第10話「王子様?」
「――待たせたね、アカリさん」
アカリに迫る肥満体型の男。その横っ腹をドロップキックで突き飛ばした俺は、壁を背にへこたれるアカリにそう声を掛けた。
彼女が目を開けると、その瞳からボロボロと涙を流し出した。
恐怖に震えながらも、しかし、その表情に影はない。涙濡れの顔で一心にこちらを見つめる彼女は、安堵に満たされた表情だ。
でも――、
「間に合った、とは到底言えないか……」
俺が到着した時のアカリは、まるで大型肉食獣を前にしたウサギのように怯えていた。俺の助けが遅かった所為でそこまで追い込まれてしまったことは不甲斐ない。
それでも、今のアカリは嘘のように息を吹き返している。取り返しのつかない事態になる前……には間に合っただろう。ならば、いつまでも自責の念に駆られ続けるのではなく、彼女の無事を喜ぶべきだ。ちょうど通りかかった救急車には感謝してもし切れない。
さて、俺はアカリのこの顔を一度見たことがある。不良に絡まれていた彼女を助けた時だ。あの時も、安堵の中に恐怖が混じった表情をしていた。
今回はその時よりも安堵の色が増している。安堵が恐怖を優に凌駕しているため、状況を知らない人が見たら、まるで感動の再会を果たして涙が堪えられないかのように見えるだろう。
そして、あの時も彼女の目は希望に輝いていた。
今回はその時よりもずっと明るい。目に差す希望の光は、何倍も、何十倍も眩く輝いているように見える。
それが、アカリが俺に心を許してくれた証に思え、嬉しさのあまり思わずニヤリと笑ってしまった。
「おっと、いかんいかん――」
ニヤけている場合ではない。俺は気を取り直して、アカリを安心させるべく、優しい微笑を浮かべる。
イメージとしては普段のアカリの微笑だ。あれには人の心を優しく包み込む魔性の力が宿っているから。
すると、その笑みを見た彼女が、
「来てくれたんですねッ、王子様ッ……!」
それこそ、まるで王子様に恋する乙女のように頬を紅潮させ、そう言った。
――ん? ん? 王子様??
美しい泣き顔で何言ってるんだこの人は。
ともかく、今はこれでいいか。アカリに怖がられなかっただけ、いつかの不良退治のときよりはいい。いやむしろ、王子様に見えたならめちゃくちゃ嬉しい。
「……いや、おい、俺。さっきから雑念が多すぎるぞ。こんなんじゃあの太った男が――」
「お前ぁアカリちゃんを誑かした男だなぁ? おらぁぁ”!!」
呑気に惚気けている自分を窘めていると、案の定と言うべきか、肥満の男が怒鳴り声を撒き散らしながら殴りかかってきた。
「――おぉっと、危ないねぇ」
瞬時に振り向いた俺は、そう言いつつ余裕で拳を躱した。そして、勢いのままたたらを踏む男を改めて観察する。
一見すると、単なる長身の肥満体型に見えるが、実際はそうでないことが窺えた。
今さっき殴りかかってきた時、男は自分の体重を制御しきれずにたたらを踏んでいた。しかし、パンチの速度や重さ自体はかなりのものだった。あの鋭いパンチは、ある程度運動をしてきた人でないと放てないはず。
体重が原因で鈍重な動きになっただけで、動きの筋自体は悪くない。つまり、上に脂肪が乗っかっているだけで、元の体はしっかりと鍛えられた筋肉質であると見て取れる。
男はギロッとこちらを睨むと、
「おいお前ぇ、アカリちゃんとどんな関係だぁ!!」
「俺は友達ですけど、あなたこそアカリさんの何で?」
「友達ならデートなんてしないだろ!!」
「それはつまり、ねえ? そういうことですよぉ。まさか、僕の口から言わせるつもりですか? 嫌だ恥ずかしいわねぇ!」
茶化ような口調でそう言って、男の怒りを煽る。
「うだうだうるさい! このクソ野郎が!!」
すると、怒りが沸点に達した男は罵声を浴びせながら突っ込んできた。
「本当に、話の通じない奴だ」
ひと目見たときから察してはいたが、興奮した状態のこの男とは会話が全く成り立たない。
ともあれ、男の浅ましさを嘆いている暇はない。彼は拳を構えて駆けてくる。
一歩前まで迫った男が拳を振るう直前、俺は目にも留まらぬ速さで身を屈め、懐に潜り込んだ。下に躱されるとは思っていなかったのか、男は全く反応できない。
がら空きのみぞおち。その厚い脂肪の裏にある急所に向けて、力強く踏み込んだ脚を、膝を曲げたまま振り上げる。
男の体重と走る勢いが乗った胴体と、渾身の膝蹴りがぶつかり合う。
ボカッと人体がぶつかり合う鈍い音が鳴った。しかし、音とは裏腹に、衝撃は凄まじく、
――俺の脚が弾かれた。
「嘘だろ――!?」
俺は咄嗟に懐から後ろに跳び出し、間合いを取り直す。
「痛ってぇ……」
爆発的な負荷に耐えられなかったのか、股関節が痛い。
正直、あの膝蹴りを弾かれたのは驚きだ。並の人が食らったら、呼吸が数秒止まるか、嘔吐してもおかしくないほどの威力が込められていた。
ところがあの男。見ると、腹を擦りながら困惑した表情を浮かべている。おそらく、何が起こったのか認識できなかったのだろう。
男ほどの巨躯があればそれでも大丈夫なのだ。素早い動きに反応できなくとも、圧倒的な体格差と分厚い脂肪の層で、俺のような軽い攻撃はいとも容易く吸収されてしまうのだ。
「きついな……」
改めて、体格差のある相手との戦いの厳しさを実感した。この戦い方を続けては俺の体が先に壊れてしまう。
「流石に、趣向を変えるしかないか……」
大袈裟に肩を回してからファイティングポーズを取った俺は駆け出し、一気に男との距離を詰める。それを見た男は再び拳を構え、その場で迎え撃つ準備をしている。そのまま、男のパンチの射程範囲内に入り、互いに拳を正面から食らわせ合う――、
――寸前、俺は足を止めた。
男の振るった大きな拳が顔に肉薄する。視界の中心に丸い握り拳が迫り、しかし、ギリギリで届かない。
「え……?」
確実に拳が当たると思っていたのだろう、男は困惑の声を漏らす。
そして、突き出された拳が引き戻される前に、俺の手がそれに触れる。クイッと掌側を上に向けさせ、瞬間――、
――バキッ!!
骨が折れるような音が鳴り響いた。
「ああ”ア”ァ”ァ”ア”!!!」
遅れて、男の悲痛な叫びが町に木霊する。突然の大声に、電柱に止まっていたカラスがバタバタと飛び立った。
苦痛に表情を歪める男は肘を抱え、その場に膝を付いて蹲った。その肘を見ると、曲がってはいけない方向に折れ曲がり、血濡れの白い骨が服を突き破って露出している。
――作戦は成功だ。
「ふぅ……」
悶える男が戦闘不能になったことを確認した俺は吐息を付いた。
今の作戦は、『あの男は防御をしないだろう』と『いくら筋骨隆々、いや筋骨脂肪隆々でも、肘なら攻撃が通るだろう』という俺の希望的観測に基づいた、いわば博打の作戦だ。
男の間合いに自ら入るように見せかけ、実際は範囲外ギリギリで止まる。さすれば、男は自信満々に拳を突き出し、しかし当たらない。そこで致命的な隙が生まれる。
伸び切った腕。それを合気道の応用で捻って肘の内側を上に向けさせる。
最後に膝を振り上げ、肘を叩き折れば作戦は完了だ。
今の作戦は、失敗したら二度と通用しない一遍こっきりの作戦であったため少し不安だったが、狙い通り事が進んだことに一安心した。
ともあれ、今はもっと大切なことがある。
「アカリさん! 大丈夫でしたか?」
振り返った俺は、アカリさんの元に駆け寄る。しかし――、
「お前、こんなことして……許されると思ってるのか?」
後ろから、怒りが煮え滾ったような声が掛けられた。声の主は、もちろん肥満の男だ。
俺は足を止め、アカリさんと目を合わせると、彼女は一度コクリと頷いた。
それを、私の心配はいいから男の方に集中しなさいと言っているように見えた俺は、再度顧みる。
「何が言いたい?」
「突然蹴りかかってきてッ、挙げ句に骨まで折って、警察……呼んだら、お前逮捕されちゃうぞぉ?」
そう脅し文句を言う男は、時折肘の激痛に歯を食いしばりつつも、悪辣に口元を歪ませている。俺をハメたつもりでいるのだろう。だが甘い。
「ふっ、なんだそんなことか」
俺は不敵な笑みを浮かべてそう言う。すると、男は「何笑ってんだ!」と怒鳴ったが、そんなことは意に介さず、俺は自分の服の胸ポケットを指差す。男の視線も指を追った。
「これなんだと思う?」
その疑問が発せられたのと同時に、男の視線も胸ポケットに留まる。そこにあったのは、カメラ部分だけがピョコっと顔を覗かせたスマホだ。
「どうッ、見てもスマホだろぉ」
「そう。じゃあ、これで何してたと思う?」
「何って……、ハッ――!」
察しが悪い男はそこでやっと理解したようで、苦しげに顔をしかめた。憤怒を堪えようと反対の手にぎりぎりと握られた腕を見ると、肘を中心に出血が服を赤く染めている。
しかし、なんと諦めが悪いことか、男は苦し紛れの言葉を続ける。
「いや……、それでもッ、お前から手を出したのは事実だ!」
「それはそう。だけど、あなたがアカリさんに詰め寄っていたところはバッチリ撮ってある。殺気を撒き散らしながら迫るあなたは彼女に危害を加えかねなかった。だから、真っ先に二人をを引き剥がすために、
「だが! だがだが……、俺の肘をこんなんに――」
「蹴り飛ばされて激昂したあなたは殴り返してきた。会話の余地があったにも関わらず、あなたはそれを切り捨てて暴力で解決しようとした。だから、自己防衛として
「クソッ、ああ言えばこう言う……」
「まだ言いたいことはあるか?」
悔しげに唇を噛み、男は黙り込む。場を支配する、思わず息を呑んでしまうほどの刺々しい沈黙に、俺の内心は――、
「ヤバい! 勢い任せに適当なこと言っちゃった!」
――相当に慌てて動揺していた。
なぜなら、スマホのカメラの件も、つらつらと並べた
証拠映像など撮っていないし、正義の味方ぶった言葉も出任せ。男を騙すためにその場のノリと勢いで嘘を付いただけなのだ。
そのことを、今になって後悔している。
映像の証拠を見せろと言われたら詰むうえ、俺から問答無用で蹴りかかっておきながら、会話の余地があったと嘯いたのは流石に支離滅裂だった。
「頼むから、冷静に考えてくれるなよ?」
そんな無体なことを願いつつ、固唾を呑んで男の動向を見守る。
「――れ」
「……なんて?」
俯いたまま動かなかった男が、遂に口を開いた。しかし、発せられた声は、風によって運ばれた枯れ葉の擦れる音に掻き消された。それほど小さな声だった。
「黙れ……」
男が再び紡いだ言葉はそれだった。
またもや、小さく昏い声。闇に覆われたその声の裏に、しかし、沸騰するほどの熱量を持った何かが隠しきれていなくて……、
――俺は気が付いたら走り出していた。
そして、嫌な予感は的中した。
「黙れッ! 僕とアカリちゃんの愛を邪魔するなッ!!」
声高に叫んだ男は勢いよく立ち上がりながら、折れていない方の腕を振りかぶる。そして、その手に握られた掌大の何かをその剛腕で投げる。
その何かが猛烈な速さで飛んでいく直線上、そこにいるのは俺……ではなく――、
「アカリさんッ!」
壁際に座り込むアカリだ。
突然の豪速球を彼女が咄嗟に避けられる訳もなく、その場で体を硬直させグッと目を瞑る。
回転する何かが風を切りながら凄まじい速度でアカリさんに迫り、そのまま美しい肌を抉って血飛沫が飛ぶ……はずだった。
横から飛び出してきた手が、それを弾かなければ。
嫌な予感がした俺は瞬時にアカリに駆け寄り、サッカーのゴールキーパーの要領で跳んで手を伸ばしたのだ。
結果、投げられたそれ――スマホに寸前のところで手が届いた。
「な――ッ!」
驚愕の声が漏れる男の手前、弾かれたスマホが軽い音を立てて道路に落ちる。同時に俺も頭から地面に突っ込みそうになるが、先んじて片手を付いて受け身を取った。
「――――」
乾いた風が吹き、場の雰囲気が変わった。
俺はゆっくりと立ち上がり、男の方に歩いていく。男はそれを見ると、腰が抜けたような覚束ない足取りで後退り、遂には尻餅をついた。
壁際に縮こまり、こちらを見上げる男の顔に浮かぶものは恐怖だ。純粋な恐怖だ。
目を見開き、顎をガクガクと震わせる体たらくは、例えるならば、残虐な巨人を目の前にして死を待つ矮小な人間のそれ。
その男の上、そこが遥かな高みだと錯覚を起こす場所から、殺伐とした空気に不相応な、平坦な声で問いが掛けられる。
「なぜ、自らの愛する人を傷つけようとした」
「お、俺は、ぁ、アカリちゃんに傷がついてても、愛せるからだッ」
「――。愚かな奴だ。傷ごと愛すことと、自ら傷つけることを混同するとは――」
無慈悲な死神の言葉が世界に紡がれたのと、男の意識が消失したのは同時だった。
バタリと何かが倒れる音がし、怒りに任せて動いたことを反省する少年と、その背中を見て目を輝かせる少女だけが残った。
赤のユーリ 馬刺良悪 @basasinoyosiasi
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