第5話

「ラーシュが僕の子供じゃない?」

 息子のラーシュの育児を放棄されて、我が家に戻ってきてから五日後の事だった。

 クリスタは悲しそうに瞳を潤ませながら、調査書を執務机の上に置いて言い出した。


「私は貴方の事を愛しているから、目の前にいる子供が貴方の血を引いているかどうかなんて事は一目見てわかるところがあるのよ。いらないと言って私に押し付けてきたあの時のアウロラ様の顔、何かを企んでいるような顔だとは思っていたのだけれど、調べてみたら案の定、ちょうど子供を身籠る時期に、ホーキンス男爵家にアウロラ様は出入りをしていたみたいで・・」


 ホーキンス男爵は僕も良く知っている。

 伯爵家の三男が男爵家に婿入りする事になり、商売のいろはも分からないということでアウロラの父であるオッソンが面倒をよく見ていた事を覚えている。


 奥方が病に倒れたときには、アウロラも何度か見舞いに行っていたのを覚えているし、奥方が亡くなり、葬儀となった時には家族に寄り添っていたのも覚えている。


 調査書の内容の中には、メイドの証言として、アウロラが夫人の見舞いと称して家にやって来る時にはホーキンス男爵が必ずアウロラを出迎え、見舞いを終えた後は、二人きりで執務室に閉じこもると何時間も外に出てこないようなことが頻回にあったという事が述べられている。


「ラーシュの口元があまりにも男爵に似ているので調べてみたのですけど、やっぱりという感じで・・私・・私・・・」


 ホーキンス男爵には二人の子供がおり、後妻も迎えずに献身的に子供たちの面倒を見ているのは有名な話ではあったが、実際には、アウロラに恋情を抱いているため、再婚に踏み切れないようだと記されている。


 クリスタは私肩に手を置きながら、

「ヨアキム様・・お可哀想・・」

と言って涙を流し始める。


 正直に言って、全てが怒涛のように変化していく今の状況に頭の中が追いついていかない。


 あの日、友人であるエディット・ロンダの家に遊びに行くと言って、ラーシュを連れて馬車へと向かうアウロラの頬に、僕はキスを落とした。

 僕の裏切りなど欠片も知らない二人は幸せそのもので、結婚してから続いている温かい光に満ちていた。


 そりゃあ、僕たちは仕事の事では意見を戦わせる事も多いけれど、仕事を離れれば仲の良い夫婦そのもので、しかも、後継となるラーシュにも恵まれて、妻に良く似て可愛らしい息子を間に挟んで、仲の良い家族そのものだったのだ。


 紳士クラブからの帰り道、暴漢に襲われかかったクリスタを助けたのはひと月半ほど前のことで、礼をしたいと言い出したクリスタと後日、食事をする事になったその場で、新しい仕事の話を受ける事になった。


 ホルンルンド商会は人気のオートクチュールを幾つも抱えているということもあり、新しい生地の仕入れをうちの商会に任せたいという話を持ってきてくれたわけだ。


最近、砂漠を越えた先にあるカタラン王国で、七色に輝く新素材の生地が開発されて、マレーグ王国の王家にも献上されたのは有名な話。この七色に輝く新素材を是非とも入手したいと考えて、安価に仕入れるルートを開拓したのではあるが、アウロラが関わることになる仲介業者の危険性を主張して、輸入の中止を宣言したという事もあった。僕も泣く泣くその販路については諦めることを決意した経緯を説明したのだが、


「いや、実はうちもその販路については現在検討中という事になっていまして・・・」

アウロラが中止を宣言したという事もあり、僕も泣く泣くその販路については諦めることを決意した経緯を説明したのだが、


「ヨアキム様、それって本当に諦めなければならない事ですの?」

クリスタは潤んだ瞳で僕を見上げると、

「私、これでも商会の娘ですから噂には精通していますのよ?」

そう言って瞳を伏せると、長いまつ毛が微かに震えているように見えた。


「ヨアキム様の才を潰そうとなさっている方が身近にいると、私は噂でお聞きしておりますのよ?ヨアキム様には天才オッソンを凌ぐほどの才能がおありになるのに、それを潰そうとしている方がいるのだと」


「僕の才を潰す?」

「ええ、いつの間にか、薄い戸板を巨大な壁に感じているのではないかと、大したものでもない存在を、畏怖し恐れ過ぎているのではないかと」


 ああ、そうかもしれない。

 

 僕の前には必ず天才と称されたオッソンとその娘であるアウロラが立ち塞がっていた。

 だけど僕は確かに、アウロラを心の奥底から愛していた。


 叡智に輝く瞳も、利発な発言も、きびきびと動くしなやかな手足も、彼女の爪先から髪の毛の先まで愛さない日はなかったはずなのに、いつの間にか、そう、いつの間にか、彼女の存在が僕の中で重くのしかかるようになっていったのは間違い用のない事実だ。


 オッソンが事故で亡くなり、イェルム商会はオッソンのハリソンが引き継ぐ事になった時に、ハリソンが僕にこう言ったのだ。

「私にはもう、オッソン・イェルムも、その娘のアウロラもいらないんだよ」

 吐き出すように言ったその言葉に、その時は反感しか感じる事は出来なかったけれど、今ならハリソンの気持ちがよく分かる。


 常に比べられるんだよ。


 常に、常に、天才オッソンとその娘のアウロラと、僕は並べて比べられる。

 出来る事は当たり前、出来ない事は、ああ、アウロラの夫の癖にと、商会の事は全て妻のアウロラに任せた方が上手く行くんじゃないかと、そんな目で見る周りの視線に対して、僕は知らぬ間に疲弊していたのかもしれない。


 妻も大事だ、もちろん子供のラーシュの事も大事だ。

 だけど、まさか、その妻にも子供にも裏切られていた?


 調査書を握り締めながら頭がズキズキと痛くなる。


「ヨアキム様、貴方は新しく出発する必要があるわ」


 クリスタは優しく僕を抱きしめながら、優しく僕の背中を撫で続ける。

「細かいことは私に任せてちょうだい、今は子供の顔を見るのも辛いというのなら、きちんと子供の面倒を見てくれる教会付属の施設があるのよ。貴族も預けられるような場所だから、とりあえず一旦、そこに預けるのも良いと思うのだけれど」

「ああ・・ああ・・・そうだね・・・」


 僕の頬を絶望の涙がこぼれ落ちていた。

 この涙はいったいどういった意味を持つのだろう?


 妻が出かけた後にやってきたクリスタを迎え入れない訳にはいかなかった僕は、夫婦の寝室に彼女が望むままに招き入れ、彼女が望むままに結婚を約束する言葉を吐き出した。

 ホルンルンド商会との大きな取引を前にして、どうしても機嫌を損ねる訳にはいかないと思ってやった事だけれど、妻を裏切る背徳感に酔いしれていたのも事実だ。


 その姿を目撃されたと執事に言われた時には心臓が口から飛び出しそうになったけれど、ちょうど良い機会だと言って、クリスタが我が家へと転がり込む事態になってしまう。

 クリスタが離婚誓約書を持ってきた時も、例えここでサインをしたとしても、アウロラはサインをする事を渋るだろうと勝手に判断していた。


 いつでもアウロラは自分のサインを入れる際には、詳細に全てを調べないと気が済まないから。きっと僕との話し合いの場を持たない限りは、サインなどせずに不服申し立てをすると思ったから。


 だから、クリスタがあっさりとアウロラのサイン入りの離婚誓約書と共に、息子のラーシュを連れてきた時には驚いた。

 浮気をした僕の子供などいらないと言って差し出してきたとクリスタは言うが、その時の様子に違和感を感じて調べた結果、ラーシュはホーキンス男爵の子供だったのだと報告書に書いてある。


 なんなんだそれ?

 いったいなんなんだよ?

 アウロラ、君は一体いつから僕を裏切っていたわけだ?

 オッソンの紹介を継がずに僕を選んだのは君じゃないか?

 君を裏切ったことを何度も後悔したけれど、そもそも君の方が先に僕を裏切っていたんじゃないか!


 オッソン親子はもういらない。

 クリスタを・・ホルンルンド商会を後ろ盾として、ベックマン商会を王都で1番の商会にすれば良いのだから。

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