第16話 とりあえず『今』は生きましょう

「だから、生きましょう!」

「いや、だから無理だって」

 困惑した中年サラリーマンにアンはひたすら話しかけている。

 会社をクビになって、不景気の世の中では再就職も難しく、出来たとしても、労働条件がとても過酷。そこまでして生き延びていても仕方ないので死のうと思って、この屋上に来たのに、なんか知らないけど説得が始まって、ずっとこの調子。

「あのさ、お嬢ちゃん。あんたにいくら言葉を重ねられたところで、俺は変わらない」

「なんで、死ぬんですか。これから良いことあるかもしれませんのに」

「たら、ればで生きられるほど、人生は甘くないんだよ。

 君にはわからないだろ。これから先、寝るか仕事するかで人生の半分以上を使ってしまう人生を歩んでいかないといけない男の気持ちを。

 疲れたんだよ。楽にさしてくれ」

「あなたが死んだら私は悲しみます」

「そうかい。だったら、一緒に死ぬかい?」

「それは困りますので、一人で死んでください」

 突然聞こえたその声に男は振り返ると、屋上に一人の男が立っていた。

「いつの間に」

 驚く男に蓮はため息混じりに答える。

「あなたが哀愁漂わせて、悲劇の主人公ごっこしている頃からです」

 初対面に毒を吐かれたことに一瞬たじろぎながらも、男はアンに視線を向ける。

「‥‥‥この子の彼氏かい?」

 悪寒が走る。

「冗談でしょ。こんな面倒な女。あ、安心してください。あなたを止めるつもりはありません。ただ、この面倒な女を回収しにきただけですので」

 そう言って蓮はビシッとアンを指差した。刺された当の本人は呆然としている。

「藤堂君。どうしてここに?」

「聞いてなかったのか?お前を回収しにきた。

 ほら、行くぞ。死にたいという奴の邪魔をするな」

 彼女の頭の中で昨日のことが想起される。

 平気で女の子を見捨てようとした目の前の男のことを。

「何を言っているんですか!命大事にって、小学生でもわかることですよ!」

 ほぼ、怒声のように蓮に向けて叫ぶアン。だが、蓮の表情は全く変わらない。相手に何も感じてないような真っ黒な灰色の瞳に宿す光は異世界に置いてきた。

「だったら、大事にしない奴の命を救う価値はないだろ」

「救わなくて良い命なんてありません!」

「お前は地母神か聖女か、はたまた女神様か。

 とにかくお前の意見を聞くつもりなんてない。こっちの都合でお前を助ける。拒否権はなしだ」

「そんな勝手な!」

「だいたい、お前のやっていることは矛盾しているだろ」

「どこがですか!」

「命、大事にしてないのはお前じゃないのかよ」

「そ、それは‥‥‥確かに!」

 急にアンの歯切れは悪くなったと、思ったら今気づいたようにポンと手を叩いた。もぅ、蓮の口から溜め息も出てこない。

「でも!だからといって、私は目の前で失う命を見捨てるつもりはありません。そして私は死ぬつもりもありません。全力で私はこの人を助けます」

 一番の当事者なのに、置いてけぼりにされていた男はいきなり指を刺されて、困惑する。

「いや、だから俺は死ぬをやめるつもりはないから」

「どうしてですか!死んだら、全て終わるんですよ!

 せっかく産まれてここまでやってきたんですから、簡単にあきらめないでくださいよ」

「だから、さっきから説明しているだろ!」

 この屋上のヘリに立ち、一体何度この押し問答を彼女と続けたのだろうか、いい加減うんざりしてきた。

 男は徐に蓮を見る。

「少年」

「俺のことですか?」

「このロープを切ってくれ。そしたら俺は飛び降りるから」

「わかりました」

 そう言って二人に近づこうとする蓮の歩みを止めたのはもちろん、アンだった。

「だめ!」

「どけよ。その人の邪魔をするなよ」

「だめ!私はこの人を死なせたくない。あなたが私を死なせたくないように」

 思わず言葉を詰まらせる蓮。

 こいつ思ったより、したたかだな。

 もうここでこいつを気絶させた方が良いんじゃないのか。

 そうしようとした瞬間、何か嫌な予感がした。

『お兄ぃ、エルア配置についたよ。それと一応リタもビル内に潜伏させて、周辺に隠蔽スキルも施したから、多少のことでは大ごとにはならないし、私たちが動くまで警察も動かないけど』

 ビナーの能力を通じて蓮の頭の中に葉月の声が響く。

「待て、なんか嫌な予感がする」

 といったところで、上手く言葉にはならないのだが。

『強攻策は出来るだけ、取らないほうがよいと?』

 葉月は瞬時に理解する。そして従う。なぜなら蓮の危機管理能力のおかげで、今まで何度も救われたからだ。

「ああ」

『どうする?』

 この感じを無視して、結果が悪くなった試しがない。つまりこれは蓮の中で絶対無視してはいけない、唯一自分を異世界で支えてきたボーダーラインだ。

 だからと言って、何をどうしたらいいのか、なんて皆目見当がつかないので、徐に頭を掻きむしる。

「…………少し時間をくれ」

『わかった。あと二十分で。それ以上かかるのなら、私たちより救助隊の方が先に動くよ』

 救いにきた人物を未だに睨みつけてくるアンから、蓮は男に視線を変える。

「なぁ、今はやめないか?」

 突然の蓮の提案に当然男は困惑の表情を浮かべる。

「はぁ?何を?」

「だから、死ぬのならこいつに見つからないところで。見えないところで」

 当然、そんな提案アンが呑み込むわけがない。

「何を言っているんですか!」

「だって、助けられる命があるから助けるんだろ?

 だったら、助けられないところで死んでもらったら」

「そんなの屁理屈です!」

 やっぱりダメか。

 自分でも破綻としていると思いながらも、目の前の単純女ならワンチャンあると思ったのだが。

 それでも、この場を納めるには一つしかない。問題の先送り、ただ一つ。

 普段なら余計に面倒になるこの事象も事後処理をしなくて良いというのなら、かなり有用な手段だ。というか、今の蓮にはそれしかない。

 だから、彼は試みる。死ぬのをやめさせるんじゃなくて。

「あのさ、どうせしょうもない理由で死ぬんでしょ?

 だったら、少しは考え直してみたらどう?

 あ、言っときますけど、死んで異世界転生とか、赤ん坊の頃からやり直せる、なんて希望しているのだったら、ここより更に地獄になりますよ?」

『今』死ぬのをやめさせようと、彼は言葉を尽くす。

 といっても、蓮には葉月のような交渉術はないので、全て思いつきの言葉を並べるだけだ。

「君は何を言っている。いや、それよりもなんだしょうもない理由って。君に私の何がわか」

「そう言って、死んだ奴のことを俺は知りませんので、あなたは死にませんよ」

 何度も、何度も言われてきた。助けても、助けられなくても、恨み節を吐かれた。

 助けられなかったら、なんで助けられなかったと涙目で縋りつかれて、助けたら死にたかっただの、ポイント稼ぎとか。

 もう、蓮にとってはうんざりなのだ。こんなくだらないことは。

「とにかく、一旦やめたらどうですか?

 死ぬのならもっと心の底から絶望してからどうですか?死ぬのが簡単になるぐらいまで。ほら、誰がいってましたよ『死ぬのなら、ちゃんと生きてからにしろ』って」

 あれ、違ったけ。

「死ぬのが簡単って」

「たとえば、長年一緒にいたメンバーが全員自分のミスで死んで自分だけ生き残ったとか。

 自分が村に招き入れた奴によって、村一つがなくなったりとか。

 モンスターに体だけではなく、心まで弄ばれたり、ずっと仲良しだった仲間に敵の本拠地で囮にされて、逃げ延びたと思ったら、犯罪者のお面をつけられたりとか」

 突如語り出した蓮の話に二人とも耳を傾ける。別に共感しているわけでも、彼の熱弁に心を奪われたわけでもない。

「き、君の話が何を言っているのか、さっぱりだが、なんで君は涙を流しているんだい?」

「だ、大丈夫?」

 どうやら気づかないうちに涙を流していたらしく、蓮も指摘されてようやく気がつき、慌てて涙を拭った。

「とにかく、おっさん。とりあえず無様でもしんどくても生きてみたら?

 九十九嫌なことがあって、その後に一回だけ良いことがあって、その一回がもしかしたら、九十九の嫌なことをチャラにしてくれるかもしれないし」

『ありがとう勇者様』

 そんな何気ない一言が全てを救ってくれることだってあったのだ。

 まぁ、我ながら単純だなと思うが。いや、単純じゃないといけない。

 いつでも自分を救ってくれたのは、単純な自分に自分で向ける苦笑だけだ。

 だから。

「そうだな、後三年生きてみろ。その時にまだ恋人みたいなのがいなかったら、こいつがやらしてくれるって」

 そう言って急に指を刺されて困惑するアン。時間差があってから当然彼女は真っ赤に赤面する。

「な、何を言っているんですか!」

「なんだよ、お前。このおっさんに生き延びてほしいんだろ?だったら、お前が希望になればいいじゃないか」

「た、確かに、できることはするつもりですが、でも好きな人以外とそういうことするのはちょっと」

 頭おかしいくせに、そういうところ純情な乙女みたいなこというんだな。

 葉月なら笑顔で『いいですよ〜でも、私とやるのでしたら、それ相応の覚悟をしてくださいね〜』

 ゴブリンの大将の頭を踏みつけながら吐いた言葉が蓮の脳裏にフラッシュバックして、思わず悪寒が走る。

「べ、別にいいじゃないか。ゴブリンとするわけじゃないんだし」

「さっきから何を言っているんですか!」

「あははは」

 二人の問答を聞いていた男は急に笑い出した。

「わかった。三年後を楽しみにしているよ」

 男の承諾にアンは更に困惑する。

「いや、それは、その‥‥‥え、じゃあ」

「ああ、もう少し惨めに生きてみるよ。彼の言っていたことを一つは経験するまではね」

「や、やった!」

 自分のことのように、大はしゃぎするアンを見ては、蓮に疲れが押し寄せる。

「厄介だな〜」

 もし、今回の自分の予想が当たっていたらと、この先のことを考えると憂鬱でしかなかった。

「じゃあ、ロープ切るからね」

「あ、は〜い」

 その時一陣の風が吹いた。

「‥‥‥‥あっ」

 アンがバランスを崩して、屋上から放り出される。

「えっ」

 当然男も一緒に落ちる。

「くそっ」

 瞬時に蓮は動き出した。だが精一杯伸ばした手はロープを掴まず、空をきった。二人は重力に逆らえず、そのまま落下していく。

 下でスタンバイしていた誰もが突然のその状況に注目する。消防士たち慌てて、マットを動かす。

「うわぁぁぁぁぁ」

「キャぁぁぁぁぁぁ」

 二人の叫び声が上空でこだます。

 次の瞬間、六階付近の窓が急に割れて、そこから柱が飛び出してきて、二人を繋いでいたロープはその柱に引っかかり、二人は宙吊りになった。


 何事かと下を覗き込むとリタがその柱に乗っかり、こちらに向かってVサインを送ってくる。

「はぁ〜」

 皆が安堵の息を吐き、歓声をあげるなか、ミシミシという音が蓮の耳に届く。動き出すのとロープがちぎれのはほぼ同時だった。

「リタ、男!」

 その一言だけで、リタは柱に飛び乗り、落ちていくおっさんの方に手を伸ばす。 

蓮は屋上からダイブして、まるで地面を蹴るように空中を二度ほど蹴り、一気に加速していく。その動きは誰も視認できないほどに早い。それでもアンが蓮の腕の中に収まったのは地面まで一メートルぐらいのところで、踏ん張るように地面に着地する。

「いた〜」

 地面から刺激がじ〜んと伝わり、涙目で叫ぶ。

 アンは未だにポカンとしている。

「‥‥‥うそ」

 落ちたと思ったその刹那、目を開けたら、自分が蓮の腕の中にいるというこの状況を未だに理解できないでいた。

 しかし彼女に頭を整理する時間なんてなかった。

 リタが蓮に肩車するように飛び乗り、背中に葉月が抱きついてくる。

「ほら、ベルちゃんも私の腰に捕まって、逃げるよ!」

「え?」

 突然の指示に鈴華がすっとんきょんな声を発した時だった。地響きが鳴ったと思ったら、ビルが大きく揺れて、倒壊を始める。

「‥‥‥リタ、お前まさか」

「うん?」

 なんとリタが引っこ抜いた柱はビル全体を支えていたとても重要なパーツ。当然、支えを失ったビルは見るも無惨に鉄筋の塊へと介していく。

「クソォ!!!!」

 発狂した蓮。慌てて、鈴華も葉月の腰に手を回したと同時に彼らの姿は消える。実際高速移動を始めただけなのだが、本気で走り出した蓮を肉眼で追いかけるなんて、誰もできない。

 ビルが倒壊した時には、どんな早い乗り物に乗っても移動できない場所に彼らは立っていたのだった。

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