南子の後頭部は沸騰しそうに熱くて、「可南子、やっぱり走りたいんだろう」と心の中でつぶやいた。目の前の可南子は、ただぼうっと壁にある染みを眺めていた。いつだったか、可南子が珈琲をこぼした時にできた染みだった気がする。
次の日の夜。肌寒さに目を覚まし、隣にいたはずの可南子がいないことに気がついた。いない。布団はめくれあがり、部屋の戸も玄関も開け放たれていた。
可南子が夜を走りにでかけていった。
急いであとを追いかけた。可南子の姿はもう見えず、焦燥感を覚えた。
また変な人はいないか。どこか違うところに行ったのではないか。もう戻ってこないのではないか。
可南子が走ったであろういつもの道を必死に走った。
田んぼからも草むらからも、今日は何も聞こえなかった。
はあ、はあ、と自分の息の音だけがする。
踏切の明かりが見えるところまで来ると、そこに小さな可南子の姿が見えた。
まだはっきりとは見えないけれど、あれはきっと可南子だろう。俺はそのまま思い切り走った。走って走って、そのまま可南子の浮島に上陸した。息が苦しくて、膝に手をついて下を向く。可南子は隣でただじっとしている。たぶん遠くを見ているのだろう。息を整えて名前を呼ぶ。
「可南子」
顔をあげる。はからずも、可南子と並び、可南子がいつも楽しそうに見ていたであろう景色が目に飛び込んできた。背伸びをした可南子よりも、俺の方が背が高い。
そこには、なにもなかった。
光に照らされた浮島から見えるのは、ただ真黒でなにもない景色。道が続いてるのかさえ全然わからない、なにもない景色。遠くを見てもなにもない。ずっと遠くまでなにもない。なあ、可南子。
「可南子。なんだ、なにもないじゃんか。可南子、なに見てたんだよ」
そう言って可南子の方を振りむくと、可南子は正面を向いたまま「そうだね」と言った。可南子の手を握ってみると、おぼろくほど冷たかった。
その日はおんぶをせずに二人で手をつないで帰った。変な人はいなかった。可南子は玄関で「タオルとって」と俺に言って、俺から受け取ったタオルで自分で足を拭いた。次の日、可南子は俺よりも早く起きて、ラジオを聞いていた。珈琲はいつもよりも薄かった。
すぐあとに可南子の妊娠がわかった。可南子が夜に走りにいくことは二度となかった。
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