4.忘れられた湖岸――禁忌の遺跡

 蛇妖女ラミアの月、水紡みずつむぎの日。


 連れがいたのだが思い出せない。三人か、または四人以上いたかもしれないが、頭にもやがかかったように記憶が曖昧だ。

 せめてこの数日間、何があったかを、危うく戻ってこられた湖岸で忘れぬうちに記録しておく。


 路銀が尽き、稼ぐ必要がでた。

 対岸が見えぬほど広大な湖のほとりの村は、高山地帯でも育つ豆や芋の畑に囲まれた農村で、収穫期でもなかった。見つかる仕事ならなんでもという心で聞き回ると、折よく船の漕ぎ手を求める学者がいるという。さっそく行って雇ってもらう。雇い主の顔は、すでに思い出せない。


 なんでも湖の只中にある古代都市の遺跡を調べに行くという。

 事前に雇った水夫が逃げて困っていたというのには警戒したが、雇い主も、逃げずに残った別の漕ぎ手も気の好い人々で疑問に思った。なぜ逃げた?

「迷信さ」大柄な漕ぎ手の男が笑った。「遺跡は亡霊の住処すみかだと。このあたりじゃ、行けば魂を取られて戻れなくなると言われてるのだ」


 翌朝に出発して、二昼夜水上を進む。

 雇い主のペットの小さなリス猿さえいなければ、船旅は快適だったろう。灰色の毛並みの猿は、新参者の監視をすると決めたらしい。いたずら好きで、飼い主よりも自分の肩や頭にまとわりつき、食べ物を横から奪ったりするのは困りものだった。

 夜は星を頼りに進んだ。荒涼とした山脈は水平線にわずかに黒い帯と見えるばかりとなり、静寂の湖面には天上の宇宙が映っていた。

 星の海を往く船の行く手へ、やがて黒々と水上遺跡の影が現われた。が、船は遠巻きにして近寄らなかった。学者がしばし待てと言った。


ふくろう刻神ときがみの星のごうが起こる晩、失われた都市はつかのま現世へ扉を開く。かつて民の反乱が起こった際、王は神官たちに命じて都を封じたという。物象世界の狭間へ、時の流れからも切り離して。人生を費やした研究で、私はそれを明らかにした」


 薫香の混じった微風が吹き、星々の慎ましい瞬きばかりだった夜闇に突如、かがりとランプと宝石を透かした灯の煌めきがあふれでた。その瞬間は、いまだ自分の心に驚異の光景として残っている。同時に人声のさざめきがあった。

 船は急いで遺跡――いや、いまや生きた街と蘇った水上都市の桟橋へ、もやいを結んだ。

 チョコレート色の肌に鮮やかな黄や赤や空色の刺繍布を巻きつけた人々が、人懐こい瞳に歓迎の笑みを浮かべて待っていた。自分たちにむかって両腕を広げ、理解はできないが美しい響きの言葉で話しかけてくる。

 ほんの少し前までは、確かに廃墟だったのに……。

 自分は興奮して街路を歩み、このような神秘に立ち会えた幸福をしばらくは味わっていた。

 だが、いつしか同行者たちとはぐれたことが、正しい警戒心を呼び戻したのかもしれない。


 各地の幽霊譚でよく聞く警句――この世の者ならぬ者たちからは、何ひとつ貰ってはいけない。それはお前の肉体に、魂に印を刻み、お前を幽世かくりよの住人とするだろう。


 金糸銀糸で刺繍した漆黒の素晴らしい頭紗ベールをかけられたが、自分は払いのけた。香辛料をきかせた焙り肉を、焼けた端から竜樹のナイフで削ぎ落として、濃い色のソースをたっぷりかけた料理にも手を伸ばしかけて、我慢した。

 だが目前へ、ひときわ威厳のある男に歩みでられたときは、その無言の申し出を断れなかった。自分は重い指輪を受け取った。しどけない衣装に裸身を包んだ、彼の妻がうやうやしく差し出してきた値のつけられない一品を。

 磨きぬかれた黄金の環と台座の上に、星々の主さながら燦然と輝く金剛石。

 自分はひざまづいて宝をいただき、すぐにその場を去った。


 彼らの言葉が聞き取れるような気がしてきたのは、その頃からか。

 人々は話をせがんでいた。外の世界の話を。時の流れが存在する場所の話を。

 しきりに袖を引いて誘っては「客人よ、歓迎しよう、お前も我らと永遠の都に住む栄誉を得た」と。


 暁の気配を感じていた。指輪の輝きに魅入られつつある己の心も感じていた。

 恐れと焦りがはっきりしてきて、呼び止めようとする何本もの腕を振り切って船へ走った。

 途中で学者と漕ぎ手とも合流した。彼らは宝石をちりばめた豪奢な布を巻き、黄金細工の土産を抱え、唇を肉料理の脂と美酒で艶めかせていたが、顔には自分同様、恐慌の色があった。

 船に飛び乗り漕ぎ出した。背後から追ってくる声、声、声。水平線の彼方にしらじら明けてくる日の光とともに都市のざわめきは遠くなる。

 上陸中もずっと自分の肩に乗っていたリス猿が一声、驚きの叫びを放った。振り返ると、驚いた顔そのままの獣が、微風になびくように光の粒へ溶けゆくのが見えた。

 手癖の悪い猿の腕の中で、金剛石の指輪が最後の反射を煌めかせる。まるで悪神の瞳のごとく。金色のもやとなった猿は、もとの廃墟に戻った遺跡へ細く引かれて消えていった。


 青さを取り戻した空と湖の狭間で、船上では自分一人が呆然とかいを握りしめていた。


 方角を失い、出発した村とは反対の湖岸に流れ着いたのは五日後だ。探検物資は残っているから、次の町まで飢えることはないだろう。

 学者たちの顛末を誰かに伝えるべきかもしれない。だが自分には自信がない。なぜか時を追うごとに、同行者の詳細が思い出せなくなりつつあるから。

 あるべき時の流れから切り離され、彼らがになってしまったからだろうか……。


 今、いきさつを書き付けているこの紙片も、町に行き着く頃には遭難の苦労で頭をやられた幻覚だったと、そう思うのかもしれない。

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