第5話 するりと手を繋ぐ

 夏休みの本当の終わり、明日から二学期という日をハルは指定してきた。夏期講習はようやく終わりだ。

 勿論、僕に拒否権はない。都合が悪いなんて言えない。「行ってもいい」って言ってくれたその日を、変えてくれなんてとても言えない。

 終わってない宿題はやっつけだ。

 これが惚れた弱みってやつかな。

 母さんは出かける相手がハルだと知ると「いつまで経っても仲がいいわねぇ。子供みたい。名前のせいかしら」と食器を拭きながら微笑んだ。

 だったら陽晶なんて紛らわしい名前を付けなければ良かったんだ。

 生まれてきた時、僕には拒否権はなかった。

 だからハルとは一生、ペアのままだ。


 まずハルのお母さんが十五年前の春にハル――千遥を生んだ。

 ハルのお母さんの双子の妹の僕の母さんはとても喜んだ。二人はほとんど同時期に結婚したけれど、妊娠は一緒にならなかった。

 しかし僕の母さんも、少し遅れて僕を身ごもったわけだ。

 その年の秋、僕は生まれ『陽晶』と名付けられた。母さんたちはふたりで僕の母さんのお腹をさすりながら、僕の名前を楽しく考えてたらしい。

 出産予定日は秋だった。

 千遥が生まれて、秋に新しい子供が生まれるなら「名前はハルアキね」、そんな安易な言葉遊びが楽しかったのか、それとも双子の姉妹にとってなにか大切なことだったのか、冗談だったのか、僕には知る由もない。母さんたちの決めた名前の中から父さんがひとつ選んで漢字を当てた。

 ただひとつ言えることがあるとしたら『紛らわしい』。同じ学校じゃなくて良かったと思えるたったひとつの理由だ。


「アキ!」

 待ち合わせた駅前の自販機の前で、ハルは大きな声で僕を呼んだ。決して背が高いとは言えないその体いっぱい、背伸びして手を横に振っていた。

 白いコットンの帽子を被っていた。

 深いグリーンのTシャツの延長のようなワンピースに、夏物らしい薄いパーカーを羽織っていた。

 この前会った時には下ろしていたパツンとしてたボブの髪が、ちょこんとひとつに結えられて、なんだか小鳥の尾羽のように見えた。

「あれ、僕、そんなに遅れた?」

「違う、違う。わたしが時間の計算を間違えて······」

 ぷいと横を向いてそれ以上なにも言わなかった。僕も追求しなかった。

 結果として待たせてしまったお詫びに、ハルの好きな清涼飲料水を買った。水に、オレンジのフレーバーがついている。夏はこれが一番だと、去年の夏、言っていた。


 はい、と手渡すと、ハルはこっちを向き直ってやっと顔を見せてくれる。キョトンとした表情がかわいい。

 そんなことを口に出したら「生意気」って怒られるけど。

「ありがとう。もらっちゃっていいの?」

「待ってたから喉乾いたんじゃない? 今日も猛暑だよ」

 ふたりして示し合わせたかのように空を見上げる。周りのビルが悪戯のようにあちこち切り取った青空は、四角い。

 光は矢のように僕たちに突き刺さる。


「わたしたちって夏に弱いよね。中途半端な季節に生まれたせいだね、きっと」

「そうだね」

 生まれてから何度も繰り返されてきた言葉に、不思議とホッとする。暗号みたいなものだ。

 高校生になろうとしているハルは、やっぱりハルのまま、本質はひとつも変わっていない。

 行こうか、とどちらから言うまでもなく歩き出す。

 額に汗をかかないくらい暑い。

 それなのにハルはするりと僕の手を握った。


 ドキッとした!


 そんな僕の気持ちに気が付いたのか、ハルが疑問符の付いた顔で僕を、真横から見上げる。

 いや、勿論そういう意味ではないのは間違いない。どちらかと言うとそのことが問題だ。

 だけど僕の頭の中は、僕より背が低くなってしまった小さいハルの手のことでいっぱいだった。

 許容範囲を超えていた。


「へぇー、アキってばやらしい。なに赤くなってんのよ。生まれてから今まで、どんだけ手を繋いだと思ってんの?」

 やっぱり男として見られてないんだよなぁと頭の片隅でガッカリしつつ、暴走した理性を抑えるので必死だった。

「そういうハルはさ、僕以外の男と手を繋いだり普通にするわけ?」

 精一杯の反撃だ。

「······普通か」

 ハルの笑顔がピタリと止まった。

 そして代わりに見たことのない表情が顔に浮かんだ。

「どうかな?」

 ――これはヤバいやつだ。


 一体どうして僕はハルに彼氏ができないと決めつけてたんだろう? 例えば彼氏じゃなくたって、好きな男とか、逆に告白されたりとか。

 ハルは母さんたち姉妹に似て美しい瞳と、ハッキリしたラインの横顔をしていた。教室でも、テニスコートでも、この横顔の美しさに気付いた男子はいるはずだ。ハルを特別だと想う男が。

 そんなのひとつひとつ考えてたらキリがないくらいの可能性が日常には落っこちてるじゃないか。

 多分、明らかに表に出ているであろう僕の失望した顔を見られたくなかった。

 だけどハルはさっきからずっと僕を見上げている。

 太陽が空から強烈に照らして、逆光になれば顔を見られずに済むのに。


「そっか、アキにはそういう女の子、いないのか。そうだよね、じゃなきゃわたしなんか誘わないか」

 そうじゃない、ハルは特別なんだ、と口から言葉は流れそうになったけど、いざとなると出てこない。

 そうだよね、とか、まだ中二だしね、とかひとりで呟いている。

 それを見ていたらプライドなんかどうでも良くなってしまって、小さな手をギュッと、握っていた。あんなにゴツいラケットを振り回していたはずのハルの手は、ふんわり柔らかかった。

 それは大人の女性の手とも違う気がした。

「そうだよ、だから初めて手を繋いだのはハルってこと。彼女いない歴イコール年齢だから! 今日はそんな感じでよろしく」

「わたしとはノーカンでいい気がするけど、まぁ、アキだしね。彼女いない歴もなにもまだ誕生日前の十三だよ。経験豊富な方がまずいって。よくわかんないけど、新しい遊びみたいのもんだね。デートごっこもたまにはいいんじゃない?」

 それもいっか、と歩きやすそうなヒールの低いストラップサンダルが一歩を踏み出した。で、どっちだっけ、と急に訊かれて頭の中が真っ白になる。

 あんなにリードできる男になりたくて予習してきたのに、やってることは小学生とあまり変わらない。

 ······十三。それに撃ち抜かれた。子供扱いされたくなかったんだ。

 結局、僕はいつでも彼女に引き摺られている。

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