やわく、まるい

 私には秘密があった。胸の真ん中に、小指の先程に小さく微かだが、ハートの形のほくろがあるのだ。でも、新しい秘密ができてしまった。私の部屋の冷蔵庫には、見覚えのないピンク色の肉がいつも入っている。


 いつの頃からかそれは冷蔵庫の二段目に現れるようになった。白いプラスチック容器、ぴっちりとかけられたラップ。スーパーから買ってきたみたいに、当然といったふうに冷蔵庫内に収まっている。一見鶏むね肉みたいだけれども、もっとずっとつるりとしていて、皺や筋がなく、汁気もない。指で突くとマシュマロに似た弾力を感じる。

 はじめは自分が知らない間に置かれたこの肉が不気味で仕方なかった。肉はゴミ箱に捨てても、次の日にはまた冷蔵庫に現れた。

 冷蔵庫を開けて肉を見るのは、毎日仕事が終わってからの夜遅い時間。疲れ果て、思考は回らず、すぐにでもアルコールを体に入れて眠りにつきたいだけの時分に、このことをどこに、誰に、相談すべきか分からなかった。分からずに繰り返す内に、肉が冷蔵庫にあるのはどうでもよい日常になった。


 その日は散々な日で、私はもう素面でいることに耐えきれずに酔いが回った状態で帰宅し冷蔵庫を開けた。肉は同じように入っていた。これまではラップの上から突くことしかなかった肉を、なんとなく試しにまな板に乗せてみようと思い、手に取った。

 触れた瞬間、とてもいい心地がした。

 手のひらに乗せると今まで冷蔵庫にあったとは思えないように、ほんのりとしたあたたかさを感じた。生肉に触れたべたつきもなく、まるで毛のないウサギに触れているようだった。ただ、心地よさはその感触ではない。肉に触れ撫でると、心底安心し、居心地がよく、気持ちがよかった。あまりの心地よさに私はしばらく肉を撫で続け、その日は肉を再びラップに包み、冷蔵庫に仕舞った。しかし、朝見てみると冷蔵庫から肉は消えていた。ゴミ箱を開けてみると肉が入っていた。それから、仕事から帰宅すると小さな座卓に腰を下ろし肉を撫でる日が続いた。アルコールを摂取するよりも、肉を撫でて得られる安らぎの方がはるかに大きかった。私はピンクの肉を撫で、眠気が来ると冷蔵庫に戻した。けれども、まるで役目を終えて「ぼくの居場所はここです」と心得ているように、朝になると肉はゴミ箱の中に収まっていた。その慎ましいところも好ましく感じられ、今では私自身の手でこの肉をゴミ箱に入れることは躊躇われた。


 辛いことがあった。

 誰かの悪意よりも、自分の恥の方が何倍も耐え難いのは何故だろう。こういう日、自分にはもともと消えてなくなりたい願望があるばかりで、日々というものをそれにどうにか打ち勝つことだけに費やしているのではないか――そんなことばかり考えてしまう。

 肉が待っている。だというのに私はもう駄目で、アルコールの力を借りてようよう生きて家路に着いた。靴を脱ぎ捨て、壁にぶつかり、最後には這って冷蔵庫に辿りつき肉を取り出した。

 そのまま床に転がって肉を撫でる。

 安心する。

 心地いい。

 冷たい床は硬く、天井は白かった。

 まばたきで視線が揺れ、鼻の頭が痒い。

 ――そこにできた意識の隙間。

 その隙間に、今日の恥ずべき自分が、消えてしまいたいものが一瞬にして頭の中を塗りつぶす。

 肉を撫でると安心する。

 安心に慣れると、それが入り込んでくる。

 体が強張り、私は縋るように肉を力一杯握りこんだ。すると、ふっと体の力が抜けた。これまでで一番強く、心地よさが全身に広がり、安心のために大きな涙がぼろぼろ出た。

 肉を握る手にもっと力を込める。

 潰れないように、でも爪痕が残る程に。

 力に比例して、頭を塗りつぶしていた何かはするすると解けていく。

 何度も何度も繰り返し肉に爪をたてた。しばらく無心にそうしていると、晴れ晴れとした気持ちになり、体が自然と起き上がった。アルコールで鈍くなっていた体の感覚も戻り、心も体も正しく、間違いなく機能しているということが分かった。手元の肉を見る。強く握っていた部分は凹み、爪痕がいくつも残っていた。痛々しく、それはもう元には戻りそうになかった。私はこの日、肉を布と新聞紙に包み、久しぶりに自分の手でゴミ箱に捨てた。そして、この肉のあり方を心得た。肉を撫でると楽になる。肉を握り、爪痕を残すともっと楽になる。肉を――傷つけると、さらにずっと楽になる。思いのまま、衝動のまま、それが私を安心させる。肉はきっとこういうもので、全部を心得て今日のうちに去り、明日にまたやってくるのだ。

 私は毎日、肉を撫で、握り、爪を立て、ある時は針で何度も突き刺した。それはとても心地よく、針が肉に刺さるたびに、心の膜にも穴が空いてそこから汚れた澱が流れていくようだった。日々、日々、私の生活には肉が無くてはならなくなった。アルコールを捨て、帰宅後の自室で毎日肉を傷つけた。肉は何度でも私に捨てられ、そして私の前に現れた。

 少し調子がよい日は針を刺した後の肉を撫でた。それは私の手に寄り添うように動いた。私はそれをひと撫でしてゴミ箱へ捨てた。

 肉のおかけでなんとか生きていける日々は続いたが、それでも私の心に根差したものが消えることはなかった。

 また、日々。日々が繰り返される。

 私は心の底で「それは駄目だろう」と思っていた。しかし、ついに肉に包丁を差し込む日が来てしまった。まな板に乗せることもなく、肉の入れられたパッケージのまま刃をすっと入れ込む。一瞬、体が溶けてしまったかのように感じた。いや、刃を入れるまで信じられないほど肩に力が入っていたものが抜けただけだった。やわらかくなった体で嬉々として刃をおろし肉を切り込む。震えた。こんなにも安心感を覚えたことはない。生きていることに申し訳なさを感じずにいられるこの瞬間が、肉を切り続ければ続くのだと思うと、幸せで幸せで仕方なかった。私は涙を流し、鼻歌を歌いながら、さながら料理を楽しむように肉を切った。肉が細切れになる頃には、私はもう幸せの只中にあり、満足してくるっと身をひるがえして肉をゴミ箱に投げ捨てた。包丁を片付け、手を洗い、水道をしめる。そうした後に、私は肉が捨てられたゴミ箱に抱きついてわっと泣いた。ゴミ箱の蓋を開けることはできないかったが、一晩中そこにいて泣いた。「なんてことしたのだろう」と思う。それでも私は肉を切ることを止められなかった。肉もそこにあり続けた。あり続けるしかなかったのかもしれない。なので毎日泣いた。繰り返されれば、それが日々であり、日々がそれになるのだと思う。

 冷蔵庫から肉を取り出した。今ではまな板の上で肉を切るようにはなっている。肉の表面を撫でる。そこには今まで見たことのない、小さく微かな染みのようなものが見えた。どこか見覚えがあった気がしたが、どこでだろう。少しだけハートの形に見えなくもない。「かわいい」そう思いながら刃をおろした。

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