第15話 私の憂鬱な一日(上)

 さーっ、と音を立てて、はカーテンを開けた。窓から入ってくる光は淡く、打ち付けてくる雨が、九月にしては寒い部屋を作り出している。

 そういえば、台風が近づいていたんだった。

 スマホを見れば、今日いっぱいは雨の予報。電車と徒歩での通学をしている身としては、憂鬱な一日になりそうだ。


 いつも通りに着替えを始めようとして、はて。首を傾げる。

 今しがたベッドを出たばかりであるにも関わらず、私の身体は外行きの服装に包まれていた。


「シャワー、浴びよっかな」


 ぼーっとして働かない頭のまま、部屋を出て階段を降りる。

 下ろしたてのワイドパンツと、自分には似合いそうもないからって、箪笥の奥にしまったままだった黒いTシャツを脱ぐ。


 熱いシャワーを浴びたら、少しずつ、少しずつ、昨日の記憶が蘇ってくる。

 とくとく鳴る胸を抑えて、なんでもないようなフリをして。昨日の私は先輩とデートをした。お買い物をして、映画を見て、サメの話をして、勉強を教えてもらって。


 それで。


「っ……」


 ざあざあ、耳元でお湯が流れる音がする。昨日も、雨が降っていたのかな。

 ……覚えて、ない。


 私のせいで、武井先輩を巻き込んで倒れてしまって。先輩は、その後私の。

 つぅ、自分の頬から、顎を通って、首筋。指を這わせてみても、なにも感じない。でも、昨日は……先輩の、指だったら。


「私」


 これが恋、なのかな。

 シャワーを止めて、タオルを取った。お湯で暖まったはずなのに、ぶるりと、濡れぼそった身体は震えた。

 あの時、先輩に触れられて、その後……どうなったんだろう?なぜか、何も思い出せない。そのまま帰ってきたのか、それとも、先輩とその先まで……。


 考えてしまってから、ふるふると首を横に振る。赤くなってしまった頬をタオルでごしごし拭いて、制服を身につける。

 ドライヤーで髪を乾かしたら、ほら、いつも通りの私。深呼吸をして、食卓へ向かった。


「おはよう、お父さん」


「おはよう」


 お母さんが、会社に泊まっていることも多いうちの朝は、だいたい私とお父さん、弟の三人だ。小学六年の甲斐は、もう三十分くらい寝ている。


「恋夢」


「なあに?」


 お味噌汁とごはんをよそって、昨日の晩ごはんの残りらしい、野菜炒めをお皿にとる。そういえば、晩ごはんを食べた記憶も、ない。


「もう、大丈夫なのか?」


「えっと、なにが?」


「覚えていないのか?昨日友達と帰ってきたと思ったら、気絶したみたいに眠りこけていたんだぞ」


「私が……?」


 全然、身に覚えがなかった。だって、昨日は先輩と駅ビルでデートをして、それで。

 それで、もしかして、先輩と一緒にいる時に、気絶?してしまったのかな……。


「やっぱり、病院に罹ったほうがいいんじゃないか?父さん、今日は休みにするから。母さんに電話はしておく」


「い、いいよいいよ。大丈夫だから」


「本当か?無理してないか?」


「うん、してないよ。平気だから。それより、私を連れてきてくれてきた友達って、名前は言ってた?」


 やっぱり、武井先輩だろうか。でも、どうして私の家を?今朝の雨が昨日からなら、車も用意してくれていたはず。凄く、申し訳ない。


「ん?ああ、確か夏城さんっていう女の子と、武井くんっていう男の子だったな。それがどうかしたのか?」


「ううん。なんでもない、ありがとう」


 夏城、さん。確か、武井先輩の学年で、どこかのお嬢様だって、同級生の誰かが言っていた気がする。

 野菜炒めをつつきながら、私の思考はぐるぐると渦を巻いていく。

 疑問、感謝、羞恥、申し訳なさもあるし、少しだけ……もやもやした気持ちも、ある。


「おはよー」


「おはよう」


 のろのろと朝ごはんを消化していたら、弟の甲斐が起きてきた。あんまり、時間がなくなってきたな。

 一旦悩むのはやめて、そそくさと支度を片付けてしまうことにする。


 学校に行ったら、武井先輩に詳しくお話を聞こうって、決心してから、私は家を出た。


 ☆☆☆


 雨の日でも変わらず、電車は混んでいた。私たち学生や、会社員の大人たちも、台風通過前だからって日常は変わらないんだ。

 思い出したように開いたスマホには、通知が一件。告白されてからようやく交換した、一つ上の男の子の、連絡先から。


「大丈夫?」


 って、一言だけ。ちょっと、さっぱりしすぎじゃないですか?なんて、意地悪な私が心の中で、囁く。

 何があったのか、全然覚えてないけど、私は気絶したらしい。でも、逆に考えたら、さっぱりした心配の仕方ということは、そんなに大したことはなかったのかもしれない。少なくとも、うわ言で恥ずかしいことを口走ったり、夢遊奇行でたくさんの人に迷惑をかけたりは、してなさそうだ。……してないよね?


「はい。でも、昨日のこと、全然把握しきれていないので、あとでお話いいですか?」


 結局、そんな当たり障りのないことを返して、スマホを閉じる。学校の最寄駅までは、あっという間だった。


 改札を出て、傘をぶら下げた、同じ制服の人たちの中を歩いていく。きっと、物語の中だったら、ぶつかって転んでしまったところを運命の人に助けられたり、落とし物を拾ってもらったところから、出会いが始まったりするシチュエーション。

 でも、私にとっては、ほんの日常の一風景で。


 物語のヒロインへの憧れがなくなったのは、いつのことだったかな。


 小さい頃の私は、たくさんの友達に囲まれて、毎日無邪気に笑ってた。

 君は誰とでも仲良くなれるねって、小学校の先生にも褒められた。

 少しだけおませだったから、中学生や高校生向けの小説を、お母さんに漢字を教えてもらいながら、たくさん読んで、クラスの中心で、学年で一番の「ヒロイン」みたいな女の子になりたいって、思ってた。


「おはよう、皇さん」


「おはようございます」


「おはよう!皇さん、雨嫌だねー」


「おはよう。そうだね」


 校門に近づくにつれて、何人かのクラスメイトに声をかけられる。毎日、挨拶をする。教室では、他愛ないおしゃべりをする。だけど、足を止めて、私と一緒に登校するような、親しい友達はいない。


 それでいい。これでいい。私が、選んだことだから。


「皇さん、おはよう」


「おはようござ……武井、先輩」


 なのに。この人はいつも、私の心をざわめかせる。


「昨日のこと、話したくてさ。今からでもいいですか?」


 どこか申し訳なさそうに、彼は言う。迷惑をかけたのはたぶん、私の方なのに。やっぱり、わからない。昨日のことも、先輩のことも。


「大丈夫です。場所は、どうしますか?」


「いつもの教室で。先に、行ってるから」


 軽く手を振って、武井先輩は校舎の方に小走りで戻っていった。教室まで、一緒だっていいのに、なんて。そんなことを思ってしまう私は、頬を叩いて出て行かせる。


「おはようございます、皇さん」


「おはようございます」


 クラスメイトと挨拶を交わせば、もう、いつも通りの私だ。

 自分の教室に荷物を置いて、彼の待つ空き教室へ向かった。


 先輩は空き教室の窓枠に体重を預けて、朝練から戻ってくる運動部の人たちを見ているようだった。

 そっと扉を開けて、彼の近くまで歩いていく。すぐに気づいて、こちらを振り向いた黒い瞳は、安堵の色をしていた。


「来てくれてよかった」


「来ないわけないですよ。私、昨日のこと……えと、全然覚えてなくて」


 少しだけ、言葉を濁す。昨日のことを何も覚えていないわけじゃない。けど、覚えている最後の、記憶は。


「すみませんでした」


 ばっ、と風を切る音が聞こえそうなほどに、勢いよく。武井先輩が私へ向けて頭を下げた。どうしてだろう?謝罪の言葉には、苦悩と、真摯な音が含まれている。

 早く言わないといけない。私、先輩に謝られるようなこと、していませんよ、って。でも、それを口にする前に、彼は謝罪を続けた。


「俺は……自分勝手でした。感情のままに、皇さんを振り回して、一人で舞い上がってた。本当、ごめん」


 思い返すのは、三週間に満たない、先輩との思い出。彼はいつも私を引っ張って、頬が熱くなるような言葉を私にかけて、でも。そんな関係に、舞い上がっていたのは、きっと私も同じ。


「昨日は……俺が君を、その、押し倒したみたいに、なってしまって。怖かったと思う。俺のことを、信じられなくなったと思う。本当に、軽率でした」


 そうじゃなくて。あれは、私の方が、悪くて。違うんです!って遮ろうとしたのに、「その場面」を思い出したら、また、頬が赤くなって、上手く言葉を紡げない。


「皇さんが眠ってしまったあと、たまたま夏城優姫さんに会ったんだ。彼女の助けで、なんとか君の家を突き止めて……ああ、なんだかストーカーみたいだ。それも、ごめん。それで、雨も酷かったから、車に乗せてもらって……」


「ま、待ってください。私が、眠ってしまったって」


 他にもたくさん、言わなきゃいけないこと、違うんだって、否定しなきゃいけないことはある。でも、デートの途中に眠ってしまうというのは、本当ならすごく申し訳ないし、なにより、お父さんにも心配されてしまった「身体の異常」かもしれない。

 私の身体がおかしいなら、凄く怖くて。最優先でそこだけを、聞いてしまった。


「ああ、うん。俺が君の頬に触れてしまったのが、悪いんだと思う。恐怖によるパニックで、気絶してしまったのかな……って」


 武井先輩は心底申し訳なさそうに、言葉尻を下げた。

 と、いうことは。先輩を巻き込んで、ソファに倒れてしまった後、私は……記憶のない間、ずっと眠っていた?


「途中で起きたり、変なこと言ったり、しませんでしたか……?」


「うん。それはもう、ぐっすりで、さ。俺が起こそうとしても、全然」


 このまま起きなかったらどうしようかと思ったよ。そう、先輩は小声で続けた。

 一通りの説明は終わったようで、言葉を切った彼の代わりに、私は謝罪の内容を否定しようと言葉を開く。


「あの、私!」


 でも。その言葉は、チャイムの音にかき消される。朝礼の時間が来てしまう。


「病院、行った方がいいかもしれない。もし医者に説明が必要なら、俺も行きますから」


 そう残して、先輩は逃げるように空き教室から出ていく。その後ろ姿を呼び止めることもできずに、とぼとぼと自分の教室に戻った。

 空き教室は同じ階だから、担任の先生が入ってくる前に、席に着くことができた。そのことに深く安堵している自分が、どうしようもなく嫌だった。

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