8.花咲く丘の道——妖精たちの宴

 金翠花きんすいかの月、夢弔ゆめとむらいの日。


 前の町に滞在中「この先ひと月は雨が少ない」と確約を得たので、次の町まで徒歩と決めた。

 懐に余裕があり、また道中の治安も悪くない場合、時々こんな旅をする。何の不安もなくのんびり歩いてゆける時間は良い。移りゆく景色を楽しみつつ行き、日が暮れれば木立に簡素な天幕を張り、干し肉と摘んだ香草で仕立てたスープをしみじみ味わいながら星を数える。

 ことに今朝の目覚めは素晴らしかった。向日鳥ひむかいどりの軽やかなさえずりで起き出し、ビスケットで朝食をとって天幕を片付けるころには、草原を乳のように覆っていた靄も薄れていた。なだらかな波のうねりを遠くまで模す丘陵地帯。次第にほころぶ花々の蕾、その草葉にはガラスの朝露が飾り付けられている。涼しい朝風が吹くたびに、雫の反射は世界を祝福してきらきらとさんざめいた。

 こんな日には、きっと心に残る出会いがあるだろう。

 大抵において自分の予感は当たりはしないのだが、今日だけは完全な例外に思えたものだ。というのも旅を再開して数刻後、賑やかな楽の音が道の先から聞こえてきたのだ。


 いくらもせず、自分は陽気な楽隊に追いついた。どうやら婚姻祝いの行列らしい。こんな田舎道をゆくくらいだから主役は貴族ではなかろうが、楽隊の立派さや参加者の粋な身なりからして、周辺諸村の有力者の宴と思えた。

 果たして推測は、行列に招き入れてくれた恰幅よい男性に肯んぜられた。地域を治める女主人と、彼女に見初められた農民の青年を祝うものだという。”女主人”という肩書きに反し、前方に垣間見えた純白の花嫁衣装は、ほっそりと華奢な麗しい姿だった。

 やがて一行は、初夏の花の咲き乱れる丘を登っていった。空にはぽつぽつと羊のような綿雲が浮かび、日差しは少しも熱くない。時折り近くの小川からレモンの樹の香る涼風が吹き、人々はどこからか魔法のように手織りの敷物やごちそうを持ち寄ってきた。

 旅に汚れた姿にも関わらず、自分も快く祝宴に招かれた。黄金のワインはかぐわしい薔薇の香り、ケーキにはたっぷりの杏とナッツ、野花の可憐な砂糖菓子。派手な衣装の侏儒たちが見事な宙返りや炎噴きを披露する傍ら、奇術師は魚を空に泳がせてみせ、軽快な演奏に手拍子しながら人々が歌い踊る。


 ――いつからだろう。笑い合う彼らの姿が、奇妙で異様なものに見え始めたのは。


 自分は最初、薔薇のワインと蜂蜜酒の飲み過ぎだと思った。しかし何度目をこすってみても、己の隣に座る男は山高帽をかぶった白毛の豚だ。際限ないおしゃべりのあいまに木苺のパイをつつく、透明な翅を蜂さながら震わせるピクシーたち。

 小川には青い鱗とヒレを流した馬が心地よさげに休んでおり、二本足で立つ黒白の猫はジャグリングで観客を沸かせている。喝采を送る見物人の頭も、どう見ても獣のそれである。途方に暮れて、自分は人間の姿を探した。すると花嫁と花婿の寄り添った幸福な笑顔が目に入った。


 花婿は確かに人間だった。端正な顔立ち、均整のとれた体つき以外に農民の出自を感じさせるものはない。そして花嫁は、周囲に真珠色の光の霞を輝かせる美女だった。それは比喩ではなかった。神秘の鱗粉を放ちながらその背に広がっていたのは、極薄の彩色硝子を思わせるおおきな蝶の翅だった。


 これは、妖精たちの祝宴だ。自分がそう気づいた瞬間、空が反転した。


 正午の金の太陽が、光の尾を引いて西に沈む。東の果てから滲んだ藍が星々を引き連れて天を覆う。

 静寂。呆然と立ちすくむ自分を残し、あたりは一瞬にして夜だった。歌い踊っていたものたちは消え、天頂にはただ冷たい銀の満月。自分はかすかな衣擦れの音を聞いた。見回すと、新郎新婦のいた場所にほっそりした孤影があった。


 女だ。黒い喪のドレスを着た、華奢なうら若い娘。同じく黒の頭紗ヴェールを冷たい月光が透かして、あの花嫁だと自分は知った。ただしその顔に幸福に満ちた笑みはない。虹色の蝶の翅も見当たらず、見守るうち、彼女の凍りついた頬に色のない滴がしたたり落ちた。その美しさに魅入る間に、彼女は姿を揺らがせた。

 花の萎んだ草原に、一陣の強い夜風が吹く。ほんのかすかな慟哭を残して、女は闇に溶け去った。


 死霊には、危険な目に遭わされた経験もある。自分はやっと正気に返り、あとずさって逃げ出した。街道へ戻れても夜闇の暗さに変化はなく、半日、あるいはどれほどの月日を誑かされていたかと恐ろしくなった。

 息を切らしてたどり着いた村の宿屋は、不思議なことに真夜中でも灯が点っていた。

 まるで待っていたかのように、宿の女将は自分を迎え入れてくれた。事情を話す前から温めたミルクに蒸留酒を垂らしたものを勧めてくれ、彼女が教えてくれたのは以下のような話だった。


 昔、あたりの妖精を治める王が人間の若者と恋に落ちた。青年は妖精の国へ行ったが、人間の肉体に刻まれた定命の運命は崩せなかったらしい。青年の寿命が尽きたと思われる頃から、あの精霊は現れるようになった。嘆きの精霊。悲しみのあまり力を失った妖精の王。

 彼女は毎年、二人が結ばれた日が来ると、一番幸福だったときの幻影を作りだしては力尽きて去るのだという。そしてたまたま幻に行き会った旅人が、真夜中に青ざめて宿の戸を叩くのだとも。


泣き女バンシーといえば、近いうち死ぬ人間のところへ来て泣き叫んで知らせる妖精だ。だけど彼女が嘆いているのは、たった一人の連れ添いの死だ。あの妖精は、夫の死を永遠に悲しみ続けているんだよ」


 哀れな話さ、と腕組みした女将は次にとんでもないことを言った。彼女の嘆きを終わらせるため、新しい花婿になってやったらどうだというのだ。

 無茶を言う。自分はくたびれており、惑わされていたのもほんの半日だとわかった安堵もあって、荷を解くなり宿の一室で泥のように眠った。


 翌朝、元気を回復して目覚める。徒歩の旅を再開し、穏やかな丘陵を渡りつつ思う。

 永遠の命も難儀なものだ。彼女が悲嘆から解放される日は来るのだろうか。あるいは女将の冗談も一理あるのかもしれない。悲しみに囚われた魂に再び火を点すには、大きな情熱が必要だ。

 行く先々で、あの嘆きの精の物語を語ってみようかなと思った。彼女を救うことのできる誰かに届くのを願って。いつの日か再び花々に囲まれて、彼女が喜びの涙を流せる日が来るといい。

 思いながら歩みを進めた。森の向こうが次の町。

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