第5話「力」

 ――翌朝。


 秋の訪れを伝えるカラッと乾いた、涼しい風が吹き抜ける教室。


 その窓際の席に、黒髪を風になびかせて佇む男がいる。机に頬杖を付いている彼は、先程からずっと、一点をジッと見つめている。

 彼の視線の先には一人の少女がいる。燃えるような赤い髪が鮮麗で、思わず見惚れてしまうほど美しい少女だ。声は届かないが、男女五人ほどの生徒たちに囲まれて談笑している。


 その様子を見る黒髪の顔に浮かぶ表情は複雑だ。恍惚としているような、嫉妬しているような、愛情と憎悪が混じり合った表情だ。しかし、それを他人に悟られたくないのだろう、彼は無表情を作ろうと努力している。ただ、無表情にはなりきれていない。時折、感情が顔を覗かせてしまっているためだ。

 結果的に、表情の至る所がピクつく不気味な真顔が完成している。


 その男の元に、一人、少年がやってきた。ミディアムボブの茶髪を片耳に掛けた、花のように笑う少年だ。彼はテクテクと歩き、男の横まで来ると、


---


「チョップ!」


「――痛!」


 俺は脳天に走った優しい衝撃で我に返る。横を見ると、マコトが俺の頭上に腕を伸ばしていた。


「アカリさんのこと見すぎねー?」


「うッ、何故バレたッ」


「いや、今の様子でバレないと思ってるのが怖いよぉ」


「そうか、じゃあもっとコソコソ隠れてやらないと駄目か」


「いやいや! それじゃストーカーだよ!?」


「まぁまぁ」


 俺はおざなりに流して、再びアカリのいる方に目を向ける。すると、今度は頭を両手で掴まれてしまった。


「お~、よく見えるよく見える。……マコトの腕が」


 マコトの腕が視界いっぱいに広がった俺はそう言い、顔を動かしてアカリを視界に捉えようとする。しかし、その前にマコトの手にグッと力が入った感触がし、俺はされるがまま顔の向きを変えられた。マコトの顔が、正面から向かい合う形で至近距離に迫り、俺は目を丸くする。


 マコトはどこか寂しそうな表情をしていたのだ。一人になることを不安がる子供のような、そんな表情だ。

 近くにいるマコトとの会話をおざなりにし、遠くにいるアカリにばかり気を取られる俺の態度が、自分のことを後回しにされていると感じて嫌だったのだろうか。

 そう考えると、彼の言動が、俺の意識を自分に引き留めようとするものに思えて、俺も申し訳ない気持ちになった。


 だが、それも一瞬のこと。マコトはすぐに、いつもの花のような笑顔に戻った。そして、


「今日は、恋愛ニュース速報があるよぉ」


「なんだなんだ? ……まさか」


「多分、そのまさかだよん。ハジメくんがアカリさんに告白した話ぃ」


「――ッ」


 マコトの言葉を聞いて、俺は内臓が竦んだ。同時に心臓も跳ね上がり、体内を支配する不快感に思わず息が詰まる。


 つい昨日、ハジメ――異性関係の問題を多発させていると悪名高い、イケてる系のクラスメイトが、アカリに告白するという話を聞いた。その直後にショウゴの妹事件があったからか、当時は頭の片隅に追いやっていたが、いざ直面すると不安と焦燥に駆られてしまう。


 ハジメがアカリと付き合ったらと考えるだけで、自然と腹の底から黒い怒りが湧く。ただの嫉妬だとは分かってはいるが、頭で理解していたとて妬む気持ちが消えるわけもない。考え方の変化だけで嫉妬心がなくなるほど、俺のアカリに対する愛は浅くないのだ。


 俯き、無意識に下唇を噛む俺に、マコトは励ますような声色で声をかける。


「ダイジョブ大丈夫! 安心して!」


「大丈夫って?」


 顔を上げてマコトの方に目を向けた俺に、マコトはサムズアップすると、


「ハジメくん、振られたってよん」


「――!! よかったぁ……」


 俺は安堵感から全身の力が抜けて、ダラっと机に突っ伏す。


 未だにアカリの性格を知らない以上、彼女がどのような人に惹かれるかは分からない。それ故このままでは、アカリがいつ誰と付き合うかもしれない、そんな不安と常に向き合わなければならない。

 しかし、それは嫌だ。これ以上、今回のように他人の告白の結果を緊張しながら待つのは勘弁願いたい。

 だから、俺はいち早くアカリのことを深く知らなければならない。もっとも、こんな理由はお飾りで、ただ彼女に底の尽きない興味があるだけだが。


「よかったねぇ。これでまだチャンスは残ったわけじゃん?」


「そうだね。まだ可能性はある。いや、むしろこれからだ」


「そうそう、その意気……って、アカリさん、こっちに歩いて来てるよぉ」


「ほんとか!?」


 慌ててマコトの視線の先を見ると、アカリが教室の前方からこちらに向かって歩いている。

 しかし、当然のことながら、目的地は俺の席では無い。手にはプリント用紙と画鋲の入った箱を持っているため、紙を教室の後ろの壁に掲示するのが目的だろう。


 ただ、そこまで行くということは、俺の席の横を通ることになる。


 これをチャンスだと捉えた俺はパッと姿勢を正し、彼女が通りかかるタイミングで声をかけた。


「あの、アカリさん。手伝いましょうか?」


「いえいえ、大丈夫ですよ。この程度は私一人で出来ます」


 微笑みながらそう言って、アカリは静かに通り過ぎた。軽くいなされてしまったが、俺は少し話せただけでも嬉しかった。うっとりしながら、紅蓮の髪が流れる後ろ姿を見届けていると、


「チョップ!」


「――痛!」


 またもや、脳天をマコトに手刀で叩かれてしまった。


「え? オレガナニシタッテイウンダ」


「……。ニヤニヤし過ぎ」


「うそ!? そんなに顔に出てた?」


「それはもう、とっても。顔から幸せがダラダラ出てたよぉ」


「まじか……」


 ポーカーフェイスはそれなりに得意だったはずなのだがな。それでも見破られるとなると……。マコトが俺のことをよく見てくれてるってことか! そこまで想ってもらえてるとは……、俺はいい友達に恵まれて幸せ者だ……。


 俺は自分に都合の良い解釈をしつつ、マコトを手で招く。それを見て、マコトは目を丸くしたが、何も言わずに俺の傍で屈んだ。その頭に手を伸ばし、感謝の念を込めて丁寧に撫でてやる。

 マコトの髪はサラサラしていて、指の通る感覚がくすぐったくて気持ちいい。その気持ちよさは向こうも同じだったようで、マコトは肩を竦めながら表情をだらしなくとろけさせた。実に、幸せそうな表情だ。


 その表情を見ると、やはり彼の笑顔を守りたいと改めて思う。彼だけではない。ショウゴも、アカリだってそうだ。彼らには笑顔が似合う。彼らには笑顔でいて欲しい。彼らの笑顔のためなら、幸せのためなら、俺は何だってするだろう。


 だって――、



 ――彼らの幸せが、俺の幸せなのだから。



 マコトから溢れ出す幸せに満たされた空気に包まれ、俺も幸せな気持ちになった。



---



 □□を守るために、必要なものとは何だろうか。


 それは愛か? ――違う。愛がなくとも、□□を守ることは出来る。


 それは勇気か? ――それも違う。勇気がなくとも、□□を守ることは出来る。


 □□を守りたいと欲する人間は、これらを持っていたほうがいい、ということには同意する。しかし、綺麗事だけで□□を守れるほど世の中は甘くない。


 □□を守るために必要なものとは何か。



 ――それは力だ。


 力と一言に言っても多岐に渡る。暴力、戦闘力、洞察力、財力、権力、数の力、コミュニケーション能力……、挙げ出したらキリがないほど。

 これらの力を持つことだ。□□に害なす存在の持つ力よりも、大きな力を持つことだ。


 さすれば、□□を守ることが出来る。


 逆に言えば、力なくして、□□を守ることなど出来ない。

 如何に愛があろうとも、如何に勇気があろうとも関係ない。最終的に、力でもって□□を守ることが出来なければ、愛はただの欲望で終わり、勇気はただの蛮勇で終わる。


 つまり、□□を守るために、必要なものとは力だ。




 ――だから俺は『大切な人の笑顔』を守りたいと思った時、力を付けることにした。


 『白のユーリ』を読み、『ユーリ』のようになることを本気で夢見た小学5年生の俺。『ユーリ』のように大切な人を守るためには力が必要だと知った。だから、真っ先に力を持ちたいと望み、掌握するための努力を始めた。


 ただ、前述の通り、力と言っても様々ある。しかし、俺は欲する力を悩むまでもなかった。なぜなら、何が欲しいかは初めから決まっているのだから。


 その力は一番わかりやすく、一番かっこいい。そして何よりも、『ユーリ』が巧みに扱っていた。


 その力は――近接格闘力だ。


 近接戦闘力は大切な人を守るに相応しい力だ。


 他の誰よりも強い近接格闘力を付ければ、誰が相手になったとしても勝つことが出来る。そうすれば、いつか出会う大切な人を、必ず守ることが出来る。俺はそう確信した。


 ならば、そのための努力は厭わない。俺はその日から、近接格闘力を習得するために訓練を始めた。そして、それは今も――。



---



 「――16! 17! 18! 19! 20!!」


 散らかった服や隅に寄せられた六畳間の部屋――俺の部屋で、サンドバッグに連続で蹴りを入れる。サンドバッグを人間に見立て、一発一発に集中して蹴りを繰り返す。


 今取り組んでいるのは、訓練メニューの最後の種目であるため、俺は既に全身が汗だくで息も荒い。だが、最後まで気を抜かずに集中する。ここで気が緩んでは、いざという時に怠けた結果が如実に現れる。だから、全ての蹴りに、最後の一撃まで全霊を込める。


「――29! 30ッ!! ……あ”あ”あ”!! 疲れたあ”ぁぁ!」


 訓練メニューが終わり、俺は呻きながらその場にへたり込んだ。

 今日はメニューを少しキツくし過ぎた。酸欠なのか、視界が歪んだり回転したりして、床が渦を巻いているように見える。さらに、鼓動が打たれる度に体内に溜まった熱が放出され、全身がムワッとした熱の層に包まれる感覚が不快だ。


 俺は大きく深呼吸を繰り返し、乱れた呼吸と心拍を整える。それから、散らかった洗濯物からタオルを引っ張り出し、汗の吹き出す顔を拭いた。

 それでもまだ、体の熱と不快感は顕在だ。そのため、俺は軽くシャワーを浴びることにした。


---


 俺は力を付けようと思ったその日から、欠かさずトレーニングを続けている。平日は放課後、休日は空いた時間を使って、筋トレやランニングなどの基礎体力づくりをはじめとして、シャドーボクシングやステップ、サンドバッグへの打ち込みの反復練習。時には、イメージトレーニングに時間を費やすこともある。


 これらを半年ほど続けた。毎日欠かさず訓練した。そうして、様々な格闘技から基礎を盗み、近接格闘力の地盤を固めた。しかし、どうも足りないものがある。


 それは単純なこと――実践だ。いつも単独で訓練を積んでいた俺には、実践の機会が全く無かった。どれだけ体を鍛え、どれだけイメージを重ね、どれだけサンドバッグに技を披露したとしても、所詮は空想の敵が相手。培ったものが実際の人間相手に通用するかは分からない。


 力の比較対象を持たなかった俺は、自分の近接格闘力がどの段階にあるのか知りたくなった。だから、試してみることにした。俺の力が、どれほど実際の人間相手に通じるのか。



 俺の家の近所には、少しばかり治安が悪い地区がある。近所の不良が普段から屯するような場所だ。俺はそこに赴くことにした。

 適当なコンビニの駐車場で座り込み、ガラの悪そうな人が現れるまで待つ。すると、学ランを着崩した、いかにもヤンキーやってます! という雰囲気の少年が一人、やってきた。俺は標的をその人に定めた。


「――痛ッ!!」


 少年が俺の目前を通り過ぎる直前、彼の足を引っ掛けて転ばせた。罠にかかり、激昂した少年はこちらに詰め寄って俺の胸ぐらを掴んだ。全て狙い通り。こうして、俺の人生初の対人戦が始まった。



 俺と少年は互角の戦いを繰り広げた。相手は格闘技経験者ではなかったが、喧嘩の経験はそれなりにあったのだろう、そこそこ強かった。いや、強いというより、こちらの想定外の動きをする人だった。

 俺は基礎しか知らない。自分の脳内イメージの相手としか戦ったことがない。だから、その範疇を超えた相手の攻撃には一切対応できなかった。一方で、相手は基礎を知らない。経験だけで戦っている。だから、俺の基礎に忠実な、正攻法の攻撃がうまく刺さった。


 結果、引き分けに終わった。お互いが、立ち上がれないほどの満身創痍で、戦闘の継続は不可能になった。こうして、人生初の対人戦は、勝負が付かぬまま幕を閉じた。

 喧嘩の後、相手がどんな顔をしていたかは覚えていない。それに、全身が疲れ切り、無数の打撲傷も痛かったはずだが、そのこともさして気にならなかった。なぜなら、俺の意識は既に別のことに支配されていたからだ。



「――もっともっと、強くならなければ。この弱さのままでは……」


 ――大切な人を守るなど、夢のまた夢だ。



 俺は決して自分の力を驕っていた訳ではない。でも、まさか、格闘技を会得しているようには見えない――言ってしまえばただの一般人に勝てないとは思っていなかった。


 だから焦燥に駆られた。義務感に駆られた。


 ――より強い力を付けなければ、と。


 ただ、この感情は、弱い自分への自責の念ではない。だからだろうか、その後の俺にマイナスには働かなかった。むしろプラスに働いたと言ってもいい。この強さを追求する感情のお陰で、向上意欲が長期的に続いたからだ。

 負けて、自分の力に自信を失う訳でもなく、勝って、自分の力に驕り高ぶる訳でもない。引き分けで終わり、次こそは勝ちたいと、心の底から思ったことが、これから力を付ける上で俺の背中を強く後押しした。


 初めての実践で、数え切れないほどの課題点が見つかった。それを活かすべく、俺はまた訓練へと戻った。課題を克服したところで再び街に繰り出し、実践する。そして見つかった新たな課題を持ち帰る。


 それを何ヶ月も、何年も繰り返した結果、今の俺が出来上がった。実践を何度も重ね、百戦錬磨……とは些か誇張かも知れないが、自信を持って人を守れるほどには強くなった。


 こうして俺は、『大切な人の笑顔』を守るために、近接格闘力を身に付けた。


---


 ――冷水のシャワーを顔面から浴びて、ブルッと身震いした。


 体の表面が急激に冷え、次第に体の中に冷たさが染み込むように伝わってくる。そうして体内から熱が奪われていく感覚を味わいながら、ちょっと昔のことを思い出した。


「あの時の名残で、今も路地裏通ってるからなぁ」


 高校生になった今でも、路地裏を通って下校するのは、通りがかりの不良相手に対人格闘術の実践を行えるからだ。さすれば、不定期にだが、確実に経験を積み重ねることが出来る。俺はその環境に自ら身を置くことで、今日まで力を維持し続けてきた。

 俺に毎度のようにボコボコにされる不良たちには同情してしまうが、毎度向こうから手を出すため、自業自得だ。でもまあ、俺の練習相手になってくれることには感謝している。


 そんなことを考えていると、


 ――ピロン!


 メールの通知音が鳴った。俺はまさかと思い、シャワーも止めずに慌てて風呂場から飛び出した。洗面台に置いてあるスマホに飛び付き、画面を付けると、



『アカリ:土曜日は空いてます! ぜひ、遊びに行きましょう!』



 俺は全裸のまま、力の籠もった拳を天に掲げた。


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