短編集

椎名S

ランドリー・ランドリー

 週に一回、コインランドリーに行く。

 埃と虫の死骸が堆積する床。水道はカビで溢れ、何かの汚れか錆かよく分からないもので傷んだ機械。ゴウンゴウンと回る音が止むと、私の体は自然と目を覚ます。

 はたと気づいた。

 使っていた機械の、隣にある大きな乾燥機の中に赤ちゃんがいた。

 幽霊はこんなところにも出るのか、と思った。高温の乾燥機の中に赤ちゃんは普通、いない。他にも違和感はあった。バスタオルや草臥れたTシャツ、グレーの大きな靴下に囲まれて赤ちゃんはすやすやと眠っている。乾燥機の中身と赤ちゃんという存在にずれがあるように感じられたのだ、と自分で思った。辺りを見回した。監視カメラがあるだろうか。あそこについている機械がカメラだろうか。私はそこを少しの間じっと見つめた。結局、どうすることもできないのだからそのままランドリーを出た。

 アパートの部屋の鍵を開け中に入る。その前に、外に置かれた壊れた洗濯機の中を覗いてみた。赤ちゃんはいなかった。

 その後、警察が私のもとに訪ねてくることもなかった。やはりあれは幽霊だったのだろう。翌週か翌々週、私は同じようにランドリーで目を覚ました。隣の機械には何も入っていなかったけれど、部屋の一番端の機械に洗濯物が入っていた。私が来た時にはどこも使われていなかったはずだった。中を覗くと赤ちゃんがいた。この間見た赤ちゃんよりも少し大きくなっている気がする。首が座っていて、洗濯物に埋もれながら四つ這いの姿勢で外を眺めているようだった。ちらっと、赤ちゃん視線が動く気配を感じ、私はその視線の範囲から外れるように後ずさった。

 気づかれなかったはず。

 何もわるいことはしていないけれど、何故だか罰が悪くて慌ててランドリーを出た。

 部屋の外の洗濯機の蓋がずれていた。それが何故か落ち着かなくて蓋を閉じた。部屋に入ってから、赤ちゃんの頭の上に赤と白の縞々模様の靴下が乗っかっていたことを思い出した。


 目を覚ますと乾燥機の中には子どもがいる。ランドリーは私にとってそういう場所になった。子どもと言っているのは、赤ちゃんはあっという間に赤ちゃんではなくなってしまったからだ。今はもう、子どもだ。自由に動き回って、自分の物ではないくせに乾燥機の中の洗濯物を勝手に穿いてふざけたりしている。子どもが自由に動くようになってからは、目が覚めても眠ったふりをして子どもに気づかれないようにそこを眺めるようになった。

 私に気づいたら乾燥機から出てくるだろうか。

 そもそも幽霊が成長するなんて知らなかったな、とか、自分の洗濯物を機械に詰め込んでから眠る前にはそういうことを考えた。


 子どもは赤ちゃんの頃からどことなく快活そうな印象があった。好奇心はあるようだし、いたずらっぽいところもあったと思う。それが九歳くらいの年齢になった時、暗い表情をするようになった。乾燥機の丸みに背を預けて膝を抱きしめて泣いていたこともあったと思う。あったと思う、と言うのはそれほどはっきりとは子どもの様子を確認していないからだ。ほんの少し覗き見れた部分から、私はそう思っているというだけだ。

 九歳か。何かあったのだろうか。何も起こるわけはないか。子どもは、乾燥機の中にしかいないのだから。十歳、十一歳、十二歳。子どもはほとんど暗い様子で外を眺めることもなくなった。私は子どもの視線を気にせずに洗濯物を取り出せるようになった。

 汚物を敷き詰めたようなランドリー。

 洗濯を始める前には他のどの機械にも洗濯物は入っていないのに、私が眠ると乾燥機が一台だけ動き始める。

 アパートの部屋の前の壊れた洗濯機はまだ撤去していない。時々、蓋を開けて中を覗いてみた。当たり前のように何も入っていなかった。そのくせ蓋がぴったりと閉じていないと落ち着かなくて、蓋を開けるたびに自分を恨んだ。

 ばたん、たたん。かちっ。かたん、きい、かたん。

 開けて閉じて、中に入れて、取り出して、確認する。

 そこに残したものはないか。残されたものはないか。

 戻ったり振り返る手間をしなくて済むように。

 閉める。


 夢を見た。

 何の夢かは起きた瞬間に消えてしまったが、それでも私の体は恐ろしく耐え難い衝動に走り出し、部屋を飛び出した。早朝。まだ周囲には誰もいないことに安堵した。壊れた洗濯機を見る。近所の子どもが忘れていったのか二十センチくらいのぬいぐるみが置いてあった。私はそれを払い除け、洗濯機の蓋に手をついた。息を、何度も何度も荒く繰り返した。洗濯機の中にもぬいぐるみや忘れ物があるかもしれなかったが開けて確認することはしなかった。白んできた景色に鍵の開く音がする。私は慌てて部屋に戻った。


 乾燥機の中の幽霊の存在理由は考えない。いるものはいるのだし、だからといってどうすることも、またしなければいけない理由もなかった。でも、少し哀れではないだろうか。そこにしか居れないのか。その狭く、熱い、回るだけの入れ物にしか居られないのか。


 夜の眠りは浅く、ランドリーでは深い眠りが訪れた。その理由も私には分からない。


 その日は眠りが途中で覚めた。私がランドリーを利用する日はいつもきれいな晴れだった。しかし、この時は霧雨が降っていて洗濯の後には乾燥機も使うつもりだった。

 洗濯物の洗い終わりを待つ眠りは、酷いにおいに妨げられた。何のにおいか思い出せないのに、不快で仕方なく、私は目覚めと同時に周囲を見渡した。使われている機械は、私の物と、もう一つ。一番大きな乾燥機の中に子どもがいた。酷いにおいはそこからするようだった。あっけに取られていると、ドンッドンッと蓋を叩く音がした。子どもが――口を大きく動かしてかぶりを振りながら蓋を叩いている。泣いている。声は聞こえなかった。ドンッドンッと蓋を叩く音だけが響いた。私はカメラの位置を探して見つめた。ランドリーの入口は閉じ、外は霧雨だった。立ち上がり、駆け寄り、乾燥機の蓋に手をかける。中の乾燥は終わっているはずなのに蓋を開けることができなかった。一瞬、自分の部屋の前の洗濯機の中を確認していないことを思い出した。子どもはさらに大きく口を開け、叫んでいる。子どもは私を見てはいなかった。視線は必死にどこか違う、たぶん遠くを見ていた。私はそれが切なくて、どうしてやることもできない無力感に涙が出てきた。

「あなたも、押して。中から押すの。出て」

――お願いだから。

 もう、私の方が必死だった。ごめんね。ごめんなさい。

「助けて」


「あんた、なにしてんの」

 突然背後から低い声が聞こえた。振り返ると年配の男性が訝し気な目でこちらを見ていた。乾燥機と私とを交互に見つめる。有無を言わさないその視線に、自然と腕の力が抜けた。

 えっと、乾燥機使いたくて。

 何か不思議な臭いがしたから壊れてるのかなって。

 開けてみようって。

 さっきまで必死だったことが嘘みたいに自分の口からすらすらと意味のない言葉が出てきた。

 違うんですよ、ほら、ね、すみません。ごめんなさい。

 泣き出しそうなところで洗濯機が終わる音が響いた。私は何度もすみません、すみませんと謝り自分の洗濯物の機械へと移動した。さっきまで子どもが中にいたはずの乾燥機から、男性が洗濯物を籠にしまっていく。私はその様子から目を離すことができなかった。

「何?」

 いよいよ怒気を含んだ声を男性が発し、私はまたへこへこと頭を下げて視線を落とした。自動ドアが開き男性が出ていく。ランドリーの中は再び私一人になり、私は、男性が使っていた、子どもが入っていた、もう何も入っていない、乾燥機の前に立ち眺めた。中に手を入れてみる。使い立ての機械は触れ続けると火傷しそうに熱く、鈍い熱を持っていた。

「あなた、こんなところにいたの」

 どうしてこんな熱いところで平気な顔して笑っていたの。平気でなくなったから、嫌になったのよね。大きくなって、こんなところ嫌だって、そう思ったのよね。空の乾燥機を手で回しているうちに熱は冷えていき、ちょうど温かな人の温度くらいになっていった。

 自分がどれほどそうしていたのか覚えていない。気が付くと、子どもが入っていたものとは別の乾燥機に洗濯物を入れ、いつものように深い眠りについていた。目が覚める。洗濯物は乾き、子どもはどこにもいなかった。私以外の誰も、乾燥機を使ってはいなかった。

 最低に汚れたランドリー。外に置きざらしにされている壊れた洗濯機。

 乾いた洗濯物を袋に詰めて、外に出ようとした。外は霧雨で、私は傘を持っていなかった。洗濯物は意外に重く、外に出ていくことを躊躇った。ゆっくりと一歩進み、自動ドア前のマットで足を止める。

 自動ドアは開かなかった。

 開かないドアの前で私は涙を流し続けた。開かないのだ、ドアは。洗濯機の蓋も、乾燥機も。中に入れられたものは、いつも自力では出てこれない。私はそれをよく知っていた。出してあげよう、そう思うことはいつも遠い彼方に忘れられてしまう。

「そこにいたの」

 そう言われることだけを待っている。

 外は霧雨で、ここは汚れたランドリー。自動ドアは濁り、壊れ、きっと外から何も見えないだろう。

 背後でバタンと蓋の閉じる音がし、ゴウンゴウンと機械が回り始めた。

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