12.シンティスの町——亡国の祭祀

 千夜の月、燠火拾おきほひろいの日。


 仙人掌さぼてんと岩の路を幾日もラヒカ(この地方の乾燥に強い駄獣)の背に揺られ、ついに砂海のほとりの町シンティスに至る。多くの詩人や説法師が物語り、芸人らが劇に仕立てる古王国の町。今でもおおよそ十六年の周期で、大砂鯨と呼ばれる巨大生物に襲われ続ける遺跡を望む、街道沿いの町だ。


 シンティスとは、もともと大鯨に滅ぼされた古王国の名である。鯨との長い戦いの末、生き残った国民と王族の一部が移り住んだ場所に、彼らは亡国の名をつけた。鯨は砂海から陸には決して上がらない。それで初めのうちは丘の街道側で、徐々に砂海に近づいて丘を越え、階段状の町を造り、人々は鯨の怒りが収まるのを待った。

 周知の通り、その試みは現在でも成功していない。悠久を生きる鯨に人の尺度は通じず、鯨はかつてシンティス王国人によって壊された卵と、奪われたつがいの恨みを死ぬまで燃やし続けるつもりのようだ。もはや猫の仔一匹住まぬ城塞都市の遺跡を、繰り返し襲いにやってくる。


 王国が滅んでまもなく二百年。道すがら立ち寄る予定ではあったものの、ちょうど襲撃の年だと聞いて自分は旅路を急いで来た。鯨が遺跡を襲う七日七晩のあいだは、シンティスでは町を挙げての鎮魂のまつりが催される。それは最初に壊された鯨の卵、殺された鯨の番、鯨と戦い死んでいった王国人や、亡国ののち各地へ散って死んだ人々の魂を慰める慰霊祭であり、今もなお憎悪に狂う鯨の魂を鎮める祀りでもあるという。


 以前、遠国で鑑賞した切なく美しい演劇の印象を抱いて自分はやってきた。けれど到着してみると、すでに開催されていた祭祀の様子は予想とはだいぶんに異なっていた。


 砂海に面し、もはや往時の十分の一になった城塞遺跡を対岸に見渡せる斜面に、町は白く石組みをなしている。最下層は広いテラスになっており、様々な色の鉱石灯で照らし出されたそこでは、楽団と踊り子たちが華やかな見世物で観客を沸かせていた。

 緋色に金色、漆黒に銀色、透かせば光の透る長い紗布をほとんど裸の身体に巻き付けて、若い男女が手首足首の鈴を鳴らしながら舞っている。道沿いはぎっしり並んだ屋台の呼び込みの声が高く、この日目指して大挙した観光客は思い思いにそぞろ歩き、あるいは階段に座って休んでいた。舞台を見物しつつ酒を喰らい、砂漠の珍味で大いに舌を楽しませながら。


 鯨はすでに現れていた。巨体ゆえ、砂上には白茶けた背中しか見せていない。鉱物の結晶めいたギザギザの背びれがぐるりと湾を巡る。骨に響く大咆哮が轟くと、見物客たちはいっそう興奮して指笛を吹き鳴らした。巨体を乗り上げんばかりに鯨が遺跡に激突する。砂煙を上げて崩れる遺跡に、人々はテラスの手すりに齧り付いて拍手と喝采を送った。

 とうに月が昇った砂海は幻想的な青銀色。そこに傷ついた鯨からこぼれ落ちた血が黒紫色に斑を落とし、剥がれ落ちた鱗が月光を弾いてきらきらと散る。それは確かに美しい光景だった。だが自分は裏切られた気分で、熱狂する人混みを眺めたものだった。

 鎮魂の祀りとは何だったのか。居心地の悪さを覚え、怒りすら感じて街路を引き返しかける。と、そのとき一人の少年と目が合った。彼は売り子で、陶器に小分けしたタラカル(この地の仙人掌さぼてんの蒸留酒)を差し出しながら、無邪気に自分へ微笑みかけた。


「シンティスへようこそ! お客さんも鯨を見に来たんだよね? 間に合って良かったね!」


 自分は小銭を払い、陶器を受け取って雑踏を後にした。確かに彼の言うとおりだ。遺跡を襲う鯨を見物に、自分もわざわざやってきたのだ。観客という意味では、自分も、酔って騒いでいる観光客と何の違いもありはしない。

 苦い酒を飲み、それでも馬鹿騒ぎから逃れたくて、自分は黙々と階段を上った。狂騒が届かない反対斜面の宿屋を目指す。風の音に似た笛を聞いたのは、丘の頂上に近づいたころだった。


 誘われるように白石の街路を曲がってゆくと、頂上で垂直の岩肌に視界を塞がれる。それは大地から突き出た大岩で、突端が砂海に向かい、斜めに宙へ突き出していた。笛の音を頼りにぐるりと岩を回ると、広い岩座の上に人影がある。一組の老いた男女と、孫なのか、十歳前後の子供が二人。

 目線で笛吹きの老爺にとどまって良いか訊ねると、老人はかすかに頷いた。

 彼らは全員が白い簡素な衣装を身に纏っていた。房飾りのついた水色の帯を、肩から斜めに掛けている。象牙色の細い縦笛を老爺がしめやかに吹き鳴らし、旋律に合わせて老婆がゆったりとしたステップを踏んだ。

 笛の音は静かに美しく、悲しく、宥めるような響きを持っていた。老婆は大きな円を描いては鯨と遺跡へ頭を下げる。張り出た岩場の上に、下層の喧噪はほとんど届いてこない。ただ眼下には果てない砂海と遠い岬に突き出た旧王国の遺跡、そして砂を泳ぎ今また遺跡に体当たりする巨鯨が見えるのみだった。

 大げさでない身ごなしで、老婆が水色の帯をふわりと回す。二人の子供は手首の銀鈴で合いの手を入れながら、真剣な眼差しで見守っていた。四人だけの無言の祭祀は、鯨が最後の大衝突で片角を欠き、血を流しながら地平へ去るまで続けられた。


 砂漠の降るような星空の下、薄荷茶をごちそうになりながら話を聞く。


「鯨の寿命は三百年。言い伝えを信ずれば、そろそろ命が尽きるだろう。お前さまは祭りを見たか? このような騒ぎになってしまっては、かの鯨の怒りは収まるまい。古来、彼らは砂海で生きる人々の神であったのに——」


「鯨が砂をかき混ぜ、遠方から様々の植物の種や虫や鳥を運び、不毛の地に暮らす我らはその贈り物に助けられてきたのだ。我々の命が尽きる前に、憎悪に狂えるかの神を鎮魂できれば良かったのだが——」


 どうやら一族であるらしい四人の白い衣には、衣と同じ白色の糸で精緻な刺繍がなされていた。袖口にひっそり縫い取られた月と星の文様が、あの古代王国シンティスの王家の紋章であると気づいたのは、ずいぶん先の話になる。

 自分は四人に礼を言い、彼らにならって鯨の去った地平へ祈りを捧げてから宿に帰った。老夫婦に教えてもらった——笛の音は、鯨が番や子供に呼びかけるさいの優しい鳴き声を模すのだと。

 いつかは風が、鯨に笛の音を運ぶだろうか。老夫婦の舞を真剣に見つめていた子供たちの眼差しを思い出す。

 きっと、いつかは届くだろう。届いて欲しいと祈りながら、その夜、自分は眠りについた。

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