第15話 夜に輝く緋色の君

 アトラルの城下町は広い。貴族が移動する際に馬車を使うほどだ。小さな妖精にとっては、それこそ一つの国とさえ思える。

 ベルは感情のままに一晩中飛び続け、夜が明けた頃には城を離れ、やっと庶民街に辿り着いた。涙も声も枯れ、体力が尽き、民家の窓辺に座り込む。目に焼きついた昨晩の光景がベルの心を蝕んだ。

 悲しみと戸惑いを涙で出し切ると冷静さを取り戻し、今度は今までの自分を責めることになった。

 あんなにそばにいたのに、時間はあったのに、なぜボッカに気持ちを伝えなかったのか。伝えていれば、今頃状況は変わっていたのではないか。

 いや、そんな勇気はなかった。勇者を助ける妖精という立ち位置が心地よくて想いを伝えようとはしなかった。温い関係に酔いしれていたのだ。いつでもボッカに告白できたというのに。

 そもそもボッカはベルのことを女性として見ていただろうか。優しく頭を撫で、大好きだと言ってくれた彼。友人、仲間、ひょっとしたらペットと変わらなかったのでは。

 ベルの思考は自罰的になっていく。生まれ変わる前の弱い女子中学生だった頃に戻ってしまったようだった。今までは勇者の妖精として前向きに振る舞っていたというのに。

 腫れた眼の縁からまた涙が溢れてくる。喉奥が苦しくなって数回の咳。光が射さない路地で惨めに啜り泣きをした。

 星が瞬く夜空の下で見つめ合う二人は、前世で憧れた本の中に出てくる勇者と姫君だった。一目見ただけで、お似合いだと気がついてしまった。悪者を倒した勇者と美しい姫君が結ばれたところで、いつも物語は終わる。妖精なんてただの脇役でしかない。勇者を助けて出番は終わり。

——最初から……私なんて、ボッカに必要なかったんだ……。

 ベルはかすれた声で泣き続けた。


    *


 少し時間が経ち、ベルは勝手に城を飛び出してしまったことを思い出し、不安げに辺りを見回す。すると、町の人々の声が聞こえた。

『魔王を倒したお祝いに俺たちにも酒が振る舞われるってよ』『ボッカ様と姫に婚約話があるらしいぜ』『今朝の新聞のやつか!』

 多くの人々の声が自然と耳に流れ込んでくる。耳を塞いでも、町中がボッカの噂で持ちきりだ。ベルは耐えられず、また空へとフラフラと飛び立った。

 しかし、何処へ行ってもボッカとソフィア姫の話題で溢れている。ベルは何日もその中を飛ばなければならなかった。

『次期国王はボッカ様かな?』『平民出身の王だなんて憧れるなあ』『もうすぐ婚約記念パレードがあるらしいぜ』『めでたいなあ』『今日は祝い酒だ!』

——もうやめて……聞きたくない……。

 七日をかけてベルはやっと街を抜けた。冷静に物事を考える余裕はなく、身体を弱らせる場所から離れることだけに集中した。真っ直ぐに羽ばたけず、蛇行しながら緑を求め、町の近くにある茂みに不時着した。茂みの先には小さな湖があり、澄んだ湖面に満月を映し出している。

 喉を焼かれたような症状がある。息を吸うのも苦しい。緑の中にいれば回復するだろうか。「けほっ」と咳き込み、腫れた眼で清浄な湖を見つめる。

「これは……どういう巡り合わせだ」

 よく通る低い声が夜のとばりに響いた。湖の反対側に誰かいる。月と星の明かりだけでは、よく見えない。しかし、聞いたことのある声だ。

 ぱちん——。

 指を弾く音が一度だけ鳴った。小さな火が湖の向こう岸に灯る。暗い色の衣装を着た男が一人立っている。

 ぱちん——。

 もう一度音が鳴る。ベルの身体が浮かび、一瞬の内に視界が変わった。

「え……?!」

 なぜか男の手のひらの上にいる。ベル自身は一ミリも動いていない。目の前には、耳にかかるほどの長さの漆黒の髪、気後れするほど整った顔立ちの男。彫刻のような美しさで感情が読めない。

 ベルが男を穴が開くほどに見上げていると、

「かなり弱っているな。森の娘よ」

 細長くとも骨張った手が自身の顔を撫でるような仕草をする。すると、男の顔が変化した。鮮やかな緋色の瞳、尖った耳、獣のように鋭い犬歯。前頭部からはヤギの角に似た長い角が二本生えた。

「あ……あ……」

 ベルの顔から血の気が引く。背筋が凍り、指の先まで冷える。声を出そうとしても、驚きのあまり喉の奥が詰まって出ない。

 髪の長さこそ違うが、倒したはずの魔王が目の前にいた。

「な……な、んで……」

 やっとのことで一言だけ口にすると、男の口角が少しだけ持ち上がった。

「こんなところで何をしている?」

 口をパクパクと開閉するだけのベルを見て、魔王は口元に手を当てる。そして、朗々と呪文を唱えた。滑舌よく歌うように。耳心地のいいテノール。

「この者に月より降り注ぐ光を。母なる大地の癒しを。けがれを払い給え」

 温かい銀色の光がベルを包み込む。喉の痛みが薄れ、胸の苦しみが和らいだ。

「我らは浄化の力には疎い。細やかな術だ。すまないな、森の娘」

「いえ……」

 ベルは戸惑うばかりだ。命を落としたはずの魔王が今ここにいることも、癒しの術を与えられることも。瞬きをして魔王の顔を見つめる。攻撃をするなら、こんな魔法をわざわざ使わないはずだ。魔王から敵意を感じない。落ち着いた表情でベルを見ている。

「お前はどうしてここにいる? いや……そもそもなぜ人間などと行動を共にしていた?」

 静かな問いかけにベルの頭に、この世界に生まれてから今までの様々な出来事がよぎる。前の世界で命を失ったこと、花の中から生まれたこと、イッカクたちと森の暮らし、ボッカとの出会い、そして世界を救う旅に出たこと——。

「うっ……」

 幼い少女では消化しきれない出来事の数々に目頭が熱くなる。誰にも事情を話せずに今までやって来たのだ。ボッカという希望の光に、ただがむしゃらに向かっていた。それが急に足元が消えて奈落の底に落ちていったような感覚に襲われている。

「何か事情がありそうだな。話してみろ」

 あくまで冷静な魔王の言葉は不思議と聞き入れ易い。落ち着いた声だからだろうか。魔族を統べる者だけあって言葉に説得力がある。

「あの……わたしは……」

 弱っているということはあるが、魔王が第三者であることもあって、ベルは初めて私事しじを明かした。親しい間柄には話せないこともある。それは、神に祈るようなものだったのかもしれない。

 魔王は黙ってベルの話を聞いていた。別の世界から来たという突拍子のないことにも深く頷く。今まで秘めていた事をベルがすべて話し終わると、「なるほど」と魔王は目を閉じる。

「なぜ妖精であるお前が人間と行動していたのか分かった。お前には世界の理を教える父も母もいなかったのだな」

 魔王は言葉を一拍置き、ベルに向かって慈悲深い笑みを浮かべた。

「ならば教えよう。この世界の真実を——」

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