第7話「赤崎アカリ・前編」

 ※改変済み


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 ――いつだっただろうか。私――赤崎アカリが『ちゃんとした人』になろうと思い始めたのは。


 私の家は、両親が教育にとても厳しかった。父は大企業の幹部で、母は総合病院の外科医。そんな優秀な両親の間に産まれた一人娘であった私は、幼い頃から大きな期待が掛けられてきた。


『アカリは、パパやママみたいに、ちゃんとした人になりたいでしょ? じゃあ、たーぁくさんお勉強しないとね!』

『アカリちゃんは頭がいいから、大丈夫。ちゃんとした大人になれるよ! さあさあ、お勉強の時間だよ!』


 私が5歳だった頃の、両親の言葉だ。彼らは、良い学校を卒業し、良い就職をし、あらゆる面において不自由なく生活することこそが、最上の幸せだと信じている。それ故、私は物心付く前から、小学校に入学してから苦労しないようにと、先んじて語学や算数を教えられた。その後も、将来、どこに出てもやっていけるようにと、予め様々な教育を施された。


 月並みな言い方をすれば、両親は私のために人生のレールを敷いてくれていたのだ。

 もっとも、それは世間一般から見れば、甚だ厳しいものだったが。本来の年齢のそぐわない高等な教育を我が子に強制するものだったからだ。


 しかし、私はそれを何ら大変だとは思わなかった。


 ――私は、容易に出来てしまったからだ。


 語学も算数も、5歳も年上の人が習うような内容を、難なく熟すことが出来た。私は、生まれつき頭がいい――天才の類だったのだ。


 私は両親の敷いたレールを、一歩もはみ出さずに進んでいった。彼らの理想を体現するように、ちゃんとした人への道を歩んでいった。それが悪いことだとは思わなかったし、それ以外の道を知らなかったため、当然と言えば当然かもしれない。


 その道は、安全そのものだった。誰もがぶつかるような障害は全て、予め撤去されていた。お陰で挫折も失敗も、何一つ経験することなく成長していった。



 ――きっとその所為だろう。私が臆病者になったのは。



 人間は未知の事柄に対して恐怖を感じる生き物だ。しかし、個人差はあれど、大抵の人間はいつかの年齢で未知・未体験の出来事と対峙する。それをその人なりの方法で乗り越えることで未知への対処法を学び、未知への恐怖が薄れるのだ。


 だが、私は、越えられない壁にぶつかることなく生きてきた。必然、壁にぶつかった際に、それを解決する術を知る機会も巡ってこなかった。


 故に、私は壁にぶつかること――レール通りに進んできた自分が経験したことのない事態に見舞われることを恐怖した。例えば、誰かに嫌われることだったり、思考を理解できない類の人間と関わることなどだ。


 人に嫌われたくないという思いは、私が今まで尽く、周りの人の期待に応えてきたが故のものだ。


 幼かった頃の私への期待の対象は、殆どが勉学であった。そのため、勉学なら容易く熟すことが出来た私は、完璧に彼らの期待に応えていた。

 ところが、成長していくに連れて、要求されることは変化していく。得意な勉強さえちゃんとやっていればよかった生活から、それ以上のことが求められる生活へと変わっていったのだ。

 

 私は、期待されていること全てに応えることが出来なければ、期待外れだと失望され、見捨てられてしまうのではないかと思った。『ちゃんとしてない』私は嫌いだと言われるのではないかと思った。それが心底怖かった。


 だから、求められた全てに応えようと試みた。そのために、今までにしたことないほどの努力を重ねることになった。


 しかし、それでも出来ないことは私にだってある。

 私の場合は、


 ――コミュニケーションだ。


 幼少期の全てを勉学に費やし、同年代の友達との関わりが薄かった私は、かなりのコミュ障だった。


 学年を重ねるに連れて、否応なしに人間関係が増えていく学校生活。その中で私がコミュ障であるという情報が広まれば、周りの人は皆私を見限り、離れていくだろうと思った。


 それは怖い。嫌だ。


 今更失望されて、突き放されるなどと想像するだけで胃がキュッと握られる。


 それだけは避けるために、私は『ちゃんとした人』にならなければいけないのだ。


 しかし、だからというだけで、苦手なことが消えてなくなるほど世の中は甘くない。とことん苦手なことは、何をしても出来るようにはならないのだ。


 だから、逆転の発想だ。


 私は仮面を被ることにした。



 ――『微笑』という仮面を。



 そう、自分の欠点を消せないのならば、隠して見えなくすれば良い。


 臆病者らしい、本質から目を背けた愚かな考えだと嗤ってくれて構わない。


 だが実際、笑顔は最強のコミュニケーションツールだ。笑顔でいるだけで、周囲の雰囲気が明るくなる。別け隔てなく笑顔を振り撒けば、皆の気分が害されることはなくなり、私に敵意を持つ存在は生まれなくなる。

 それに、常に笑顔を保つことで、強い自分を演じることが出来る。物事に動じない、頼りになる人だと認められれば、他人より下に見られることはない。そうすれば、蔑まれることも、仲間外れにされることもない。


 笑顔に加え、会話のテンプレートも作成した。口頭でのコミュニケーションが特に苦手だった私は、よく聞かれる質問に対する当たり障りのない回答や会話の広げ方、流行中の物事を調べ上げ、誰が相手でも会話が成り立つように努力した。


 こうして私は、自分の欠点と弱さを、『微笑』という仮面を被ることで隠した。これで私が嫌われることはなくなり、『ちゃんとした人』として認識されるという一石二鳥だ。


 ただ、恒常的に笑顔を保ち、全員に対して平等に接することは、言葉で言うほど容易いことではなかった。特に、中学に上がった頃、父が転勤を繰り返すようになってからだ。

 毎年のように転校し、新しい環境に適応しながら、笑顔と会話に意識を割く。常に気を張っていなければならないこれらの行為は、想像よりもずっと疲れることだった。


 次第に、仮面を被ることが精神的なストレスとなっていった私は、いつの間にかこう思うようになっていた――。



 ――何も考えずに、誰かに守られるだけの生活が出来たら、どれだけ楽だろうか。



 言ってしまえば、単なる現実逃避だ。だが、当時から私は夢見がちな少女のようなことを、真剣に考えるようになっていた。


 一人では超えられない壁にぶつかって途方にくれる私を、颯爽と現れた白馬の王子様が助けてくれて、一生守ってもらいながら生きていく。そんな御伽噺のような夢物語が、我が身に起きることを切望した。


 私の弱さを曝け出すことが出来る相手に全てを委ね、何も考えずに生きていく未来を。


 本気で、心から願った――。



---



 ――転校先への初登校前日。その日は、真夏のように蒸し暑い日だった。


 近所のショッピングモールを見て回っていた時だ。私は別館に行こうとして迷子になり、建物に隣接する廃駐車場のような場所を通った。すると、そこに屯していた不良少年らしき男四人に声を掛けられた。


「嬢ちゃん! かわいいねぇ!」


 私が今まで住んでいた場所はどこも高級住宅地で、不良と遭遇することなど一度もなかった。そのため、不良に声を掛けられることは、未知の経験だった。

 恐怖した私は彼らを無視し、避けるように壁際まで離れてその場を後にしようとしたが、


 ――ガシッ!


 後ろから肩を掴まれ、私の背筋を戦慄が駆け抜けた。振り向くことすら怖くて、震えながら硬直する私の耳に嫌らしい声が入る。


「――嬢ちゃん。今、暇かい?」


「――――」


 私は答えられない。恐怖に声帯が縛り上げられ、声を出そうとしても出ないのだ。


「今から俺たちと遊ぼうよぉ!」


 私は答えられない。現状を変えなければと焦り、今すべき言動を考案するが、焦燥感が更に頭を真っ白にして思考を遅らせる。


「ねえねえ、無視しないでよぉ~」


 そう言うと、肩を掴んでいた男が、私を押して壁に追いやる。壁を背に逃げ場を失った私は俯き、ギュッと目を瞑った。


「なあ嬢ちゃん、ちょっとだけでいいから、一緒に来てくれよぉ!」

 

 男が大声で言うと、何かがゆっくりと顔に迫る感覚がした。次の瞬間、口を開けない私の頬に生温い息が舐めるように触れた。

 あまりの不快感と恐怖に身が震え上がる。男がそれほど顔を近寄せているのだろう。想像するだけで、全身に鳥肌が沸き立った。

 そして、男は私の耳元で囁く。


「……なあ、いいだろ?」


 ――嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。


 思わず目が見開き、叫び出しそうになったが、喉が引き攣っていたため掠れ声が抜けただけだ。吐き気を催すほどの緊張に目が眩み、バランスを崩して倒れそうになったが、それすら許さないほど体がその場に張り付けられている。まるで、鎖で縛られているかのように。

 地面に向かって目を見開き、唖然として固まる私が、次に起こることを想像して恐怖したその時。


「ショウタさん、なんか来てますよ」


 先程までの男とは違う男の声が耳に入った。


「あ? 誰だ?」


 そう言って、男は顔を離したが、安堵はしない。誰かが来ているということは、彼らの仲間が増えるかもしれないということだ。最悪の想定を恐れて、私は目を力強く瞑った。

 しかし――、


「おい……。お前、ヤマト……だよな?」


「そうですが、俺をご存知で?」


 私は驚いた。先程まで威勢よく迫ってきた男の口調が、怯えたように弱々しくなったからだ。


「やっぱりそうか、ごめんなさいごめんなさい! 何でもするから許してくれ!!」


「え……?」


 新しく来た少年からは驚きの声が漏れてしまった模様だが、俯いたまま反応しない私も内心では同感だった。男が突然謝り出すなどと誰が予想できる。

 ただ、同時に、私の中をとある考えが支配した所為だろう。私の驚きは激流に流されたようにサッと消え去った。

 その考えとは、



 ――白馬の王子様が、私を助けに来てくれたのだ。


 

 後から思えば、酷い希望的観測だった。予想が外れていたらどうなっていたことやら。想像もしたくない。しかし、思考力が大幅に低下していた当時の私は、その願望とも言える可能性に縋ったのだと思う。少年は私を助けに来たのだと信じてやまなかった。


「お前の女だとは知らなかったんだ! 本当だ! だから頼む! 殴るのだけは勘弁してくれ!!」


「ん? 俺の女? って、ああ――」


 少年と男の会話を他所に、心底から安堵感が湧き上がる。


 ――良かった……。私は助かるのか……!


 溢れんばかりの安堵感は恐怖と緊張を押し流すように解きほぐし、涙となって滝のように流れ出した。しかし、緊張の拘束から開放された私はなおも動かない。


「ああそうだ、彼女は俺の女だ。二度と彼女に近づくんじゃねえ。分かったらさっさと消え失せろ」


「はいぃぃ、すみません!!」


 男たちが走り去る足音が聞こえ、更に安心の波が高まる。涙の勢いは収まるどころか増すばかりだ。お陰でコンタクトレンズが目から流れ出てしまった。もともとの重度の近視に加え、滲んだ涙による視界の霞みで、視界はさながら水の中だ。


「大丈夫ですか? お怪我とかないですか?」


「――――」


 前に立った少年に優しい声を掛けられた。けれども、私は俯いたまま答えない。


 理由は単純。怖いからだ。仮面の下の顔を見られることが。

 私の弱さを目の当たりにした時、彼はどう思うだろうか。幻滅するだろうか、失望するだろうか、情けないと思うだろうか。


 答えてしまったら、泣いていることが気付かれる。さすれば、彼は間違いなく私の元を去っていくだろう。それだけは避けるために、私は仮面を被り続けなければならない。


 私は泣き止んでから顔を合わせたい。そのために、嗚咽を極力抑え、必死に涙を止めようと試みるが、止まる気配は一向に見られない。

 すると、


「あ、あなたを勝手に『俺の女』とか言ってすみません」


「い、いえ……! 大丈夫……です」


 彼は少し勘違いをしたようだ。しかし、優しい人だ。そんなこと気にしないのに。むしろ、『俺の女』と言ってくれたことが嬉しいのに。

 私は声が涙ぐまないように答えたが、どうしても震えてしまった。



 ややの沈黙が続くと、少年は何を考えたのか、踵を返して歩き出してしまった。


 まずいと思った。このまま行かせては、少年の顔を見ることも名前を聞くことも、感謝の言葉を伝えることすら出来ない。色々聞きたいこともあるのに。

 しかし、まだ涙濡れの顔を曝け出すことも怖い。


 脳内で恐怖心と好奇心が激闘を繰り広げている。互角の戦いだ。


 ――どうしよう。このままでは白馬の王子様が行ってしまう!


 私は逡巡し、数秒ほど悩んだ結果。


「あの……!」


「――――」


 恐怖と不安を抑え込んだ。


 私は勇気を絞り出すようにして声を掛け、顔を上げた。すると、5メートルほど先で立ち止まった少年は何も言わず、肩越しに振り返る。


 細身で高身長。顔はぼやけて見えないが、きっと格好いいのだろう。端麗で爽やかな顔立ちの少年の姿が目に浮かんだ。

 そして、何より目立つのは彼の髪色――白色だ。若干赤みがかっている気がしなくもないが、なんとも美しい白色。


「きっと彼が、白馬の王子様ならぬ、白髪の王子様なのだ」


 私はそんなことを思った。


 視線が交わる私と少年。私は顔の見えない少年に見惚れていた。ずっとこのままでいたいと、しみじみ思った。

 しかし、


「はぁ……」


 途端に、少年が溜息を付いたのだ。私はその音で我に返り、思い出す。


「そういえば、私の顔、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった……」


 彼は幻滅しただろう。危惧していた通りだ。


 しかし、不思議と恐怖はない。予想通りの反応だったからか、それとも私が必要以上に怯えていただけだったのか。どちらにせよ、踏み出す前は身が怯むほど恐ろしいことだったのに、一歩踏み出してみたら、案外怖くなかった。


 ただ、そうなると、今度は別の感情が湧き出してしまった。


「こんな顔見られて、恥ずかしい……!」


 ――羞恥だ。


 恥じらい。それは、長い間に亘って完璧を演じ続け、他人に自分の情けない姿を隠してきた私には無縁だった感情。しかし、久方ぶりにあられもない姿を見られた私は、猛烈な羞恥心に襲われていた。

 

 耐え難いほどのムズムズした感覚が内から湧き出し、居ても立っても居られなくなった私は一言、


「あっ、ありがとう……ございました」


 とだけ早口で言い、服の袖で顔を拭った。そのまま袖で顔を隠し、踵を返してそそくさとその場を後にしようとした。


「えっ、いやっ……」


 後ろから少年の呼び止める声が聞こえたが、振り向かずに立ち去った。


 ――立ち去る時の気分は、案外悪くないものだった。


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