第三章 初めての体験

その日は雨が降っていて、ちょっと外出するのには勇気が要る天気であったが、空港とかショッピングモールでは、人で賑わっていた。久しぶりに、こんなに人通りが多いので、店の人達がちょっと、違和感をおぼえるほど賑わっていた。

みんな、どこかへ出かけるのに、杉ちゃんたちはいつもと変わらず、製鉄所で水穂さんの世話をしていた。水穂さんの世話をするのに、休みも平日もない。それに合わせて、女中の槇原重子さんも、毎日きちんと製鉄所に来訪していた。

「今日は祝日なのにわざわざ来てくれてありがとうな。そうやって来てくれているのに、水穂さんがもう少し具合が良くなってくれるといいのにな。」

杉ちゃんは、縁側を掃除している重子さんに言った。水穂さんは、薬で静かに眠っていた。

「いえ、構いませんよ。あたしが今しなければならないことは、水穂さんの世話をすることでしょう。」

重子さんは、にこやかに言った。

「でも、祝日なのに来てくれて、みんなと遊びに行きたいとか、思わないの?」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。あたしは、友達も誰もいないし、一緒に行く彼氏さんもいないので。」

重子さんはサラリと言った。

「そうか。それもなんだか寂しいね。学生時代に仲の良かった友達はいなかったのか?」

「はい。ずっと一人ぼっちでした。一人が良かったんです。」

「そうか。それを当たり前のように答えるのも、なんか寂しくないか?」

杉ちゃんがそう言うと、重子さんはそうですね、と言った。

「本当は、私も、友達と一緒に学校へ行ったり、一緒に御飯を食べに行ったりしたかったですよ。」

「そうだろう?だったら、もうちょっと柔軟に働いてくれたっていいんだぜ。明日は出かけるから、仕事休みますとか、そういう連絡してくれていいんだ。それにお前さんは真面目すぎるくらい真面目に働いているじゃないか。たまには、自分にご褒美あげたっていいんじゃないの?」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「でも、今の私は、そういうことができる人がいませんから。」

重子さんはそう言うと、

「それはどうかな?」

杉ちゃんは口笛を吹いた。

「もしかしたら、お前さんがずっと欲しかったものが手に入るかもしれないぞ。」

重子さんはびっくりした顔をした。

「一体何のことですか。誰か、いらっしゃるんですか?」

重子さんがそう言うと、こんにちは、こさせていただきました、という声で、一人の女性がやってきた。またドスンドスンと鶯張りの廊下が音をたてる。

「あ、市子さん!」

重子さんは驚いてしまった。

「水穂さんに頼まれてこちらに来ました。たまには、槇原重子さんを休ませてやってくれと頼まれました。あたしも、ちょうど秋場所が終わったばかりですし、重子さんにお付き合いできます。」

市子さんは、にこやかに笑った。

「だから、二人揃って映画でも見に行って来いや。あるいはコンサートとか、そういうのを見ても良いと思う。水穂さんの事は僕が見ておくから、安心して行ってきなよ。」

杉ちゃんがにこやかに言った。

「さあ行きましょ。」

明るく市子さんに言われて、重子さんは急いで出かける支度をした。

とりあえず、財布や身の回りのものを持ったバックを持って、二人は、製鉄所の最寄りのバス停に向かった。市子さんは、スマートフォンで今日上演されている映画を教えたが、映画はアニメ映画ばかりで、重子さんには面白くなかった。次に、コンサートホールのウェブサイトを見ると、無料でアマチュアオーケストラのコンサートがあるらしいので、二人は、そこへ行ってみることにした。コンサートホールは、バスですぐ近くにあった。二人がホールに到着すると、雨なのにも関わらずたくさんの人がいた。二人は、その人達の中に混じって、コンサートホールの中に入った。

意外にアマチュアオーケストラを聴きに来たのは、年寄ばかりだった。その中で、二人は目立たないように、端の席に座った。五分くらい待って、楽団の人たちが出てきた。そして、指揮者が出てきて、演奏が開始された。曲は、ベートーベンの交響曲七番である。有名な曲であるが、重子さんはほとんど聞いたことのない交響曲なので、何だか新鮮な交響曲でもあった。もちろん演奏は、アマチュアだから、技術的なところがプロフェッショナルに追いつかないが、でもちゃんと交響曲になっていると思った。和声的にも、音のバランス的にもしっかりしていた。洋楽というものは邦楽と違って、メロディがあって、それを支える伴奏というものがちゃんとあるんだと、重子さんは気がついた。邦楽にはその様な役目はない。低音楽器として、17絃などの楽器があるが、それでも、ベースはベースで、和声を作る楽器もあってというようなはっきりした役割分断はしていない。邦楽を無理やり洋楽に当てはめてしまうのは好きでないけど、重子さんは、そういうふうに邦楽も変えていくことが必要なんだろうなと思った。

「終わったわ。良い演奏だったわね。」

市子さんにそう言われて、重子さんは、ハッと気がついた。

「ああ、そうね。」

とりあえずそう言っておく。

「そうねって、何も印象に残らなかったの?」

市子さんにそう言われて、重子さんは、答えを言うべきかどうか迷った。答えを言ってしまったら、重子さんから市子さんが逃げてしまうのではないか、と思われるほどだった。重子さんは、何故か人間関係が壊れてしまうことに恐怖心を持っていた。日頃から、友達というものもないし、自分に声をかけてくれる人もいなかったから、そういう人が現れてくれると、なにか不安になってしまうのだった。

「素直に感想あるなら言ってちょうだいよ。言わないで黙ってると、私がここへ連れてきた意味が無いじゃないの。」

市子さんは、にこやかに言っていた。その顔を見て、重子さんは、どうしようと思った。自分の本当に感じた事を言うべきなのだろうか?

「まあ、何も感想はなかったか。」

市子さんは、椅子から立ち上がろうとするが、

「いえ、とてもおもしろかったわよ。邦楽も、洋楽見たいに一致団結してやれたらいいのにと思ったわ。」

と、重子さんは言った。市子さんはにこやかに椅子から立ち上がった。重子さんもその後に続く。二人は、ホールの出口へ向かってあるいた。

「そうね。洋楽のほうが、みんなが団結しやすいのかしらね。あたしのやっている女子相撲だって、日本ではなくて、西洋でよく行われているって聞くし。横綱という言葉が、国際語にもなっているわよ。」

市子さんが、そんな事を言った。

「それを、本場である日本で、不人気なのは悲しいわね。」

市子さんの話を聞いて、重子さんは、そうですねと小さい声で言った。

「そうですね。お琴の演奏会だって、来ているのは外国人の方ばかりだって聞くわよ。」

重子さんはそれにあわせている。

「そうなのよ。だからあたしもさ、日本人の一人として、相撲をもっと日本の人たちに知ってもらいたいのよね。ずっと行われてきた競技だし、絶やしちゃいけないって思うわけ。少しづつ番付をあげて、女相撲、女子相撲をもっと知ってもらいたいの。だって、太っていることを、生かせるスポーツなんて他にないでしょ。他の運動選手は、ほっそりして痩せているわ。太った選手が、なにかやれるなんて、相撲くらいのものよ。」

市子さんは明るく、相撲取りになって嬉しいことを語った。そんな彼女を見て、重子さんは、自分は何をやってきたのだろうと思った。確かに、鍵山優子先生一門の一員として、一生懸命お琴をやってきたけど、市子さんの言うような、良いことがすぐに思いつかないのだった。太っていることが有利であるというスポーツは確かに相撲だけだろう。だけど、すごいのは、市子さんが、それを知っているということだった。

「そうなんですね。私は、ただお琴をやってて、お琴を一生懸命やっていたけど、市子さんのような、目標があるわけでも無いし、いいところをすぐに言えるかなんて言ったら、思いつかないわ。」

重子さんは正直に言った。

「まあ確かに、洋楽に比べると、メロディもきれいでは無いし、誰もが聞いてもいい気持ちがする音楽じゃないわね。」

市子さんは、重子さんの話に付け加えた。

「だから、もっと、そういうさ、聞いていて気持ちよくなるような音楽を作ってよ。あたしもね、動画サイトでお琴教室の発表会とか見てるけど、すごい激しい音の連続だったり、叩きつけるようなパフォーマンスだったり、聞いていて、何も面白くないわよ。」

市子さんに言われて、重子さんは、そうねといった。

「でも、そういう事、あたしが変革できるかな?だってあたしは何もできないわよ。」

「まあ、そんな事言って、少なくとも、パソコンで動画くらい作れるでしょ。それができれば、少しかわれるんじゃないの?」

市子さんに言われて、重子さんは、小さくなった。

「変えていくのは、偉い先生でも誰でも無いわ。選手としてプレーしている普通の人達が変えていくんだと思う。」

「そうねえ、、、。でも、今更、音楽習い始めても。」

「あら、それはどうかしらね。いつでも人間変わりたいと思ったらかわれると思うけどな。」

市子さんはからかうように言った。

「そうですよね。」

重子さんはあることを決断することにした。

その次の日。重子さんはいつもどおり水穂さんの世話をするため、製鉄所に行った。重子さんが四畳半に行くと、水穂さんが、ベートーベンの田園ソナタを弾いているのが見えた。とりあえずその曲を最後まで聞いた。邦楽と違って、穏やかで優しい感じのする、素敵な作品だ。重子さんは、思わず、

「あの、すみません、水穂さん。」

と、言ってしまった。水穂さんは、演奏を止めて、

「どうされたんですか?」

と小さい声で言った。

「あの、あたし、碌に練習もできないですけど、ピアノを教えていただけないでしょうか。楽譜くらいは読めますから。」

重子さんは、恐る恐るそういったのであるが、水穂さんは、わかりましたといった。重子さんは、水穂さんに支持されたとおりに椅子に座って、ピアノの鍵盤にうまれて初めて触れた。そして、水穂さんに言われたとおり、ドレミファソラシドと音階を弾き始めた。ちょっと音を外したりもしたけれど、なんとかドレミファソラシドと歌いながら弾けた。それを何回も繰り返して、音階を覚える作業を行った。お琴教室では、できないとえらく叱られたけど、水穂さんは声を荒げるとか、怒鳴るということは全くしなかった。

「そうか、これが音階なんですか。」

重子さんは、ちょっと不思議な、狐に包まれた様な感覚でそういう事を言った。

「ええ、殆どの曲はこれでできています。」

「そうなると、洋楽は随分楽なんですね。一越とか、黄鐘とか、そういう長い名前じゃないんですから。」

重子さんは、ちょっと苦笑いした。

「でも、日本の名前ですもの、それは大事にしておいたほうがいいですよ。なんでもドレミで統一することはできるのかもしれませんが、国によってそれをどうやって導くかは違うはずですからね。そこは、日本の文化として持っておくことが大事だと思います。」

そういう水穂さんに、重子さんはちょっと、意外な答えだと思った。

「なんでですか。あたしたち邦楽の担い手は、変わらなくちゃいけないと思うのに。邦楽は、水穂さんも知っていらっしゃると思うけど、もうめちゃくちゃな世界になってしまっているし。」

重子さんはそう言うと、

「確かに洋楽に合わせることも大事ですけど、邦楽独自のものは無くしては行けないですよね。」

水穂さんは、そういうのだった。

「そうですか、、、。」

重子さんは、考え込んでしまった。それを、水穂さんは静かに慈しむような感じの顔で眺めていた。

その頃。鍵山優子と名乗り始めた、鍵山暢子さんは、相変わらず自宅でお稽古を続けていた。

「じゃあ、それでは、来週合奏練習しますから、来週のお稽古は、音楽スタジオへ来てください。」

暢子さんは、お弟子さんにそういったのであるが、お弟子さんは嫌な顔をした。

「先生。私、合奏練習から外れてもよろしいでしょうか?」

暢子さんにとっては、晴天の霹靂の様な衝撃だった。

「外れたいって、その理由を言って見て。なぜ外れたいと思うの?」

暢子さんはとりあえずそれを言ってみる。

「ええ。だから、私、あの曲の、あの曲の和声的にきれいではないところが、どうしてもしっくりこないんです。ああいう不協和音の連続みたいな事は、したくないんです。」

お弟子さんはそういい始めた。

「私、先生が言うように確かに洋楽上がりです。ですが、洋楽の和声感などになれてしまっているので、どうしても、あの不協和音の連続の様な曲には、ちょっと関わりたくありません。私は、そういうものよりも、楽しい曲というか、そういうものをやっていきたいと思うんですよ。だから、お琴は習いたいけど、ああいう不協和音の連続のような曲は弾きたくありません。だから私を、合奏メンバーから外しておいてください。」

「そんな事、どうしてそういう事を。入門したときは、あれほどお琴が好きだって言ってたじゃないの。」

暢子さんは、急いで彼女に言うと、

「でも、先生は、あたしの事を、洋楽上がりだと言って、あまり大事にしてくれませんでした。洋楽上がりだから教えたくないって言うの、私よくわかりました。」

と、お弟子さんは言った。

「それでは、どういう事?古典箏曲のほうが良かったとでもいいたいの?古典なんて、いくらやっても、意味がないことは、私達もあなたも知ってるじゃないの。」

暢子さんがそう言うと、

「先生は、古典をすごくやっていきたいというタイプでも無いですし、ただ、不協和音を連発するような曲をやり続けるだけじゃないですか。はじめは、良かったんですけど、私、疑問に思うようになってきました。だって、先生の曲を人前で弾いても、何も面白がられないし、ただうるさいとか、けたたましいとか、そういうことしか言われないし。それなら、本の通り洋楽に戻ったほうがいいのではないかと思ったんです。先生、もう私を合奏練習か外してください。」

とお弟子さんは言うのだった。

「そんな、はじめに誓ったことと違うわ。」

暢子さんはそう言うと、

「はい。そうかも知れませんが、人というのは変わることもあります。先生。私は、お琴の音色が好きで、お琴というものを弾いてみたいなと思ったのでここに越させてもらったんですが、それと違うんでしょうか。なんだかここに居ると、汚い音の中で、お琴本来の演奏とはかけ離れてしまっているような気がするんです。」

とお弟子さんは言った。

「どこの教室でも同じことだわ。お琴の業界は、こういうものをやらないと、生き残っては行かれない。だから、こういう曲を書いて、それでやっていくしか無いのよ。みな同じ様な曲を書いてるわ。野村も、澤井も、みなそうよ。宮城道雄だって、そうだったのよ。だからもうお琴の世界はそうなってしまっているの。だから、そこを十分に学んでいただかないと。」

暢子さんは急いでそういったのであるが、

「そうですか。それなら、私、申し訳ありませんが、退会させてください。もう、こんな不協和音だらけの教室で、お稽古するのも私、疲れてしまいました。」

と、彼女は言うのだった。

「ま、待って!」

暢子さんは急いでそう言ったが、彼女は、なにか決意が出たらしい。何も言わないで、帰り支度を始めてしまった。

「待って!ちゃんと、演奏会を挙行するから、そのためにあなたにはいてほしいのよ。お願いします。」

暢子さんは思わずそう言ってしまう。

「いえ、私は、お琴というものに向いていないんだと思います。お琴はそういうけたたましい音が出て、ものが壊れたり、爆弾が落ちるような曲を垂らされる楽器だなんて知りませんでした。だから、私は、もうそういうところには居たくありません。」

お弟子さんは、お稽古のカバンを持って、お稽古の部屋を出ていってしまった。彼女を止めることは、暢子さんにはできなかった。すぐに次の生徒がやってきたが、暢子さんは、気持ちを切り替えることがうまくできなかった。

「先生。よろしくおねがいします。」

と、いうお弟子さんに、暢子さんははいとだけ言った。

「何をやっているんですか、先生。早く調弦の方はじめてくださいよ。」

お弟子さんに言われて、暢子さんはハッとした。そしてすぐにお弟子さんの楽器を調弦しようとしたが、その調弦法を思い出すことはできなかった。

「あれ、あなた今日は何調子だったかしら?」

思わずそんな事を言ってしまう。

「ええ、今日は、練習曲ですから、平調子で良かったと思いますよ。」

とお弟子さんに言われて暢子さんは急いで平調子を作った。お弟子さんはそれを弾き始めたが、

「先生。私の平調子は、一をDではなくてEに取るはずでしたけどね?」

と言った。確かに平調子の定義は人によって異なっており、一人ひとりの個性によって、平調子が違うのは当たり前のことだった。ただ現代曲では、作曲者が平調子を何の音でとるのか、楽譜に指示してある場合が多いのだが。

「先生。平調子を早く治してください。でないと私、よくわからないまま弾くことになってしまいますよ。」

お弟子さんに言われて暢子は、平調子を急いで作り直した。それでも先程言われたことが頭の中をぐるぐる回っていた。あの不協和音の連発の汚い音という言葉だ。自分ではそんなつもりはないのに、なぜ、そういうことを言われなければならないのか。暢子さんは、そればかり考えていて、その人のお稽古は、音を外したり、リズムを間違えたりした。お弟子さんは何も言わなかったが、たしかに、今までの暢子さんとは違っていた。それは、邦楽教授者としてはとても情けないことだと思われる。

暢子さんは、そんなことを繰り返して、一日が終わった。一方、重子さんは、水穂さんにピアノの弾き方を教えてもらいながらとても楽しそうだった。





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