橋姫

増田朋美

第一章 真蛇が現れる。

今日は雨が降って、秋らしい寒い日になった。やっとこの時期らしくなったね、と杉ちゃんたちは言っていた。

その日、杉ちゃんとジョチさんは、製鉄所を利用している女性からお誘いをうけて、鍵山優子という女性の琴リサイタルを聞きに行った。流石に邦楽の演奏会ということで、聞きに来るお客も、ホールのなかでちらりほらりくらいしかいない。しかも、お客の殆どが、年寄りばかりだった。杉ちゃんたちは、指定席のようになっているホールの車いす席に座った。

「それでは、鍵山優子リサイタルを開催いたします。まず初めに演奏いたしますのは、鍵山優子オリジナル作品、5月の村です。」

司会者がそう言うと、背の高いスラリとした女性が出てきた。なんだかウエディングドレスみたいな純白のドレスに、黒い革の琴爪が異様な雰囲気だった。

鍵山優子さんと呼ばれた女性は、お琴を弾き始めた。古典箏曲とは偉い違いの、けたたましい音楽であった。お琴というものが、こんなにけたたましい楽器だったのか、と思われるほど、けたたましい音であった。

演奏が終了後、拍手はあったが、あまり彼女を称えるという感じの拍手ではなかった。感動したのかもしれないけれど、涙が出るほど感動したとか、そういう人はいないような感じだった。

司会者が次の曲を説明して、5曲ほど演奏してくれたけれど、本来のお琴の曲とは、全然違うなあという感じの演奏であり、なんのために演奏会をしたのか、よくわからない気がした。演奏が、全て終了すると、お客さんたちはいち早く椅子から立ち上がって、出口から出ていってしまった。

「いやあ、酷い演奏だったなあ。まるで、音楽ではなくて、電気ドリルで穴を開けているような、工事現場のような演奏だったぞ。」

杉ちゃんがいうと、ジョチさんも、額の汗をふきながら、

「確かに、美しい演奏会ではなく、ジャイアンのリサイタルみたいな演奏でしたね。」

と、言った。二人は、係員に手伝ってもらいながらホールを出た。もう、ほとんどの客は、帰ったのかと思われたが、何人かの客は、鍵山優子にサインをもらうために残っていた。その顔を見ると、あまり美人という感じではなく、厚化粧して、一生懸命若作りしている女性だった。彼女は、にこやかにサインに応じている。杉ちゃんもサインをもらうことにした。持っていた演奏会のパンフレットをだして、

「これにサインしてくれ。」

と、彼女に突き出した。鍵山優子は、にこやかに、

「お名前をどうぞ。」

といった。杉ちゃんが、

「影山杉三です。杉ちゃんへと書いてください。」

というと、鍵山優子さんは、にこやかに笑って、

「わかりました。影山と鍵山では一文字違いですね。」

といって、パンフレットにサインをしてくれた。

と、その時、

「鍵山優子さんね。本当の鍵山優子は私よ!」

と、いいながら、ホール入口に、一人の女性が入ってきた。女性は、怒りに満ちた顔をして、

「本来は私が、鍵山優子を名乗るつもりだったのに!堂々と、鍵山優子を名乗って、くだらない曲作って演奏しているなんて、あなたもそばに置けないわね。」

と、鍵山優子として演奏している女性に言った。それに続いて言われた女性も、

「ええ、だって、私こそ正当な後継者なんですもの!私が正式に鍵山優子の名を名乗ることを認められたのよ。今更何ができると思っているのよ!汚らしい般若め!」

と、声を荒らげて言った。

「まあ待て待て。要するにだな。どっちが鍵山を名乗るのか、決まってなかったの!」

杉ちゃんがでかい声で乗り込んできた女性に言った。

「そういうことなら、今日リサイタルをするべきじゃなかったってことかな?ちゃんと、鍵山優子さんが誰なのか決めてから、演奏会を挙行するべきだったんだね。」

「ええそうよ。だから、そこをどいてよ。鍵山優子は本来私が名乗るべきだった。それなのに、この人と来たら、勝手に鍵山優子と名乗って、こんなふうに演奏会までして!」

乗り込んできた女性は、ちゃんと理由を述べた。

「じゃあ、偽物の鍵山優子さんがなんで今日リサイタルを開催したんだよ。」

と、杉ちゃんが聞くと、

「今更聞かなくてもいいわ。鍵山の姓を継ぐのは紛れもなく私なんだから。こんな般若の顔をしただめな女性、ろくな演奏ができるはずがないわよ。」

と、リサイタルを上演した女性が言った。どうやら、彼女のほうが、興奮してしまっているらしい。

「真蛇はどっちでしょうね。」

と、ジョチさんは思わずつぶやく。

「ああわかったわかった。とりあえずふたりとも真蛇になっちゃう前に、とりあえず話を聞くから、ここで叩き合いをしてもしょうがない。それでは、ちょっとお前さんは外へ出てくれ。」

と、杉ちゃんは乗り込んできた女性に言った。女性は、車椅子の杉ちゃんに言われたら、何も反抗できなかったようで、黙ってしまった。それをすかさずジョチさんが、

「さあ、行きましょう。とりあえず、興奮を抑えて、落ち着いてから、話をしましょうね。」

と言って、彼女の手を取った。そうなると、彼女は安安とジョチさんに従って、演奏会の会場から出ていった。それを、演奏会を開いた女性は、勝ち誇った様子で見ていた。

「もし、彼女が興奮して、常軌を逸した行動を取られる前に、影浦先生のところに連絡を入れておきました。いつでも行って構わないそうです。」

ジョチさんは彼女の手を引きながらそう言うと、

「ああ、僕の知り合いの精神科の先生だよ。」

と、杉ちゃんが説明した。

「そうですか、、、。私、やっぱりそういう人のお世話になってしまうんですね。」

女性が小さい声でつぶやく。

「そういう人って、お前さん、さっき般若になって乗り込んだけど、病院にでも通ってたのか?」

杉ちゃんが聞くと、彼女は小さな声ではいと言った。

「わかりました。そういうことなら、影浦先生に見てもらいながら、ゆっくりお話を聞かせていただきましょうか。」

ジョチさんは、小薗さんに電話をかけ始めた。

「あの、私、また入院ということになってしまうのでしょうか?ごめんなさい。私、あまりにも逆上しすぎてしまって。」

「いやあ、影浦先生は優しいよ。ちゃんとお前さんが筋にあっていることをしているとわかれば、強引に入院させるということはしないよ。医療の原点は安心させてやることでしょ。それを怖がってどうするのさ。」

女性はそういう事をいうので、杉ちゃんはそれを否定した。多分、彼女の訴えは誰にも聞いてもらうことはなく、ただの異常だと思われて、病院に連れて行かれた経験があるのに違いなかった。数分後、小薗さんが、大きなワゴン車を運転してやってきた。いつも乗ってくるのはセダンだけど、今日は、重度の精神疾患の女性がいると聞いたので、大きなワゴン車を持ってきたのだった。ジョチさんに促されて、女性は小薗さんの車に乗った。それと同時に、杉ちゃんとジョチさんが車に乗り込んで、四人は、影浦医院に向かった。

影浦医院という病院は、病院というより、個人の家の様な形をした建物で、いわゆる病院という感じのする建物ではなかった。ジョチさんは、彼女の手を引いて、影浦医院の中へ入れた。杉ちゃんも車椅子を操作しながら、影浦医院に入った。中に入ると、白い十徳羽織に白い袴を履いた、影浦千代吉が待っていた。

「はじめまして。精神科医の影浦と申します。えーと、患者さんのお名前はなんですか?」

影浦は、淡々と、彼女に言った。

「はい。私は、先代の鍵山優子の直弟子で、槇原重子と申します。」

と、彼女は言った。

「わかりました。槙原さん。まずはじめに、あなたは興奮した状態にありますから、落ち着いてゆっくり話ができるようにしましょうね。僕達は、何もあなたを怖がらせる事はしませんから、安心してください。」

影浦は、槇原重子さんの腕に注射を打った。そして、彼女を椅子の上に座らせた。普通患者の椅子は、くるくる回る小さな椅子であることが多いが、この病院では柔らかいソファーになっている。

「それでは槙原さん。どうして、あの演奏会に乗り込んだのか、理由を聞かせていただけないでしょうか?僕達は、敵ではありません。あなたがなぜ、鍵山優子さんのコンサートに乗り込んだのか知りたいだけです。」

影浦が優しくそう言うと、槇原重子さんは、涙をこぼしながらそういう事を言った。

「あたしは、先代の鍵山優子先生から、いずれは鍵山優子の名をもらうつもりでした。それを先生の娘さんである、鍵山暢子さんが、強引に鍵山優子と名乗り始めて、活動を始めてしまったんです。あたしは、入院していたのが長かったので、暢子さんがいつの間に鍵山優子の名を取ったのを知らなかったのです。それで、暢子さんが今日鍵山優子の名を名乗って初のリサイタル開催ということで、もう我慢できなくて。それで、我を忘れて乗り込んでしまいました。」

「わかったよ。まあお前さんとしては、その暢子とかいうやつに、自分が本来もらうはずだった名前を、取られてしまったので、悔しかったというわけだね。」

と、杉ちゃんは言った。

「はい。そうです。なんであたし、あんな事してしまったんだろう。鍵山優子の名をもらった直後に、あたしは鬱になって入院したので、仕方なく、先代の鍵山優子先生が、鍵山暢子さんを後継者にしたって、自分で納得したつもりだったのに。」

「まあねえ、人間だから、どうしても感情的になって、おかしなことしてしまうこともあるよ。」

と、重子さんに、杉ちゃんは、にこやかに言った。

「それは、病んでようと、そうでなくても、悔しくなるよ。まあ、お前さんはそれが強く出てしまったんだと言うことだ。それだけで、今日は納得しておき。」

と、杉ちゃんはでかい声で言った。

「ごめんなさい。せっかくのリサイタルを台無しにして、私また入院になりますよね。医療保護でもなんでもしてください。お願いします。」

槇原重子さんは、申し訳無さそうに言った。

「いえ、入院は、ご家族の同意が得られないと、こちらがなにかすることはできないんですよ。まずはじめに、あなたのご家族と面会しなくては。」

と、影浦が言うと、すぐに杉ちゃんが、

「入院させなきゃいけないかな。まだ、真蛇の状態にはなっていないようだぞ。ちゃんと人の話を聞いてるし、理由だって、ちゃんと話してくれたじゃないか。それに、注射を打つのだってちゃんと従ってくれたしさあ。」

と不服そうに言った。

「僕もそう思いますね。」

ジョチさんも、そう付け加えた。

「でも、家族に話したら、きっと入院させてくれとか言うと思います。病気に理解ある家庭じゃないので。」

重子さんはそう言うが、

「つまりお前さんは、帰るところが無いと言うわけだね。じゃあ、そういうことだったら、製鉄所に来たらどうだ?そこで、女中として働いてもらうんだ。ちょうど、製鉄所では女中がいなくて困ってるからさ。病院ではなくて、製鉄所で働かせてもらうということにすれば、家族も納得してくれるのではないのかな?」

と、杉ちゃんが言った。

「製鉄所と言っても、鉄を作るところではありません。居場所のない人たちが、勉強や仕事をするための部屋を貸し出す施設です。ときには間借りしている人もいますけど、大体の利用者は、日帰りで利用してますね。彼女たちも、傷ついている女性たちですから、あなたのこともすぐに仲間に入れてくれるのではないかな。それに、間借りしている磯野水穂さんも、優しい方ですしね。」

ジョチさんが、そう説明した。

「どうでしょうか。ちゃんとお駄賃は払うから、製鉄所で女中として、働いてみたら?」

「でも私、家事仕事なんてやったことないし。」

重子さんはそう言うが、

「大丈夫だよ。家事は、どんな身分の人間だって、一度は経験する作業だから。それを勉強させてもらうんだって思えば何も違和感ない。どうだ。製鉄所で、女中さんとして働いてみないか?」

と、杉ちゃんが言ったので、彼女は少し考えて、

「わかりました。どんな仕事でもやりますから、製鉄所と呼ばれる施設で働かせてください。」

と言った。

「製鉄所の行き方は、富士駅から、富士山エコトピア行のバスに乗っていただいて、エコトビアのバス停で降りていただければ結構です。そこから歩いて、1分程度のところにあります。エコトピアは、ゴミ焼き場と呼ばれたところですが、今は、観光施設になっています。併設されている温泉旅館に泊まりに来る方が多いので、エコトピア行のバスは、すぐに乗れます。」

ジョチさんが説明した。

「ありがとうございます。よろしくおねがいします。」

と、彼女は、ちょっと不安そうだったが、それでも、製鉄所で働くことに、同意してくれたようだ。

「じゃあ、明日からでも来てね。」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい。わかりました。」

と、槇原重子さんは言った。

それから、その翌日。杉ちゃんたちは、製鉄所の利用者たちと一緒に新しい女中さんを待っていた。そして約束の10時になったとき、

「こんにちは、槇原重子です。」

と言って、玄関先から槇原重子さんの声が聞こえてきた。

「おう、待ってたぞ。入れ。」

と、杉ちゃんが言うと、彼女は、製鉄所の建物の中に入ってきた。

「へえ、こんな和風の建物があるなんて、すごく面白いですね。この建物は、なにかそういう和の文化を意識しているのですか?なんか、古き良き昭和の古い家という感じですね。」

彼女は、製鉄所の建物をしげしげと眺めながら入ってきた。杉ちゃんに、こっちへ来てくれと言われて、食堂に入った。

「結構広い建物なんですね。ここ全部を掃除したら、半日かかってしまいそう。」

「お前さんにしてもらうのは、それだけじゃないよ。」

杉ちゃんはにこやかに言った。なんですかと槇原重子さんが言うと、

「だから、利用者の話し相手になってもらうことも必要なんだ。利用者さんたちは、みな傷ついていて、なにか話したい人たちばかりだから。それは、ちゃんとやってくれないと困るんだ。だから、鬱とか統合失調症とか、そういうものを持ってるやつがやりやすいわけ。」

と、杉ちゃんは言った。

「どんな人が利用しているんですか?」

重子さんがそう言うと、

「ええ今は三人の女性が利用しています。三人とも、今学校に行っていますが、それぞれ通っている学校も、学科も違うのですが、三人ともいじめられた経験がある女性です。」

とジョチさんが説明した。

「わかりました。その三人の女性の話を聞いてあげればいいのですね。」

重子さんがそう言うと、鶯張りの廊下の音がなった。誰が来たのかと思ったら、ヨロヨロとした水穂さんが入ってきた。

「水穂さんまだ寝ていたほうが。」

とジョチさんがいうが、

「いえ、新しく、女中さんが来てくださったというものですから。僕もご挨拶くらいしなければと。」

弱々しく言う水穂さんを、重子さんは驚いた顔で見た。

「はじめまして。こちらで間借りをしています、磯野水穂と申します。よろしくおねがいいたします。」

そう言って、静かに座礼する水穂さんは、げっそり痩せていて、着ている着物もブカブカで、男性では本来しないはずの、衣紋を抜いて着ているように見えた。

「新しい女中さんは、こいつの世話も頼むぜ。くれぐれも、こいつのせいで、もう辞めるなんて言うなよ。」

と、杉ちゃんは言った。重子さんは、

「わかりました。じゃあ、こちらでのお仕事は、まず建物の掃除と、利用者さんの話し相手になること、そして、水穂さんの看病をすることなんですね。」

と言った。杉ちゃんがすぐに、

「そうだよ。くれぐれも、水穂さんに音をあげて、もうやめようとか言わないでね。何人も女中さんを雇ったが、みな水穂さんに音をあげてやめているんだ。最長で、一月しか持たなかった。できるだけそれより長く勤めてください。」

と、にこやかに笑って言った。

「わかりました。介護の経験はあまりありませんが、私ができる限り頑張ってみます。」

覚悟を決めてくれたのか、槙原重子さんは、そういったのだった。

「私、槇原重子と申します。重子とよんでくださればそれで結構です。よろしくおねがいします。」

「槙原重子。」

水穂さんはなにか考えるような顔をした。

「なにか知ってることでもあるのかい?」

と、杉ちゃんが言うが、水穂さんはその答えを出す前に咳に邪魔されて、それはできなかった。重子さんがすぐに、

「水穂さん、もう疲れてしまっているのなら、横になって休みましょう。」

と、彼に肩を貸してやり、どうにかして立たせた。そして、水穂さんをなんとかして歩かせながら、四畳半に行った。そして、敷いてあった布団に水穂産を横にならせてやり、掛ふとんをかけてやった。

「水穂さんって、すごい難しい曲をやってらっしゃるんですね。私、なんとなくですけどあの本の作曲家を知っていますよ。確か、えーと、名前は、レオポルド・ゴドフスキー。」

重子さんは、気軽な感じでそんな話を始めた。

「ええ、たしかにゴドフスキーですが、どうしてその名前を知っているんですか?」

水穂さんがそう聞くと、

「はい。以前、ピアノを習っていた知人に、聞いたことがあるんです。私、琴とピアノのジョイントコンサートに出演したことがありまして。その時の、ピアニストの方が、ゴドフスキーの曲を弾いたと言っていましたから。と言っても、難しすぎて、挫折してしまったそうですけど。」

と、重子さんは答えた。

「そうですか。最近は体躯の良いピアニストもいますが、女性が挑戦するのは無謀な作曲家でもあるんですよ。」

水穂さんはそういうが、重子さんは、興味深そうに水穂さんの本箱にある楽譜を眺めていた。それはもしかしたら、洋楽に興味を持っているのではないかと思われる顔だった。水穂さんは、それを何も言わなかった。

「そうなんですか。でも今の時代、女性が大掛かりな作曲家の作品やるのは、あまり気にしないものですけどね。だって女性が、五段砧をやることだってあるんですよ。」

彼女はそう言っていた。杉ちゃんたちは、そのやり取りを、なんとか、雇えるかなという顔で聞いていた。







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