第9話「臆病者なりの抵抗」
――男は、私のストーカーだ。
ストーカーされることは初の経験だから……。いや、こと今回に関しては話は別だ。初めてだろうが何回目だろうが、ストーカーされることは変わりなく恐ろしい。
一方的に知られ、一方的に覗き見られ、一方的に後を付けられ、一方的に話しかけられ、一方的に愛をぶつけられることは、想像の何倍も怖く、気色が悪い。
しかも、その相手はオークのような巨体だ。私よりも体が遥かに大きく、力で勝てるはずもない。
この男がやろうと思えば、私など簡単に力で捻じ伏せられ、そのまま襲われるのだ。想像するだけで身の毛がよだつ。
そんな男が過去に二度、その醜い顔面を下卑た笑みで歪めながら話しかけてきた。どちらの時も、緊張と不快感で常に吐きそうだった。
この男とだけは、二度と会いたくないと願った。
――だが、なんと冷酷なことだろう。世は時として、何食わぬ顔で不条理を突き付ける。
私の願いは聞き届けられなかったようだ。こうして再度、彼と相見えることになったのだから――。
男は、私の後方にある脇道から顔を覗かせていた。
今まで彼と邂逅した時は二度とも、前触れもなく目の前に現れた。それ故、気付いた時には既に手遅れであり、その場を脱することは出来なかった。
けれども今回は、声を掛けられる前に男の追尾に気付くことが出来た。それに加え、私が振り向いたのはほんの一瞬。私に見つかったことは、流石に男も気付いていないはずだ。
これは、今からでもこの窮地を逃れられる可能性が出てきたことを意味する。まさに不幸中の幸いだと言えよう。
私は鼓動が速くなるのを感じながら、進む足を速める。
「まずは、助けを呼ばなければ――」
そう思い、スマホの連絡先を開く。
――とはいえ、助けを呼べる相手は限られている。私が素直に恐怖を打ち明けられる相手など存在しないため、ここは妥協するしかあるまい。
嫌われることを覚悟の上で呼べるのは、両親と……あとはコウちゃんくらいしかいないか。
だが、両親はふたりとも出張で、今夜は帰ってこないと言っていた。ならば、両親は駄目だ。
「次は……」
コウちゃんの連絡先を探そうと、メッセージの一覧を開いた時。偶然、別の人の名前が目に入った。
「ヤマト……。彼なら……、大丈夫かも」
即座にメッセージを開いて『あの』と送り、助けて欲しいという旨の文章を打ち込んだ。
そして、人差し指を送信ボタンに近づけ……、その指が、
――止まった。
画面から一センチほど離れた位置で、ピタリと止まった。
未だ、指は画面を押そうとしている。力んでいる。プルプルと震えている。
だが、不思議な力が働き、逆らっているかのように。同極の磁石同士が反発するかのように。ギリギリのところでせめぎ合って、互いが互いに触れない。
まるで、指と画面の間に見えない壁があるかが如く。
私とヤマトの間に、見えない壁があるかが如く――。
程なくして、指は送信ボタンから離された。
結局、送信できなかったのだ。
震える指は文章を消去し、手元を狂わせながらも別の文章を打った。
『やっぱりなゆでもないです』
――私は所詮、臆病者のままだった。
---
黄色に染まった住宅街が後ろに流れていく。
結局、助けを呼べる相手は見つからず、私はひたすら急ぎ足で逃げていた。
実際には一分ほどしか歩いていない。だが、緊張感からもっと長い時間歩いていたように感じる所為か、体は疲労で喘いでいる。肩で息してしまうほど呼吸は荒いし、冷たい汗が額を伝っていくのが分かる。
ただ、男は追ってきていないようだ。歩きながら頻りに背後を振り返ったが、男が追ってくる様子は捕捉出来なかった。仮に追ってきていたとしても、既に振り切っただろう。
「でも……、大丈夫だよね?」
それでも不安は拭いきれず、私は念には念を入れ、改めて背後を顧みる。そこにあったのは何の変哲もない住宅街と、黄色く染まった空だけだ。
「ふぅ……、良かったぁ」
男が居なかったことに安堵し、ホッと胸を撫で下ろした。そして、前を向き直し、
――ドンッ!
頭から何かにぶつかった。私の体は弾かれ、反射的に目を瞑りながらたたらを踏んだ。
それは柔らかかった。それは暖かかった。それは表面に布があった。
それは毛布か? いや違う。
それは贅肉のようにムニッと柔らかかった。それは人肌のように暖かかった。それは服を着ていた。
そう。それは、――人の腹だった。
前方に注意していなかった私は、誰かの腹にぶつかったのだ。
「……まさか。そんなはずがない」
私は咄嗟に浮かんだ自分の考えを否定する。だが否応なしに、ぶつかった人が誰なのかは確認せざるを得ない。
瞑っていた目を開き、おっかなびっくり顔を上げる。目の前に立つ人を足元から順に見上げると、
ダボッとしたズボンを履いた太い脚。ブニッと突き出されただらしない腹。ガッチリと鍛えられたであろう筋肉質な肩周り。
そして、メガネを掛けた、この世で最も醜い顔面。
ストーカー男の御出座しだ。
「――ッ!!」
私は目を見開いて驚愕した。あってはならない事態に、頭の中は大パニックだ。
何故、男がここにいるのか。逃げたことはバレたのか。私はどうするべきか。今すぐ逃げるべきか。
疑問と焦りは湧いて止まらない。だが、それらの考えに呑まれないようにしながら思考する。
過去に二度、男と出会ったときは、向こうが一方的に訳の分からない話をしてきた。私は震えながらも、それにうんうんと頷いていただけだった。まともに受け答えされなくとも、終始、彼は笑みを浮かべて楽しそうにしていた。暫く喋ると話に満足したのか、「またね」と言って立ち去った。それでその場は終わりだった。
今回もそうだとしたら、私はちゃんと受け答えをする必要はない。ただ黙って、男の話を聞き流すだけでいいのだ。そうすれば、彼は自ずと立ち去る。
「――よし、それだけならできる」
私は緊張していることを悟られないように自然な表情を作りながら、男の口が開かれるのを待つ。
すると、冗談を言うような口調で、ねっとりと汚い声が掛けられた。
「アカリちゃん――」
ゴクリと固唾を呑んだ。その音を、どこかを走る救急車のサイレンが掻き消した。
「――なーぁんで僕から逃げるのかなぁ?」
ハッと息を呑んだ。世界から音が消えた。男は、私が逃げたことを知っていたのだ。
冷や汗が止まらない。どうすればいい。言い訳すればいいのか。
呼吸の止まった私のすぐ目前に、男の顔が迫った。その時初めて、男の顔をまじまじと見た。そこに浮かぶ表情を見て、
――背筋が凍てついた。
そこにあったのは、二度と見たくないと願った、ご馳走を見るような下卑た笑みではない。
そこにあったのは、怒りだ。滾る憤怒だ。
男の醜く歪んだ顔は、怒りで更に歪んでいた。私が逃げ出したことに、憤慨しているのだ。
怒りに顔をしかめながら、男は言葉を続ける。
「それに、今日一緒に居た男の子はだぁれ?」
明るい声色でそう言う男は、空気が痺れるほどの怒気を放っていた。
――私は自分の考えの甘さを呪った。男は、今日のデートまでもを目撃したのだ。
彼は都合の悪い真実を全て知っている。その上で私に迫ってきているのだ。
「こんなの、もうどうしようも無いじゃない」
彼の目から見れば、私は他の男とデートをした挙げ句に、自分のことを露骨に避けていることになる。そのことに、嫉妬と怒りを覚えたのだろう。
嫉妬に狂った人間は甚だしく危険だ。何を仕出かすか知れたものではない。そのことは目の前の男が現に証明している。
「ああ、もう駄目かも……」
男から放たれる凄まじい怒気に、風前の灯火であった私の勇気は、最早吹き消されかけている。恐怖が電撃のように全身を走り、私は体の芯から戦慄した。
――ピーポーと救急車の音が近づいてくる。
私はここまで、平和的にこの場をやり過ごす方法を探ってきた。だが、男の様子を見るに、それもここまでのようだ。
私は覚悟を決め、鞄の奥底に仕舞われたそれを取り出した。そして、それに付いたボタンを押し、
――ピピピピピピピピッ!!!
私はガクガクと震える膝で走り出した。
それとは、そう、防犯ブザーだ。男に目を付けられ始めたことで、怖かった私は念のために買っておいたのだ。まさか、これほど早くに使う時が来るとは思っていなかったが、ともかく買っておいて正解だった。
「おい! 逃げるなぁ!!」
男は怒りを露わに、声を荒らげて追いかけてくる。その声が聞こえるたび、恐怖で足が竦んでしまう。
きっと、彼のほうが足は速い。このままでは、すぐに追いつかれるだろう。
だが、それでも誰かが。誰かが一人でも、防犯ブザーを聞いて不審に思い、顔を覗かせてくれれば私は助かる。
私はその希望に縋って走り続けた。
すると、希望が希望を呼んだのだろうか、直後に別の希望も降って湧いた。
私のポケットの中で、スマホがブーブーとバイブレーションしているのだ。これは電話が掛かってきたことの通知音だ。
電話に出るため、私はポケットに手を突っ込んだ。だがその瞬間、
「アカリちゃん! 止まれぇ!」
怒気を撒き散らす男の怒鳴り声が耳に入った。しかも、すぐ真後ろからだ。思いの外迫られていることに気が付き、私は慌ててしまった。それ故、手がもたついてしまい、スマホを取り出すのが遅れた。
引っ張り出されたスマホ。電話の相手が誰なのかも確認せずに、私は応答するためのボタンをスライドする。
――寸前。胴に何かが巻き付けられ、瞬間、腹部に重い衝撃が走った。
「おぁッ――!」
私は上体がくの字に曲がり、体勢を大きく崩す。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。しかし、すぐに理解した。
追いついた男は私の腹部に腕を回し、後ろに引っ張ったのだ。
男が体重を乗せて引く力は重く、私の走る勢いは一瞬で殺された。私の体はすぐに腕から抜け出しはしたが、倒れないように堪えるので精一杯で、スマホを握り続けることは出来なかった。
慣性の法則に従い、止まった私と進み続けるスマホ。
時間が引き伸ばされた世界の中、スマホは掌から指先へと滑り、やがて足場を失う。
同時に、その奥で、横道からピーポーと煩い救急車が横顔を覗かせた。
放り出されたスマホが、ひらひらと回転しながら宙を落ちてゆく。必死に手を伸ばすが、もう届きそうにもない。
その奥、救急車はサイレンの音を一段低くすると、そのまま横切り、勢いよく過ぎ去っていった。
時間が緩やかに流れる世界の中。私は、希望が地に転げ落ち、目の前から消え去る瞬間を見た――。
やがて、スマホは道路に落ち、カラコロと音を立てて跳ね転がった。救急車の残した風が、遅れて顔に吹き付けた。
いつの間にか、防犯ブザーの音は止まっている。私は最後に光る微かな希望に縋り、周りの家々を見渡した。
――だが、忘れてはならない。世の中はどこまでも冷酷で、理不尽で、不条理であると。
私の危機を察知して顔を出した住民は、誰一人として居なかった。
――希望は失われ、あるものだけが残った。
それは窮地から希望を取り除いてもなお残るもの。希望と常に表裏一体のもの。
それはすなわち、
――絶望だ。
---
壁を背に、地面に座り込む私。その正面で中腰になり、私の顔を覗き込む男。
絶望が場を支配し、力尽きた私はフラフラと壁際に倒れ込んだ。
この時に逃げるという選択肢もあったが、それを実行に移す程の気力は最早残されていなかった。
男はドスドスと足音を立てて移動すると、私の正面で中腰に屈んだ。怒りに息を荒くしながらも、どこか安心したような表情を浮かべているように見える。
「アカリちゃん、なーぁんで逃げたの?」
男はドブのような声で、甘ったるい口調を放った。男の雰囲気と、表情と、口調があまりにチグハグでどこか不気味だが、気色が悪いという程ではない。
「やっぱり、あの男の所為かなぁ?」
そう言った男の声色には、隠しきれない憎悪が含まれていた。
――そんなに怒らないでよ……、ね?
「あの男に何を吹き込まれたか知らないけど、もう逃げちゃ駄目だよぉ? 分かったぁ? 僕本当に不安だったんだからねぇ? 嫌われたんじゃないかって。でも良かったぁ。またこうしてお話ができて」
男の表情から怒りが薄まり、次第に恍惚とした色が増していく。
「アカリちゃんのこの笑顔が見れない生活なんて考えられないからぁ。また見れて嬉しいよ僕! アカリちゃんの笑顔が、僕の生きる源なんだからぁ。いつもありがとね。もう感謝してもし足りないよぉ。あ、そうだ。覚えてる? 僕が覚えてるからアカリちゃんも覚えてると思うけど、僕たちが会うの、今回で12回目だよ! あっという間だよねぇ。この短い間でここまで仲良くなれたのは、やっぱり運命だと思うんだ。アカリちゃんもそう思うでしょ? ああ! そうだよね!! やっぱりそうに決まってる!!」
――そっか、会うの12回目だったのね……。忘れてたよ……。
男は立ち上がり、演説でもするように両手を広げる。
「ああああ!! 僕たちの愛は最高だよ!! 僕たちの愛は誰にも止められない!! 僕たちは運命の糸で繋がってるんだから! 僕たちはいつまでも一つだよ!! だから――」
――さっきから何を言ってるの? まあ、なんでもいいか……。
「――僕たちの愛は、誰にも邪魔させない!!!」
男は天を仰いでそう叫ぶと、一気に詰め寄ってきた。先程までの心酔した様子とは打って変わり、凄まじく剣呑な雰囲気を放っている。
私は反射的に目を瞑った。そうしなければマズいと本能が感じたのだろう。
「なのにアカリちゃん……、あの男と一緒にいたってことは――」
そう囁いた男の吐息が顔に掛かって、湿っぽいけど暖かい。なんだか心地良い。
「――あの男を選んだの?」
「――ハッ!?」
男の声が耳に入った途端、目が醒めた。
暗く、低い声だった。闇が声を持っていたらこんな声だろう。そう思うほど、その声からはドス黒い負の感情が迸っていた。
殺気とも取れる、半端でない負の感情を浴びたことで、本能が意識を呼び覚まそうと警鐘を鳴らしたのだろう。本能に叩き起こされるように、私の意識は半ば無理やり覚醒した。
「――ッ!」
男の顔面は、頭ひとつ分ほどしか離れていない位置にまで迫っている。けれども、その不快感よりも、恐怖感の方が圧倒的だ。
私は体の奥底から震え上がった。目前に迫る男から放たれる威圧感は計り知れない。まるで、鼻先でトラに牙を剥かれて威嚇されているかのようだ。
「そんなことは絶対許さないからね?」
――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! 近づかないで!!
叫ぼうとするが、喉がガクガクと震えて声にならない。
どこまでも激しく、加速する鼓動。胃を握り絞られるような、苦しい吐き気。視界が歪み、目が回るめまい。
回転する視界の中。男の目は真っ直ぐに私の目を睨んでいる。そして、憎悪と嫉妬に毒された顔がゆっくりと、ジリジリと近づいてくる。
――来ないで!! 気持ち悪い!!
豚のように醜い顔面がゆっくりと、ジリジリと迫ってくる。その眼力に耐えられず、私はギュッと目を瞑った。
――ああ、もう駄目なのかな……。
顔が近いのが分かる。
――メッセージで、助けを呼べばよかった……。
――尚早に安心せず、もっと逃げ続ければよかった……。
――もっと早くに。声が出なくなる前に、大声で助けを叫べばよかった……。
――私は最後まで、臆病者だったな……。
湿った息が顔に触れた。
――ああ、最後に。最後に願いが叶うのならば……、
スーッと、息を吸う音が聞こえた。
「――助けて、王子様ッ!」
――ドカッ!!
その瞬間、骨と肉がぶつかったような鈍い音とともに、凄まじい風圧が顔に吹き付けた。その直後、バタリと、誰かが地面に倒れるような音がした。
突然のことで、私は動くことが出来なかった。
だが、この瞬間、私は確信した。
私はこの感覚を知っている。
これは、一度味わったことのある感覚だ。
これは、私にとって忘れられない、大切な感覚だ。
これは、もう一度起きて欲しいと、星にまで願った感覚だ。
これは、これは……!
だから、途端に体の内からいろいろなものが込み上げてきた。
だから、躊躇なく目を開けることが出来た。
橙色の光が煌煌と反射する、滲んだ視界。そこに映ったのは、太った醜い顔面の男ではない。
「――待たせたね、アカリさん」
斜めに差す夕日に照らされた、スラリと背が高い黒髪の少年。
「来てくれたんですねッ――」
その堂々としつつも、優美な立ち姿だった。
「――王子様ッ……!」
私の口の中は、涙の味でいっぱいだった。
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