3.泉のほとり――吸血鬼

 天涯てんがいの月、銀零ぎんこぼしの日。


 雪の散らつきそうな曇天。やたらと街道巡回の市警が多いので、一人捕まえて尋ねると吸血鬼が出たとの由。恐ろしいので、日が傾く前から道沿いの宿に早ばやと部屋を取る。

 個室がとれたのは幸いだった。だが部屋は狭く寒く、ベッドは藁敷きで狼の毛皮が数枚かけてあるのみだった。よく干してあり、虫がいないので良しとすべきか。

 試しに毛皮に包まると、さながら人狼である。吸血鬼に人狼はくどいと思いながら荷解きする。


 時間を潰し、食事を摂り就寝。夜中に気配を感じてふと目覚める。


 かたわらに黒々と影があり、闇に目が慣れれば蒼白な顔の若者がこちらを見下ろしていた。飢えた視線。音もなく屈んできて、開いた口内に生える牙を見る前から理解していた。吸血鬼だ。とっさに嘘をつく。「ちょっと待って、自分は人狼だ」

 魔物は困惑して動きを止めた。こちらが身体に巻き付けた狼皮をしげしげ眺め「人狼の血は不味いのか?」などと言ったのには内心呆れた。

 あまり賢くなさそうだった。助かるため口からでまかせを次々吐く。

 魔物同士の血が混じると恐ろしい病になるとか。人狼は吸血鬼にならないが、吸血鬼は人狼の血で内臓が腐るとか。

 我ながら陳腐な嘘だったが、相手は真に受けて考えこんだ。見やればまだ顔ににきびを残す、二十歳前の少年のようだ。魔物の年齢は外見どおりではないとはいえ、間が抜けているし、ずいぶん世慣れていないように思えた。


 自分ではなく他の宿泊客を襲えとも言いにくい。しかしいつまでも睨み合う気もないので、以前に耳にした話をもとに適当な嘘を吹きこんでやった。


「吸血鬼は、薔薇の精気を吸って飢えを癒やせると聞いたが。愛を知る者ならば、それだけで過ごしてゆけるのだとも。街道の先に薔薇の茂る丘があるそうだ。経験がないのなら一度、試してみては?」


 ぱっと明るい顔になった、彼の笑みがいまだに瞼に残っている。

 その瞬間、部屋に市警がなだれ込んできて、銀の槍穂で串刺しにされ死んでしまったのだが。


「噛まれたか?」


 横柄な兵士たちには服まで脱がされて確かめられたのは閉口だった。無傷と証明したのに、宿の主が自分を追い出したがったのにも腹が立った。

 嵐のように人々が部屋を去り、さて、床に残った塵灰の小山――吸血鬼の死骸をどうしようと思案していると(宿の者は恐れて掃除もしていかなかったのだ)、扉のところに誰かがまだ残っているのに気がついた。

 純朴そうな少女が一人。あたりの農民の娘だろうか、年頃は二十歳前。

 ゆっくり塵の山に近づくと、彼女は膝ついてうなだれた。黙ったまま、塵に涙の粒を二つ三つ落とす。わけを尋ねれば、彼女は吸血鬼の恋人なのだと言った。


 もちろん魔物と化す前の話だ。街道沿いに吸血鬼が何人か出て、彼女は数日前の晩に襲われた。少年が彼女をかばい、代わりに魔物の牙を受けたという。

 少女は小瓶に塵灰を少し取り、残りを片付けようとした。自分は遠慮し、まだそのあたりを警戒していた兵士を説得して彼女を家まで送らせた。


 翌朝は快晴。宿を出たとき、市警の一団と遭遇する。残りの吸血鬼も退治できたと聞き、安心して街道を行く。だがそれほど歩かぬうちに自分は足を止めた。


 泉のほとりに、冬薔薇の小さな群生があった。昨日、吸血鬼に言ったのは、実を言うならほとんどでまかせだった。薔薇の茂みも嘘だったのに、実際にあったとは。

 塵に還る直前の、彼の表情を思い出す。大事な恋人を残して化け物になりたがる者などいないだろう。泉の薔薇は血の色ではなく、純白の品種だった。


 薔薇の精気だけを浴びて、吸血鬼は生きられる――どこで聞いたかも忘れた夢見話は、本当だったのかどうか。


 慎ましく咲く薔薇の、汚れがないのが逆に悲しいような白色を眺めながら、旅の行く先で人々に尋ねてみようかなと思った。

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