10.水晶峡谷——妖魔の協奏

 魔灯虫まとうちゅうの月、かながさねの日。


 乾燥した赤茶の峡谷を幾日も進み、ついに〈妖魔の宮殿〉地帯に至る。鮮やかな地層の縞目に碧の鉱脈が混ざり始めたころから期待していたが、いざ見渡す限りに現れた輝くばかりの水晶峡谷は、まさしくこの世の絶景の一つだった。

 無色透明から濃い碧までのグラデーション。先端が紫で根元が明るい向日葵ひまわり色に染め分かれた二色結晶。虹色と見まがうほど様々な反射を発する妖しい巨大結晶が六角柱をなし、ある区域では整然と壁をなし、ある区域では縦横無尽に空間を細分し、輝く狂気の迷宮を形作っている。


 言葉を失い見入っていると、隊商長に肩を叩かれ、黒綿の目隠しを手渡される。仕方なく布を巻いてみれば、遠くの景色は見えないが歩くぶんには支障がない。


「水晶柱の魔法で、峡谷深くにある妖魔たちの宮が空に蜃気楼として立ち揺らぐ日がある。魅入っているまに迷いこみ、結晶のまにまへ消える旅人が多くてな。隊列から離れぬように。わしは見たことはないが、水晶柱の結晶面に扉が開くこともあるというぞ」


 誘い込まれれば帰ってこれぬ——どこかで聞いた話のようで、なぜか身震いするほど恐ろしくなった。蜃気楼に浮かぶという神秘の光輪を背負う尖塔ミナレット群や、人ならざる者の手によってのみ創られうる大天堂ドーム怪物の彫像ガーゴイルの数々を、この目で見られないのは惜しいけれども、ここは素直に土地の長に従った。


 おかげで旅程はつつがなく進む。

 峡谷を往来する隊商には変わった習わしがあり、道中、隊員の奏でる楽器の音が絶えることはない。

 目隠しをして歩いていれば、理由は自ずと知れた。仲間が隊からはぐれぬように。

 一方で隊の若者は、巧みに薄皮の片面太鼓でリズムを叩きながら教えてくれた。


「魔除けでもあるのさ。人がこの地を往き来するようになる前、もっと大昔から、峡谷の主たる妖魔の心を賑やかな演奏で眩ますらしい。あるいは曲を捧げて谷を通る許しを得るのだっけ? はるか古代の人と妖魔の約束のことは、今となっちゃ誰にもわからんのさ。ともかく音楽が大事なんだ。何より楽しいものだしね」


 というわけで、野営は自分が経験したうちでもとびきり愉快なものとなる。隊商の仲間はみな二、三の楽器を扱えるし、何も持たなくても素晴らしい喉があった。

 装飾音の多い独特の旋律は、この地の華麗さをよく模していた。それに宴が始まると、魔法でもなく幻影でもなく、野営地の空間いっぱいに細かな光輝がきらきら散らばるのだ。焚火の炎、そして踊る人々の装身具の燦めきを、まわり中の水晶柱が華やかに反射して。


 やがて、宴もたけなわとなったころだった。隊商で一番耳の良い娘が不意に立ち上がって皆を制した。両手を耳に当て、狐のようにあちこちに動かし、しばし音に聞き入ってから、彼女は水晶柱の向こうに瞬く小さな灯りを指さした。

 軽い酩酊作用のある木の実を噛んでいても、人々はすぐさま反応した。宥めるような音色で二弦の楽器が弾かれ始め、隊商の一同は食い入るように灯りを見守った。幾本もの水晶柱に歪められ、光源の位置は鬼火のようにゆらゆら定まらない。

 ややあって下された隊商長の結論は、「どこの誰かはわからぬが、我らの仲間であるようじゃ」

 応えは音楽で返ってきた。こちらの二弦楽器の音色に、あちらも親しげな笛で返してきたのだ。

 それから宴はいっそう賑やかさを増した。試すようなこちらの演奏に、あちらの楽士が負けじと音を重ねる。特に熱心だったのは竪琴弾きで、遠くの楽士と少年の会話にも思える協奏は、隊商の皆が心地よく眠りに就いたあとも続いていた。


 翌日、男の大声で目を覚ます。天幕を慌てて出ると、隊商の皆が浮浪者じみた三人の人物を手当していた。

 旅人たち。ただし自分とは異なり、峡谷の案内人を雇わなかった一団らしい。色彩と鏡の迷宮じみた水晶峡谷に遭難し、十日もさまよっていたのだと、与えられた革袋の水をごくごく飲みながら彼らは言った。昨晩、楽の音が聞こえて助かった。音を頼って、この野営地に辿り着くことができた——。

 ところが隊商の長が眉をしかめる。


「お前たちは藍の氷花の壁沿いに来たのだろうが? ならば我らよりも近い隊商がいたはずじゃ。なぜ連中はお前たちを助けなかったのか?」


 長が言及したのは、昨日、自分らとの合奏を楽しんだ別の隊商のことだった。だが遭難者たちは目を丸くし、異口同音にこう言った。聞こえた宴の音楽は一つだけだった、と。


 そんなはずはない。いくら自分たちがエクの実で酔っていても、柱群の向こうの隊商とは代わるがわるに手持ちの曲を披露しあい、合唱もしたのだから。

 しかし、ここは小塔や列柱さながらの大水晶が迷宮を造る妖魔の棲み処。音が不可思議に反響すれば、そんな不思議もあるかもしれない……。

 不安がる一同を長がそう諭すかたわら、自分は隊商の面々に一人だけ、場違いな笑みを浮かべた少年を見つけていた。昨晩、最後まで、見知らぬ相手と合奏をしていた竪琴弾きの若者。彼は素敵な秘密を抱えたように、静かに微笑んでいた。


 峡谷渡りは無事に終わり、陽気な挨拶に送られて隊商と別れる。

 次の町チャクナックで、自分は珍しく風邪を引き込み長逗留する羽目になった。そしてようやく熱も下がり、しばらくぶりの町歩きで足慣らしをしていたときだ。その旋律を耳にした。

 忘れもしない。あの水晶柱の晩、人々が寝静まったあとまで奏でられていた曲だ。石英の迷宮の奥、幻の隊商が弓で奏で、竪琴弾きの少年が追いかけて弦を爪弾き、教わっていた旋律。

 人垣に寄っていくと、演奏を終えた辻音楽士の口上が聞こえてきた。


「ただいま弾き終えましたるは水晶峡谷の妖魔の王より教え賜った幻想曲。峡谷渡りの横笛吹きが十年の寿命と引き換えに、ようよう授かった妙なる調べを、さあさ皆様、今一度お聴きあれ——」


 曲を授かったのは竪琴弾きだし、いい加減なことを言うものだ。しかし宣伝効果は抜群で、瞬く間に妖魔の曲は町中で聞こえるようになった。

 十年の寿命と引き換えに? あの朝、微笑していた少年の顔に、そんな暗いかげは見えなかった。とはいえ妖魔に教わったのは、真実なのかもしれない……。


 自分も秘密を共有して、誰にも明かさぬまま町を発つ。美しいあの旋律は、人々を惹きつける物語をともなって、これからも楽士から楽士へ伝わってゆくのだろう。

 いつか誰かにそっと打ち明けたい、素敵な記憶がまた一つ。

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