第12話 過ちと
さらさらさら、ペンを走らせる音だけが、隣から聞こえてくる。本文を読みながら教えるのもひと段落して、俺はアップルジュースをちびちび飲んでいた。
やはり彼女は、登場人物の心情を、深く考えすぎるきらいがあるようだった。ただ物語を楽しむだけならば、むしろ美点とも言えるその癖は、こと演習問題に立ち向かうとなれば、邪魔になってくる。
テストや問題集で出題されるとなれば、読まなければならないのは、登場人物の気持ちだけではなくなる。作者の描きたいことはもちろん、出題者の意図を読めれば、小説読解の問題は容易に解ける等になるのだ。まあ、半分くらいトキと六条の受け売りだけど。
とにかく、登場人物を重視しすぎる皇さんの解釈を、俺はひとつひとつ丁寧に補足して行った。
山月記は、単なる中国を舞台とした物語というだけでなく、いくつかの風刺や隠喩が含まれているし、教科書常連の作品とあって、少し捻った出題者による問題にはこと書かない、絶好の教材だった。
とはいえ、俺は全然教え上手じゃないし、成績も良くない。一年下の問題とはいえ、ちゃんと理解してもらえたかは、正直超不安だ。
「先輩」
「な、なにかな」
綺麗な横顔をぼーっと眺めていたので、突然手を止めて話しかけてきた彼女に、思わず声が上ずる。でも、そんな俺にはお構いなしに、真面目な皇さんは質問をしてくれる。
「最後の問題、要約なんです。私、いつも登場人物の心が動いたところを抜き出して、どう動いたかを重点的にまとめるんですけど、そうじゃないんですよね」
「うん。分かってきたと思うけど、山月記の要約は……」
借りたシャーペンをノックし、今だけ限定の教え子の教科書に線を引いていく。必然、距離はそれだけ縮んで、互いの髪が触れ、腕が交差するけど。俺は、努めて冷静に、教える側の人間として、誠意を持って、知らんぷりをした。
「だから、皇さんの視点も重要で、俺にはできない素敵なまとめ方に違いはないんだけどさ。出題側としては、もっとこの話がどういう流れをしているか、を主軸にしてほしいはずなんだ。つまり要約文に書くべきは」
「は、い……っ!?」
す、と。結論をまとめて話そうとして、右に顔を向ければ。そこには、どのような宝石にも劣らない、天使のかんばせが……いちごのように色白の肌を染めて、存在していた。
視線が交わる。鼓動が高まる。
そして、先に限界を迎えたのは、皇さんの方だった。
ふら、と頭部が右側に傾く。体重のおよそ十パーセントを占める物体が急激に傾くことにより、必定上半身全体が右に揺れることになる。
ここで問題なのは、俺が彼女に近づきすぎていたことだ。勉強中に、隣の人の教科書になにか書き込むところを想像してみてほしい。腕の上に腕を重ねることになるでしょ?現状、まさにそれだ。
そして最後の不運。それは、直前に
二人で絡れるように倒れ、ぶわっ、と音を立てて、喫茶店のビニール張りのソファに横になってしまう。
つまり、どういうことになっているかと言うと。
「ぅ……せんぱいっ!?」
ふわり、茶髪が広がっていた。それは、絨毯のように。
じわり、黒の瞳が潤んでいた。俺だけをきっと、視界いっぱいに移して。
くしゃり、デニムジャケットとTシャツが乱れていた。
俺は、まるで。
皇恋夢さんに。
覆いかぶさるように。
「!?!?!?」
脳の処理回路が焼き切れるような気さえした。視界から入ってくる情報の、その全てを余さず記録しようとして。
理性が、感情が、どろどろと身体中を巡り、熱し、燃やし、冷静さを炉にくべて暴れ回る。
ああ、やばいなって、それだけ、思った。
「武井、先輩……?」
一瞬が経っても、俺は起き上がれなかった。なんとかついた左手を支柱に、彼女の左腕と、自分の右腕を、ぎゅう、と絡ませたまま。
ただ、ただ、戸惑った。
こんなにも、俺はなにも考えられなくなるものかと。こんなにも、均衡を崩したくなるものかと。
でも、それは許されなくて。俺たちは、あくまで……勉強中だから。
告白の返事をくれた時の、気恥ずかしそうな皇さんの顔を思い出したその時、ようやく水をぶっかけられたような感覚を覚えた。
そうだ、俺は、この世界で一番可愛い後輩を、こんな形でなんて。絶対、望んでない。
「ご、めん」
ただ、一言絞り出して。
「すぐ、退くから」
ぐ、と。身体を起こそうとして。でもやっぱり、少しだけその景色が名残惜しくて。この、どうしようもなく扇情的で、それでいて神域のように清らかなこの光景が。
皇さんの髪が。
後輩の瞳が。
好きな人の肌が。
恋夢の、唇が。
欲しくて。
「…………」
つぅ、と。白く滑らかな頤に右の指を這わせてしまった。
起き上がるその直前に、これまでで一番……顔を、近づけてしまった。
「ほんと、ごめん。不注意でしたね。気をつけます」
俺は今、真っ赤だと思う。
見つめ続けた過ちのことに触れず、倒れ込んでしまったことだけを詫びる。
本当に、やらかした。俺、自分で思ってる数十倍バカだ。
「皇さん?」
アップルジュースをぐっ、と飲み干してから、ソファの方を振り返る。
顔から湯気を出しそうだった彼女だけど、さすがにそろそろ起き上がれるはず。
「あの、皇さん?」
また覗き込むのも恥ずかしくて、申し訳なくて、声をかけるだけに留めるが、起きない。
意を決して、再び彼女の美しい顔を、正面から見る。
赤かった肌は、元に戻っていた。この短期間では信じられないほど。
俺だけを移していた目は、今は瞼に閉ざされている。
なにより。
「すぅ……すぅ……」
皇さんは、規則的で特徴のある呼吸をしていた。
それは、一般的に寝息と言われるもので。
「…………」
いや、寝息?
「はい?」
マジで、寝息?
「す、皇さーん?」
本当に、寝息だった。皇さんはなんと、喫茶店のソファで、この一瞬の間に、眠りの園に旅立っていたのだった……。
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