Evol.029 センチメンタル

「あ~、今日はそういう気分じゃなくなったな……帰って酒を飲んで忘れよう」


 非常に胸糞悪いものをみてしまったのと、スフォルに差し出した手を振り払われてしまったので、今日は装備を整えるという気分じゃなくなった俺は、宿に帰り、一階の食堂にやってきた。


「お~、おかえり。なんだか辛気臭い顔をしているじゃないか」

「色々あってな」


 俺に呼びかけたのはここの女将さんだ。この宿は家族経営で、女将さんが接客を担当し、旦那さんが厨房を取り仕切り、そして彼らの息子夫婦がそれを手伝っている。


 ここに来た時は二人ともまだ二〇代くらいだったし、息子も俺とそう年齢が変わらないが、今では役割ロールの力で四〇代ほどの見た目で、息子も立派に所帯を持ち、六歳の娘がいる。


 思い返せば一三の頃から二五年間お世話になっている第二の家のみたいな場所だった。


「そうかい。今日はどうするね」

「そうだな。今日は酒を飲みたい気分だ」


 初心者向けの宿とあって、いつでも初心者が泊っているため、そこそこ賑わっている。俺は空いてる席に腰かけ、注文を訪ねてきた女将に要望を伝えた。


「こりゃあ珍しい。今まで一度だって口にしたことがないだろう?」

「まぁな。今日はそういう気分なんだよ。酔える酒を出してくれ」


 俺は生まれてこの方酒なんて飲んだことがない。


 それは金がなかったというのが一番大きな理由だ。他にも酒を飲んだ状態だと、ゴブリンとの戦闘への影響が計り知れない。それは俺にとっては死活問題だったので、飲もうなんて一度も考えたこともなかった。


 しかし、大人たちが飲んでいるのを見ている内にどういうものかは分かっていたため、今日はそういう気分になったのだろう。


「生きてりゃそんなときもあるさ。むしろ今までなかった方がおかしい。余裕が出てきた証拠あかしだろうさ。わたしゃ少し安心したよ。あんたは危なっかしかったからね。私にとっちゃもう一人の息子みたいなもんなんだから無理するんじゃないよ」

「ははははっ。いつも心配かけて悪いな。おつまみをお任せで頼むよ」


 なんだか少し肩の荷が下りたような表情をする女将さんに苦笑いで返すことしかできない。


「全くしょうがないね。あいよ」


 呆れた顔で俺の注文を受け付けた彼女は踵を返して厨房に向かった。


 女将さんには俺が史上最低の役割を貰っていたにもかかわらず、息子と歳が近かったこともあってここにやってきた当初から可愛がってもらっていた。


 彼女にはずっと世話になってばかりだ。そのうち恩返しでもしたいもんだな。


「くぅ~!! きっくぅ~!! これが酒か、病みつきになるのも分からなくないな」


 それからすぐに探索者がよくたしなむという冷えたビールが運ばれてきて、俺は初めての味わいに夢中になった。数分後に、頼んだおつまみが次々と運ばれてきて酒が進む進む。


「おいおい、そんなに飲んで大丈夫かい?」

「ん? 意外に大丈夫みたいだ」


 あまりに飲むもんだから心配して女将さんが声を掛けてきたが、多少気持ちよくなっているくらいでそれ以上でもそれ以下でもない。思考もはっきりしている。初めてだから分からないが、多分問題ないはずだ。


「どうやら本当みたいだね。まだ飲むかい?」

「ああ。頼む」


 女将さんも俺の顔色を窺い、問題なさそうだと判断したところでお代わりをどうするか尋ねてきたので、すぐに注文した。


 再びちびちびと酒を飲みながら今日のことを思い出す。


 俺は基本的に誰からも干渉されなかったし、ただ遠巻きに悪口を言われたり、蔑むような視線を浴びせられただけだったし、こんな風に俺を受け入れてくれる場所もあった。


 でも彼女には……スフォルにはそんな場所はあるのだろうか。もしないのだとすればそれはもう生き地獄だ。俺なんて目じゃないくらいに辛い生活をしているはずだ。そんな彼女に俺が出来ることは何もないのだろうか。


 そんなことをずっと考えていた。

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