第3話
私には息子が一人いる。
名前はラーシュ、まだ2歳だけど、友人でもあるエディットの息子ロルフと遊ぶのが大好きだから、暇が合えば二人を遊ばせるようにしていた。
エディットは、荷馬車を取りまとめる、王都と地方を繋ぐ物流に大きく関わるロンダ商会の夫人であり、お茶会で知り合い、友人関係となっていた。
私と同じく商会の一人娘だったエディットはふっくらとした体格の色白の女性で、婿入りをしてもらって商会を引き継いだ形となる。そんな彼女が、心配そうにこちらを見つめながら、
「今までホテル暮らしだったなんて、うちに泊まりに来てくれればよかったのに!」
と言って私の手を優しく握りしめたのだった。
王都の外れに位置する離宮のガーデンを王家が開放しており、薔薇の花が見頃となった今は、美しい庭園を眺めながら紅茶やケーキを楽しんでいるご婦人が多い。見える場所に子供を遊ばせるスペースがあって、専属の子守をつけて遊ばせることができるのだった。
「噂では聞いていたのよ?ベックマン商会の会頭が遂にクリスタ様を自分の家に招き入れて、奥様は家を出て行ったって」
すでに噂になっているのかと眉を顰めたくなる思いでいると、
「あの日、ロルフの具合が悪くなって、あなたはラーシュと一緒に自宅に帰ることになってしまったでしょう?うちから帰ったその日に家を出て行ったと聞いて、もしかしたら浮気の現場にでも遭遇してしまったのかと思って」
続け様にエディットは思い出したくもないような内容の言葉を吐き出し、涙をポロポロと零し始めた。
「うちのロルフが具合さえ悪くならなければって、そうすれば、アウロラ様も嫌な思いをしないで済んだのに」
それはどうなんだろう。
夫が浮気しているのを知らないままでいるのが幸せとは到底思えないのだけど。
「ごめんなさい・・ごめんなさい・・・」
エディットは自分の涙をハンカチで拭きながら、あの日、お茶会を中止にした事を謝り始めたのだった。
私としては謝罪されるいわれもないし、夫の浮気の現場をこの目で直接見て、ここまで復活するのに十日を要する事態にはなったけれど、怒りも飲み込み、悲嘆も飲み込み、ようやっと受け入れることが出来たのだから、これ以上あの出来事を思い出すような事は言ってほしくない。
テラス席からは子供達が遊ぶ芝生を眺めることが出来るのだけれど、芝生に転がって遊ぶ息子のラーシュがこちらを見上げて手を振っている。
小さいながらに何か良くない事が起こったという事には気が付いているようで、まるで息を潜めるようにして私に寄り添うラーシュが心配で、気分転換にと思って連れてくる事になったのだけれど、いつも一緒に遊ぶロルフと転げるように遊んでいる姿を見るだけでホッとした。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
テーブルに視線を戻すと、まだ謝り続けるエディットに気が付いて、思わずため息が溢れでる。
「もういいわよ、あの時は逆に、早く家に帰れて良かったと思っているもの」
「でも、夫の浮気現場を目撃したのでしょう?」
「まあね」
まさか夫婦の寝室を使っているとは思いもしなかった。
もうあの家に帰るつもりはないけれど、思い出すだけで吐き気がこみ上げてくる。
「でも・・本当にごめんなさい・・ごめんなさい」
エディットは私の顔を見上げると、笑いを堪えられないと言った様子で瞳を細めた。
「本当にごめんなさい、あの日、実はロルフは具合が悪くなんてなかったのよ」
はじめ、彼女が言っている言葉の意味がよく理解できなかった。
「ロルフは具合が悪くなんかなかったのよ」
「は?」
「あの日、ロルフは具合なんか悪くなかったの!」
「どういうこと?」
エディットはふっくらしたとした頬を紅潮させ、私を憐れむような色合いをその瞳に浮かべながら笑みを浮かべる。
「あの日、珍しく夫が職場から帰ってきて、もしもあなたが我が家に遊びに来たのなら理由をつけて、家に帰るように誘導しろと言われたの」
ポーチから鏡を取り出したエディットは、化粧崩れを直しながら言い出した。
「ごめんなさいね。夫の剣幕がすごくって、私、夫が言う通りにあなたを家に帰してしまったの。まさか、まさか、あなたが浮気の現場を目撃するなんて・・・」
ロンダ商会はホルンルンド商会の商品の搬送を任されているのは有名な話で、
「全て仕組まれていたのよ、浮気も、その現場を目撃させるのも」
コンパクトケースを閉じながらエディットは笑みを浮かべながら私の方を見つめた。
「ホルンルンド商会のクリスタお嬢様は、最近、思いを打ちあけた男性とうまくいく事が出来なかったみたいでね、それで、ものすごく貴女のことを恨んでいるのよ」
エディットの言っている言葉の意味が理解できない。
最近、思いを打ちあけた男性とうまくいく事が出来なかったというのなら、それは夫のヨアキムではないって事よね?
それで、なぜ私が恨まれなくちゃならないわけ?
「貴女について詳しく調べるようにとも言われたのだけど、夫のヨアキム様に出会ってすぐに分かったわ!ヨアキム様が貴女に不満を持っているって!」
「ヨアキムが私を不満に思っている?」
「だってアウロラ様、貴女って優秀すぎるのですもの!」
さも暑いと言わんばかりに扇を顔の前で仰ぎ出したエディットは、上目遣いとなって私を見ると、
「優秀すぎる妻を持つと、夫は肩身が狭くなってしまうものなのよ。お互い商会の一人娘という事になるけれど、優秀すぎる貴女と、平凡そのものの私。同じような年齢の夫をお互いに持っているけれど、貴方の夫は優秀すぎるあなたに辟易としてクリスタ様に走り、うちの夫は私に夢中」
勝ち誇った笑みを浮かべながらエディットは言い出した。
「妻として・・なんて考えると、私くらいが丁度良いのかもしれないわよねぇ」
うふふふっと笑うと、エディットは紅茶を口に運び、ケーキを一口、口の中に放り込む。
「貴女みたいな仕事、仕事の女よりも、やっぱり自分よりもちょっと頭が悪くって、癒してくれるような存在に夢中になるのは何処の男も同じなのね。まあ、そうだったとしても、ヨアキム様って背も高くて美しい顔立ちをされているでしょう?あの、金色の髪は平民には出せないっていうか、貴族の落としだねかしらって想像させるミステリアスなところもあるし!」
エディットは可笑しくて仕方がないといった様子で私の顔を見つめた。
「ねえ、アウロラ様、貴方って茶色の瞳に茶色の髪、お顔はちょっとくらい綺麗かもしれないけれど、冴えない地味な色味なのだもの。前々からヨアキム様には似合っていないと思っていたのよね」
「エディット、あなた何を言っているの?」
「美しいヨアキム様の隣に立つのなら、美しい人であるべきだと思うのよ。叔父に商会を乗っ取られた後ろ盾のないあなたよりも、ホルンルンド商会という大きな後ろ盾を持つクリスタ様の方が隣に立つのに相応しいと私は思うのよ、ねえ?クリスタ様?」
前の席に座るエディットが私の後の方を見あげると、美しく爪を塗りつけたほっそりとした手が私の肩の上へと置かれる。
そうして薔薇の花の香水を撒き散らしながら、蜂蜜色の髪を結い上げた女性が私の隣に座ると、蠱惑色の笑みを浮かべながら私を見つめたのだった。
「ヨアキム様は離婚を承諾なさったわ、後はあなたがサインをするだけなのよ?」
貴族と違って平民の離婚についての誓約書は簡単に提出することが出来る。
官吏が用意した正式な書類はそれなりの値段になるけれど、そこに双方がサインをして提出すれば、それで二人は正式に離婚したということになる。
「さあ、サインしてちょうだい」
離婚誓約書に記された夫のサインは夫の几帳面さを物語るものであり、家を出てたった十日だというのに、遥か遠い存在になっていることに今更気がついた。
それでも、お互いに愛していると言って結婚を決めたというのに、息子のラーシュもいるというのに、離婚誓約書を愛人に持たせて私の前に差し出す夫の容赦のない対応に吐き気すら覚えた。
このカフェは貴族も利用しているので、このテーブルの異様な雰囲気を面白そうに眺めている貴婦人が数人いるのにも気が付いている。
公の場で私を貶めようと考えて、おそらく、この二人は私をここに呼び出したのだろう。
私がペンを手に取ると、クリスタ様は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、エディットはあからさまな嘲笑を浮かべた。
夫だけでなくエディットにも裏切られていた私は、もう一度、「否定」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」をやらなければならないのだろうか。
「さあ、早く」
夫には未練はない、他の女と浮気をするような男など私の人生に全く必要がないものだもの。
「早く書いてちょうだい!」
迫るようにして私を睨みつけながら、何度も、何度も、人差し指でサイン欄を指し示すクリスタ様は、私のサインをまじまじと見つめると、喜び勇んで立ち上がる。
「エディット、子供は?」
「はい、うちの子守がすでに移動させています」
エディットが立ち上がりながら答えている内容が頭に届かない。
呆然とした私を見下ろしたクリスタ様は、真っ赤な薔薇のような唇に笑みを浮かべると、
「子供の面倒は私の方で手配するから安心なさい!」
と言い出した。
「は?」
テラスから芝生を見下ろしても、息子の姿はどこにもいない。
クリスタ様は勝ち誇ったように私を見下ろした、その瞳が高慢さと勝利に酔った歓喜の色を映していて、
「ヨアキム様の血を引いているのだもの、この後、娼婦にしか身を落とすことしか出来ないあなたの元に置いているわけにはいかないでしょう?」
と言って鼻で笑う。
「娼婦ってどういうことですか?」
「親もいない、夫もいない、子供もいないあなたの行く末なんて決まりきったものじゃない!それじゃあさよなら!」
クリスタ様はそう言って小さな皮袋をテーブルの上へ放り投げると、嬉しそうに笑いながら二人は揃って店の外へと向かっていく。
その後、いくら探しても、息子を見つけることが出来なかった。
見つけられないままホテルへ戻ると、
「もう、あなたを当ホテルへ泊めるわけにはいかないのです」
そう言って、私のまとめられた荷物は外へと放り出される事になったのだった。
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