第3話「二度目の初対面」
来た――。
紅蓮の炎のような髪、紅玉の瞳、メリハリの付いた体を我が校の制服に包んだ、つい昨日見た端正な顔――思わず見惚れてしまうほど美しい、赤色の少女が。
「本日、隣県から転校してきました。赤崎アカリと言います」
教室の教壇に立って、挨拶と自己紹介をしている。
「は……?」
「早く皆さんと仲良くなりたいですので、休み時間に皆さんの名前を教えてください――」
俺は文字通り、開いた口が塞がらない。彼女の存在に自分の目を疑い、何度も目をパチパチと瞬きさせて、もう一度赤い少女に目を向ける。
「昨日の女の子だ……。まさか、夢か!」
そう思い、自分の頬にビンタを入れる。ペチッと軽い音に、隣の席の女子に不審な目を向けられたこと以外に、目前の景色に変化はない。
「現実なのか……」
改めて赤い少女――赤崎アカリと名乗った彼女をよく観察する。赤い髪、赤い目、美しい顔、昨日の少女と完全に同じだ。外見は確実に同一人物なのだ。
にも関わらず、何故だろうか、どうしても違和感が抜けない。
あまりに美しい容姿が、この教室に相応しくないなどといった、彼女とこの場の雰囲気との相違からくる類の違和感ではない。違和感は、彼女自身にあるのだ。
赤崎アカリが昨日の少女と同一人物であることは、ひと目見て分かった。彼女と同じ特徴を持った人などそうそういないから、疑いはない。もちろん、大いに驚きはしたが。
しかし、『赤崎アカリ=昨日の少女』は一目瞭然であるにも関わらず、自分の目を繰り返し疑ったのは、この違和感が原因だ。
――彼女の漂わせる雰囲気が、昨日と著しく異なるのだ。
教壇に立って自己紹介をする彼女の姿は、まるで立派な生徒会長だ。佇まいは堂々と自信に溢れていて、口振りは丁寧で耳触りが心地よい。薄っすらと浮かべる微笑は、全てを受け止めてくれそうな安心感を与える。
困ったことがあれば、彼女に頼れば大丈夫だと、無性にそう思ってしまう。そんな頼り甲斐のある、強くてしっかり者のお姉さんといった雰囲気だ。
その赤崎アカリに、昨日の赤い少女の面影はない。不良ごときを相手に縮こまって、手も足も声も出ない、気の弱い少女はここにはいない。
ここにいるのは、ヤンキーだろうがチンピラだろうが関係なく立ち向かいそうな、格好いいお姉さんだけだ。
「彼女に、何があったんだ……」
違和感に頭を悩ませること小一時間。気が付いたら1限が終わって休憩時間が始まり、クラスメイトたちは獲物に集る蟻がごとく、アカリに群がっていた。
「転校生ちゃん、めっちゃ可愛いから皆集まってるねぇ」
「そうだな。男子からも女子からも好かれる雰囲気してるから、すぐ人気者になるだろうな」
俺の席に来たマコトとショウゴが、アカリの席――最前列の窓際の席に目を向けながら話す。
「ボクたちも、皆みたいに名前覚えてもらいに行くー?」
「いいな。ヤマトもそうしよう――」
「――いや、俺はいい」
マコトの提案に乗ったショウゴの誘いを、遮るように断った。ショウゴは首を傾げたが、俺が焦燥感を覚え、即座に誘いを断ったのには理由がある。アカリの違和感以外に、もう一つ悩みの種が存在するからだ。
それは、アカリの中に、俺に対する恐怖心が残っている可能性だ。昨日、俺は彼女に恐怖の対象として見られたはず。もし俺が挨拶しに行って泣かれでもしたら、そう思うと不安で足が踏み出せない。
ただ、朝の挨拶時、アカリと二度ほど視線が交わった気はするのだが、その時は怯えるどころか、不思議と完全に無反応だった。俺を忘れたのか、俺が昨日の人物だと気付かなかったのか、あるいは恐怖を押し殺していたのか。どれかは分からない。しかし、わからないことが余計に不安を掻き立てる。
「何でそんな食い気味に? あの子と何かあったのか?」
「それは……」
――そうなのだが、わからないことが多すぎる。それに昨日の出来事を話したら、アカリは傷つかないだろうか。学校ではしっかり者の彼女が、学校外であんな様子であったことを、人に知られたくはないだろう。
「よし、これは機密事項として隠しておこう」
そう心に決め、意識を我に返す。見ると、マコトとショウゴは揃って首を傾げてこちらを見ている。
「実は、あの人とは顔を合わせづらいんだ。こっちの問題だから詮索しないでもらえると助かる」
言うと、マコトは「ふーん?」と言いながらニンマリと笑い、俺の髪を面白そうに弄ると、
「ヤマちゃん、転校生ちゃんのこと殴っちゃったことあるとかー?」
「ふっ、俺は女は殴らねー……、とは言えないな」
「ほらぁ」
俺とマコトはクスクスと笑い合うと、ショウゴに冷たい目を向けられた。ともあれ、ショウゴとマコトは互いに顔を合わせると、ショウゴは「行ってくる」と一言残し、マコトは名残惜しそうに俺の髪を一撫でし、アカリの席へと向かった。
「はあぁ……」
長い溜息だけをこの世に残し、俺は再び思案の世界へと沈み込んだ。
---
アカリは、今日一日でかなりクラスに馴染んだように見える。休み時間毎に彼女の周りには人が集まり、本人も周囲の人達も楽しそうに談笑する様子が見受けられた。イケてる人とも、パッとしない人とも別け隔てなく接するため、クラスメイトからの印象は好調だ。
それを俺が一瞬で崩しかねないと思うと、迂闊には話しかけられまい。周りに人が大勢いる状況でアカリに近づいて、取り乱されでもしたら、どうなるかはわからない。俺は彼女が一人になるタイミングを狙って話しかけることにした。
――放課後。
「これが保健調査の紙で、これが個人情報の紙。間違いがないか親御さんと確認して――」
俺は今、自分の席で、アカリと担任の先生が話し終わるのを待っている。
昼頃、担任の先生がアカリに、放課後に教室に居残るように伝えるところを見かけたのだ。それを絶好の機会だと捉えた俺は授業後も教室に残ることにした。そして現在、教室には前述の3人以外誰もいない。作戦は順調だ。
程なく、椅子の引かれる音が鳴り、担任の先生がこの場を後にした。俺は気合を入れるために胸を叩き、席を立って歩き始める。太鼓を打つような煩い鼓動を鎮めようと深呼吸しながら、荷物を纏めているアカリの横まで移動した。
「――――」
アカリを目前にして、何を話せばいいかわからなくなってしまった。緊張で頭が真っ白になってしまい、言葉が思い浮かばないのだ。
まずは自己紹介からだろうか。俺を覚えているだろうか。でも、顔を見られて怯えられたら。昨日の話は。俺が話しかけたがために昨日のことを思い出したら。今日の様子については……。
不安なことが多すぎる。だが、本人に聞けば解決するはずだ。良い方に転ぶか、悪い方に転ぶか。とにかく聞いてみないとわからない。当たって砕けろだ!
俺は逡巡する思考を奮い立たせ、一言目を発する。
「あの……!」
声をかけると、アカリは肩越しに振り返り、「どうしたのですか?」と答えた。
――その表情に浮かぶのは、初対面の人に対応する時の笑みだった。
彼女は俺の顔を間近で見ても、驚きも怯えもしなかった。きっと、俺の顔に見覚えがないのだ。彼女の優しい微笑に少し呆然とすると同時に、なんともいえない安堵感を覚え、ホッと息をついた。
「あ! あなたの名前、まだ聞いていませんでしたね。何というのですか」
「え! あ、俺は、ヤマトって言います」
俺が名乗ると、アカリはハッと目を見開いた。しかし、それも一瞬のことで、すぐに表情を元の微笑へと戻した。それから、一言二言社交辞令を交わすと、彼女は誰かと帰る約束をしているとかで、そそくさと教室から出ていった。
もぬけの殻の教室。自分の席。緊張の残滓が原因で、未だに震える手に頬杖を付きながら窓の外を眺める。空には薄っすらと雲がかかっている。
アカリは、俺のことを覚えていないようだ。あるいは、俺が昨日の男だと気付いていないか。どちらにせよ、彼女の中で『昨日の男≠俺』という認識であることは間違いない。
――『俺』と『赤崎アカリ』は今日が初対面ということになる。
さすれば、俺が怖がられる心配はなくなり、彼女の裏の姿は無事に秘匿される。これで疑問はすべて解決……ではない。まだ、昨日と今日の相違が何故のものなのかは謎に包まれたままだ。
安堵感の中に、もやもやした感情を抱えたまま、俺は一人で帰路に向かった。
――帰宅後。
「俺、昨日髪を黒染めしたの今思い出した! 絶対これのせいで俺だってわからなかったじゃん!」
鏡に映る黒髪の自分を指さしながら、大声で笑うのだった。
---
アカリは数日で完全にクラスに馴染み、すっかりとクラスの一員として過ごしている。学校では相変わらず堂々とした姿で過ごしていて、弱い面を見せるところは見たことがない。
俺は幾度か彼女と話をする機会はあったが、彼女の周りには常に人が取り巻いているため、二人きりで話す機会は巡ってこなかった。そのため、強いアカリと弱いアカリの謎は依然として残ったままだ。
――拳の痛みもすっかり治った頃のある日。今日も下校の通学路をマコトとショウゴと三人で歩いている。今日の路地裏は実に平和で、問題なく通行することが出来た。
「ハジメくん、アカリさんに告白するらしいよぉ」
「え……」
薄汚い路地裏を抜けて、大通りに差し掛かった頃、マコトがそんなことを言った。それに咄嗟に動揺してしまったのは俺だ。
「なんだヤマト、気になるのか?」
「ああ……」
ショウゴの質問に平然を取り繕おうとしたが、曖昧な返事しかすることが出来なかった。なぜなら、現在、俺の内心は大きく掻き乱されてしまっているからだ。
ハジメというのは、我がクラス屈指のイケてる系男子だ。直接話したことは殆どないため、実際の人柄は知らないが、噂によると幾度も異性関係で問題を起しているらしい。有り体に言えば、クズ男であるらしい。
そんな奴がアカリに近づいていると考えるだけで、不快極まりない。内蔵がギュッと握り捻られるような思いだ。
その感情が顔に出ていたのか、こちらを見るマコトは引き攣った笑顔を作ると、俺の正面に移動して足を止める。作り笑顔で見上げてくるマコトに、ただならぬ雰囲気を感じた俺も立ち止まる。マコトはフッと頬を緩めると、からかうように口を開いた。
「アカリさんがハジメくんに取られるのが怖いのー?」
思わずギクッと肩が強張り、今度は俺が表情を引き攣らせてしまった。それを見たマコトは露骨に顔をしかめ、不機嫌を露わにして言葉を続ける。
「やっぱりそうだよね。ヤマちゃん、アカリさんが転校してきてから様子変だったもん。いつもアカリさんを目で追ってるし、アカリさんと喋った後だけテンション高いし――」
マコトの言っていることは正しい。俺はアカリが転校してきてから、彼女のことが頭から離れなくなってしまった。授業中のボーっとしている時間は彼女を守る妄想をするようになった。彼女が動けば、一挙手一投足を目に焼き付けるようになった。彼女が他の男子と親しげに話をしていると、胸の底に重くてどろどろした何かが溜まっていくのを感じるようになった。彼女と話をすると、わけもなく心が躍るようになった。
どれも、俺の意志でしているものではない。俺の脳が、体が、心が、勝手にそうするのだ。全て無意識下で。
言わば、一種の病気のようなものだ。脳が、体が、心が、ある個人の全てを自分のものにしたいと渇望する病気。特定の個人に対する依存症。
その病気の名前を、俺は知っている。それは――、
「――ヤマちゃんはアカリさんのこと、どう思ってるの?」
「――恋だ」
「ん?」
「俺はアカリさんに、恋をしてる……と思う」
俺は、心の中身を吐き出すように答えた。依然、肝心の謎は心に支えたままだ。それでも少しだけ、心に掛かった雲が晴れた気がして、悪くない気分を味わった。
しかし、目の前の人はそうは思わなかったらしい。俺の答えを聞いたマコトの瞳に、うるうると光の雫が溜まっていくのが見て取れた。俺はその時、初めて事の深刻さに気がついた。マコトは肩をワナワナと震わせ、今にも泣きそうな表情を浮かべている。
なぜ、マコトがこのような反応をしたかは分からない。だが、困惑していられる場合ではないとも、同時に分かった。
――俺は咄嗟にマコトを抱き締めた。
なぜ、そんな行動を取ったのだろうか。これ以外に、人を慰める方法を知らないからだろうか。
マコトは啜り泣きながら、俺の胸に顔を埋めた。俺はそれを受け止め、赤子を抱くように優しく抱擁した。数十秒、いや数分だったかもしれない、長い間そうしていた気がする。マコトの震える肩を、滲む熱い雫を、荒れる息遣いを、この身で感じ取りながら。
やがて、肩の震えが収まると、波及するように全身が徐々に落ち着きを取り戻した。そして、腕の中で、ぐたっと力が抜けたマコトは顔を上げた。目は赤く腫れているが、その顔には、いつものいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「急に、ごめんね?」
「いや、むしろ謝るのは俺の方だと思う。きっと、俺が原因だと思うから」
「これでも気付かないとかぁ、むうぅ」
「ん? どういうこと?」
「んー? ……ないしょ」
そう言ってはにかむマコトが愛らしくて、ついつい頭を撫でてやった。マコトもだらしなく口元を緩めた。
「それにしても、ヤマちゃんがアカリさんのこと好きなのは、結構いがーい」
「そうか?」
「だってヤマちゃん、守ってあげたくなるような、か弱い感じの女の子が好きかと思ってたもん」
「ああ、確かに……」
――俺は庇護欲を唆られるような、弱い存在に心を惹かれる。そのため、自律していて、守る必要がなさそうな印象のアカリに惹かれた理由が気になったのだろう。それも当然だ。マコトは、彼女の弱い面を知らないのだ。
だが、俺は知っている。アカリには裏の面が存在することを。一人のか弱い乙女でしかない姿があることを。
きっと、アカリには、もっとたくさんの顔があるのだろう。他人に見せないだけであって。強い顔も弱い顔も、嬉しい顔も悲しい顔も。怒った顔もかわいいだろうな。顔だけではない。声も、仕草も、態度も、匂いも、感触も、味も。俺の知らないアカリがたくさんある。
その全てをこの身に焼き付けたい。知りたい。自分のものにしたい。
俺はまだ、彼女のことをあまりに知らなさすぎる。もっと知ったら、いや、もっと知るため、見るため、感じるために。
俺はこの手で――、
「俺は必ず、アカリさんを守り抜く」
そう口走りそうになった直前、胸のあたりをトントンと叩かれた。我に返って見ると、腕の中のマコトが顔を横に向けている。釣られて彼の視線の先に目をやると……。
「あのなー、全く話についていけないんだが? そもそも何で二人はずっと抱き合ってるんだよ」
ずっと蚊帳の外にされていた人が一人いたことを思い出し、俺とマコトは顔を合わせてクスクスと笑い合った。
――その後、俺たちは下校を再開した。黄色の輝きが見え隠れする雲空の下、まもなく駅に到着する。
学校側に面する出入り口付近には、下校中の学生や仕事帰りのサラリーマンでごった返している。その人集りに足を踏み入れる直前、前触れ無く、ショウゴがその場で硬直した。
「ショウゴ? どうした?」
驚いたように瞠目し、駅の入口の方向をジッと眺めるショウゴ。反射的に声を掛けたが、返事はない。普段は冷静さを欠かさないショウゴの異様な姿に不審に思い、マコトに声を掛けようと目をやると。
「あの子、ショウちゃんの知り合いー?」
ちょうど何かに気付いたのか、駅の方を見ながらマコトがそんな事を言った。状況を飲み込めずにいる俺を置いて、二人は駆け出してしまう。俺も慌てて背中を追うと、彼らは駅の外壁際で立ち止まった。
彼らの向き合う壁。そこには一人の少女が座り込んでいて――、
「お兄ちゃん!」
涙で濡れた頬を拭った彼女は、ショウゴのことをそう呼んだ。
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