7.遭難の山中――老母と従者

 白茫はくぼうの月、雪語りの日。


 最後に見た色は灰色だった。青みがかった曇天の色。

 背中で何かが折れる音がしたのだが、興奮状態だったためかさほどの痛みは感じなかった。あったのはただ衝撃と浮遊感。

 混乱がおさまったのち、一度だけ目を開いたが、腰から下の感覚がなかった。人里離れた山道で、もはや獣に食われるしかなかろう――そう観念して瞳を閉じた。


 どれほど意識を失っていたのか。

 甘やかな花の香りを覚えて目覚めると、真上には仏頂面した青年の顔。驚いたのは五体の無事だ。仰向けに寝かされた身体の下に、確かにやわらかい、枯れ草を詰めたベッドの感触があった。

 背骨が折れたと思ったのは、錯乱した自分の悪夢だったのか。渡っていた吊り橋が途中でぶつんと腐れ落ち、とても助かる見込みのない高所から落ちたと思ったのだが……。

 ともかく、谷底から引き上げてくれたらしい青年に礼を言う。だが、彼は不機嫌そうに短く返答するのみだった。

 あなたが助けてくれたのかと訊くと、いやそうではないと答える。

 では、誰が? 重ねて訊ねる前にカップを渡される。

 薄緑色の温かいお茶の中に、野草の黄色い花びらが二つ三つ浮かんでいた。甘い芳香を放つ薬茶を飲むように勧めてきた青年は、救助者というにはさも迷惑げに眉をむっつりしかめていた。

 硬い声で三つの忠告を与えるに、いわく、


 一つ、この家は人里遠く、周囲は険しい山林である。危険なので、体力が戻ったといって勝手に出歩かないこと。

 二つ、この家の水場、かわや、この部屋以外には絶対に立ち入らぬこと。他にも病人が寝ているので、静かに過ごして必ず奥の部屋には近づかないこと。

 三つ、今日と翌朝、ものを食べて回復したら、すぐにでも最寄りの街道へ送る予定であること。その後、青年と出会ったことは誰に問われても決して、絶対に、人に漏らすのは許さないこと。


 彼は追われている身なのだろうか? そう思って眺めてみても、青年は山野に隠遁するには髭も剃り、こざっぱりした服装で身ぎれいにしている。たとえお尋ね者だろうと、わざわざ怪我人を世話してくれる程度にはきっと善人なのだろう。

 実際、信じておくほかなかった。なにしろ彼の腰には、都の騎士がくような鋼の反射も無骨な長剣があったのだから。

 自分は感謝して了承し、青年もうなずいて部屋から去った。


 だが、長く各地を旅する自分だ。そうそう愚かではいられない。

 深夜、ブランケットをうまく丸めて人間大の凹凸をとこに作る。眠ったと見せかけて窓から抜け出した。


 月は半月、すでに傾き、森ではフクロウが啼いていた。

 小屋は内装に比して驚くほどボロ屋に見え、もっとも端の部屋の窓だけにほのかな蝋燭の揺らめきが灯っていた。

 足音を殺して忍び寄る。白布を内張りでもしてあるのか、中のようすは覗えない。

 いったいあの青年は何者か? この小屋は本当に安全なのか?

 鼓動を抑えてすました耳に、青年と、老婆と思われる優しげな女性の会話がぼそぼそと聞こえてきた。


「お加減はいかがですか。まったく無茶をなさいます。今のあなたさまのお体では、癒しの御力みちからはお命を削りますと、忠告申し上げましたのに。それにあの旅人です。我らのことを都で漏らさぬともかぎらない」


 困惑気味に訴える若い男の言葉に、孫でもあやしているかのような笑い含みの返事があった。


「お前には救ってもらったことは、本当に感謝をしている。けれど外の世界と接することなく、永遠にここに留まれるはずもない。また、わたしの寿命じきに尽きる。人になにをそしられようと、どんな場所で暮らそうと、これまでに恥じぬ生き方を、わたしはしたいのだよ。己は己に課した世での役割を貫くのみ。神とお前が知ってくれていれば、わたしはそれで正しくれる」


 翌朝。問題なく足腰が立ち、予定どおり青年に最寄りの街道近くまで送ってもらう。途中から目隠しされたあげく、馬上に窮屈な二人乗りをしたが、自分は一言とて文句を言ったりはしなかった。

 目隠しの前までに、気づかれぬよう馬具を観察した。泥でわざと汚していたが、鞍は革張り、頑丈な鋲留め。拍車は金箔を削ったかのように、不自然に傷だらけだった。

 またもや念入りに口止めされてから、ようやくに解放されて街道までたどり着く。

 近くの町についたあとは、遭難にはほとほと懲りたので、少々懐が痛んでも辻馬車を拾って旅を続けた。


 国境を越えた神聖国の街中で、こんな騒ぎを耳にした。


 大聖堂の前代聖女が処刑された一昨年の反乱において、友好国の絡んだ複雑な陰謀が明らかにされたという。首謀者たちの断罪も終わり、貶められていた大聖母の汚名はようやくそそがれるに至った。それを広く知らしめるため、近く国の都では大規模な追悼式が行われる予定である。

 情報通の噂の中には、こんな説も聞こえたようだ――大聖母が実は死んでおらず、行方不明の守護騎士とともに逃げ延びたという密かな希望。


 自分は腰のあたりを揉みながら魔法屋を探しだし、伝言の魔法を頼んだ。

 たとえ有り金ぜんぶをはたいても、命に比べれば安いものだ。

 道中、目隠しされたこともあり、伝言が無事あの小屋に届くかどうかはわからない。けれど願わくば、身を危険にさらしてまで瀕死の自分を救ってくれた恩人たちに、この喜ばしい報せがどうか届きますように。


 快晴の空を翔けてゆく、青い言伝の鳥を見送り街を発つ。


 この国を出る前にはきっと、大聖母の奇跡の復活が耳に聞こえてくるだろう。

 そんな確信を胸に抱きながら、自分はまた街道を己の足で歩き出した。

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