第二章 平穏な日々
最近になっても、昼間はとにかく暑い。それではいけないと思われるが、日が出てしまうと暑いのである。それでは行けないという人も居るが、もうそういう事をいくらテレビで深刻な顔をしても、遅いのではないかという意見が噴出していて、結局の所、辛い世の中を、ぐちをこぼしながら行きていくしか無いと言うのが、与えられた事実なのだろう。
「今日は、具合どうですか?今日あたりは、せっかく杉ちゃんさんが作ってくれたんですから、ぜひ食べてもらわないと。」
製鉄所に女中として雇われた槇原重子さんは、今日も、ご飯の乗った器を持って、水穂さんのところにやってきた。何故か、杉ちゃんのことを、杉ちゃんさんと言うのが、印象的であった。四畳半で横になっていた水穂さんも、疲れた顔であったけれど、布団に起きてくれた。
「そんなに疲れた顔をして、どこか具合でも悪いのですか?」
重子さんはそういいかけて、
「あ、ごめんなさい。具合が悪くなければ、ずっと寝ていたりしませんよね。ごめんなさい。」
と、水穂さんに言った。
「いえ、大丈夫です。気にしないでください。」
水穂さんは弱々しく答えた。でも、体はげっそりとやつれていて、もう疲れたといいたげな顔であった。
「そうですよね。こんなに昼間暑いのでは、疲れてしまいますよね。それでも、人間は動物ですから、食べないともっと疲れてしまいますよ。」
重子さんはサイドテーブルにご飯の皿をおいた。ご飯は、杉ちゃんが作ってくれた、パスタの一種である、ニョッキと言うものであった。
「ほんとに、今はいい時代になりましたね。肉さかなを一切食べれなくても、そばがあるし、パスタもあるし、不自由しないじゃないですか。」
重子さんはにこやかに笑っていった。
「だから、食べられるものを食べて元気になりましょうね。水穂さん。」
そう言って、重子さんは水穂さんに箸を渡した。水穂さんは、黙ってそれを受け取って、ニョッキを一切れ食べた。それだけで終わってしまうのである。水穂さんはそれだけ食べて、
「ごちそうさまです。」
と、小さい声で言った。
「だめですよ。ひとくち食べただけでもうごちそうさまなんて、ちょっと少なすぎます。いくら疲れてしまうからって、食べないとだめですよ。せめて、半分は食べないと。」
重子さんはそう言ったが、水穂さんは食べようとしなかった。
「せめて、半分は食べてもらえませんか?」
重子さんは、一生懸命言った。水穂さんは、返事の代わりに咳き込んでしまった。重子さんは、ああ、ほらほらと言って、水穂さんの背中を撫でてやった。
不意に、玄関先から声がした。
「こんにちは、市子です。榊原市子。あの、水穂さんはいらっしゃいますか?」
そう言いながら、ドスンドスンと足音がして、市野山の四股名で活躍している、榊原市子さんが、四畳半にやってきた。いわゆる女子相撲と呼ばれる新しい相撲の選手であった。
「ああ、市子さん。どうされたんですか?」
と、水穂さんが弱々しくそう言うと、市子さんは、この人はと聞いた。水穂さんが最近女中として雇いました、槙原重子さんですと紹介すると、市子さんは、よろしくおねがいしますと丁寧に挨拶した。相撲取りらしく礼儀正しかった。
「いえ、大した用事ではないんですが、実は私、今場所勝ち越しました。成績は9勝6敗です。まあ、二桁勝利には届かなかったですけど、来場所は、頑張って10勝したいです。」
そういう市子さんは、いくら相撲取りという職業であっても、女性だった。嬉しいことを、すぐに他人に話したがるくせがある。男性であれば、誰かに話すということはあまりしないのであるが、女性にはそういうところはない。
「まだ新入幕ですけど、これで二桁勝利すれば、番付をあげられるかもしれません。まだまだ前頭ですけど、頑張ってまずはじめに三役を目指します。」
と、市子さんは、にこやかに笑った。
「そうですか。新入幕で、9勝6敗とは大したものですね。これからも、強くなってください。」
水穂さんが市子さんにいうと、
「ありがとうございます。まずはじめに、水穂さんに伝えたくて、真っ先にこちらに来てしまいました。親方も、あまり嬉しい気持ちを言いふらすなと言われましたけど、嬉しい気持ちを消してはいけないと思うので、誰かに共有したほうが、きっと、嬉しい気持ちを忘れずにいられると思ったから、こさせてもらいました。」
市子さんは照れくさそうに言った。
「でも市子さん。巻ける人が居るから勝つ人が居るということも忘れないでくださいね。それをしないと、どこかの力士みたいに、奢った力士になってしまいますからね。ただ強くなるだけじゃだめですよ。」
水穂さんがそう注意すると、市子さんはそうねといった。
「そうですね。あたしも、あの人はあまり好きではありません。いくら強いと言っても、相手に対して礼儀とか、感謝とか、そういう気持ちを忘れてしまったら、たしかに問題ばかり起こす力士になってしまいますよね。そうですね。あたし、気をつけます。」
「どうして、市子さんは、お相撲を始めたんですか?」
興味があったので、重子さんは市子さんに聞いた。
「ええ。こんなに太っているのを、生かせるスポーツは、相撲しか無いと思ったんですよ。こんなブサイクな顔で、勉強もできないし、なおかつ力持ちだけが取り柄なんですから、それなら、相撲を始めようと思って。太った女性なんて、服を着ても似合わないし、芸能界に入るにしても、太っていては無理ですよね。だからです。」
苦笑いしてそう語る市子さんは、とても気さくそうな顔をしていた。
「どんなコンプレックスでも、自分の一部ですから、否定するのは悲しいでしょ。だからあたしは、それを生かせるようにしようと思ったんです。だから、相撲部屋に入りました。もう、体重が、25貫もあるんです。今更、10貫くらいに落とすことなんてできないし。だったら、25貫ある体重を有効に使えないかと思いまして。」
1貫といえば、4キロだ。それを計算してみると、市子さんの体重もわかるだろう。
「そうですか。偉いですね。太った体重を生かそうなんて、なかなかできることでは無いですよ。あたしも、そういう気持ちでお琴を始めればよかった。欠点を隠すために音楽するのではなくて、それを生かしてなにかできるのではないかと考えるほうが、良かったかもしれない。」
重子さんが市子さんの話に合わせるような感じでそういった。
「それでは、重子さんはどうしてお琴を始めたのですか?」
水穂さんが、重子さんに聞いた。重子さんはちょっと考えるような顔をして、
「あたしは、、、あたしがお琴を始めたのは、実は、人生失敗してからなんです。」
と言い出した。
「つまり、おとなになってから始めたんですか?」
市子さんがそう聞くと、
「はい。そうなんです。18歳まではお琴なんて縁がなくて、普通にピアノをやっていました。それが、18歳のときに、ピアノのコンクールの前日に、学校の体育の授業で大怪我をして出れなくなってしまったんです。それで、結局音楽学校に行ったけど、何も身に入らなくて、音楽学校で実績を作るつもりだったんですけど、何もできないまま卒業して。それ以降何もする気がなくなって就職活動もする気にならなくなったんです。それで、家の中でずっと引きこもる生活をしていたんですけど、見るに見かねた祖母が、着物の着付けの先生のつてで、お琴教室を紹介してもらって。私、ピアノ以上にのめり込みました。何回もお琴の絃を張り替えたりして。それでも、お琴教室の先生方は、私を指導してくださいました。それで私、先代の鍵山優子先生に師事して、鍵山優子を名乗っても良いと言われたんです。なんか、鍵山暢子さんの存在を忘れてしまったのかもしれない。私は、何をやっても、失敗するんですね。」
と、重子さんは、噛みしめるように言った。
「そうですか。人生ってなんだろうと思いますね。ホント人間の人生は、何が起きるかわからないですよ。大事なことは、人生に対して常に生かされているという謙虚さを持つことです。」
水穂さんが重子さんの話に言った。
「そうなんですね。水穂さんそういう事を言えるんだから、せめてご飯くらい食べてくれませんか。」
と重子さんは、にこやかに言った。
「あら、水穂さんまだご飯を食べてなかったんですか?」
市子さんがすぐに言った。
「じゃあ食べないとね。食べないと、本当にだめになってしまいますよ。あたしは、体力勝負のスポーツしてるから、食べるってことがいかに大事か、知ってますよ。」
市子さんにまで言われてしまうと、水穂さんは仕方なく箸を取って、もう一つニョッキを食べてくれた。
「良かった。やっと二口食べてくれた。あたし、水穂さんがずっと食べてくれないので、あたしの出し方が悪いんだと思っていました。」
重子さんは、とてもうれしそうな顔をする。水穂さんは、もう一度ニョッキを口にしてくれた。
「全くご飯を食べさせるのに、二人がかりで説得しなければならないなんて、水穂さんも、困ったものですね。」
市子さんがにこやかに笑う。
「水穂さん、美人の女中さんを困らせてはいけませんよ。えーと、重子さんでしたっけ。あなたも、もう少し、強気にならないとね。押し出しをしないと、だめなときもあるんですよ。頑張って、押し出しをしてください。」
「ありがとうございます、市子さん。あたしが励ましてもらうなんて、思いもしませんでした。ここで働かせてもらうだけでもありがたいことなのに、市子さんに励ましてもらえるとは。ありがとうございます。」
市子さんに励ましてもらった重子さんは、丁寧に頭を下げた。そういう丁寧すぎるところが、音楽を続けていくには不利なのかもしれなかった。
「じゃあ私、これから稽古があるんで、帰ります。それでは、水穂さん、もう少しご飯を食べて強くなってください。」
市子さんはスマートフォンの時計を眺めながらそういう事を言った。市子さんがスマートフォンを持っているのを見た重子さんは、
「あら、スマートフォンを持っていらっしゃるんですね。」
と思わずいった。
「持ってますよ。今どきそれを持たせてくれないところなんて無いわよ。」
市子さんがそう言うと、
「ごめんなさいあたし。てっきり相撲とか、日本の伝統に拘っている方は、スマートフォンを持てないと思ってました。」
重子さんは正直に言った。
「いいえ、あなたはとても正直ね。思っていることは、ちゃんと言っていいのよ。黙っていればなんとかなるなんて時代はもうおしまいよ。」
そういう市子さんに、重子さんは憧れの目で彼女を見て、
「そうですか。じゃあ、あのこれは気が向いたらでいいですから、ラインかメールなどを交換してもらえませんか?」
と言った。
「ええ、大丈夫です。それなら、ラインのほうが、頻繁にやり取りするから、ラインを交換しておきましょうか。このQRコードを見てくれれば。」
市子さんが見せたQRコードを、重子さんは読み取った。簡単に繋がれるということは、こういうときにいいものだ。
「ありがとうございます。なにかあったら、ライン送ってもよろしいですか?」
重子さんは急いでいうと、
「稽古でなかなか返信できないときもあるけれど、必ずお返事出すから、心配しないでね。」
と市子さんも嬉しそうに言った。そして、またドスンドスンと音を立てて、製鉄所を出ていった。それを見送った水穂さんに、重子さんは、薬を飲ませて、明日こそちゃんと食べようと言った。水穂さんは細い声ではいと言った。
一方。
富士市の駅から少し離れたところに、鍵山と書かれてある屋敷があった。屋敷の入口には、木製の看板に、墨で箏曲教室と書いてあった。その屋敷は、何人も人が出入りして、絶えず琴の音がなっていることで有名なところである。
「もう、いつまでその様な音を出しているの!それは構え方が違うと、何回も言ったはずでしょ。」
冷たくそう言っているのは、鍵山暢子、いや、本来鍵山優子と名乗る人であった。
「ごめんなさい。前の先生がそうしろといったので、それで通ってしまっていたんです。」
弟子の女性は琴の前に座り直してそういう事を言った。
「そうだけど、鍵山一門に入部したんですから、しっかり、身につけてもらわないとね。鍵山に入ったんですから、それはちゃんとしなければなりませんよね。」
と、鍵山暢子さんは言った。
「ごめんなさい。次の稽古までに必ず直してきます。」
お弟子さんがそう言うと、
「いえ。次の稽古なんて言わないで、今ここで直してもらいたいの。いい、肘はこういうふうに曲げて出すものよ。」
鍵山暢子さんは、お弟子さんの腕を無理やり曲げて、ちゃんと構え方を指導した。
「わかりました。次は気をつけます。」
「それでは、その姿勢で、この曲をもう一回やってみて。」
暢子さんがそう言うと、お弟子さんは、その構え方で、もう一度曲を弾いた。その曲は、先代の鍵山優子さんが作曲したものであった。今の鍵山暢子さんが、作曲したものとは全く違っていた。
「だんだん弾いているうちに、前の先生の癖が出てしまっているようだけど、本当は、はじめから終わりまで、私達の構え方でやってちょうだいね。お琴は、何をするにしても、師匠がいないとできないものですからね。自己流ではやれないわよ。」
「わかりました。」
暢子さんに言われたお弟子さんは、小さな声で言った。
「それができるようになったら、私が作った曲で頑張りましょうね。」
暢子さんはそういったのであるが、お弟子さんは小さな声で、そうですかだけ言った。なんだかそれはちょっとという感じの顔だった。
「なんでそんな顔してるの?」
と言われて、お弟子さんは、
「いえ、何でもありません。暢子先生いや、今は優子先生と呼んだほうがいいのかな。それをやれるのを楽しみにしていました。」
とだけ言った。
「優子先生の作品は、とてもおもしろいです。曲の運び方も個性的だし。」
と、いう彼女に、暢子さんは得意になって、
「個性的というか、ああいうものを書かないと、邦楽にたどり着いてこないのよ。ああいうものでないと、お琴に興味持ってくれなくなるしね。それなら、多少過激だと言われても、頑張ってやらなくちゃ。」
と言った。
「わかりました。次に暢子、じゃなかった、優子先生の曲をやるのを楽しみにしています。今日は本当にありがとうございました。」
お弟子さんは、小さな声でそう言って、暢子さんに深々と頭を下げて、お教室から出ていった。暢子さんは、それを、にこやかなというか、得意げな顔で見送った。
それからしばらくしてまた次の弟子が入ってきた。今度は暢子さんの作曲した楽曲をやることになっていた。
「よろしくおねがいします。」
と言って、お弟子さんはお琴の前に座った。
「それではまず、調弦をさせていただきます。」
そう言って、琴柱を動かして、お弟子さんはお琴の調弦をした。基本的に暢子さんが書いた曲は、平調子でも無ければ雲井調子でも無いのだった。なので、ある程度音が取れる人でないと自分で調弦することは難しいのであるが、このお弟子さんは、スマートフォンのアプリを使いながら、なんとか調弦してみせた。
「そうね。音も取れるようになってきたし、一度、通してやってみてくれないかしら。」
暢子さんがそう言うと、お弟子さんはわかりましたと言って、曲を弾き始めた。暢子さんは、自分の曲を弟子がお稽古してくれるなんて、ある種の喜びというか、独特の感情を持った。それは口で言うのは難しいけれど、なにかやり遂げたというか、そういう感じの感情だった。
お弟子さんが弾き終わると、暢子さんはにこやかに笑って、
「じゃあ今度は、もう少し、強弱をつけて、曲にアップダウンをつけて弾いてみましょうね。一緒にやってみましょう。」
と言って、お弟子さんと一緒にその曲を弾き始めた。確かに一緒にやれば、お弟子さんも間違えずに弾くことができた。でも、果たして間違っているのか正しいのかもよくわからないというのが実情だった。それくらい暢子さんの曲は、変なところがあった。もしかしたら、外部の人から見れば、ただ機関銃の様な音を絶え間なく出しているような、そんなふうにしか見えない可能性もあった。お弟子さんはそれをよくやってくれている。
「よくできているわ。ただ、作曲者である私から見れば、もう少し迫力を出してもいいところよ。」
「はい、わかりました。」
お弟子さんは暢子さんと一緒に演奏を続けた。彼女が、一生懸命ついてきてくれるのを、暢子さんは嬉しいというか、彼女をここまでうまくしたのは私なんだという気持ちに駆られた。それは、他の動物には絶対ない、人間だけの感情だった。それが人間の原動力という人も居るが、でも美しい感情とはいい難い物があった。
「それでは、今度の文化祭で弾く曲をやってみましょうね。大丈夫よ。あなたならできるわ。私の作った曲をちゃんとやってくださるんだから。」
と、暢子さんは、お弟子さんを励ましながら言った。お弟子さんは自信がなさそうだったけど、その曲を弾き始めた。先程の曲より更にひどくて激しいものだった。暢子さんは、彼女がそれを弾いているのを見て、やっと自分が鍵山優子として、やっていくことができるようになったのだと確信した。
「文化祭では、あなたは私と一緒に、演奏してもらいますからね。今回は、誰も邪魔する人はいないし、堂々と弾けるわよ。」
思わず暢子さんはそう言ってしまう。お弟子さんが、
「どういう意味ですか?」
と聞いたが、暢子さんは、それを無視して、お稽古を続けた。
その日の気候は、晩秋という季節なのに、半袖でもいいのではないかと思われるほど暑かった。なんだかもう秋という季節がなくなってしまっているようなそんな陽気だった。そんな中で、暢子さんは、自分の作った曲を、お弟子さんに教授し続けるのであった。
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