第2話「赤の少女」

 ――歩く。一歩、また一歩と、足を前に出して進む。

 どこまでも続く、長細い道を進んでゆく。


 横に目をやると、少女が隣を並んで歩いている。黒髪を二つ結びにし、ベージュのワンピースを着た可愛らしい少女だ。

 少女とともに、真っ直ぐに伸びる廊下を進んでゆく。


 少女は嬉しそうだ。スキップでもしたそうに、るんるんと肩を踊らせている。

 廊下の窓から顔を覗かせる太陽が、スポットライトを当てたように少女を照らし、顔が浮かび上がる。あどけなさとともに、しとやかさのある笑顔が美しい。


「ねえヤマトくん、明日もまた一緒に学校行かないー?」


「うん、俺もそうしたい」


「ホント!? じゃあ約束ね!」


「うん」


 幸せで満たされた少女の表情に、思わず心臓が高鳴る。それを気付かれまいと表情を強張らせて、少女の誘いに返事する。

 

 あっという間に、目的地にもうすぐ到着だ。子どもたちの姦しい声が漏れる教室の扉。そこに手を掛けようとする。


 ――寸前、声を掛けられた。


「よお、ヤマト――」


 暗い声だ。池の底に沈んだヘドロのような、粘着質な声が脳にへばり付く。

 

「――お前、話あるから、こより連れてこっち来い」



 少年と少女は互いに顔を合わせると、その声に従って教室を後にする。行くべき場所は分かっている。

 

 日光が赤いアクリル板を通った、と言われても不思議ではないほど赤く染まった廊下を進み、角を曲がり、階段を登る。

 少女は怯えているのか顔を伏せて歩いている。今にも泣き出しそうに目をうるうるさせているが、少年は気が付かない。


 そして、到着する。

 静かな場所だ。そこには誰一人いないかのように。

 だが当然、人はいる。ちょうどやってきた少年と少女と、その正面から二人を睨む三人の少年だ。


 鉄製で重厚感のある扉の前で、腕を組む金髪の少年と、その取り巻き二人。

 向かい側の廊下から現れた少年と少女を認めた金髪は、忌々しげに舌打ちをして、口を開く。


「ヤマト、お前こよりから離れろ」


「何でだ?」


「お前じゃこよりには釣り合わない。お前みたいなやつに言い寄られて、こよりが可哀想だ」


 指摘を受けた少年は隣で目を伏せる少女の前で屈み、正面から目を合わせて聞く。


「こより、俺と一緒にいるの、嫌か?」


 少女は首を横に振る。言外に『そんなことない』と主張するように激しく。


「――こよりはこう言ってるけど?」


「それは……。お前が怖くて、仕方なくそうしてるだけだ!」


「言いがかりがすぎるよ……。なあ、そろそろ素直に認めればいいんじゃない?」


「……。何をだ」


「ショウタ、こよりのことが好きなんでしょ?」


「はぁ!? そんなことねーし!!」


 金髪は顔をりんごのように染めて首を横に振る。だが、必死の形相が答えのようなもの。


「ショウタがこよりと仲良くなれなかった怒りを、俺にぶつけるんでしょ?」


「はア”ァ”!? だからそんなんじゃねーって!!」


 ――金髪の表情が照れ隠しから、怒りへと変化していく。それを見て取ったうえで少年は続ける。


「自分がそうじゃないのに、俺がこよりと仲いいのがムカつくのは分かる。分かるけど、お前がこよりに近づけなかったのは俺のせいじゃない。お前の実力不足だ。だから俺に鬱憤をぶつけないでくれ。お前が――」


「――う”うるせえぇ”ぇ”!!!」


 遂に、我慢の限界に達した金髪が跳び上がり、少年に殴り掛かる。それを不敵にひらりと躱した少年。口元が緩み、表情が笑顔に――欲していたおもちゃを買ってもらった子供のような、そんな笑みに染まった。

 笑顔のまま、少年はすぐに少女に駆け寄り、少女を抱えて安全な場所に移す。


「金髪の男の子怖いよぉ、ヤマトくん助けてぇ”」



 守ってあげたいという、俺の庇護欲を掻き立てる言葉に、少女を抱える腕をギュッと締めて呟く。


「大丈夫だから、安心して。俺が必ず、こよりを守り抜くから」


「うん……分かった」


 少女は涙が溢れ出るつぶらな瞳で俺を見つめて、大きく頷く。

 恐怖に支配されていた瞳に、安心の色が差し込んだように見えた少女を廊下の床に降ろし、振り返る。すると、ちょうど鬼の形相でこちらに向かう少年三人組が目に入った。


 最後にもう一度少女に向き直って「じゃあ、待ってて」と告げ、少女を後に三人組と正面から相対する。


「ヤマト……お前は調子に乗りすぎだ。ボコボコにしてどっちが上か分からせてやる」


「――――」


 俺は答えない。代わりに、俺はスッと人差し指を立て、クルンと手の甲を相手に見せる。そして人差し指をクイクイと曲げ、手で『来いよ』と示す。

 それを開戦の合図と取った金髪が、拳を構えて一気に駆け出す。俺も迎撃せんとファイティングポーズを構え、金髪の攻撃に備える。


 金髪は大きく踏み込み、構えた拳を雑に振るうが、そんな攻撃は当たらない。俺は身を低くして拳の軌道を避けながら金髪の懐に這い込み、顎を目掛けて拳を振り上げる。

 瞬く間の肉薄に反応できず、目を見開く金髪の顎に、骨と歯を砕く拳が突き刺さる――。



 ――寸前、腕全体がビクンッと跳ね上がった。


 俺は反射的に目を開ける。ぼやけた視界に映るのは、カーテンの隙間から漏れる薄明かりに照らされる天井――見慣れた自分の部屋の天井だ。

 全身の背中側がふわふわな感触に包まれていて、自分がベッドに寝転がっていると分かる。

 ここまでを総合的に考えると――。


「なんだ、夢か……っていうか記憶だったか」


 今、夢の中で見た情景は、俺が小学6年生だった頃の『記憶』……のはずだ。というのも、夢の内容についての記憶が曖昧なのだ。夢に有りがちなことだが、夢を見ていた事自体は覚えていても、肝心の中身が記憶からすっぽ抜けていることが多々ある。今回はそのいい実例だ。つい先程まで夢を見ていたにも関わらず、起きる直前の光景しか目に浮かばない。確か、金髪の少年を殴る直前で目が覚めた気がするが――。


 そう思って、俺は覚醒とともに跳ね上がった右手に意識を向ける。拳を脈動とともに流れる血液の熱さと、打撲したようなジンジンとした痛みを感じる。当然、これらは夢の中で負った傷ではない。2日前に『信号~ズ』と戦った際、コンクリートを殴ったのが原因の症状だ。


 喧嘩中に怪我を負うことは珍しくないが、大抵は一日二日で回復する。そのため、怪我から丸2日以上経った今でも痛みと腫れが残っていると、骨折や筋肉の損傷など、より重度の怪我を疑わざるを得ない。

 しばらく経っても症状が緩和しなかったら、病院で診てもらおうと考えつつ、俺は上体を起こす。



 ――夢の中で見た『記憶』。あれは俺が初めて大切な人を守るために戦った日の記憶だ。


 ワンピースを着た少女――こよりは俺の初恋の相手だ。小学6年生の時に初めて同じクラスになり、俺とこよりは恋に落ちた。恋人同士らしいことは何もしない、小学生相応の可愛らしい付き合いだった覚えがある。

 ただ、当時は『ユーリ』の在り方に大きく感化された直後。必然、俺は今よりも『ユーリ』に猛烈な憧れを抱いていた。『ユーリ』が恋人を守るために戦う姿を想起して、自分もそう在りたいと、心の底から所望していた頃だ。

 それ故、俺はこよりに恋すると同時に、心に誓いを立てた――こよりに何かがあっても、俺が必ずこよりを守り抜く、と。弱さを隠して生きる、本当はか弱くて泣き虫な少女を、俺はこの手で守りたい――。

 

 だから、『記憶』の夢の時――初めてこよりを守って喧嘩する直前。待ちに待った時が遂に来たと心が踊り、自然と笑顔が溢れた。

 金髪の少年――ショウタを負かした瞬間。潰れた拳の痛みを、初めから無かったかのように掻き消すほどの高揚感に、自然と悦びが溢れた。

 安堵の涙を流すこよりを、この胸で抱きしめたひととき。こよりを無事に守りきった実感とともに、自然と幸せが溢れた。


 全てが気持ちよかった。全てが清々しかった。

 この世に楽園が存在するなら、この瞬間のことだろうと思った。

 俺の17年間の記憶を探っても、この日より生を実感した日は存在しない。


 ――初めて経験する快感の連続だった。


 俺の理想を体現した日。俺の夢が叶った日。

 いかに言葉を尽くしたとて、この日の幸せは表しきれないだろう。

 『ユーリ』に憧れた俺が、大切な人を懸けて戦い、守りきったのだ。これ以上の幸せがこの世に存在するか――。



「い~や、存在しないな」


 人生を軽く振り返った俺は、思い出の幸福感に包まれ、蛇行する蛇のように体をくねらせる。


「……ちょっと待て、今考えると、小6が俺の人生のピークだったんじゃ? 嘘だろ。俺の人生はまだこれからなのに……、俺に将来に幸あれ……」


 神に祈りつつ、よいしょとベッドから降りる。

 今日は日曜日。外出の予定があるのだ。早いところ、準備を済ませなければ。


 カーテンを開けて朝日に挨拶し、俺は身支度を始める。



---



 昼前。俺は一人、秋服の入った袋を片手に、近所のショッピングモールを歩いている。


 今日は秋を前に服を新調しておこうと思い、ここにやってきた。服のセンスに自信のない俺は、普段からオシャレに気を使っているショウゴを誘ったのだが、彼は忙しいらしく断られた。そのため、今日はソロプレイだ。持ち前の優柔不断さを発揮した俺は、開店から時間を掛けてじっくりと店を回り、散々迷った挙げ句、セーターとカーディガンを一枚ずつ購入した。

 それから、昼飯もショッピングモール内で済まそうとフードコートを探し始め……。見事、道に迷った。


 ――そして今に至る。


「いや、ここどこだよ!」


 右には目が染みるほど青白い光に包まれた家電量販店……があったはずの、下りたシャッターの壁。左にはただの壁。正面には外へと繋がるガラス製の手動扉がある。見る限り、現在位置の手がかりになりそうなものは何も存在しない。

 フロアマップを見つけられなくなってから、はや10分。自分が一階にいることは分かっているが、最早ショッピングモールの建物内にいるのかすら怪しい。


「外に出れば、ここがどこかも分かるかも知れない」


 そう思い、ガラス扉を押して開く。残暑が原因で外気はむわっと蒸し暑く、一歩踏み出すだけで夏にハグされたような気分だ。滅入るような暑さに耐えかね、建物内に戻ろうとした時。


「――なあ嬢ちゃん、ちょっとだけでいいから、一緒に来てくれよぉ!」


 やけに反響する声が耳に入り、俺は図らず足を止めた。ガラの悪そうな、浮ついた口調の声だ。話し方だけで、声の主がまともな奴ではないと分かる。ナンパしていることを加味すると、俺の予想は的中しているだろう。

 なんとなく興味が湧いた俺は、フードコート探しを一時中断して、ナンパの様子を見物しに行くことにした。早速、声に向かって歩き出す。


「というかあの、先っちょだけでいいから、みたいなナンパ文句は何だ」


 今更湧いた疑問に笑いを堪えつつ、道を曲がったところで、ナンパの現場が目に入った。サッと壁に隠れ、顔だけを覗かせて見る。


 両側を高い建物に挟まれた、廃駐車場のような場所の壁際。壁を背に縮こまる少女と、それを囲む不良らしき男四人衆がいる。ナンパの声の主は金髪の男であり、彼は今も顔を突き出して少女に言い寄っている。


 だが、男四人衆の姿はおまけだ。彼らは、俺の目には背景の一部としか映っていない。なぜなら――、


 ――少女から、目が離せないからだ。


 とても、とても美しい少女だ。

 まず目を惹くのは、背中の真ん中ほどまで流れる、ウェーブの掛かった唐紅色の髪。猛々しく燃え揺れる炎を彷彿させる髪は、目にした者の心を揺らげる力を孕んでいる。

 その下には、力強さと繊細さを併せ持った、鋭くもつぶらな紅玉の瞳がある。端麗な顔立ちに浮かぶ宝石のように美しい双眸は、視線を交わすだけで、その美しさに目を火傷しそうだ。

 焚き火をずっと眺めていたくなるのと同じような、魔性の魅力を彼女は持っている。


 髪や瞳の色彩的特徴から、炎のように苛烈で気が強い女性という第一印象を受けるが、男たちへの対応を見るに、そうではないことが見て取れる。

 男衆に詰め寄られる赤い少女は、彼らを跳ね除けるでも、逃げるでもなく、その場で俯いて萎縮しているだけだ。その萎縮具合と言ったら甚だしい。決して小さくはない身長が、半分くらいに縮んで見えるほどだ。そんな錯覚を起こす姿に、彼女の気の弱さが現れている。きっと、恐怖から体も動かず、声も出ず、目線を逸らして硬直することしか出来ないのだろう。

 

 それ自体は仕方のないことだが、彼女の今の状況は最悪と言える。絡んでくる荒くれ者に対して何も対策を講じないのは、嵐の中、外を雨具無しで過ごす行為に等しい。天の下で暴風雨に体を打たれ続けたら、風邪を引くのは時間の問題。つまり、実害が出る――この場合は男たちが少女に手を出すのは時間の問題と言えよう。

 

 俺に知らない人を助ける趣味はないため、今のような場面に遭遇しても見て見ぬふりをすることがほとんどだ。だが、スイーツは別腹だと言うように、相手が可愛い女の子なら話は別だ。

 俺が登場して男たちを追い払えば、困っているところに颯爽と現れて悪役を退治する格好いい勇者様だと思われるかも知れないじゃないか。そうすれば――、


『助けてくださりありがとうございます。(チラッチラッ)……あの、お礼をさせてください。よかったらこの後お茶でもしませんか?(上目遣いで照れながら)』


『お茶だけって言わず、君も食べさせてくれ(吐息マシマシ)』


 最高だ……!

 未来が見えるぜ!



 俺は早速実行に移す。

 隠れ身の術を解除し、笑顔を作って現場に向かう。いち早く俺の存在に気がついた男の一人が金髪の男に声を掛けると、金髪は不機嫌そうに一方的な会話を中断し、こちらに目を向ける。釣られて、男は全員がこちらに意識を向けたが、少女はグッと目を閉じてしまい、顔を上げなかった。


 直後、金髪の顔から一瞬で血の気が引いた。信じられないモノを見た風に目を見開き、たたらを踏むように後ずさる。


「おい……。お前、ヤマト……だよな?」


「そうですが、俺をご存知で?」


「やっぱりそうか、ごめんなさいごめんなさい! 何でもするから許してくれ!!」


「え……?」


 予想外の反応に思わず困惑する俺。てっきり、『俺らの邪魔してんじゃねーよ』と突き飛ばされることを想定してたもので。このトラウマ的な反応を見るに、きっと過去にボコボコにしたことのある相手なのだろう。彼の従者たちはポカンとした表情をしていることから、彼らは俺を知らないようだが。そう考えれば、金髪の男も見覚えがなくもない……気がする。

 

 腰が抜けて、今にも転びそうな金髪は、首を横にブンブンと振りながら言葉を続ける。


「お前の女だとは知らなかったんだ! 本当だ! だから頼む! 殴るのだけは勘弁してくれ!!」


「ん? 俺の女? って、ああ――」


 なるほど、納得した。赤髪の少女が俺の彼女だと勘違いしているようだ。だとしたら、この怯えようにも頷ける。仮にこの少女が俺の『大切な人』だったら、間違いなく金髪の顔面をぶっ飛ばしているから。

 ともあれ、これは使える。今は彼の勘違いに付き合おう。そのほうが平和的に男たちを追い払えるだろう。


「ああそうだ、彼女は俺の女だ。二度と彼女に近づくんじゃねえ。分かったらさっさと消え失せろ」


「はいぃぃ、すみません!!」


 金髪の男は答え、状況を飲み込めずにいる取り巻きの男たちを連れて、ヒューン!という効果音が付きそうな速度で逃げていった。


 しかし……、俺の交友関係者を傷つけたことに焦燥して逃げたということは、金髪は相当俺のことをよく知っているということを意味する。なぜなら彼が、俺が『大切な人』を守る亡者だと知っていることになるからだ。やはり、彼とはいつかの知り合いだったのだろうか。

 まあ、むさ苦しい男の話はこの際どうだっていい。それより今は――、


 俺は振り返り、肩を震わせて俯く少女の正面に立つ。そして、全霊の笑顔を作り声をかけた。


「大丈夫ですか? お怪我とかないですか?」


「――――」


 俯いたまま答えない少女。不審に思って自分の発言を思い出し、『俺の女』と呼んだのが嫌だったかと言葉を掛け続ける。


「あ、あなたを勝手に『俺の女』とか言ってすみません」


「い、いえ……! 大丈夫……です」


 彼女は震える声でかろうじて答えるが、俺の顔には目を向けない。これまた予想外の反応に首を傾げて、男たちを追い払った状況を客観的な視点から想起すると――。


 これじゃ俺、勇者様どころじゃないやん。悪役でも恐れて逃げ出すような、それこそ『悪の大魔王』みたいな奴じゃないか……。


 そんな奴に助けられては、怖くて顔を上げられないのも当然だ。それに『俺の女』なんて言われたら、その後何をされるか分かったものではない。彼女を安心させるつもりでも、俺が恐怖の対象と見られては、赤髪少女救出作戦は失敗だ。

 これ以上少女と関わっても、彼女の精神衛生上よろしくない。正直、名残惜しい気持ちは拭いきれないが、仕方あるまい。

 俺は静かにその場を後にしようと、身を翻した。そして、数歩進んだその時。


「あの……!」


「――――」


 少女の絞り出したような声が耳に入った。口は開かず、ただ肩越しに振り返って見ると。


 ――少女は顔を上げ、涙をボロボロと流しながらこちらを見ていた。


 複雑な表情だった。今なお俺から感じるであろう、深く刻まれた恐怖感と、追い詰められた焦燥感と、助かった安堵感と、助けてくれた感謝の念と。全てが複雑に入り混じり、許容できる限界を超えて、感情とともに涙が溢れてしまったのだろう。彼女の心理状況は、未熟な俺には到底計り知れまい。

 ただ、涙の止まらない目には輝きの色が宿っている。希望の輝きだ。絶望の淵からは脱却したように思えて、そのことには安堵の溜息を零した。


「あっ、ありがとう……ございました」


 少女はそれだけ言って、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を服の袖で涙を拭うと、パッと踵を返して歩き出してしまった。


「えっ、いやっ……」


 その心理状態の少女を一人にするのはマズい。そう思って手を伸ばすが、掛ける言葉が見つからない。


 何も言えぬまま、なびく唐紅の炎が遠ざかる様子を眺めることしか出来なかった。



---



 老若男女の声が飛び交うフードコート。その端の一人席で、箸でつまんだミニトマトを眺める。


「結局、名前すら聞けなかったなぁ。もっとも、聞けるような状況でもなかったけど」


 件の赤い少女を思い浮かべながら考える。

 深い赤色の髪と目、整った顔付き。それに、あまり意識は向いていなかったが、着ていた黒を基調とした服装も、素人目の俺から見てもよく似合っていた。

 どれも丁寧に手入れがされていて、磨かれた宝石のようだった、といっても誇張ではない。

 

 大きな吐息を付き、パクっとミニトマトを口に含む。咀嚼しながら――、


「ああ、あんな子が学校にいたらなぁ――」



---



 ――翌日。


 いた。否、来た――。


 紅蓮の炎のような髪、紅玉の瞳、全身を我が校の制服に包んだ、つい昨日見た端正な顔。



「本日、隣県から転校してきました。赤崎アカリと言います」



 ――思わず見惚れてしまうほど美しい、赤色の少女が。


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