第16話 私の憂鬱な一日(下)

 その日の昼、先輩は空き教室に顔を出してくれなかった。

 先輩から誘ったくせにって、思わなかったといえば嘘になるけれど、それよりも寂しさが先だった。同時に、やっぱりまたって。そんな諦めも。


「はぁ……」


 大きくため息をつけば、いつも通りのお弁当の味も、あまり感じなくなるのだから不思議だ。ここ最近は、柄にもなくお昼ご飯を楽しみにしすぎていたからかもしれない。

 元に戻っただけ。ただ、それだけだ。


「おや?恋夢ちゃん。一人かな」


 がらり、と開かれた扉に、期待を込めて顔を向けたけれど、そこにいたのは武井先輩ではなかった。


「時透先輩」


「や。それで、彼は?ここ最近、ずっと二人でお昼を食べていたように見えたけど」


 その言葉に、やっぱり私は表情を曇らせる。いつも通りだって、これまで通りだって、どんなに自分に言い聞かせても、胸に去来する喪失感は、消えない。


「……私でよければ、話は聞くよ」


「大丈夫、です。すぐにいつも通りですから」


「そういうわけにはいかない。恋夢ちゃんは可愛い後輩なんだ。力になれなかったとなれば、この先の後悔がきつい」


「でも……」


 食べかけのお弁当箱の蓋を閉じて、私は席を立とうとする。時透先輩の気遣いが、暖かいから余計に、事態を飲み込めていない自分が、辛かった。


「ダメだ」


「なんで、ですか」


 立ち上がった私の腕を先輩は掴んで、普段よりも強い語気をこめてくる。


「君は一人で抱え込む性質だから。君ほどのいい子が、未だに特定の友人を持っていないことが証拠だろう?」


「そんなこと」


「あるさ。恋夢ちゃん。見てればわかるものさ、美術部のメンバーとだって、遊びに行くほどの仲じゃないだろう?」


「う……」


 部室では、会話をする方だと思う。同級生とも、先輩方とも。アドバイスを送り合って、一日の他愛ないお話をして、でも、それだけ。

 抱えている悩みを告げることもなければ、誰かの好きな人を打ち明けられることもない。そんな、普通の青春は……憧れていた物語のヒロインのような日常は、望むべくもないことだから。


「でも、時透先輩。私、話しても変わるなんて、思えません、よ」


「話す前から絶望するなんて、君らしくないじゃないか。どんな構図も題材も、描きたいものなら挑戦してきただろう?」


 私は、絵を描くことが好きだ。自分の頭に浮かんだ物語のワンシーンに、筆を乗せていく作業が好きだ。

 でも、それはすでにあるものをなぞっているだけにすぎない。二次創作に近い代物で、私自身が自分の物語を描いたことは、一度もない。挑戦してきただなんて、先輩の買い被りだった。


「話す前からじゃ、ないです。私だって……いえ、やっぱり、大丈夫です」


 時透先輩の手を振り切るように、私は空き教室を出た。


 ☆☆☆


 午後も、つつがなく過ごせたと、思う。

 先生に指されても、友達に聞かれても、私は皇恋夢として、ちゃんと答えた。完璧ではなく、少し抜けている「私」として。


 放課後になってもざあざあ降り続ける雨に、お父さんが心配して迎えを提案してくれた。

 でも、断る。昨日から迷惑をかけてばかりのお父さんに、会社を早退してまで迎えにきてもらったら、そのままずるずると甘えてしまいそうだったから。


 美術部には、行かないことにした。

 時透先輩は部員ではないけど、ちょくちょく顔を出してくれる。でも、今日の今日で顔を合わせたら、また嫌な気持ちにさせてしまうかもしれないから。

 深い紺色の傘を差して昇降口を出て、帰宅部の人たちの流れに乗るように、駅へと歩き始めた。


 緩やかな坂道を降って行けば、端洗町駅と、駅ビルが見えてくる。

 雨とあってかバス乗り場はずいぶんな人の入りで、台風の直撃を前に、すでにシャッターを閉め始めている店舗もちらほらと見える。

 そんな中で、煌々と光る映画の広告看板だけが、私の目を引いた。


「トラまろと、サメさんと……他は恋愛映画ばっかり、か」


 職場を舞台にしたもの。学校を舞台にしたもの。変わり種としては、異世界を舞台にしたもの。でも、上映中の映画たちは皆、一様に「恋の美しさ」を謳っているようで。


「……なんで、上手くいかないんだろうな」


 恋がわからない私の心を、ぐちゃぐちゃとかき混ぜられる。


 どうして武井先輩は逃げるように行ってしまったんだろう。

 どうして昨日、私は突然眠ってしまったんだろう。

 そもそも、どうして……私はこんなに、心を乱されて、悩んでいるんだろう。


「映画、見ようかな」


 そんな場合じゃない。台風が近づいているんだ。せっかく早く帰れるのに。

 うるさいほど騒ぎ立てる理性を無理やりに黙らせて、私は映画館へと入っていく。憂鬱な一日を一緒に過ごした紺色の傘を手に。

 今日という一日の印象を変えてくれるのか、それとも、濁り切った悩みをさらに加速させるのか。


「十六時四十五分からの、僕と君の青春18きっぷ、高校生一枚、お願いします」


 ずっと敬遠していた、高校生が主人公の恋愛もの。

 武井先輩とのデートの日とは、別のドキドキを抱えて、シアターは一歩、また一歩と近づいてくる。


 どうか、どうか、私に恋の作法を教えてください。

 ぎゅ、と両手を組んで、祈るように。

 幕が、上がった。


 ……上映後、すごくすごく泣いてしまって、結局お父さんに迎えにきてもらったのは、内緒です……。

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