第15話 抽象的な絵画について
1.お品書き:未読歓迎
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
本話は『叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼』関連エッセイです。シリーズを横断してうろちょろしている幽霊が見える
https://kakuyomu.jp/works/16817330657885458821
そんなわけで、4章芸術家変死事件が始まったので『絵』の話をしてみます。絵を一枚もUPしないまま絵の説明をするという狂気の企画ですが、いつも通り絵の素晴らしさには触れないゆるい感じで進行します。
このエッセイは本編を書くのにあたって、色々調べたところをブッパするお気楽エッセイです。美術もにわかなので間違いがあればお気軽にご指摘くださいませ。
なお、家はとりあえずカクヨムコンに突っ込むことにしました(取り下げの可能性はある)。
2.インプレッションな絵画な影響とその顛末
最初はテンプレ的に、世界最古の絵というとなんでしょう。
それは洞窟壁画だ(全然待たない)。フランスのラスコーが一番有名だけど、今一番古いのはスペインのラ・パシエガ洞窟の壁画のはず。約6億5000年前の壁画で、赤色の顔料で動物や人間、幾何学模様が描かれている。洞窟壁画の題材は牛や獲物が多い印象があるな。躍動感があり、既に遠近法のような技法も垣間見える。
このような荒々しい原始的な美術を原始美術と呼ぶのだけれど、この壁画群に最も影響を受けた有名画家はゴーギャンだろう。ゴーギャンはタヒチで自由に暮らし、奔放な性生活的なテーマでタヒチの女性をたくさん書いた。性生活といってもエロい感じじゃなくて明るいというか原始的な感じだけど。
ゴーギャンはポスト印象派とよばれている。
無計画に書いてて話がいきなり印象派につながったことに動揺している。ポストというのは次のとか後期とかそういうイメージ。何であれ後半というのはバリエーションが出る時期で、ポスト印象派に含まれる画家はゴッホ、セザンヌ、ロートレックなど、画風イメージが全く違う画家が多い。
ゴーギャンはもともと株屋をやってたんだけど、一念発起して絵をかくことにした。でも儲からなかった。だから家族と別れてタヒチを含む南国で暮らしてた。それで帰国してゴッホの弟の依頼でボッチだったゴッホと一緒に住むことになった。
まぁ、自由人? 芸術家というのはなかなか度し難い生き物でなぁ。
ゴーギャンの作品で最も評判が高いのはタヒチや南国にいるときの作品だ。例えば『ナフェア・ファア・イポイポ』は3億ドルで落札され、当時の最高落札額をたたき出した。
タヒチの自由な性文化に触れて精神が解放され、西欧文化にとって斬新な価値観が花開いたのがウケたのかもしれない。なおタヒチでのゴーギャンの奥さんは14歳だった。自由だな。
ゴーギャンはゴッホともセザンヌとも一緒に絵を描いていたことがある。ゴッホとの生活は特に有名で、アルルという町で一緒に住だ。ゴッホが生活費を負担するから一緒に住もうよってノリだ。
ゴッホというと一番有名なのは耳切事件だ。
ゴッホは自分で自分の耳を切る。これはちょうどゴーギャンとアルルで暮らしてた時だった。2人は馬が合わなかったんだよ。ゴッホがゴーギャンがいなくなるんじゃとテンパってる間にゴーギャンがブチ切れてホテルに逃げ出していた折、ゴッホは自分の耳を切ってその耳たぶを娼婦に送り付けた。闇い。一線を越える絵描きは一線を超えるものなのかもしれない。
さて、いきなりポスト印象派の話をしても突飛すぎるので、印象派の話をしてみることにしよう。
3.印象派の生まれた背景
美術の授業で印象派として一番に習うのはモネやドガだろう。水連と、バレエを踊る女の子の絵だ。いずれも輪郭は曖昧で、ぼんやりした印象を受けるかもしれない。
印象派はだいたい19世紀末くらいに流行り始めた。
『印象派』という名称はモネの【印象・日の出】という絵のタイトルに由来すると聞く。この絵は自分的には夢から起きるときに窓辺からふと覗いた朝焼けの港っていう印象を受ける絵で好きな部類の絵だけれど、家の話の3章でも書いたみたく、印象派の絵の好き嫌いはそもそも人による。
当時の画壇を振り返ろう。
この当時、権威的な絵が格上だった。伝統絵画、宗教や歴史、そういったいわゆる非現実的で重厚なな世界が上等とみなされていた。はっきりした人物に遠近法が駆使されたアカデミックなドーン!って感じの押しの強い絵画だ。
印象派は様々な意味で旧来の画壇から飛び出した存在である。それを後押ししたものは2つ、カメラとチューブ絵の具だ。
印象派運動が始まる少し前、直接露光するダゲレオタイプのカメラが発売された。それまでのカメラ・オブスキュラでは露光に8時間程かかってたのを30分程度で撮影できるようになった。30分じっとする必要はあるものの、それだけの我慢でこれまでになかったリアリティのある絵、つまり写真が撮れるようになった。
カメラという道具は瞬間を切り取る。実に革命的だ。
これまでの絵にはおそらく『時間』という感覚がなかった。でもカメラによって『その瞬間』というものが発見された。『瞬間を切り取る』。それが印象派の観点だ。ドガは特にそうだと思う。踊り子の練習の一場面を切り取った。カメラは物質によせるけど、印象派は人間の目を通して光と音と空気を絵に閉じ込める。
そう、印象派は光の表現が豊かだ。
これまでの工房で作成される職人的な絵画と異なり、印象派の画家の多くは外の明るい光の中で絵を描いた。だから明るさの方向で光の表現がとても豊かだ。
暗さの方向で光の表現がとてもうまい画家というのはもともといてさ。ジョルジュ・ド・ラトゥールとかレンブラントとか、カラヴァッジョとか、僕が大好きな方向の画家。
工房の中では闇とそこを照らす光の表現を極めることはできても、明るい外でその中でさらに光を描くことは困難だと思う。
画家が外で絵をかけるようになったのは、チューブタイプの絵の具が発明されたからだ。都度調合する必要もなく、でかけた先でふらっと絵を描くことができる。外で絵を描くっていうのはその場所その時の絵が描けるってことだ。モネの印象・日の出もそうだけど、その時しか切り取れない風景はたくさん存在する。
セガンティーニっていうスイスの画家の主な画題はアルプスとか高山なんですよ。高地の明るい太陽がテラス世界が描かれている。
高い山の上はそれだけで日差しが強い。すべてのものが光を強烈に反射する。その強さはおそらく、平地の画家では想像がつかないレベルのものだ。外で描くっていうことは実体験を描くことができる。珍しいものを見、その見たままが描けるっていうこと。
今はネットで写真は一杯見れる。
けども現在も絵画が写真に駆逐されていないのは、人は見たものをその魂を通して描いているからだと思う。必要なものを取捨選択するフィルターがかかるわけ。写真じゃ表現できないものっていうのはたくさんあると思うんだ。AI絵にもね。
人が感じた美しさ、色彩、きらめき、安らぎ、マイナスのものはたくさんある。印象派じゃなくても同じだけど、印象派はよりそれを表現している気はする。僕はほそぼそと表紙を描くだけです。
4.抽象画の世界
今回の本題の抽象画に行こう。
抽象画が出て来たのは印象派のちょっと後だ。20世紀初頭。
始めたのはカンディンスキーやモンドリアンと言われている。この2人は確かに抽象画だな。多分この2人の絵が美術の授業でバーン!って出るからみんな抽象画が嫌いになるんだよ。意味わかんねぇって。
この2人の説明はちょっと後に回して、抽象画はどこからうまれたのかの話をしよう。
印象派を飛躍させたのはセザンヌだと言われている。セザンヌはさっきゴーギャンのところで出て来た人。ゴーギャンが超インスパイアしてたけど、ゴーギャンはセザンヌに「お前の絵は中国の切り絵だ」とかぼろくそにいわれてた。やはり尖った画家というのは(ry。まあそれはそれとして。
セザンヌは「1つの物を複数の角度から同時に1つの絵として描いた」。このワードで思い描く画家がいるはずだ。ピカソだ。
ピカソでとくに有名なのが『ゲルニカ』、モノクロの絵だ。これはゲルニカの爆撃、つまり戦争の悲惨さを描いているのだけど、それを知らなくても見ていてなんだか不安定になる絵だ。普通にない視点を描いている。
この系統の絵はキュビズムという。キュビズム都、はようは1枚の絵にいろんな角度から見た同じものを詰め込んでいる。同じくピカソの『泣く女』もそうだ。
それで、抽象画はもうちょっとそれをファジーにしたものだ。ピカソも一見わけがわからないけれど、特定のモチーフを題材にして描いた。空襲とか女の人とかね。でも抽象画はそれを取っ払った。モチーフ描くという概念を捨てた。
そうして何が浮かび上がるかというと、単純図形の美。その存在自体への美しさ。うん、何言ってるかわからない。
わからないんだよ。だって抽象なんだから。
投げても仕方がないので、こう考えるといいんじゃないかと思うことを書いてみよう。これは僕の独断です。
一番好きな絵を思い浮かべてみましょう。抽象画じゃなくて具象画でOK。山とか川とか人とかそういうの。印象派でもないやつ。絵を見ない人でも何か1つくらいはあるはずだ。あの絵綺麗だったなとか、面白かったなとかいう奴。
その絵のどこが奇麗か。どこがおもしろいか。
そう考えてみた時に、多分この指先の曲がり具合とか、このキュウリのヘタの部分が、とか特定できないはずなんだ。多分絵の全体、少なくとも大きな部分の印象が総合的にその感覚、インプレッションを構成している。
そんなこと言ったってこの山が奇麗なんであってただの三角じゃわかんない。それはもわかる。でももう一歩抽象化してほしい。
山ならギザギザがある、その稜線を頭の中で描いてみよう。人ならその輪郭。その印象だけでも美しいなら、それが抽象画の美しさだ、と思う。
でもそれはやっぱりもとが具象だからじゃないのというのもまた当然の疑問だろう。
例えば浮世絵。浮世絵は確かに線画でデフォルメが効いているけれど、勢いとか構図とか、そういうバーン! っていうのが面白いんじゃんね。
具象画と抽象画の違いは画家が親切かどうかなんだと思う。
肖像画などの目的があって書いてるものは別として、近年の具象画の人は自分が素晴らしいと思った景色描き、みんなに見てもらって感動して欲しいと思ってその絵をかいてるとする。抽象画の人はその素晴らしいと思った景色の要素だけを抽出する。だから、その前提を共有しないと、何を描いてるかすらわからない。
文章で表現するとこうだろうか。
具象:この富士山は少しだけ積雪が残り、稜線が青々しくてそこから白い入道雲立ち上っている。
抽象:超奇麗っすよ! わかる? わかるよね?
同じものを描くとしても抽象画家はこのくらい略すし特に説明もないのではないか。でも印象としては「〇〇が〇〇でとても美しい」という説明よりは「超奇麗っすよ!」のほうが美しさがダイレクトに伝わるかもしれない、人によって。
だから抽象画は人によってわけがわからないし、刺されば深く刺さるのかもしれない。喜友名晋司の描く魂の絵のように。
最後に避けていたカンディンスキーとモンドリアンについての感想。見方はよくわからない。確かに始めたのはこの2人かもしれないけどさぁ。小中学生に教えるのにこれから始めるのはどうかと思うんだ。しかもわかりにくい代表作を出すだろ? 美術の授業ってやつは。
抽象画というのは実に色々バリエーションが豊かなので、この2人以外にも刺さる絵があれば見てほしい。
カンディンスキーは丸や線が淡い色でぽやぽやと描かれている。自分的には結構かわいい。
カンディンスキーの絵画展にいくとたいてい絵の隣に小さな説明書きがある。タイトルと離れた解説にテーマが書くかれていることはあって、それを見るとああなるほど、と思うけど、正直僕のには解説を見ないとテーマは感じ取れないな。コンポジション8とかは単純にウキウキして楽しい。
モンドリアンは画面が四角く分割されていて、それが赤とか青で塗られてる絵だ。この人は多分、直線が好きだったんだと思う。
この区切られた区画は建築っぽくて嫌いじゃないし、なんかかっこいいと思うけどようわからん。正直なとこ、抽象画家は純粋に好みか好みじゃないかだと思う。好きでも何が面白いのかは自分でもよくわからない。
自分の好みはキャンバスにインクぶちまけたような絵を描くポロックだけど、何がいいのか他人に説明できない。好きな抽象画との出会いは一目惚れみたいなものじゃないかな。
5.おわり
まとまりがないのは仕様ー。
そんなわけでろくに説明もしないまま次回予告。
4章用にはもうひとつ、「怖い絵」をテーマに書いている。4章は抽象画家の喜友名晋司の話だけれど、なんとなく印象画家な気がしてきた。けれどもこの人は実は具象画家なのだ。
僕自身は絵を見るのは好きなのだけど、特に好きな絵とか画家はいないという絵画好きに怒られそうなタイプです。どれも綺麗でいいじゃんか! 前はよく美術展にいったんですが、最近あんまりいってない感じ。
リクエストがあると受け付けますが、納期はよくわかりません。
ではまた。
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